リボルバー・ファンキーズ
苗字の帰りが遅い。
武藤は数分おきに携帯を開いて彼女からのメールや着信が無いことを確認しては部屋の壁掛け時計を睨んでばかりいた。彼が睨む時計の針は23時半を指している。
知り合いのバンドの助っ人に苗字が駆り出されたのは、まあ、いい。いや本音としては良くはない。ギターを背負って出かける苗字に、オマエはオレだけのギターだろうがと文句を言いたかったが、それはあまりにも子供っぽいのでやめた。
「帰り、駅に着いたら連絡しろよ」
「はーい!」
昼過ぎ、そう手を振って「行ってきます」と出て行った背中を覚えている。
事前に聞いていたライブの終了時間はとうに過ぎているし、そのライブハウスから自宅アパートまでは電車で20分程度だ。順当にいけばかかっても23時には家に着いていておかしくない。
こんなに遅くなる理由がないのだ。帰り際飲みにでも誘われたか?なら連絡くらい寄越すだろう。……こちらから電話をかけるか?いや、それはこっちが苗字を心配しているみたいで嫌だ。
苗字の帰りが遅いことを散々心配しておきながら「は?してねぇけど?」みたいな気持ちでいる武藤。彼が不機嫌そうに二つ折りの携帯をパタンパタンと開いたり閉じたりする音と、ここに長年住み着いている幽霊が西側の壁から上げる呻き声だけがアパートに響く。
パタンパタン。
「…………」
「……う、ゔう……ウゥ……」
パタンパタン。
「…………」
「……うぁあ……うゔぁ……」
パタンパタン。
「…………」
「……あぅぁああ……」
…………コンビニでも行くか。
武藤は思った。
特に買うものはないが、ちょっと駅前のコンビニに行こう。そう思った。いや駅前まで行かなくてももっと近くにコンビニはあるのだが今は駅前の方のコンビニに行きたい気分だ。深い意味はない。買うものは特にないが……そうだな、煙草でも買うか。……いや、煙草は苗字に禁止されたのだった。ボーカルは肺を大事にしろとかなんとか……相変わらず世話焼きな奴だ。酒……も、買うなと言われた。酒や煙草は未成年に売った店員の方が罪になるのだとか。「君が勝手に飲むのは良いけど、人様に迷惑をかけるのはダメだからね!」と前に言っていた。いや、飲むのは良いのかよ。だから、あーー、つまり、とにかく、買うものも用もないが、駅前のコンビニに行きたい気分なのだ。
武藤は携帯と財布をスウェットのポケットに突っ込んで、立ち上がった。玄関を出る時にもう一度携帯を確認する。
苗字からの連絡は何も来ていなかった。
◇
春先の微かに冷たさの残る風が武藤のそばを通り過ぎていく。武藤はなんだかむしゃくしゃしたような気持ちを抱えながら、駅へ向かうために歩みを進めた。なぜ自分が不機嫌なのか、よくわからない。
別に苗字の帰りが遅かろうが、誰と飲んでいようが、どこで過ごそうが、誰のためにギターを弾こうが、武藤には一切関係ない。互いを相棒とは呼んでも、個々別々の生き物なのだ。相手を縛る理由も縛られる理由もない。
……そうだ、武藤が苗字を縛る理由などどこにも無い。
そう思った時、何故か心臓のあたりが痛むような心地があった。
その痛みを無視して夜道を歩く。
無意識に足早になる自分に武藤は気が付けない。
長く続いた暗い夜道を抜け、駅前まで来れば人工的な明るさが視界を開く。アパートから最寄りの駅は都内ではあるがそう栄えた駅でも無い故に人通りは少ない。駅前までやってきた武藤の目に入るのは駅前に溜まるタクシーの列。
列の先頭のタクシーが客を乗せて走り出す。その走行音に紛れて、ふと武藤の鼓膜を揺らしたのはピアノの音だった。
馴染みの薄い、どこか異国の風景を想像させるような音色。
そういえばこの駅の構内には誰でも自由に演奏して良いピアノが置かれているのだった、と不意に思い出す。時折子供らが遊ぶように演奏しているのを見かけた記憶があった。
異国情緒のあるピアノの音色。
不意にその演奏に合わせるようにギターの弦な掻き鳴らされる音が混ざった。
アコースティックギターでは無い。アンプに繋いでいないエレキギターの生音。素人には出せないテクニカルな旋律。
離れたところから聞こえてくるそれが誰のものかなど、武藤にわからないはずもなかった。
ピアノとギターの二重奏。曲の聞こえる方へ考えるよりも先に足が向かう。入り組んだ駅の中での反響。終電間近だというのに人のいない寂れた駅構内に置かれたピアノへ向かって、武藤は早足で進んだ。
果たして彼女はそこにいた。
構内に置かれたピアノのすぐそばに立って、体を揺らして楽しげにギターを演奏している。
それは武藤にとっていつも通りの当然の日常であって、けれど彼女の隣にいる者だけが異質だった。
ピアノの前に座り、崩れることのない旋律を奏で続けるその男。背が高く体格の良い武藤でさえも、第一印象としてデカいと思ってしまうほど大柄な男が苗字のすぐそばにいた。
武藤からは男が椅子に腰掛けたその後ろ姿しか見えなかったが、その背の発達した筋肉から男が何らかのスポーツ……というより、恐らく暴力に慣れた人間であることが察せられた。
ピアノを弾く男はふと唐突に苗字に話しかける。その声は二人からやや離れたところにいる武藤にまでは届かないが、男は何処か楽しげな様子で苗字に声をかけ、それに対して彼女もまた笑みを浮かべてなにやら返事をしている。
苗字に話しかけた男のその横顔。首筋から右の側頭部へかけて肌を走る複雑な紋様で構成されたタトゥーが目に入る。どう見たって、明らかにカタギの人間ではなかった。
……苗字、オマエはどうしていつもそうなんだ。
武藤は思わず頭を抱えたくなる。自分と初めて出会った時もアイツはそうだった。夜に見知らぬ男、それもさっきまで人を殴っていたような大男に躊躇いなく話しかけるなど、バカのやることだ。
今だってそうだ。そいつはどう見てもヤバい奴だろうが。オマエは小柄で非力な女であるという自覚を持て。酔ってんのかバカ。いい加減にしろバカ。
そのバカに救われたことは置いておいて、武藤は脳内で苗字を罵倒した。
そんなふうに武藤が途方に暮れている間に、調和の取れたピアノとギターのアンサンブルは終末に至る。流れるような旋律の果てに、苗字とピアノの男は互いに息を合わせて最後の音を奏で切った。ひと気の無い駅の構内に二重奏がどこまでも反響していく。
それは武藤の鼓膜も震わせた。二人のセッションを聞いていたのが武藤でなかったのならば、その幻想的で魅力的な音楽へ手を叩いて投げ銭でもしていたかもしれない。
だが武藤は、苗字を見つめるピアノの男のその同心円の虹彩を見た瞬間、もうそれどころでは無かった。
[[rb:アレ > ・・]]はダメだ。
苗字がどこで誰と何をしていようが、武藤には縛る権利など無い。無いとしても、アレだけは絶対にダメだ。
長くアウトローに生きてきた武藤には理解できる。
アレは嵐のようなモノだ。全てを巻き込み、捩じ伏せ、破壊せずにはいられない強大な衝動の塊。
苗字は他者を受容する性質の人間だ。けれど、きっとあの嵐の前には彼女の受容など容易く食い潰され呑まれてしまうだろう。
最善は嵐に捕まる前に逃げること。
例え彼女が望もうと、取ってはならない掌もあるのだ。
「苗字!」
故に武藤は駅に響き渡る反響が消え切る前に、彼女の名を呼んだ。消えていく旋律の反響に、武藤の発した声が勝つ。
その微かに焦りの滲む声に、ピアノの横に立つ苗字はパッと武藤の方へ目を向ける。それから能天気な笑顔で武藤へ手を振った。それから苗字はピアノの前に座る男へなにやら声をかけると、さっさとギターをケースに仕舞う?
「君、楽しかったよ!じゃあね!」
苗字はそう笑ってピアノの男へ手を振ると、ケースを背負ってパタパタと武藤のほうへ駆けてきた。そしてその勢いのまま武藤の体に戯れるように軽くぶつかってくる。それからにこにこ笑って武藤を見上げた。
「奇遇だねぇ、ムトー。こんな時間にこんなところでどうしたの?」
普段ならその戯れた行為へ小言の一つや二つ言っていたかもしれないが、その時の武藤は本当にそれどころではなかったのだ。
彼は苗字の左手を一方的に掴むと、歩幅の差などに気を遣う余裕もなく足早にその場を離れる。そんな武藤に急に引っ張られて苗字はつんのめった。
「んわっ!もー、待ちなよ、ムトー、早いってば」
「早く来い」
鋭くそう言った武藤の余裕の無い声に察するものがあったのか、苗字はキョトンとしながらも武藤の歩く速度に合わせて早足になりながら駅から出る。
夜の中。瞬く星の下。まだ冷たさの残る春の向かい風に逆らいながら、武藤は早く早くと己を急き立てるように駅を離れる。彼女の手を強く掴んだまま。
「……ねぇ、ムトー、君、大丈夫?」
「何がだ」
「怖い顔してるよ」
心配そうなその声に武藤は思わず立ち止まり、半歩後ろを着いてきている苗字を振り返る。見下ろした先、苗字はどこか困ったように眉を下げて武藤を見つめていた。その時になってようやく武藤は自分が、自分で思っていたよりもずっと強い力で彼女の手を掴んでいたことに気がついて、慌てて手を離す。
「……わりぃ」
「ん?なにが?」
バツの悪そうな顔をする武藤にわざと惚けた苗字は微笑んで彼を見上げる。それから離した武藤の手を今度は苗字のほうから繋ぎ直した。小さな掌が武藤の無骨な手をそっと優しく握る。それから「まだ寒いね」と彼女は目を細めた。
立ち止まった二人。今度は苗字が武藤の手を引きながらゆっくりとアパートへ向かって歩き出す。聞くべきことも責めるべきこともあるだろうに、苗字は武藤に何も問わなかった。だからこそ、武藤は苗字に問いかける。
「……苗字」
「うん、どうしたの」
「さっきのピアノの野郎、……アイツは誰だ?」
武藤の問いかけに苗字は戸惑いもなく答えた。
「あの子?あの子はね、先にあそこで演奏してた子なんだよ。そばで聴いてたらギターを持ってるならオマエも弾けって誘われてね、ついセッションをしちゃった」
不思議な旋律を奏でる子だったね、と苗字はそう言ったけれど、武藤はあの男の奏でる音など何一つ覚えていなかった。
全ては強烈な色を見せるあの瞳に掻き消されてしまったから。渇望するような色で苗字を見つめていたあの瞳。
今思い出してもゾッとするような心地があった。
「……苗字」
「え、なに?」
「オマエは本当に、」
「うん」
「……チッ、馬鹿野郎が」
「ほんとになに!?」
どうしてコイツは阿呆みたいにか弱い生き物のくせに、こうも警戒心が足りていないのだろう。
警戒心が無いのなら、せめて武藤の目の届く範囲、手の届く範囲にいてくれなくては困る。
……本当に困るのは、そばにいろと彼女を縛れる理由を今の武藤が何一つとして持っていないことなのだけれど。
だから武藤は頭を抱えたかった。
けれど、武藤の手は今苗字と繋がっているから、仕方なく溜息を深く吐くにとどめる。
「ムトー」
「なんだよ」
「心配しなくても私は君のギターだからね」
「……その割に今日は浮気三昧だったな」
「や、でもほらちゃんと帰ってきたじゃん?」
「それで浮気がチャラになると思ってんのか、三股ギタリスト」
「酷い言われようじゃん。えっ、このタイミングで言うの嫌すぎるんだけど、ごめん、来週も助っ人あるんだわ。ほんとごめん。愛してるのは君だけ」
「クソ野郎じゃねぇか」
静かな夜道に、苗字がケラケラと笑う声が響いた。