キラーチューン


ここではない何処かに逃げてしまいたかった。やがてこの身が嵐に飲み込まれていくとしても、今この瞬間だけは遠い雷鳴に耳を塞ぎたかった。

ただそれだけだった。
本当に、ただそれだけだったのだ。





キラーチューンが鼓膜を焼いた。その瞬間、水底に沈んでいた意識が覚醒していく。水面を目指して浮き上がる泡のように、やがて辿り着いた現実に目を開く。

「は……?」
そうやって深い眠りから目を覚ました三途は混乱した。

一体いつのまに自分が眠ってしまっていたのか、一体自分は今どこにいるのか、自己の所在について証明できるものを何一つとして持ち得なかったからだ。

反射的に硬い地面に横たわっていた半体を起こす。途端に三途の体に掛かっていた男物のジャケットが彼の腰元までずれ落ちた。自分の小柄な体格よりずっと大きな上着に目を落としてから、再度顔を上げた三途は目を丸くしながら『それら』を見た。


だだっ広い防音室の角に置かれた大きなグランドピアノ。その上に乗っかった小柄な女がギターを掻き鳴らしていた。
そこから少し離れたドラムセットのそばから、女を眺めるようにしながら長身の男が歌っている。アンプに繋がれたエレキギターの音量に、負けないくらいマイクを通していない男の声が深く広く響いていた。

「…………は?」
ここが何処なのか、目の前の景色が何なのか。理解できずに溢れた三途の困惑の声さえ、女のGコードと男のミドルボイスに掻き消された。

結局ここが何なのか、目の前のアイツらが何なのかなんて目が覚めても三途には分からない。だから目の前の謎の二人組へ声を上げて尋ねることだってできたのだけれど、……三途はそうすることを選ばなかった。なんとなく、ギターを鳴らし歌を歌う彼らの邪魔をする気になれなかったのだ。
それに多分、今三途が声を上げても目の前の奴らは歌に夢中で気がつかないか、気がついても無視するだろうな、と思えてしまったからだ。

だから三途は防音室の床に座り込み、かけられていたジャケットの裾を掴んだまま、彼らを見つめ続けていた。
それは或いは、傍から見たらただ二人の奏でる音楽に耳を傾けているように見えたかもしれない。間違いではなかった。

三途にとって音楽とは自身の生活からはほど遠いものだった。
深く低い音に心臓を叩かれる感覚など知らなかった。音の波を肌に伝わる痺れとして感じたことなどなかった。音楽とはBGMでしかなかった。ほかの雑音無く音楽そのものと真正面から向き合ったことなどなかった。こんなにも音や言葉に耳を傾けたことなどなかった。

心の中にある冷たい川の中に、暖かな光が差し込むような、そんなイメージ。上手く言語化できる感覚ではなかった。言葉では感情に追いつけないことを知る。

旋律はやがて終わりに向かう。先に声が終わり、続くようにサウンドが終わった。ギターが鳴らした最後の一音、反響。防音室に響き渡ったその音さえやがて溶けるように消えてゆき、世界は本当に静寂になる。
一瞬の無音。

そして、破裂。

「ジャリガキ共!!何回言わせんだい!!勝手に入り込んでんじゃないよ!!ポリ呼ばれたいのかい!!」

突然勢いよく入り口の扉を開いてやってきた初老の女がその痩せた体からは信じられないくらいの大声でギターとボーカルの二人組を罵倒した。その突然の大音に三途の肩が跳ねる。
が、ギターの女は怯むことなく間髪入れずにその女へ噛み付いた。

「うるせーよババア!ポリ呼んだら困んのはテメーだろうが脱税ババア!」
「脱税なんざしてねーよ!ナマエアンタ思いつきで適当なこと言うのはやめな!」
「察せや!ポリ呼ばれて一番困んのは誰だ!?ムトーだよ!また豚箱ぶち込まれちゃうだろ!」
「ぶち込まれねぇよ。別に今は悪りぃことしてねぇんだからよ」
「現在進行形で不法侵入っていう罪を犯してんだよクソガキが!!」

嵐の様相だった。三途は思わずそろそろを身をひいて壁に背中をつける。けれど、身動ぎしたせいでむしろ目についたのだろう、入り口側に立つ初老の女の視界に映ってしまう。女は床に座り込んだ三途を見つけては目を丸くし、それから額に手をついて溜息を吐いた。

「てめーら新しいガキこさえたのかい……」
「オイ、その言い方やめろ」
「おっえぇ」
大柄な男が不愉快そうな顔で吐き捨てる隣でギターを抱えた女が舌を出して吐き真似をした。先ほどまで息ぴったりに演奏していたくせに、仲が良いのか悪いのかわからない。

「いいからとっとと出ていきな!ここでバルサン焚かれたいのかい!一番害虫なのはアンタらだけどね!!」
「うるせー!しらねー!Jimi Hendrix……」
「さっき普通にデカい虫いたけどな」
「マジ?真面目にバルサン焚いといてほしい」
「いいからとっととガキ連れて帰んな!!」
知らないうちにここにいて、訳もわからないうちに追い出される。三途は困惑のまま男女二人組へ目を向けた。

二人は何でもない顔で「仕方ねえ、出るか」「帰りゃあいいんだろ!帰りゃあ!」とここのスタジオの責任者らしき女へ両手で中指を立てつつ部屋を出ていく。三途も男の方に目で促されて、慌てて立ち上がると自身の体に掛かっていたジャケットだけ握りしめ、出ていく二人に小走りでついていった。何が起こっているのか、まったくもって分からない。


二人の背を追ってついていくがまま、スタジオを出る。建物の外、冷たい真冬の空気、夜明け前の暗い空。家出同然でやってきた三途はほとんど寝巻きのような格好をしていたものだから、冷たい外気に晒された途端に反射的に身を小さくして体を震わせる。

「着てろ」
それに気がついてか、そう言って三途の手からジャケットを取った男はそのまま流れるように三途の肩に上着をかけた。サイズからしてこの男のものなのだろう、三途にはオーバーサイズすぎるジャケット。不意打ちのような優しさに、ひるむ。

「ムトー、今何時?」
「6時前」
「腹減らん?」
「牛丼以外な」
「まだ何も言ってないんだが?」
どうして彼らは三途に何も聞かないのだろう。
どうして目の前にある異物を気にすることなくいられるのだろう。
黙り込み俯く三途は、男が彼に視線を向けたことへ気が付かなかった。

「お前も来るか?」
不意に男はなんてことない顔で三途にそう言った。唐突なその言葉に反射的に顔を上げた三途は困惑のまま言葉を失う。そんな三途を見て女の方が笑った。

「ムトーの顔が怖すぎて喋れないってさ。っいたぁ!」
「うるせぇよ」
「あー、君こんな顔の怖い奴に話しかけられて怖かったよねえ。深夜に君がスタジオの前で寝てたからさあ、こんな真冬だし、流石に死ぬわって思って中に入れたんだよ。びっくりしたよね。ごめんね。でも誓って何もしてない、それはマジで。ギターしか弾いてない」
「ああ、コイツはそれしか脳のねぇ馬鹿だから安心しろ」
「は?キレそう」
「……あんたらって、」
様々な感情を抱えながらもずっと口を閉じていた三途から、ようやく言葉が決壊する。三途の抱える困惑の中には妙な気の緩みがあって、初対面の相手なのに警戒する気も失せてしまうのはきっと目の前の二人の雰囲気のせいだ。

だって、本当は逃げてきたのに。怖いことから、理不尽なことから、あらゆるものを投げ捨てて、着の身着のまま感情に任せて家を飛び出たのに。本当ならもっと不安なはずなのに、本当ならもっと置いてきたもののことを考えるはずなのに、本当ならもっとこれからのことに恐怖するはずなのに。

そんな感情は今の三途の中のどこにも存在していなかった。

「あんたらって、なんなんだよ」
結局、三途の口からこぼれたのはそんな馬鹿みたいな問いかけだけだった。
曖昧で抽象的な三途の問いかけに、男と女はキョトンとした表情をして顔を見合わせる。それから女のほうが三途へ視線を戻し、歯を見せて笑って、こう答えた。

「『Pile Bunker Pandemic』」
「……は?」
「バンド組んでんだよ、このデカいのと」
女は笑って、立てた親指で男を指差す。「……バンド」と三途は口にし慣れない言葉をこぼした。それから思い出す。
スタジオの中で歌い、奏でていた二人の姿を。
その時に感じた言葉にしきれなかった感情のことを。

「おい、この寒ぃ中まだぐだぐだ喋る気か?」
「確かに。とりあえず牛丼屋行こっか!」
「牛丼以外つったろうが」
「君はカレー食えばいいじゃん」
並んで歩き出した二人は数メートルほど進んでから、まだ立ち止まったままの三途を振り返った。

「寒いし君も早く来なよ」
「コイツの奢りだから気にすんな」

その時、遠い東雲。世界を染め上げるように空の色が変わる。暗かった世界に光が差し込む、夜明け。夕焼けみたいな朝日。まばたきのたびに目の端がきらきらと瞬いた。
知らない感覚。
はじめての感触。
言いようのない感受。

ああ、本当に、どうして彼らは三途に何も聞かないのだろう。

見るからに未成年で顔にデカい傷のあるガキが真冬の深夜に寝巻き同然の格好で外にいるなんて、事情が無いはずもないのに。
聞かれないことが不思議だった。
けれどそれが嬉しかった。
だけど同じくらい、聞かれないことが不満だった。


……名前くらい、聞けよ。
そうしたらこっちだって、名前を聞けるのに。


もう一度口を開くタイミングを、もう一度二人に問いかけるタイミングを探しながら、三途は二人を追うように歩き出す。


それが彼と彼らの出会い。
その出会い以降、度々二人に会いに来るようになった三途少年が、彼らのあまりのスケジュール管理の下手くそさを見て思わずマネージャーに立候補してしまうのはもう少し先の話である。