Forgive me, my dear.
駅前で新人美容師に声をかけられた。
要約すると、代金は取らないから髪を切ったり染めたりする練習をさせて欲しい、とのこと。断る理由もなくて、連れられるがまま綺麗な美容院に入った。
切るタイミングを逃して伸ばしっぱなしだった髪を肩口で綺麗に切りそろえてもらい、きっと似合うからと煽てられて髪を青色に染めた。脱色し切ったわけでは無いから、正確には青というより紺に近いが、鏡に映った自分の新鮮な姿に心が躍ったのは事実だ。
ギターを掻き鳴らしたい衝動を抑えながら、足取り軽く待ち合わせの喫茶店に向かう。
先に着いていたマネージャーと相棒が座る奥のソファ席へ向かうと、二人に二度見される。
「わ、苗字さん、また可愛くなりましたね」
「エヘー、エヘ、エヘヘ」
マネージャーからの素直な褒め言葉に照れながら、武藤の隣に座る。それからわざとらしく手の甲で肩口の髪をサラリと掻き上げて「どうよ?」と隣へ目を向けてみせた。すると武藤は普段通りの無表情で苗字の髪をじっと見て、それから彼女の紺色の髪の束を手に取る。
「いいんじゃねぇか?似合ってるしよ」
武藤は手に取った苗字の髪を指先で軽く撫でてから、そっと手を離す。
憎まれ口を叩かれると思っていた、というよりむしろそれを期待していたフシのある苗字は武藤からのかなりストレートな褒め言葉に思わず助けを求めるように正面のマネージャーへ目を向ける。
何故か優しく微笑まれただけだった。
「さて、お二人とも揃いましたし、さっそく本題に入りましょう」
「おう」
「あい」
武藤にしろ苗字にしろ、社会不適合者一歩手前の二人がまともにバンド活動できているのは他でも無いこの敏腕マネージャーの存在故であった。マネージャーの前では二人とも上げる頭を持たない矮小な存在に成り下がる。
マネージャーは二人へにっこりと微笑むとこう言った。
「年明けの三月、ワンマンライブをやりましょうか」
「……ワンワン」
「可愛いですね、苗字さん。お手」
「クゥーン」
言われるがまま、マネージャーにお手をする。
「媚びがすげぇな、オマエ……」
「マネちゃんが命じるなら靴でも足でも床でも舐めます」
「舐めなくていいです」
それはさておき。
「つまりはオレらだけの単独ライブってことか」
「はい、そうです。ライブハウス側から是非やってみないか、と」
「チケットノルマ何枚?私も武藤も友達少ないんだけど大丈夫?」
「苗字は元彼に100枚売ってこい」
「人の元彼をATMにするな」
「ノルマなんてありませんよ。販売は全部こっちでやりますし、そもそもノルマなんか気にする必要無いですから」
『パイルバンカー・パンデミック』の初のワンマンライブとなればライブハウスのキャパシティ程度のチケットなど即完売するだろう。
ミステリアスなツーピースロックバンドとして活動していくうちにコアで熱狂的なファンを大量に作り出していることに何故か当の二人だけが気が付いていない。
そもそも『パイパン』はなんだかんだで活動期間が2年近く経っている。本来ならば人が集まるとか集まらないとか関係なくもっと早くに単独ライブをしていてもおかしくないのだが、武藤も苗字も「バンド活動ができて死なない程度に金入ればそれでいいワ」みたいな舐めたスタンスのため、これまでブッキングライブしかしてこなかった。そのため余計に自分たちの人気に自覚が無い。
「いやマジで無理しないでね。チケット売れなかったら言ってよ、元彼に全部買わせるから」
「大丈夫ですよ」
「消費者金融三件くらい梯子させりゃあいいんだろ」
「だから大丈夫ですって」
結局、チケットは発売から三日で完売した。
バンド結成から二年近くが経とうが、ワンマンライブが決定しようが、チケットが完売しようが、苗字と武藤の生活は何も変わらなかった。
日々、ギターを弾いたり歌ったりして、スタジオのババアを切れさせて、オンボロ幽霊アパートで雑魚寝して、牛丼屋に行く。そんな生活をもう二年以上飽きる事なく続けていた。
「さっぶ」
月日は経ち、気がつくと年も明けて2006年1月。
単独ライブまで二ヶ月を切ったとある日。体の芯から冷えそうな夜、ぽつんぽつんと街灯の並ぶ道を苗字は武藤と共に歩いていた。吐いた息が白い。抱えた洗面器の中で愛用のシャンプーが転がった。
風呂の無いアパートに住んでいる二人は春夏秋冬毎日近所の銭湯に通っている。常連通り越して、自分の家の一部くらいの感覚だった。
「ねー、ムトー、コンビニ寄ってこーよ。寒いしお酒飲もう。君の分も買ったげるから」
厚着に厚着を重ねてモコモコと着膨れした苗字が、隣を歩く武藤を見上げて笑った。銭湯上がりでまだ微かに湿度を感じさせる青い髪が街灯の灯に照らされて艶めく。
こんな夜がいつしか武藤にとっての日常になっていた。
「酒弱ぇくせに飲みたがりやがって」
「逆に聞くけどザルって酒飲んでて楽しい?酔ってこその酒でしょ」
「吐くために飲んでる奴に言われたくねぇな」
「毎回吐いてるみたいに言わないでくれるかな?五回に一回だから」
「五回に一回はハイペース過ぎんだよ」
道の先に見えたコンビニの眩い灯りに苗字の歩みが早まった。「日本酒買って熱燗にしよ!」と人通りの無い道のど真ん中を踊るように歩いて笑う。
軽やかな足取りで先を行く苗字を武藤は白い息を吐きながら見つめた。
こんな穏やかな日々が自分に訪れるなんて思いもしなかった。ましてそれを当然のように受け入れてしまうなんて。自分の中でいつしか着実に進んでいた変化に、体の中身が妙にむず痒いような感覚になる。
「ムトー、はやくー」
夜道、街灯の灯の下でこちらへ手を振る苗字の笑みが目に映る。それに軽く手をあげて応える。
彼女のいる、明るいところを目指して足を進めた。
オンボロアパートはオンボロと言うだけあって何処からか隙間風が入り、冬はとてつもなく寒い。部屋の真ん中に置いた石油ストーブの近くに布団を寄せて、畳にツマミをばら撒き、レンジで温めた熱燗で乾杯をした。
「くぅーー!」
度数と温度の高い酒を喉に流し込んで、苗字はたまらないとばかりに身を震わせて声を上げた。側から見ても気持ちの良い飲みっぷりだった。
武藤も苗字に続くように杯を仰ぐ。安酒のくせに案外旨かった。
数杯重ねただけで頬を赤らめた苗字は唐突に立ち上がると、ギターケースからレスポールを取り出してストラップを肩にかけた。テンションが上がったのか、近所迷惑も考えずにギャーン!と高らかに弦を弾く。
ギャーンギャーンギャギャギャーン。
「ンフッ、あっはっは、はははは、いひっひっひっ」
「飲み始めて30分でそのテンションはすげぇよ、オマエ」
「……恋バナとか、する?」
「しねぇよ。嫌だろ、オレらの関係性でその話題」
苗字はポロポロ指で弦を弾くと、けれどすぐにレスポールをケースに戻して元気良く前転しながら床に転がった。次の瞬間何をし出すのかわからなくて、本当に酔っ払いの挙動だった。
「アルコールは人間のバグだな……」
「パグ。わんわん」
武藤は黙って苗字を足で蹴った。蹴った足をそのまま伸ばしっぱなしにしていると、床に寝転んだままの苗字に足首を掴まれる。
「なんせんち?」
「29」
「ふーん」
「聞いといてなんだその反応」
「ランニングマンなんかい?」
「は?」
「いったりきたりするやつ」
「頭使って喋れねぇのか?」
「がっこうのやつ。テスト。たいくの。たいくかんであっちこっち」
「……なんで急にシャトルランの話してんだ」
苗字は背中を丸めてきゃらきゃら笑う。こうも極端に人間の知能が低下する様を見るとアルコールというものが如何に恐ろしいかがわかるな、と思いながら武藤は酒を飲み進めた。
酔いが落ち着いてはまた酒を飲んでぼんやりと酔う、ということを苗字は何度か繰り返して、畳に転がったりギターを弾き始めたりラップ音に合わせてラップを始めたり武藤の背中に引っ付いたりと、とにかく好き勝手に自由気ままにしていた。
武藤はされるがまま苗字に付き合った。抵抗する方が面倒だと経験で知っていたからだ。
正気と酩酊の反復横跳びの中で二人はいろいろな話をした。酔っていたから大半は言葉のキャッチボールというよりは卓球のプロ試合に近かったが、とかくいろんな話をした。いろんな話とは?と問われても、いろんな話としか言いようがない。
こんな話をしたのだと他人に語るまでも無いような、明日にはすっかり会話の内容を忘れていそうな、そんな益体もない話ばかり。
けれど思えば、二人が共に過ごした二年間というものはそんなものだったのかもしれない。
碌に記憶に残らない日々の群れ。どんな話をしたか、どんな出来事があったかなんて明確な記憶はほとんど残っていない。
ただ、そんな名も無い日々を過ごした果てに、「オマエといるとなんとなく楽しい」という曖昧で漠然とした安堵のような感情だけが残っていた。
そんな普遍的で一般的で何処にでもあるのに、唯一的で絶対的で決して同じものの無い関係性。いつしか武藤泰宏と苗字名前の関係性は他の誰かでは決して再現のできない、この世界に唯一のものになっていた。
「君といると楽しいよ」
いつしか武藤の腿を枕にした苗字は彼を見上げながら子供みたいにそう言って笑った。
それから、君はどう?とばかりに緩んだ視線を向けてくるものだから、武藤は黙ったまま彼女の鼻を指で摘む。
そんなこと言わせてくれるな。
どうせオマエはわかりきってんだろ?
武藤が何も言わなかったから、苗字はくすぐったそうに、それでいて嬉しそうに笑う。何もかもわかっているような顔をするのが狡いと思った。
じわり。心臓が破けて、その中の血が溢れ出して、それが体の中で広がっていくみたいに、胸の奥がじんわりと暖かくなる感覚がする。武藤は無意識に自分の左胸を押さえた。
どうしてこんなバカみたいな生活を良しとしたのか。
どうしてこんなアホと共に居る事を受け入れたのか。
どうしてこんな名もない日々を愛してしまったのか。
本当はずっとその理由から目を背けていた。
気がついてしまったら、言葉にしてしまったら、もう戻れないから。過去を裏切ることになってしまうから。
「……苗字」
名前を呼ぶ。微笑みを浮かべた彼女は小さく「うん」とうなづいて武藤の言葉を待っていた。だから、口を開く。
「……オレは、」
もう戻れないとわかった上で、言葉を、彼女へ向けた言葉を口にしようとした。
その時、着信音が部屋を裂いた。
微かに耳に障るその電子音へ二人は反射的に視線を向ける。武藤の携帯だった。
「……悪りぃ」
「んーん」
立ち上がろうとする武藤に、苗字はわざと巫山戯るみたいにゴロゴロと床を転がるようにして彼の足元から離れた。なんとなく、それまでの雰囲気が霧散する。
立ち上がった武藤は携帯を開き、着信の相手を確認して、……不意に動揺する。
見る者によってはわからないほど微かに表情を強張らせた武藤。それに気がついていないフリをしながら苗字は黙って玄関の方へ足を進める武藤の背中を見つめる。外へ出て話をするつもりなのだろう、玄関の重い戸を開けた武藤が電話を取る声が聞こえた。
「……、……ああ、わかってる。久しぶりだな、イザナ」
閉まる扉の音を聞いてから苗字はむくりと起き上がり、ちゃぶ台の上に残っていた缶チューハイを掴んで、喉に流し込む。それから空になった缶を床に転がして、ちゃぶ台の上に突っ伏した。
すぐに回ったアルコールで体が火照っていた。アルコールは回るのに思考が回らない。眠気に負けそうになる。寒い。自分しかいないはずの部屋の中で誰かが歩き回る音がする。酔いによる幻聴なのか、怪奇現象なのか判別がつかない。人の声が耳元でする。知らない人の声。お前の声なんか聞きたくねぇよ。「あーーーーー」耳元で腕を振り回す。煩いから自分の声で掻き消す。「あーーーーーーーーーーーーーー」ぶくぶくぶく。湧き上がる疑問。ねぇ、ムトー、君、さっきなんて言いかけたの、ねぇ。答えは当然自分の中には無い。頭が痛い。寒い。眠い。ねむ………ねむねむ……………。
「おい、寝るなら布団で寝ろよ」
声が聞こえて顔を上げる。いつの間に戻ってきていたのだろう。ぼやけた視界の中で見慣れた武藤の姿を見る。布団。寝るなら、布団。言われたから、布団、のほうへ、行こうとして、どっちに進んだらいいのかわからなくて、首を傾げる。
「……ったく、仕方ねえな」
抱きかかえられる。自分の体温が冷たく感じるくらい、暖かかった。肩に顔を埋める。眠い。いい匂い。もう寒くない。けど、すぐに柔らかい布団の上に降ろされる。体温が離れる。少し寒い。聞きたいことがあるの、思い出す。
ねぇ、ムトー。
君、さっきなんて言いかけたの。
「なんだよ。もごもごしてて何言ってんのかわかんねぇよ」
笑う声。上がった口角。君、笑うと少し可愛いぜ。そうからかってやろうと思ったのに、体が言うことを聞かない。起き上がれない。毛布をかけられて、あたたかい、やわらかい、体が眠ろうとする。鈍い頭。眠ってしまいそうで、いいのかな。ねちゃって、いいのかなあ。
「眠ぃんだろ、寝ちまえよ」
それも、そうか。
「…………ムトー」
「どうした」
「おやすみ……」
「……ああ」
赤らんだ頬のまま子供のように眠る苗字を、武藤は布団のそばに座ってしばし眺めていた。時刻はいつしか夜中の三時になっていて、朝はまだ遠い。
いつか、こんな日が来るとわかっていた。
わかっていた上で見ないフリをしていたツケが今になってやってきた。
迷うな、と自分に言い聞かせる。
たかが止まり木に情を移しやがって、と自分を嘲る。
イザナ以外に望みは無いとわかっていたはずだろう。いつかイザナがまた戻ってきたのなら、その手を取ると決めていたのは自分だ。
だから、彼からの電話に喜ぶだけでいいはずなのに。
それなのに、心はなんて無様なものだろう。
喜びと同じだけ強く胸の内に生まれる未練と迷い。もしもイザナと出会うより先にオマエと出会っていたなら、なんて考えてしまうのはきっと先程まで飲んでいた酒のせいだろう。アルコールは人間のバグだから。そんな言い聞かせの中にさえ、苗字の笑みが浮かぶから嫌になる。
静かな部屋。窓から差し込む月明かり。
運送トラックのエンジン音。野犬の遠吠え。
警戒心の無い寝顔。無意識にその柔らかい頬へ手を伸ばして、ふれる。
どうせ最後だと思ったら、彼女にふれない理由も見つからなかった。指の裏で撫でるように頬に触れる。
柔らかくて暖かくて、生きている感触がした。
「……許してくれ」
約束を破ることを。
信頼を裏切ることを。
オレを見つけてくれたオマエの手を離すことを。
苗字から指を離し、天井を見上げて目を瞑り、深く息を吐く。温もりが惜しい。そう思ってしまって、自己嫌悪。苗字が死なないようにストーブを消して、最低限床に転がっていた缶をまとめる。
その時ふと目に付いた、ちゃぶ台の上に放置されていたコンビニのレシート。その辺にあったペンを掴んでレシートの裏へ書き置きの一つでも残そうとした時、唐突に蛍光灯の明かりが消える。引き止めるようなそのタイミングに少し笑う。思えばコイツらとの付き合いも長い。
暗い視界の中で乱雑に書き残してから明かりの落ちた部屋を立ち上がり、玄関へ向かう。コンビニに行く程度の身なりと持ち物で外へ出て、部屋の鍵を閉めてからその鍵を郵便受けに入れた。
アパートの階段を降りて、ひと気の無い夜道を進んでいく。名残惜しさに振り返りかけて、それをやめた。
きっと塩の柱になるから。
白い息を吐いて、空を見上げる。
見上げた夜空にいつか見た一番星を探すけれど、あいにくの曇り空で星なんかひとつも見えやしなかった。
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柔らかな朝の日差しに目を醒ました。
夢の中、誰かが優しく頬を撫でてくれた感触が現実の中にまだ残り続けている。温もりに似た安堵。
苗字は肌寒さに身体を震わせながら起き上がって、見慣れた部屋を眺めた。
……見慣れない空白にふと胸騒ぎを覚えた。
「ムトー?」
名前を呼ぶ。
返事は返ってこなかった。