動物図鑑に載ってない


「アレルギーは?」
「ねぇ」
「私もー。持病は?」
「ねぇ」
「私もー。借金は?」
「ねぇ」
「ほーん。ま、私はあるけど」
「あ?闇金じゃねぇだろうな」
「あー、違う違う。借りてるんじゃなくて、貸してる」

牛丼屋でそんな話をした。

「ご飯、奢ったるよー」と苗字が武藤に言う時、彼女に連れていかれるのは大抵、というかほとんどの場合牛丼屋だった。
初めは安いからだと思っていたが、やけに先輩風を吹かせる苗字が「君のタッパだと一杯じゃ足んないでしょ。大盛り二つ頼みな。あと野菜も食えよ。あ、デザートもいるっしょ?」と、好き勝手に注文を重ねるから結局毎回普通のファミレスでそこそこ食べた時と同じくらいの金額になっている。なので恐らくただ単純に苗字が牛丼が好きなだけなのだろう。

武藤と肩を並べてカウンターに座る苗字は牛丼並盛り汁だくをもっきゅもっきゅと頬張りながら、なんでもないみたいに貸している借金の話をした。

「もう2年くらい昔の話だけどね、当時付き合ってた彼氏が実家の母親が倒れたとか言って、」
「あー、もういい、わかった。どうせ嘘つかれてたんだろ」
「察しが早いな、君」
「……で?いくら貸して踏み倒されたんだ」
「アー……50万」
「殺してこい、そいつ」
「着拒されててさぁ……」
「バカだろ」
他人事のはずなのに我が事のように苛立った顔をする武藤に対して苗字は普段より温和な声音で「まあ、気にしてないよ」と笑った。

「金を貸す時はあげるつもりで貸せ、とも言うし」
「テメェ何舐めたこと言ってヘラヘラしてんだ」
「え?今私怒られてる?被害者なのに?」
「てめぇの女にパチこいて金騙し取った挙句雲隠れした男なんかをヘラヘラ笑って許してんじゃねぇよ。地獄の果てまで追い詰めてでも殺せ」
「ちょー過激じゃん。いやー、まーそうは言いましてもねぇ、」
苗字は箸で玉ねぎを摘みながら困った顔をした。その顔を武藤はじっと見る。苗字がモソモソ並盛りを一杯食べている間に、武藤は大盛り二杯を食べ終えていた。

「殺せるもんなら殺すけど、さっきも言ったけど着拒されてるし、今どこいるかも知らないしさァ……」
「ツラは?」
「ん?」
「写真とか残ってねぇのか」
「あー、携帯ん中あるかも」
「見せろ」
「あーー私の携帯を勝手に見るんじゃない、もーーー」
「…………コイツか」
「あ、そうそう、ソイツソイツ。そいや元彼こんな顔してたな〜。って君ィ、私の携帯を勝手に弄るのはやめなさい。あーーープライバシーの侵害ィーーー」
返せーと苗字が腕を伸ばしても届かないところまで携帯を遠ざけると、武藤は苗字の写真フォルダにあった男の写真を彼女の携帯から自分の携帯へメールで送った。その後、素知らぬ顔で送信済みメールフォルダからそのメールを消す。それから苗字へ携帯を投げ返した。

「コラ!人の携帯投げるな!」
「うるせぇな。つかテメェ飯食うの遅ェんだよ。早く食え」
「ムトーが人の携帯取ったりするからなんだけど!?」
「その前から遅かったろ。人のせいにしてんな」
「んぐぐぐ!先輩キック!先輩パンチ!」
カウンター席に座りながら隣に座る武藤へ攻撃力1のキックやパンチをしてくる苗字の頭頂部へ武藤はアイアンクローをかました。






人探しは得意だった。
正確に言えば、人を追い詰めるのが得意だった。
「向いている」とか「適性がある」とかそういう言葉で表してもいい。

とかく、人探しが得意だったのだ。









牛丼屋でのやり取りから1週間ほどが経ち、そんなことがあったことさえ忘れかけていたとある日。フラフラと街を歩いていた苗字の元にメールが届いた。

送信元は武藤。あの男が自分から苗字に連絡を寄越すのはひどく珍しい。
やぁっと懐いてきたか、と苗字が内心ニマニマ笑いながらそのメールの本文を開くと、そこには見知らぬ住所がひとつ記載されていた。
それ以外には何の情報もない。メールのタイトルさえただの「無題」だ。

「……んむ?送り間違え?なぞなぞ?嫌がらせ?うーむ、謎い」
なにこれ?と返信をしようとしたらその時、電話がかかってきた。武藤からだ。答え合わせの時間だろう。苗字はウキウキしながらワンコールで電話に出た。

「もしもし?オレオレ、オレだよオレ、実はさっき妊婦を轢いちゃってさあ」
『メール見たろ。今すぐその場所に来い』
「ねーー、ムトーー、ノリ悪いーー」
『つまんねぇ悪ノリやめろよ、もう19だろオマエ』
「私はいくつになっても少年の心を、……って、切りやがったあんのクソガキ」
年上舐めてやがんなァ、アイツ。
髪をガシガシと掻き乱しながら、武藤からのメールを見返す。知らない住所だが、住所の後半に「ホワイトリバーハイツ」と建物名があるので、恐らくどこかのアパートかマンションの一室なのだろう。
新しい借家でも見つけたのだろうか?ならばもうGが出ないところにしてくれ、あと防音のとこ、と思いながら苗字はそばを通りがかったタクシーに向かって手を上げた。



タクシーに住所を伝えて、あとは運転手に任せっきりにして約15分ほど。車を降りた先で辿り着いたアパートを苗字は眺めた。
どこにでもありそうな、それでいて家賃はあまり高くなさそうな、そんなアパートだった。どこの街にもありそうなよくある外観のアパート過ぎて、逆に何故ここに呼ばれたのか全くわからない。
とりあえず外壁に書かれた「ホワイトリバーハイツ」という文字を確認してから、苗字は武藤に電話をかけた。

「しもしもー、ムトー?君が送ってきた住所のアパート前まで来たんだけど」
『302号室。鍵は開いてる』
「寄越される情報が簡潔過ぎでしょ。ハンター試験だってもうちょっと詳細な情報くれるわ。説明が足んなさすぎるよ。なに?私まだなんでここに呼ばれたのかわかってないんだけど。302号室に何があるの?ありったけの夢?ひとつなぎ大秘宝?黄金郷はそこにあったの?」
『……遠からず、かもしんねぇな』
「まァじでェ?期待してくわ」
二つ折りの携帯をパチンと畳むと、苗字は割とワクワクしながら見知らぬアパートの階段を登る。よくわからない状況さえも楽しめるのは苗字という人間の長所と言えた。

たんたんたん、と軽やかに階段を上がって誰とすれ違うこともなく三階。フロアの廊下を進んですぐに302号室はあった。何の変哲もない、どこにでもあるアパートの扉。
その前に立って、苗字は恐る恐るその金属製の冷たい扉へ耳を押し付けてみた。
……が、中の音は聞こえない。防音がしっかりしているのだろうか。思えば他の家からも物音は聞こえない。防音、大事だ。次に暮らすなら深夜にギターを弾いても怒られない防音のしっかりした家がいい。

そんなことを考えながら、苗字はあまり音を立てないようにドアノブを回した。何に遮られることもなくノブは回る。鍵がかかってない、という武藤の言葉は本当だったようだ。そっと顔半分ほどドアを開けて中の様子を伺ってみる。
ドアの隙間からは狭い玄関と、真っ直ぐに奥へ続く廊下が見えた。それからよく見えない奥のほうに人の気配。誰かが奥の部屋で喋っているボソボソとした声が耳に届く。その声が武藤のものだと気が付いて、苗字は今度こそ躊躇いなくドアを開いた。

「ムトー?着いたんだけどー?」
中はどこにでもあるような1Kの部屋だった。玄関を入ってすぐは廊下兼キッチンとなっており、シンクの中に雑多に洗い物が溜まっている。人が住んでいるらしい。武藤の知り合いの家かなにかか?小首を傾げながら苗字は玄関で靴を抜いて部屋に上がり、その狭い廊下兼キッチンを進む。
その先、廊下とリビングの境には磨りガラスの嵌められた扉があった。中の様子は見えないが、中に武藤がいるのは確実で、武藤に呼ばれたのも事実だ。そう思うとオドオドする理由もなく、苗字はさして躊躇うこともなくリビングへ続く扉を開いた。

「ムトー、君ねぇ、人を呼んでおいて無視たァ………………ア?」
苗字はリビングの中を見て、思わず固まった。

まずリビングの中には苗字の想像通り武藤がいた。
苗字が扉を開けてすぐの右手、部屋の壁際に椅子を置いてそこにいつもの無表情のまま座っていた。扉を開いた苗字に気が付いてこちらを向いた彼と目が合う。

「遅ぇよ」
「タクシー乗ってちょっぱやで来たんスけど。つか、この状況ってなに?」
「それのことか?」
武藤は軽く顎で部屋の中心を示した。指し示された方へ苗字は目線を向ける。リビングの真ん中、冷たくて硬いフローリングの上にそれはいた。

下着一枚身に纏っただけの男が震えながらフローリングの上で正座していた。

「………………これのなにが空島?」
「シャンディアは大体半裸だったろ」
「どう見ても戦士じゃないんだけどこの人。スラム街で追い剥ぎにあった人って説明された方が納得できるよ」
「…………ひっ、あ……や、名前……か……?」
名前を呼ばれてリビングの中心へ目を向ける。何故かほぼ全裸で半泣きで震えているが、よく見るとその男はいつか苗字から金を騙し取った元彼だった。
予想外の人物すぎて思わず片手を上げて「え、久しぶりじゃん」と間の抜けた言葉が口をついて出る。

元彼は震えながら苗字へ縋るような目を向けた。
「名前……!たす、助けてくれ……」
……助けろと言われても、苗字にはこの状況が理解できていなかった。

男が何に困っていて助けて欲しいのか。
そもそも何故武藤が元彼と共にいて、苗字をここへ呼び出したのかさえわからない。

思わず困った顔で武藤を見ると、彼はやれやれといった表情で立ち上がり、フローリングに正座する男の元へ足を進める。
武藤が立ち上がった途端に男は怯えた様子でその場から逃げようとして、けれど正座していた足が痺れていたのか、もつれるように床に顔を打ち付けて倒れた。

そんな男に近づいた武藤は床にへばりついて転がり倒れた彼を気怠そうに脚で蹴り飛ばした。

人間の肉が打ち付けられる鈍い音が狭いアパートの部屋に響いた瞬間、苗字は驚きに目を丸くする。
それから目の前の光景に薄寒いものを感じた。

苗字という女は、人より気が強く、やや気性の荒い質の人間ではある。
あるが、これまでの人生において、対等の関係性の人間同士による喧嘩こそしたことはあれど、暴力というものとは遠いところで生きてきていた。

つまるところ、弱い人間が強い人間に一方的に暴行を受ける様を目の前で見たのは初めての経験だったのだ。

床に蹲り抵抗のできない男を武藤は蟻を潰すように無感動に、けれど何度も執拗に蹴りつける。
思考停止した頭でそれを眺めながら、苗字は思った。


……そういえば私、ムトーがなんで少年院入ったのかって聞いたことなかったな。


「自分の立場がわかってねぇのか?なに気安く苗字の名前呼んでんだ」
「あ゛、ごべ、ごめ、なざいぃ、お゛っ」
「オレに謝ってどうすんだよ。謝るならアイツにだろ?」
「やめ、あがっ、おっ、もお、」
「テメェがアイツに言っていいのは謝罪の言葉と「耳揃えて50万返します」の一言だけだろうが」
「ひッ、あ、あ、ごめ、ごめんなざぃ、かえじまず、がえじまずからぁ」
「表にあった単車、テメェのだろ?免許持ってんならすぐに金借りれんな?」
「あ、あ、はいぃ、はいぃ、ずみまぜん」
武藤は男の染めた茶髪を掴むと、投げ寄越すように苗字の足元へ放った。
血の飛沫が床に模様を作り、顔や体が硬いフローリングにぶつかるゴンという耳障りな鈍い音に米神が引き攣る。

「よかったな、苗字。金戻るってよ」
男をゴミみたいに放り投げた武藤は何でもない顔でそう言った。
その声に苗字が思わずまじまじと武藤の顔を見つめると、彼は少し口角を上げて笑う。

滅多に見せることのない、少しこちらへ気を許したようなその表情に、苗字は喜ぶべきなのか怒るべきなのかわからず、顔を引き攣らせることしかできなかった。

その時になってようやく苗字は、元彼に金を返させるために武藤が自分をここへ呼び出したのだ、と理解した。







武藤に首根っこを掴まれた苗字の元彼が消費者金融で借りた50万円の現金を武藤に渡し、武藤はそれをそのまま流れるように苗字に渡した。
武藤の手が首元から離れた瞬間、元彼はダッシュで逃げていく。大人の全力ダッシュ。
そのあまりに切ない後ろ姿を苗字はなんともいえない瞳で見送った。

「2年ありゃそこそこ利息が付くな。さっきの野郎、もう一回捕まえてくるか?」
「いらんいらん、商売じゃあるまいし。それよりこの現ナマどうしたらいいのよ……」
50万円の札束はそこそこの存在感があり、そのまま持っていたら目立ちすぎて仕方ない。

苗字は普段から携帯と財布程度しか持ち歩かない主義だ。鞄なんて文明的なものは持っていない。しかも今日に限ってギターも持ってないため、ギターケースの隙間に詰め込むこともできなかった。
仕方なく風が吹いて転がってきたコンビニの袋の中に札束をそのまま突っ込む。

元は返ってくるはずもない金で、つまりは泡銭のようなものだ。最悪引ったくられてもいいや、と思った。が、多分引ったくられたら武藤が追いかけてひったくりをボコボコにしてでも取り返すのだろう。そう思ったらひったくりを守るためにも引ったくられないようにしよう、と思った。なんだこれ。


コンビニの袋を揺らしながら、武藤と並んで見知らぬ街を歩く。互いに無言。
苗字は何かを言わなくてはならないなァと思いながら第一声を探していて、彼女の隣を行く武藤は苗字が何かを言いたげであることに気がついていた。

「オイ、苗字」
「あ、うん、なに?」
「言いたいことがあんなら言え」
「……君は、……アレだな。私が何か言いたいことがあるってのには気付けるのに、何が言いたいかについてはわからないんだな」
「喧嘩売ってんのか?」
「……いや、これは、うーん、私が悪い、のかな、ウン、多分」
「は?」

苗字は音楽性の違いから人の顔面をレスポールのボディでぶん殴れるような人間だ。
つまりは他者に道徳を語れるような人間でない。

それでも、武藤のあの攻撃性や暴力性がこの社会において容認されて良いものではないことくらいはわかる。

物事の解決手段として暴力が選択されることに抵抗の無い人間に苗字は困惑していた。

ただ、彼女が困惑していたのは武藤の暴力そのものにではなく、その暴力が少なくとも苗字への善意のために行われた点だ。
だからこそ、言葉を選ばざるを得ない。行為の根底にある感情は善であり、故にその感情を否定することが苗字にはできないからだ。

そもそもの問題として、苗字から金を騙し取った元彼が一番悪いわけで、苗字はこの時被害者となる。故に武藤は被害者である苗字への救済のために一連の行為を行なった。この事実は歪めてはならない。

それを前提とした上で武藤が行った暴力を否定したい、と苗字は思った。その暴力性はまだ年若い武藤が今後この社会で生きる上で妨げとなる。そう彼女は予感した。

「ムトー」
「あ?」
「私さ、昔というか初めはギターじゃなくてピアノをやってたんだよ。母親に習わされて、子供の頃はピアノをやってた」
「急になんだよ」
「まあ、聞きなよ。私さ、ピアノは向いてないなりにそこそこやってたし、それはそれで楽しかったよ。でも同じ音楽教室で見かけたギターが気になってさ、軽い気持ちでやり始めたらドンピシャだった。運命に直撃、みたいな感じ。多分母親はそれを望んでなかったんだろうけど」
武藤は黙って苗字の話を聞いていた。何も言わず、何も問わず、静かに彼女の隣を歩き続けた。だから苗字も言葉を続ける。

「結果的に、逸れた道が私の道だった。正誤とか善悪とかじゃなくて、それがただ私の適正だっただけ。多分、君にとっては、喧嘩とか暴力とかがそうなんだろうね。向き不向きとか、得意不得意とか、そういう話だよ。君の道が見つからなかったら良かったとか思うのは狡いことだけど」

段々と言葉が乱れていくのが苗字自身わかっていた。言葉を紡ぐのはあまり得意ではない。だから音楽を、ギターを頼ってきた。あとはたまに酒やその場のテンションにも。

とかく、それらは苗字の感情を伝えるのには充分すぎる役割を果たしてくれたけれど、理性と言葉を伝えるのは苗字同様に苦手だったから、苗字は慣れない言葉をなんとか操ろうと努力する。

朴訥な質なのは武藤も同様で、だからこそと言うべきか、武藤はなんとなく苗字が言いたいことがわかるような気がしていた。

苗字も武藤も、本来歩むべきだった、あるいは、誰かに歩んで欲しいと願われた道を逸れた先に、己の居場所を見つけてしまった。
苗字はギターだったから、まだ救いがある。けれど武藤は暴力性にこそ己の在り方を見てしまったから、苗字はそれを肯定できないのだろう。

案外、世話焼きな奴だ。
武藤の暴力性を丁寧に否定しようとする苗字に対して武藤はそう思って、それから立ち止まる。
ひと気の無い見慣れぬ道。
武藤が立ち止まったことに気がついて、連鎖するように苗字も武藤の半歩先で立ち止まる。
武藤はこちらを見つめる苗字を静かに見下ろした。線が細く、小柄な体。腕も脚も小枝のようだ。武藤はゆっくりと彼女へ手を伸ばすと、その細い首を右手で掴んだ。

殺せる、と武藤は思った。
その細い首を折れるまで絞めることも、小さな頭を割れるまでコンクリートに叩きつけることも、顔の形が変わるまで殴りつけることも、思いのままにできる、と。

「苗字」
武藤は彼女の名前を呼んだ。普段通りの声のはずなのに、どうしてか彼女へ縋るような声音が生まれてしまって、武藤自身困惑する。それでも、言葉を紡いだ。
苗字がそうであるのならば、彼女には問いかけなければならないことがあった。

「苗字、オマエはオレが怖いか?」
首を掴んだ手に少しだけ力を入れる。
掌の中で薄い皮膚の向こう側、苗字が唾液を嚥下する喉の柔らかい動きを感じた。

首を掴まれた苗字は、けれど抵抗しなかった。無意味だと知っていたのだろう。例え、苗字が恐れをなして抵抗しようが逃走しようが、武藤が殺すと決めたのならその時には殺されるしか無いとわかっていた。
男女の差とはそういうものだった。まして、武藤は暴力を使い慣れた人間で、苗字は暴力の経験の無い人間だ。経験の差と体格の差は埋めようも無い。

すべては断絶であり、不理解だ。
武藤は苗字の否定を根本的には理解できないし、苗字は武藤の暴力性の発露を本質的に理解できない。やがてその不理解の果てに行き着く先は断然のみだ。
……だとしても、それは相棒を理解しようとする努力を行わない理由にはならなかったけれど。


「ムトー、君、私を舐めるなよ」

苗字は低い声で唸るように言った。
アリクイの威嚇。武藤からしたらそんなものだったけれど、そんなものでも掴んでいた手を緩めるくらいの効果はあった。

「女が男にする信頼ってのは、君ら男の信頼とはわけが違うんだ。大抵の女は男に勝てない。肉体の性能の話だよ。男は己の腕力だけで女を殺せるだろうが、女はそれが出来ない。わかるか、君は今、生殺与奪権を他人の理性に任せるほか生存の手段がない生き物の首を掴んでいるんだ」
自分は非常に弱い生き物だ、と彼女は懇切丁寧に言い切った。それがあんまりにも堂々としているものだから、武藤は違う話をしているのかとさえ錯覚しかける。

「君を相棒とした時から、比喩じゃなく、本当の意味で私は君に命を預けてるんだ。だからもう怖いとか怖くないとか、そういう段階はとっくに過ぎてるんだよ。いつか君に殺されるかもしれないという可能性を承知した上で、私は君と共にいることを選んでる。君が私をいつでも殺せるとわかった上で、君が私を殺さないと信じているんだ。それが私から君への信頼なんだよ。生半可な気持ちじゃないんだ。馬鹿にするなよ」

眉間に皺を寄せて上目遣いにこちらを睨む苗字を見て、武藤はようやく彼女が彼の軽率な発言に心底怒っていることに気がつく。

苗字は武藤の暴力性を否定しながらも、武藤の暴力がいつか自分に向かう日を覚悟している。覚悟をした上で、傍にいることを自分自身で選んだのだ、とそう言い切ってみせた。

その捻くれた信頼を鼻で笑うのは容易かったけれど、武藤はそれがどうしてか酷くいじらしくも感じられてしまう。
そう思ったらもう殺せなかった。
殺せない、と思ってしまった。

彼女を殺してしまったら、きっともう武藤のために怒ってくれる人はいなくなってしまうから。

「……首、掴んで悪かったな」
武藤は苗字の首から手を離した。離してから、彼女の細くて柔い首に跡が残ってないことを確認して、微かに安堵する。

「つまりはもう喧嘩すんなって話だろ」
「するなとは言わないけどね。……うん、ムトー、とにかく、君、あまり人の道を外れるなよ」
難しいことを言う、と武藤は思った。

人の道などという抽象的な表現もそうだし、これまで暴力と密接に関わってきた武藤の人生そのものを変えろということも武藤には酷く困難なものに思える。
それでも、苗字の説教らしくない説教はこれまでどんな大人にされてきたものよりもずっとムカつかなかった。

だから努力はしよう、と思った。
彼女の覚悟と信頼に見合うだけのものは返そう。それが対等な関係というものだろう。
それに、例え武藤は再び過ちを犯しても、きっと苗字はまた叱ってくれるだろうから。


「とにかく臨時収入だし、今日は私がご飯を奢ったげようじゃないか」
「どうせまた牛丼だろ」
「む、不満を感じる声。仕方ない、たまにはいつもと違うとこにするか……。んー、あ、すた丼ある。すた丼にしよっか」
「ほぼほぼ牛丼みてぇなもんじゃねぇか」
「ハーー!?すた丼と牛丼は違うんだけど!君はオットセイとトドが似てるからといって同じ生き物だとまとめるか?いや、まとめない!ギターとベースは違うし、麻雀とドンジャラは違うし、バターとマーガリンは違うし、タピオカとカエルの卵は違うだろ!?な!?違うぜ!?」
「わかったわかった。はしゃぐな、はしゃぐな」
「イーーーーッ!」

ドゥクシ!と喚きながら苗字がしてくる助走付きの錐揉み回転タックルが、博士から貰ったばかりのフシギダネのたいあたりよりも弱かったので武藤はちょっと笑った。あまりにもザコい。

そんな苗字は、武藤からすればポケモンより不思議な生き物だ。動物図鑑にも載ってないし。