夢など見ずに済んだのに



『パイルバンカー・パンデミック』が世話になっている『ソワレ』はバブル時代の雰囲気を残すオンボロ音楽スタジオだ。
建物は二階建てだが、スタジオは一階部分のみ。昔はそれなりに栄えていたらしいが、今はもうこの古ぼけたスタジオの利用者は少なく、大抵は『パイパン』の二人か、たまに近所の高校の軽音部がやってくるくらいだった。

スタジオの上、『ソワレ』の二階部分は貸部屋になっていて、苗字はそこを自分の家としている。
部屋は風呂無しベランダ無しの8畳畳張りの1K。駅から歩いて15分。近くの道路を大型トラックが通ると、もうこの建物潰れるんじゃねえかってくらい揺れる。

住み心地はオブラートに包んで言うとイーヨーの家よりはマシって感じだった。

「家賃は?」
「三千円」
「……一家無理心中でもあったのかよ」
「ここ出るんだよねー、Gが」
「バルサン焚いとけ」
「GはGでも、GHOSTのほうだけどね!わはは!」

格安家賃で苗字&幽霊と同居できる面白アパートなんか絶対に嫌だったが、武藤がこの部屋に転がり込む羽目になったのには理由がある。

武藤が住んでいたアパートが燃えた。
以上だ。

もはやそれ以上もそれ以下も語ることはないのだが、ある日武藤が帰路についていた時、やけに消防車のサイレンが鳴っていると思ったら自分が住んでいたアパートが元気よく燃えていた。
アパート全焼。
下の階の住人のタバコの不始末だったらしい。
燃え盛る我が家に流石の武藤も動揺した。アパートの住人は皆出払っていて怪我人が出なかったのか数少ない救いだろうか。

そんなこんなで家を無くした武藤に、苗字は「ウチくる?」とバラエティ番組並みのノリの軽さで彼を招いた。流石に「行く行く!」とノリ良く返しはしなかったが、まあ一晩くらい世話になるか、と苗字の部屋に泊まり、案外居心地が良くて連泊した結果、武藤は幽霊同様に苗字の部屋の同居人になったのだった。

ちなみにだが、苗字が言っていた通り部屋に幽霊は出た。
コンビニから帰ったら部屋の中に人影があったので苗字かと思って玄関から中へ声をかけたら無視をされ、「は?」と思いながら家に上がったら中には誰もいなかった、みたいなことは多々あった。苗字じゃないなら「苗字じゃない」とせめて返事くらいはしろや、と思った。

兎にも角にもそんなこんなで同居だ。

しかし、いくら武藤にとって苗字がストライクゾーンからかけ離れた暴投デッドボール女だとはいえ、いい歳した男女が一つ屋根の下。

何も起こらないはずもなく、武藤は寝不足な日々を送らされていた。


それは、ラップ音が鳴り響く中でも睡眠を取ることに慣れてきたとある日の夜のこと。
時刻にして深夜二時。
電気を消した暗い部屋の中、武藤の眠る布団のそばにそっと苗字が近付いてきた。彼女は武藤が眠りについているのをじっと見つめてから、彼の肩を揺らして起こそうとする。

「ムトー。ねー、ムトー」
名前を呼びながら体を揺らされて、武藤はすぐに意識を覚醒させた。が、眠気の方が優ったため、苗字を無視して目を瞑り続ける。

「ねー、起きてよ、ムトー。あのさあ、シたくなっちゃったんだけど……」
「…………」
「ムトー、ちょっとだけでいいからさ、一回だけシない?」
「…………」
「ねーえー!」
「……るせぇな……今何時だと思ってんだ。昼間散々シたろうが」
苗字があまりにもしつこいものだから、武藤は仕方なく目を開く。

薄暗がりの中、天井を見上げる武藤の左側から苗字が彼の顔を覗き込み、右側から髪の長い見知らぬ女が恐ろしい形相で武藤を覗き込んできていた。
右のは多分この部屋の幽霊のうちの一人だろう。それはいつものことなので裏拳を叩き込んで無視をする。武藤は溜息を吐きながら起き上がると、寝巻きの裾を掴んでくいくい引っ張ってくる苗字に向き合った。

「ハァー……テメェはよぉ、人の都合も考えねぇで……」
「仕方ないじゃん。いいメロディが急に浮かんだんだよ。ねぇ、一回だけでいいから聞いてよ。あと私が弾いたメロディに合わせて作詞してほしい。てかもうスタジオ行こう!あ、あ、やばい、降りてきてる降りてきてる。今すごいキてる!ね、シよ!曲作りシよ!」
「深夜テンションで作った曲がボツになんなかったことねぇだろうがよ……」
そうだそうだとばかりにラップ音がビチビチギシギシパチンパチンと鳴ったが、やかましかったので苗字と武藤は思わず揃って「うるせえカス!」「今こっちで話してんだろうが!」と部屋に向かって怒鳴った。部屋はすぐに静かになる。

気怠げに欠伸をする武藤を尻目に、苗字はギターを手元に引き寄せると思いついたらしいメロディを寝起きとは思えない軽やかな手つきで奏でる。
鼓膜を揺らすそのメロディに、武藤は無意識に指先で布団を叩いてテンポを取っていた。寝起きの頭だからか、うっかり悪くねぇな、などと思ってしまう。

「もうちょいテンポ上げろ」
「おー。……あー、いいね。ねー、やっぱスタジオ降りようよ」
「またババアがブチ切れんぞ」
「ババアの血管切ってからが本番だよ」
「何の本番だよ」
二人は立ち上がって、苗字はギターを、武藤は部屋の鍵だけ持って外へ出る。深夜、すっかり夜が更けた時間にアパートの階段を降りて、鍵が壊れたままの裏口から当然のように一階のスタジオへ入った。手慣れたものだった。


そうして二人は結局一睡もせずに曲作りをし続ける。
そのうち疲れてスタジオで眠りこけ、朝になってやってきたスタジオの管理人であるババアにブチ切れられた。


「テメェら何回言ったらわかるんだい!!深夜に勝手にスタジオ入るんじゃないよ!!!」
「チッ、うるせぇな……。仕方ねーだろ、鍵開いてんだからよ。寝ぼけて入っちまったんだよ、寝返りみてぇなもんだろ」
「んなわけねーだろクソガキ!もうちょっとマシな嘘つきな!!」
「眠ぃから上に帰るわ」
「オイこらヤスヒロォ!ナマエ置いてくんじゃねーよ!この子も持って帰んな!!」
「面倒くせぇな……」

スタジオの床に転がって寝ている苗字を荷物みたいに小脇に抱えた武藤は溜息を吐きながらスタジオを出ようとして、管理人であるババア ─余談だが、ババアの本名は中藤という─ に声をかけられた。
パーマかけた白髪を揺らした初老の女はジャケットから煙草を出すと先端に火をつけて息を吐いた。

「ところでヤスヒロ、アンタ、ナマエとはうまくやれてんのかい」
「急になんだよ、ばーさん」
「昔っから世話してるアホなガキが男連れてきたんだ。心配にもなるってもんだろ」
「バカ言え、テメェが思ってるような関係じゃねぇよ」
「じゃないから心配してんだよ、こっちは」
老女はジロリと武藤を睨むように見た。
その目に捉えられて、内心怯む。武藤は多感な未成年故に大人というものが心底嫌いだったが、たまに中藤のように人の本質をあっさりと見抜いてしまうような成熟した大人がいることも知っていた。そしてそういう人間が酷く苦手だった。

「アンタらが男女の関係ならむしろ心配なんざしないっての。そういう間柄なら、結局なるようになるからね。でも違うんだろ?愛だの恋だのが無い関係を弱いものだとは思わないけどね、結びつきがない関係は逃げ場が多過ぎるだろう?」
「……何が言いてェ」
「ナマエはギター以外に取り柄のないアホだよ。でもその分、腹ァ括って生きてる。それしか持ってないから、それにだけは誠実なのさ。バカだからね、あの子は」

中藤は武藤に抱えられた苗字を見て少し表情を緩めて、それからまた厳しい顔つきをすると武藤を見つめた。スタジオの中に広がった紫煙の独特な香りが鼻につく。

「あの子はアンタのことを気に入って信用してるみたいだけど、……ヤスヒロ、アンタはナマエの隣に立ち続けられんのかい?」

苗字と共に在り続ける覚悟を問われているのだと、わからないほど愚かではなかった。
けれど、心にも無い言葉や誤魔化しが通じる相手では無いこともわかっていたから、武藤は中藤に対して返す言葉を持てない。中藤とて、武藤の返事など端から期待していなかったのだろう。

「まだまだガキだね。アンタはもう少し人と人とが対峙する責任と恐怖を思い知った方がいい」

それだけ吐き捨てて、老女はさっさとスタジオを出て行く。燻る煙だけが残って、やがてそれさえもかすんで消えていく。

「……勝手なこと言いやがって」
その背を見送っても尚、武藤は自身の中に答えを持てなかった。

この場所から、この関係から一方的に立ち去ることなど容易いと知っていた。むしろ苗字とのこの関係など、一時的な止まり木に過ぎないのだと武藤自身が一番理解している。そしてそれが如何に不誠実な在り方であるかもまた同じくらい理解していた。

武藤は、傍に在ろうとする人を置いていく容易さを知っている。そして、傍に在り続けようとしながら置いていかれる虚無感を知っている。

知っていて、苗字の手を取ってしまった。
彼女と共に居続ける覚悟さえ出来ないまま、そのくせ去ることさえ出来ずにいる。
出会った夜に魂を震わせたあのギターサウンド。こちらを見透かすような言葉の群れ。あの、世界が発光するような感覚。けれど、

……もしも、いつかイザナが戻り、もう一度武藤に手を差し出したのなら。

「……苗字。オレには、王がいる」
きっと、その手を取らずにはいられない。きっと自分を必要としてくれる苗字を捨ててでも、イザナを選ぶのだろう。
内心に浮かぶ自己への嫌悪感に顔が歪む。そう思うことさえ、下らないと嗤えない自分が許せなかった。その時だ。

「……ムトー」
腕の中で寝ぼけた声の苗字が身じろいだ。自分を呼ぶその声に武藤はびくりと肩を揺らす。それに気がつかない苗字はふらふらと手を伸ばして、スタンドに置かれたレスポールを指さした。

「部屋に帰るなら、私の、レスポールも、一緒にぃ、持ってって、くれ」
ふにゃふにゃとした声音。武藤の今の内心の葛藤なんて知る由もないのだろう。
「レスポールと私の両腕は、私の命より大事なんだ」
それだけ言うと苗字はまた「ぐぅ……」と武藤の腕の中で脱力して、寝た。

その気の抜けた様子に、武藤の肩から力が抜ける。
苗字のアホさ加減に救われる。それが一時的な問題の先延ばしであるとわかっていても、そのアホみたいな寝顔を見ていると、自分が抱える葛藤など杞憂に過ぎないのではないかと思えて仕方ない。


いつか、イザナが戻ったら。
いつか、もう一度手を差し出されたのなら。

そんな「いつか」なんて来ないのではないか。そう思えた。そう思ってしまった。


武藤は、彼のこれまでの人生の中から順位をつけるならば少なくとも三位以内には入るくらい優しく苗字を抱き直すと、彼女と彼女のレスポールを二階の部屋まで丁寧に連れ帰った。
レスポールをギターケースに仕舞い、脱力した苗字の体を布団の上に寝かせて毛布をかける。

途端に、無いはずの上の階から赤ん坊の泣き声がし始めたものだから、武藤は溜息を吐いて「コイツ徹夜なんだよ、寝かせてやれや」と天井を睨んで文句を言った。するとパタパタと誰かが小走りするような音が聞こえて、すぐに赤ん坊は泣き止んだ。

静かな部屋。窓から差し込む朝日。
新聞配達のバイクのエンジン音。鳥の囀り。
警戒心の無い寝顔。無意識にその柔らかい頬へ手を伸ばしかけて、やめる。

立ち上がり、苗字から離れて窓を開く。吹き込む冷たい風。
窓際から光の滲む世界を眺めながら、昨夜彼女がこの世に生み出したメロディを思い返す。アップテンポで明るいトーンのメロディ。つけるのならいっそ虚しい歌詞がいい。呟く。


「濁り続ける泥濘で、」

「徒花になれたのならば、」

「夢など見ずに済んだのに」

「飛び降りる窓を探している」

「飛び降りる窓を探しているんだ」


何かに耐えようと、目を瞑る。けれど、朝の光が瞼の裏を焼く。

柔い体を抱きかかえた腕の感触が消えない。
掻き鳴らされたギターサウンドがやまない。

お前さえ現れなければ、夢など見ずに済んだのに。
















「オマエ、そのアホみてぇな面つけんのやめろよ」
「えっ、嘘、超かわいくない?」
「ダセェ」
「は?キレそう」
一つ前の対バンが演奏している最中、ステージ袖で武藤と苗字はひそひそと言葉を交わし合っていた。

「ムトーが顔隠すのに私だけ出してたら恥ずいじゃん。あ、それともムトーついに顔出す気になった?」
「ぜってぇやだ」
「シャイなあんちきしょうめ」
顔を隠すためにお面をつけると息がし辛くて仕方ないとぶーぶー言っていたのは苗字で、武藤はそれをなんとなく覚えていた。

武藤は苗字がゴムで頭に引っ掛けていた過剰にデコられたお面を外すとそれをその辺の作業台に放り投げる。

それから手に持っていたサングラスを苗字の耳にそっとかけてやった。

男物の大きめのレンズが苗字の顔の半分近くを黒く隠す。彼女は一瞬ポカンとしてから、自分の手でサングラスの掛け心地を調整すると、ニッと口角を上げて笑った。

「どう?似合う?」
「ユニクロの白Tは誰にでも似合うだろ。そんな感じだな」
「褒めてる?それ褒めてんの?」
「褒めてんだろ、オレのセンスを」
「なんでも似合っちゃう私を褒めろや」
そう言いながら苗字は落ち着きなくそのへんをぐるぐる歩いたり、近くにあった姿見の前に立ってサングラスの角度を変えたり前髪を直したりしていた。投げ捨てられたお面に執着が無いあたり、喜んではいるらしい。

「んふ、んふふふ」
「何笑ってんだ気持ち悪りぃ」
そうこうしているうちに二人の出番が来る。
彼らの登場を待つオーディエンスの『パイパン』コールにも最近ようやく慣れてきた。

「よっしゃ、じゃあいこうか、相棒」
機嫌良く口角を上げた苗字が握った拳を武藤に向ける。

武藤のものよりずっと小さくて、人なんか殴ったこと無さそうなその拳に、応えるように武藤は自分の拳を軽くぶつけた。