「男なんてそんなもんだよ」
『パイルバンカー・パンデミック』が世話になっている音楽スタジオのオーナーである中藤は、朝っぱらから慌てた様子で駆け込んできた苗字へ素っ気なくそう吐き捨てる。
その日の朝、着の身着のまま寝癖のままスタジオに駆け込んできた苗字は「相棒がいなくなった!!!」と半泣きになりながら、中藤に縋りついた。
手にはぐしゃぐしゃのレシート。書き置き一つ残して、苗字が寝ている間にいなくなったらしい。
中藤は思わず溜息をついた。
だからあの男には釘を刺していたのに。結局、何も言わずに苗字の前からいなくなって、こんな酷い顔をさせて、どうしようもないクソガキだ。
ジッポでタバコに火をつけて、中藤は苗字に教えてやった。
「男なんて生き物はね、自分勝手で、いらなくなったら女のことなんかあっさり捨てていなくなっちまうんだよ」
「ム、ム、ム、ムトーは、そんなこと、し、し、しないもん……」
「実際いなくなってるじゃないかい」
「ババアーーーッ!」
苗字は床に転がって駄々を捏ねるみたいにバタバタと暴れた。それを可哀想なものを見る目で中藤は見つめる。
「男が女を捨てる理由なんて決まってんだよ」
「……な、なに……?」
「他にイイ人が出来たのさ」
「ハァーーー!?イイ人!?イイ人?イイ人ってなに?私より良いギタリスト……ってコト!?いねぇよそんなやつ!私はギターを愛し、ギターに愛された女だぞ!?ジミー・ペイジの生まれ変わりだし!!」
「ジミー・ペイジはまだ死んじゃないよ」
「クソッ!許さねぇ!私という最高のギタリストがいながら別のギタリストのとこに行きやがって……ムトーあの野郎、クソ尻軽め……。他のギタリストの演奏で歌ってみろ…… ムトーもギタリストも地獄の果てまで追い詰めてでもブチ殺すからな……!」
「別にギタリストとは限んないだろ」
「ベーシストでも殺す」
「そういうことじゃあないんだよ、アホ」
コイツらマジで匂わす程度にさえ恋愛関係になってなかったんだな……と中藤は引いた。いい歳した男女が二年間衣食住を共にしてコレなのか、と。
「ったく。殺す殺すっつったってね、アンタ。探す当てもないんだろ?」
「…………電話」
「電話?」
「昨日の夜、電話が来たんだよ、ムトーに。そん時、なんか様子が変だった」
元カノだろうなァ、と中藤は思った。
「そんで相手が、なんだったかな……えっと伊沢?とか、そんな感じの名前だった」
「アンタねぇ、日本に何人その苗字の人間がいると思ってんだい」
「全員殺せばどっかでヒットするでしょ」
「『リアル鬼ごっこ』の王様か、アンタは」
とにかく!と苗字は中藤の目を見て言った。
「ムトーは取り戻す。アイツは私の相棒だから」
「出てったのはヤスヒロの意思なのにかい?」
「私が納得してない。私たちはグループなんだ。相互の納得無しに解散なんてあり得ない」
物分かりの悪いその言葉に中藤は思わず笑ってしまった。
馬鹿だね、ヤスヒロ。
ナマエと本気でおさらばしたいのなら、夜逃げなんかせずに真正面から本心を伝えてこの石頭を納得させなきゃなんなかったんだ。
対話から逃げた時点でアンタの負けさ。
かくれんぼなんざ、すぐに終わるよ。
「私がいなきゃダメだって言わせてやる」
ここに飛び込んできた時の泣き顔はなんだったのか、グッと眉間に皺を寄せて腹を括った顔をする苗字に、長いこと彼女を見守ってきた中藤は笑みをこぼす。
男の横暴に泣き寝入りなんざしちゃいけないって、ナマエに教えてやったのはヤスヒロ、アンタなんだろ?
スタジオを出て行った苗字の背中を見送ってから、中藤はそばにあったギターを手に取る。思い出深く、それでいて懐かしいコードを指が覚えていた。
愛は眠りに落ちてしまったと歌う懐かしいこの曲を、きっと苗字は鼻で笑うのだろう。
静かに泣いてる場合じゃないだろう?
眠ってしまったなら叩き起こせばいいのさ。
◇
赤く染め抜かれた特服に腕を通す。
今までずっと深い眠りに落ちていたかのような、そんな目が覚めるような感覚だった。
「どーだ?天竺の特攻服に袖を通した気分は?」
「……悪くねぇ」
問いかけてくるイザナの笑みに、武藤は確かめるように首元に触れてうなづく。特攻服なんてものを身に纏うのは何年振りだろうか。
懐かしい感覚だった。張り詰めたような戦場の空気。それまでの自分は平穏でたわいもない、下らないぬるま湯の中にいたようなものだ。とっとと忘れようと、目を瞑る。
そんな武藤の様子をイザナは静かに見ていた。高いビルの屋上。吹き込む風がイザナの銀色の髪を揺らす。
「ムーチョ」
懐かしい渾名だ。そう呼ばれるのは久々過ぎて、聴き馴染みが遠くなっていた。少し反応が遅れる。瞼を開き、どうかしたのかと視線でイザナに問えば、彼はどこか見透かすような目で武藤を見る。
「オマエ、少し変わったな」
イザナの言葉に心臓が大きく鼓動する。
……その言葉に心当たりが無いはずがなかったから。
今まで過ごしてきた二年間。穏やかで、馬鹿みたいで、無意味で、下らなくて、それなのにあまりにも忘れ難い日々。それを愛おしいと思ってしまった。
だからこそ、忘れたいのだ。とっとと終わり切った過去の事象にしてしまいたい。蘇りそうになる思い出を振り払う。
「……そりゃオマエもだろ、イザナ。二年もありゃあ人は変わる」
だからイザナに向けてそう返した。
そうだ、何もかも変わっていく。オマエがそうであるように、オレも年月の中で変わっていった。けれど、それでも。
「それでも、イザナ。オレの王はオマエだけだ」
変わり果てたその最果てに、それでもなおオマエだけを選んだのだ、と信じて欲しい。
愛してしまった日々を捨てて、差し出された手を振り払って、至れるはずだった未来を踏み躙って、何もかもを拒絶したその果てに選んだ唯一がオマエなのだ、と。
真正面から見つめる武藤のその覚悟を決めた瞳に、イザナは満足そうに笑う。彼はビルの屋上、その端へ足を進めて、それからくるりと振り向いて武藤の方を見た。
「来たる2月22日、オレたち横浜天竺は東京卍會と全面戦争をする」
「ああ」
「東卍は潰す。どんな手段を使ってでもな」
突き抜けるビル風がイザナの髪を乱し、彼の表情を少しだけ隠した。雲が陰り、日が途絶える。冬の冷たい風が肌を刺す。
「オレの為なら人を殺せるな?」
ムーチョ、と、問いかけながら試すような瞳が武藤に選択を迫る。その言葉に惑う理由など無かった。王が己のそれを望むのならば、ただそれに応えるのみ。武藤はイザナの言葉に当然だと深くうなづいた。
その瞬間のフラッシュバック。
『……君、あまり人の道を外れるなよ』
どうして、それを今思い出すのだろう。
下げた視線の先、少し困ったような、それでいながらやんちゃな子供を見るような優しい瞳を武藤は今もなお鮮明に覚えていた。
人の道を逸れるな、と彼女は告げた。難しいことを言う、とあの日思った。それでも応えよう、とその時の自分は確かにそうも思っていた。けれど、かつての自分と今の自分は違う。だから、なにもおかしくなんてない。何も間違ってなどいない。なのにわからない。わからなくなる。オマエのせいで、正しさも過ちもすべてが。それでも人は変わっていくものだから、オマエとの約束を違えることさえ、そんなものは、そんなことは、どうしようもなくて、だから、どうか、……どうか、×してほしい。
オーバーラップによって武藤の内心で発生していたバッドトリップになど気がつかないイザナは武藤のうなづきに満足する。
「信じてるからな、ムーチョ」
その言葉に、向けられた信頼に武藤は笑う。嗤う、嗤う。……嗤え、嗤えよ。
だってそれを望んでいたはずだ。イザナに必要とされ、イザナの意思の元に生きることを。それを自分自身で望んだはずだろう?
それなのに彼から歪んだ信頼を寄せられた時、武藤はもう自分がどんな顔をしているのかさえわからなかった。
ただ、戻れないと思った。
もう戻れない、かつての日々には。
もう築けない、夢に見た未来は。
もう帰れない、彼女の元には。
選んだのは自分だから。差し出された手を振り払って、逃げ出したのは自分だから。帰る場所などもうどこにも無いから。
もう、レスポールの音がうまく思い出せないのだ。
◇
「武藤さんと喧嘩でもしてるんですか?」
「……私今回マジで何も悪くないんだけど」
「早めにごめんなさいしたほうがいいですよ」
「ほんとだもんー!私悪くないもんー!トトロいたもんー!」
「はいはい」
「イーーーーッ!」
打ち合わせに使ういつもの喫茶店。そこで苗字はマネージャーに無罪を主張していた。
だって何も言わずに勝手にいなくなったのは武藤だもん。
そう言うことは容易かったが、二月も半ば、実は苗字はまだマネージャーに武藤が失踪したことを告げていなかった。
何故なら三月のワンマンライブまでに自力で武藤を連れ戻すつもりだったからだ。
変に武藤の失踪を話した結果大事になってライブが中止になってはマネージャーにもライブハウスにも迷惑がかかる、と思ったのだ。なにせ失踪した直後は武藤をすぐに見つけ出せると思っていたから。
苗字はこれまで自身のコミュニティを活用しながら彼を探していた。だが、相手はいなくなるつもりで去っていったのだ。当然そう容易く見つかるはずもない。
気がつけば、武藤が苗字の前から姿を消してから1ヶ月近くが経っていた。
……アレ?これ、やばいのでは?
流石の苗字も焦り始めていた。
もし万が一、いや、絶対にそんなことは無いのだが、もしも、本当にもしもライブまでに武藤を連れ戻せなかったら?
「あ、あのさ、マネちゃん」
「はい、どうしましたか?苗字さん」
「もし、もしもだよ?絶対あり得ないけど、仮に、仮定の話ね?万が一の砂粒レベルの可能性の話だよ?話半分に聞いてね?本気にしないでね?平行世界の話くらいに思ってね?」
「本当にどうしたんですか?」
「あの、もし、もしもライブがさあ、ちゅ、中止……的なことになったりなんかしたら、被害総額ってどれくらい?」
そう問われたマネージャーはキョトンという顔をした。喫茶店の窓際、差し込む陽の光がマネージャーの長い金髪に反射してきらきらと輝く。
今このシチュレーションで無かったら、苗字も素直に目の前の景色を綺麗だなァと鑑賞出来ていたのだろうが、その時の苗字にはもう一切の精神的余裕が無かった。溺れる人間に水平線の美しさを眺める余裕などないのである。
唐突にそんな変なことを問いかけてきた苗字に、マネージャーは一瞬驚いて、それからふわりと破顔した。
「あはは、急に変なこと聞きますね」
「ちょ、ちょっとね。ほら、具体的な金額とかがわかると気持ちも入るじゃん、やる気的なね?初めての単独なわけだし?」
「うーん、そうですね、チケット代とかスポンサーとか諸々考えて……まあ、言ってもライブハウスくらいの規模ですし、」
「うん」
「安く見積もって600万くらいですかね!」
「も゜」
普段から死なない程度にギリギリの金で生きている苗字にとって、5桁以上の金は大金だった。なので当然600万など、感覚としては一億円と変わらない。どちらにせよ、自分では最早どうしようもない桁の金だ。
「……消費者金融10件くらいか……?」
「苗字さん、大丈夫ですか?冷や汗がすごいようですけど」
「あ、いえ!大丈夫です!なんでもないです!はい!元気です!ねこです!よろしくおねがいします!」
「えっ?あ、はあ、よろしくお願いします?」
この馬鹿みたいに広い世界から武藤を見つけ出し、引き摺ってでもライブに出させる他に未来は無い。
苗字はプレッシャーのあまり口からありとあらゆる臓物を吐き出しそうになりながら、覚悟を決めた。なんとしてでも、見つけ出す。いやもうどうしたらいいのかわかんないけど。ムトーあいつマジで覚えてろよ、見つけ出したら絶対一発ぶん殴ってやるからな……。
百面相をする苗字を面白そうに眺めながら、マネージャーは日頃から付けている黒いマスク越しに突然こんなことを言った。
「
「えっ、ああ、そうなんだ?」
突然プライベートな話をされて、苗字は一瞬きょどる。が、そんな彼女のことも気にせずマネージャーは言葉を続けた。
「だから武藤さんや苗字さんみたいな兄貴や姉貴が欲しかったんです」
「あ、そうなの?まあ、こんな私らなんかで良ければ、本当の兄妹みたいに思ってくれていいけど……」
苗字が咄嗟にそう返すと、マネージャーである青年は嬉しそうに声を上げた。
「アハハ、それ、前に武藤さんも似たようなこと言ってくれました」
「げぇ、マジィ?」
「だからやっぱり仲が良いんですよ、お二人は」
「いや別に仲良くなんかないし……」
「仲良くなかったら二年間も一緒に暮らせないでしょ」
彼は笑って言葉を紡いだ。
「だから、早く仲直りしてくださいね。オレはお二人が一緒にいるのが大好きなんですから」
「マネちゃん……!いや、三途くんちゃんさん……!」
長年『パイルバンカー・パンデミック』を支えてくれているマネージャーの青年、三途春千夜がそう言って優しく微笑んでくれたから、苗字は少しばかり塞いでいた気持ちがふわっと安らいだ。よっしゃ、がんばろ!
◇
「えっ、あっ、ムーチョ」
「……あ?」
「それ、捨てんの?」
竜胆にそう声をかけられたのは、武藤がジャケットのポケットの中に怠惰に溜まっていた紙屑を天竺のアジトで捨てようとしていた時だった。
後で捨てようとしてそのまま入れっぱなしになっていたレシートやらの中に、苗字がいつか部屋に残していた「水道代はらっといて」という雑なメモ書きまで混ざっていた。それを見た瞬間に不意に胸を刺すような痛みが走る。その感覚さえ振り払うように「ああ、捨てる」と確かに言い切る。
「えっ、じゃあオレ欲しいんだけど」
「……このゴミをか?」
「いや、レシートとかじゃなくてさ、それ『パイパン』のチケットだろ?」
「は?」
「あ、ちがっ、下ネタじゃなくて!そういうバンド名なんだよ!『パイルバンカー・パンデミック』っていう!あの、ロックバンドで!」
武藤の言った「は?」は「オマエ知ってんのか」という意味合いの「は?」だったのだが、竜胆は唐突に下ネタを口走った相手へドン引きした「は?」だと思ったらしい。慌てた様子で説明をする竜胆に、武藤は自分がすっかりその略称に慣れていたことに気がつく。
武藤がポケットに突っ込んだまま忘れていたそのチケットは確かに、来月の『パイルバンカー・パンデミック』のワンマンライブチケットで、元はマネージャーから渡されたものだった。「もしも呼びたい人がいたらどうぞ」と。
それを忘れて放置していたのだろう。ポケットの中ですっかりよれてしまったチケットに目を落とす。
「ボーカルとギターのツーピースバンドでさ、地下ライブハウスでの活動しかしてないからまだマイナーなんだけどすげぇイカしてて、オレはギタリストのナマエが『ベクトラーズ』って前のバンドにいた時から追ってて、」
「竜胆」
顔を赤らめた竜胆が先程の失言を取り戻すかのように慌てた様子で言葉を続けるものだから、こりゃ止めなきゃいつまでも続けるなと思った武藤は彼の名前を呼んだ。
「ほらよ」
それから、武藤は手に持っていたチケットを竜胆へ渡した。ぴたりと黙り込んだ竜胆は差し出されたチケットに目を向けて、それから武藤の顔を見て「いーの?」と問う。
「オマエがいらねぇなら捨てるだけだ。元は貰いもんだしな」
「じゃあ、もらう」
「好きにしろよ」
紙切れ一枚、手に取った竜胆がわかりやすく嬉しそうな顔をするから武藤はなんだかむず痒いような困惑するような、そんな気持ちになった。手持ち無沙汰に頭を掻く。
「あー、オマエ、チケット取れなかったのか」
「いや、オレの分はもう取れてんだけど、」
竜胆はレンズの向こう側の瞳を気恥ずかしげに揺らして答える。
「オレがバンドのこと話してたら兄ちゃ……兄貴もちょっと興味出てきたみたいで、できるなら連れてってやりてーなって思ってさ」
相も変わらず仲の良い兄弟の様子に、知らず笑みが浮かぶ。ムッとした顔の竜胆に「笑ってんじゃねーよ」と小突かれるが巫山戯合いのようなものだった。
竜胆のその言葉に、武藤は兄弟が並んでライブハウスへ降りる姿を想像した。
けれど、すぐにそんな未来はやってこないことを思い出して笑えなくなる。
だって、ボーカルである武藤が天竺にいて、もう戻らないと覚悟している時点で、二人組ロックバンド『パイルバンカー・パンデミック』が揃ってステージに上がることはもう二度と無いのだから。
不意に子供の夢を踏み躙ったような心持ちになって、武藤は小さく息を吐く。途端に居心地が悪くなって「じゃあな」と竜胆にさっさと背を向けた。
「…………あのさ!ムーチョ!」
背を向けていくらか歩いた頃、背後から竜胆に呼ばれて振り向く。離れた距離からこちらを見つめるいくらか低い背丈。黙って彼の言葉を待てば、竜胆は微かな躊躇いの果てに口を開いた。
「アンタ、大丈夫か?」
「なんだよ、急に」
「いや、なんつーか、天竺に合流してからずっと顔色悪いぜ」
濃い隈を示すように竜胆は自身の涙袋を指でなぞる。
けれど、竜胆に言われるまでもなく、武藤は自分の体調の変化になどとっくに気がついていた。
近頃、碌に眠れていないこと。食欲が湧かないこと。気怠さに身が重いこと。
その理由も原因も武藤は分かっていた。わかっていたけれど、その原因を解決することなど出来るはずもない。だから時間の経過がやがてこの不調を風化させるのを、武藤はただ流されるみたいに待ち続けていた。風や水による風化でその身が削られていく大岩のように。
「……ああ、わかってる」
「わかってる、ってアンタ……」
「少し寝付きが悪りぃだけだ。そのうちなんとかなる」
それだけ言って、さっさとその場を立ち去ろうとする武藤に竜胆は何か言いたげな顔をして、けれど黙ってその背中を見送るにとどめた。
武藤の不調が竜胆の言葉程度で解決できるものではないということくらいはわかるから。
武藤は結局捨てられなかったレシートやメモ書きを再びポケットに突っ込んで、溜息をついた。
レスポールの音はどこからも聞こえない。
◇
マネージャーと別れて喫茶店を出た苗字は、馴染みのライブハウスへ顔を出して情報収集でもしようと軽やかな足取りで街を歩いた。
駅に向かうまでの道をショートカットしようと、住宅街の方へ進む。この辺りは慣れた道だった。
武藤はもう東京にはいないという可能性を考えた方がいいな、と苗字は冷静に思い始めている。
千葉か神奈川あたりまで捜索の手を伸ばすことも考えよう、なんて考えながらギターケースを背負って今日も相棒探しを続けていた。
諦める気は当然さらさらない。ましてやもう二度会えないなんて、思ったこともなかった。
歩み進めた閑静な住宅街。その道の途中、唐突に右手側に墓地が出てくる。ちらりと目を向けた墓石の群れの中に何人か若い人たちがいる様子が見えて、咄嗟に視線を逸らした。人様の寂しさや悲しさを他人がジロジロ見るわけにはいかない。
墓地の出入り口は歩道と繋がっていて、その入り口近くに髪を金色に染めて額を出したヤンキーじみた格好の少年が立っていた。彼の視線の先には反対車線の歩道に置かれた自販機で飲み物を買っている女の子。恋人だろうか?若人たちの穏やかそうな関係性に心を和ませる。
それからふと、喉が渇いたな、と思った。
私もここでお茶かなんか買おう。そう思って、女の子が飲み物を買っている自販機がある反対車線へ渡ろうと車道を左右確認する。遠くからバイクが来ているが、あの速度ならまだ大丈夫だろう。来る前にさっさと渡ってしまおうと、小走りで道路を行く。その時タイミングよく、向こう側の歩道にいた女の子が、これまで苗字がいた歩道の方へ渡ってきた。二人が入れ替わるみたいに道路を渡る。
道路の真ん中で二人がすれ違う瞬間に、目が合った。
可愛い女の子だ、というのが苗字の第一印象だった。気の強そうなつり眉に反して、優しそうに下がった眦。ふわふわと柔らかそうな金色の髪。それらが完璧に配置された彼女の顔のパーツをより一層引き立てていた。
そんな可愛い女の子を見つめながら、苗字はどうしてか自分の相棒のことを思い出していた。
下がった眦とか柔らかそうな金髪とか、そんなパーツがもう一ヶ月近く会っていない相棒を思わせるものだから、苗字を恋しがらせたのだろう。
とはいえ、身体的特徴が偶然一致しただけで華奢な女の子の姿にあの図体ばかりデカイあの男を見るのは失礼だな、と苗字は無意識に至った己の思考にげんなりした。
なんてことを考えていたからだろうか。
苗字は背後からやってくるバイクが加速するエンジン音に気がつかなかった。もう避けようも無い距離になってから金属バットを振り上げる少年の怒声が耳に届く。
振り返るより先に、頭の裏に酷い衝撃を受けた。
暗転。苗字名前は自分の身に何が起こったのかを知るよりも先に意識を失う。
2006年2月22日の、よく晴れた午後のことだった。
◇
ふと気がつくと武藤の目の前にはイザナがいた。ビルの屋上。曇天の空。吹き込む強い風。イザナの白銀の髪が揺れる。その奥にある笑み。
「ムーチョ」
イザナは笑う。笑う。笑う。
「オマエはオレのためなら人を殺せるよな」
それはいつか彼から問われた質問。けれど今のその言葉は最早問うような声音では無かった。断ずるような、命令するようなその言葉に武藤はただうなづく。
殺せる。当然だ。イザナ、オマエのためならなんだってしよう。例えそれがどれだけ歪んでいたとしても。
「じゃあ、アレも殺せるよな?」
例えそれがどれだけ残酷な命令だとしても。
イザナが笑って指を差した先には、苗字がいた。
どうしてなのか、彼女は当然のようにそこにいてこちらに向けていつものように何も知らない顔で笑っていた。
「オマエが言ったんだぜ、ムーチョ」
イザナは笑う。笑う。笑う。
「オレのためなら人を殺せるって」
こちらに気がついた苗字が何も知らずに武藤へ向かって手を振って、笑う。笑う。笑う。
「じゃあ殺せよ、アレ。もうオマエにはいらねーんだろ?」
笑う。笑う。笑う。
「オマエにいらねぇなら、オレにもいらねぇからさ」
笑う。
「殺しといて」
嗤う。
気がつくと武藤はイザナの言葉通りに苗字を殺害していた。
細くて華奢な女の体の上に馬乗りになって、左手で首を絞め、右手に持った短刀で何度も彼女の胸や腹を滅多刺しにしていた。真っ赤な血に染まった短刀の刃。首の骨を折られて体を何度も刺された苗字はとっくに事切れているのに、それでもなお武藤は執拗に彼女を刺し続けた。悲鳴は聞こえなかった。首を絞めていたからだろうか?わからない。どうしてこんなことをしているのかも、どうして自分が泣いているのかも、どうして自分が笑っているのかもわからなかった。
不意に手を止める。短刀を乱雑に投げ捨てると武藤は自分の体の下で息絶えている苗字を見下ろした。体は刺され続けてぐちゃぐちゃになっていたし、首は少しおかしな方向に曲がっていたが、顔は少し血が飛んだ程度で普段と変わらず綺麗だった。眠るようなその表情に武藤はどうしてか、酷く安堵する。苗字がいればやっとまともに眠れる気がしたし、まともに食事ができる気がした。地べたに転がる苗字を起き上がらせて、抱きしめる。壊れた体は柔らかくて、流れる血は暖かくて、まるで生きているみたいだった。
「苗字」
彼女の名前を呼ぶ。待つ。返事がない。いつもならすぐに応えてくれるのに、返事がないのが不思議だった。
「苗字。……オレは、」
あの夜、彼女へ言いかけた言葉を今ここで言おうとして、…………なんて言おうとしていたのかを忘れる。
どうしてだろう。大切なことだったはずなのに。それだけは失ってはいけないものだったはずなのに。
「苗字」
思い出せないから、名前を呼んだ。忘れてしまっても、また彼女といれば思い出せる気がした。だから名前を呼ぶ。呼ぶ。何度も呼ぶ、のに。応えてくれないのはどうしてだろう。
「苗字?」
「………………」
どうしてだろう。
彼女の声が思い出せない。
その瞬間、武藤は目を覚ました。
一瞬で移り変わった視界。白い無機質な天井。電気の落ちた部屋。暗がり。ベッドの上。そこでようやく、自分が東京を離れてから拠点としている横浜のワンルームの中にいることを理解する。ベッドの上に起き上がり、自身の目元に手を当てて息を吐く。
……酷い夢を見た。
全身にびっしょりと脂汗をかいている自分に気がつく。それから不意に感じた寒さに体を震わせた。
自分の両手を眺める。夢の中での感触がまだ残っているような気がした。首を折った左手。短刀を突き立てた右手。立ち上がり、ふらつく足取りで風呂場へ向かい、熱いシャワーを浴びる。こんな日々をもう何度も繰り返していた。
きっと自分はまだ眠れないのだろう。
鏡の中に映った男の目の下には濃い隈が浮かんでいた。
◇
「……ア、天使……?」
苗字が目を覚ますと、金髪の可愛らしい三人組に覗き込まれていた。小さくて可愛い。略してちいかわだ。
天使がいるということはどうやら私は死んだらしいな、とぼんやりとした頭の中で苗字は思った。
「ここが天国か……通りで可愛い天使が三人もいる訳だ……善行積んどいてよかった……積んだ記憶ないけど……」
「初手で口説かれたんだけどどうする?タケミっち」
「オ、オレ!?いや、オレにはヒナがいるんで……ちょっと……。エマちゃんは?」
「ウチもケンちゃんがいるからムリ!」
「嘘……天使に秒で強めに振られた……?」
「天使じゃねーし、天国でもねーから。アンタ、生きてるよ」
大きくて黒い瞳が特徴的なピンクゴールドの髪の少年がそう言って苗字に笑いかける。
事件に巻き込まれた苗字が運ばれた病院でのことだった。
「君たちのこと全然覚えてないんだけど、私もしかして記憶喪失になった?」
「いやオレらも君のことは知らないかな」
「えっ?……えっ?じゃあ君たち誰?なんでここにいるんですか?」
「アンタ、自分に何があったか覚えてる?」
「後頭部が超絶痛いからなァ、ジェット機かなんかに追突されたとか?ファイナルアンサー!」
「バイクに乗った奴らに後ろから頭を金属バットでぶん殴られたんだよ。オレらが病院まで運んで、検査受けて、今起きたって感じ」
「あー、ニアピン」
言われた苗字は寝転がったままあたりを見渡す。確かによく見たらここは病院の病室だったし、自分は病室のベッドに転がっている。金属バット云々という彼の言葉も、ジンジンというかガンガンゴンゴン鈍く痛む後頭部が証明してくれた。寝転がった苗字は余裕綽々に笑う。
「フッ、なるほどね、私のギタリストとしての才能に嫉妬した連中からの襲撃ってワケね。天才故の苦悩?老後に書く予定の自叙伝がまた厚くなっちゃうな」
「ううん、違うの」
「アッ、ハイ」
苗字の発言をあっさりと否定したのは柔らかな金髪の少女 ──佐野エマ ──だった。
エマは苗字が横になっているベッドの側の椅子に腰掛けて俯き、スカートをぎゅうと握って震える声で言った。今にも泣き出そうなその表情に苗字はギョッとしてそれから慌ててベッドから起き上がる。
「あの、あのね、ウチなの。ウチが狙われてて、それで、あなたはそれに巻き込まれちゃって……」
目の淵に涙を溜めて、エマは喉を震わせた。それから深く頭を下げる。
「ごめんなさい……!ウチのせいで、こんな、怪我をさせちゃって……」
静まり返った病室で男二人は酷く心苦しそうな顔をしていた。けれど苗字としては、何が何やらわからないという他ない。何故エマが暴行されかけたのかも、結果的に自分が殴られたのかも、何故エマが謝るのかも。
そもそも金属バットで頭をフルスイングされたら流石に死ぬんじゃないか?なんで私はピンピンしてるんだ?もしかして私はすごい石頭なのか?
苗字は困惑のままつらつらとそんなことを考えたが、考えても答えは出ないので頭に浮かんだ疑問をみんなまとめてゴミ箱に捨てる。
それから現実に焦点を合わせて、エマの硬く握られた拳に自分の掌を重ねた。途端にびくりと肩を震わせたエマはそっと苗字の顔を見る。苗字は眉を下げて笑っていた。
「君、名前は?」
「……エマ。佐野エマ」
「ん、エマ。いい名前だね。私は苗字名前。まあ、好きに呼んでよ」
苗字はエマの手を撫でると、それからこの場にいる三人へ向けて気の抜けた笑みを浮かべる。それはやけに安心感があって、気安いのに大人っぽさのある表情だった。
「順番に話を聞かせて欲しい。誰のせいとか、誰が悪いとかじゃなくてね。私たちに何が起こったのかを教えてよ」
数時間前、事件が起こった直後。
花垣武道が見たのは二人の女性が倒れている姿だった。
道路の真ん中、冷たいアスファルトの上に倒れ伏して動かないエマの体の上に重なるようにしてギターケースを背負った小柄女性が倒れている。
一瞬何が起こったのかまったく分からなくて、けれど目の前の事象は否応なしに現実を突きつけてくる。それを理解した途端、花垣は目の前で行われた明確な悪意にただただ手足が震えた。
加速させたバイクがこちらに突っ込んできたこと。そこに乗っていたのが稀咲だったこと。佐野エマを狙って金属バットが振われたこと。そこにちょうど通りがかった女性が巻き込まれて、エマと共にバットで頭部を打ち抜かれたこと。
そしてその目的をも理解する。
稀咲がマイキーを堕とすためにエマを殺害しようとしたことを。
「女にまで……手ぇ出すのかよ……!」
稀咲の乗ったバイクが走り去っていく。
花垣は倒れた二人に駆け寄って必死に声をかけるけれど、どちらからも反応が無い。指先が冷え、背中を伝う冷や汗に頭はパニックになる。
何があったのか、と墓地の方からやってきたマイキーがいなかったら、きっと何もできなかっただろうと花垣はその時のことを振り返って思う。マイキーの素早い判断に従って、マイキーはエマを、花垣は巻き込まれた女性を背負って近くの病院へ向かった。
その途中でエマは意識を回復させたものの、もう一人の女性は昏睡状態のまま。辿り着いた病院で、彼女がストレッチャーで運び込まれていくのを真っ白な廊下で立ち尽くしながら見ていた。
「つまり、エマちゃんとナマエちゃんはオレたちの抗争に巻き込まれたんだ」
花垣は神妙な顔でそう告げた。が、苗字はやはりポカンと気の抜けた顔をした。……抗争。……抗争?
「……抗争」
「ああ、東卍と天竺の抗争だ。つっても、アイツらがここまで卑怯な手を使ってくるとは思わなかったけどな」
「……とーまん。てんじく」
この子たち、中学生くらいだよな?ヤンキー同士の抗争って漫画の中だけじゃなくてマジであるんだ。未知の世界の話に苗字は内心慄きながら耳を傾ける。
「とにかくさ、エマもアンタも無事でよかった……」
マイキーは深く息を吐いて、それからエマの頭を優しく撫でた。意識の無いエマを背負って病院に向かっている時、マイキーは気丈に振る舞いながらももしもこのまま妹の目が覚めなかったらと考えては、最悪の未来に怯えていたのだ。
「……でもエマちゃんまで狙うなんて……。やっぱり黒川イザナは本気で東卍を、マイキー君を潰そうとしてるんですね」
花垣が苦しそうに言ったその言葉。ふとその名が耳についた。ピコンと頭の中で豆電球の明かりがつく。繋がらない線が繋がった時のような感覚。苗字は花垣の顔をじっと見ると小首を傾げる。
「……君、今、伊沢って言った?」
「えっ?あっ、いや、イザナとなら言ったけど……」
フラッシュバック。
『……、……ああ、わかってる。久しぶりだな、
いつかの相棒の微かに憂いを帯びた声を覚えている。
「……なるほど、そういうパターンね」
「えっ?」
「いやこっちの話。ところで君らにききたいことがあるんだけど、いいかな」
苗字は花垣とマイキーへ顔を向ける。二人がキョトンとしながらもうなづいたのを見て言葉を続けた。
「人を探していてね、武藤って男を知らないか?フルネームは武藤泰宏。相当なイメチェンをしてない限り金髪で垂れ目垂れ眉のデカくてゴツいけどちょっと可愛げのある男の子なんだけど」
「……それって、もしかしてオレとイヌピーくんボコってココくんを拉致った、あの武藤?」
「えっ、なにそれ、怖……いやそれは知らんけど。えっ、なに?ボコって?拉致って?なにそんな悪いことしてんのアイツ」
「武藤泰宏って言ったらS62世代の武藤だな。横浜天竺のメンバーだ」
心当たりがあるらしく、ほぼ即答で返ってきた返答に苗字は内心「ビンゴ!」と思った。横浜。なるほど、通りで東京じゃあ見つからない訳だ。
「でも、ナマエちゃんはなんでその武藤って奴を探してるの?」
問いかける花垣に苗字はニッと八重歯を見せて答えた。
「ムトーは私の相棒なんだ。アイツ、書き置きひとつ残して急にいなくなりやがったんだけど、私はちっとも納得してないからさ。だからなんとしてでも連れ戻してもう一度話がしたいんだ」
「相棒……?」
花垣は目を丸くする。あのびっくりするほど強い大男と、目の前の
けれどマイキーはその言葉だけで納得したらしい。「じゃあぶん殴ってでも連れ戻さねーとな」と笑った。
「とは言っても流石にゴダイゴを抗争場所に連れてくわけにはいかねーからさ、天竺の奴ら全員ぶっ飛ばしてソイツ連れてきてあげんね」
「ワハハーそうなるかー……ん?待って?ゴダイゴってなに?銀河鉄道999?ガンダーラ?私苗字なんだけど」
「アンタ、今日からゴダイゴな?」
「おっ?暴君か?」
「マイキーくん、気に入った人にはあだ名つけるんだよ……」
その後二人は、今夜20時に東京卍會と横浜天竺の抗争があるだとか、場所は横浜第7埠頭であることだとかを教えてくれた。それから集会をするだとかなんだとかで、二人病室を去っていく。
「ゴダイゴ、エマのこと頼んでいい?」
「当然でしょ。おねーさんに任せなさい」
「おねーさん?アハハ、面白れーこと言うじゃん」
「だって君らまだ中坊でしょ。私二十歳だから」
「アハアハ」
何故か腹を抱えて笑うマイキーと、困惑した顔の花垣。病室を去り際、何故かそっと近づいてきた花垣がこっそりと苗字に耳打ちをした。
「あの、オレも実は26歳なんです」
いや、そういうジョークじゃねーんだよ。
「アイツらのどっちが彼氏?」
二人が去った病室はすぐに静かになった。けれど即座に沈黙に飽きた苗字は揶揄うようにエマへそんなことを問いかける。
「ちょっと!どっちも違うから。マイキーは兄貴でタケミっちは、んーと、友達?」
「へぇ、怖い思いしたエマをおいて喧嘩しにいくなんて、酷い兄貴と友達だ」
「……怖くなんかないもん」
「そう?エマは強いな」
苗字はエマの手を握ったまま、落ち着かせるように彼女とぽつりぽつり話をする。
「私は怖いよ。誰かに「オマエは死んでもいい存在だ」って、思われたなんてさ」
その言葉に、エマは俯いていた顔を上げて苗字を見た。収まりかけていた涙が再び目の淵に溜まっていく。当然だろう、と苗字は思ってエマを自分の方へ引き寄せて抱き締めた。背中をぽんぽんと撫でると、エマは苗字の腕の中で決壊するように泣き出した。
言葉にならない泣き声が病室に響く。
確かにエマも苗字も身体的には無事だったかもしれない。それでも、理由はどうであれ「他人に死んでもいい存在だと思われた」事実は消えないのだ。それは他者から受ける存在の拒絶であり、悍ましい呪いに他ならない。
苗字はエマの髪を優しく梳きながら、彼女の細い体を抱きしめる。彼女の存在を肯定するように、優しく優しく。
「エマ、私が君が生きていてよかったと思う。君とこうして話をして、ふれて、名前を呼ぶことができて嬉しい」
もしもほんの少し何かが違ってたら出会えなかった少女。病室の窓から差し込む夕日がエマの金髪に降り注いでキラキラと輝く。奇跡みたいな存在だ。そう思った。
それから、いつかの夜を思い出す。
もしもほんの少し何かが違っていたら会えなかった、二つ年下の、背の高い、良い声を持っている男の子。出会いを運命と呼ぶには小汚く、奇跡と呼ぶには情緒が無い。けれど偶然と呼ぶには、それからの日々が楽し過ぎた。言葉にはうまくできないけれど、それはさしたる問題ではない。
ただ、君に会いたいと思う。君に会わなくてはならないと思う。この感情だけは本当だから。
「エマ、ありがとう。君と出会えたおかげで、私はまた相棒に会える」
苗字はそっとエマから体を離すと、ベッドから立ち上がる。瞬間、頭を殴るような鈍痛に足元が揺れる、が、踏ん張って耐える。
「ナマエ!?ダメだよ!安静にしてなきゃ!」
止めようとするエマの声を背に、ベッドのそばのテーブルに置かれていたギターケースの傍まで足を進めた。
そして苗字はそのギターケースを見つめてから何かに気がついて……固まった。
慌てた様子で隣にやってきたエマが、凍りついたように動きを止めた苗字を見て首を傾げる。
「ナマエ?どうしたの?」
「……エ、エマ。その、この、ギターケースの凹みって、な、なに?」
「これ?これがナマエとウチが無事だった理由だってお医者さんが言ってたよ?バットで殴られたって言ってたけど、正確にはバットはナマエの頭じゃなくて、ギターケースに当たってて、だからそれがクッションになって助かったんだって」
ウチにもバットが当たったんだけど、ギターケースのおかげで減速してて大した怪我になんなかったの!ありがとね!
そう言って微笑むエマに、苗字は引き攣った笑みを浮かべることしかできなかった。
苗字のレスポールが入ったケースはギターのシルエットを象ったような形のハードケースだ。
その頑丈なケースの、ギターのネック部分が大きく凹んでいた。それはもうガッツリと。
苗字が愛用のレスポールを頑丈なハードケースに入れていたのには理由がある。
レスポールはネック ──ピンと張った弦を指で押さえるあの細長い部位のことだ── が比較的脆いのだ。
ちょっと足で踏んづけただけ、ちょっと強めにぶつけただけでレスポールのネックは割と折れる。
そんなレスポールが、ケース越しにとはいえ金属バッドでフルスイングされた。
苗字は震える手でギターケースを開ける。
……そして、膝から崩れ落ちた。
そんな暴挙を受けて、生きているわけがない。レスポールはヘッドとネックの境目部分がガッツリポッキリ、折れていた。
「……あ、ああ、あああ……私の、私のレスポール!」
悲痛な叫びだった。殺人未遂をされても泣かなかった苗字は、折れたレスポールを見て泣いた。
無惨に折れて弦があちこちに飛んだギターを見て、エマも苗字の嘆きを察したのだろう。そばに座り込んで苗字の背中をよしよしと撫でる。
苗字は泣いた。
たくさんのものを失って、自分こそが世界で一番不幸な人間だと自信を持って思えた。泣きながら、これまで失ってきたものを数える。
相棒である武藤。
愛用のレスポール。
……あー、えーっと、ギターケース。
数え終わった。
もう一回頭の中を検索したが、やっぱりそれくらいだった。数としてはそんなに失ってなかった。でも一つ一つすべてが大切なものであることは間違いない。とはいえ、数え終わったのでもう特に泣く理由も無かった。
涙を拭くと腹を括った顔で立ち上がる。
かつてゴダイゴはこう歌った。
『別れも愛の一つだと』。
けれど、今の苗字ならこう歌う。
『逃がさないことも愛の一つだと』!
「上等だよ……そっちがその気ならやってやろうじゃねぇか……」
「何する気……?」
「天竺だっけか?乗り込んで全員ぶん殴ってきてやる」
「へっ!?ダメだから!無理だよ!危ないに決まってんじゃん!」
「止めてくれるなよエマ!相棒寝取られた挙句私のレスポールまでこんな無惨な姿にさせられて、泣き寝入りなんかできるかー!全部天竺のせいだァーー!」
そもそもレスポールの生死に関わらず、マイキーが何と言おうと苗字は端から抗争現場に乗り込むつもりだった。
だって殺されかけたことも、相棒がいなくなったことも全て苗字に関わりのある問題なのだから。
自分とエマを殺そうとした奴をぶん殴り、相棒である武藤を連れ帰る。
そのためには横浜第7埠頭に行く他ない。
それがどんなに危険なことでも構わなかった。ビビって逃げて後悔にまみれて生きていくより、立ち向かって悔いなく死んだ方がマシだ。
苗字はエマの肩を掴むと、顔と顔を突き合わせて彼女へ言った。
「エマ、私はこれから君をタクシーで家まで送り届ける。もう襲われないといいんだが、断言はできないから当分はあまり家から出ないほうがいいよ」
「ナマエはこれからどうするの?」
「私は君を送り届けた後、横浜に向かう。殴んないといけない奴と、話をしないといけない奴がいるからね」
目元を赤らめた苗字はそう言ってエマに優しく微笑みかける。そんな苗字の服の裾を引き留めるように握ったまま、エマは眉を下げた。
多分きっと、どんなに止めてもナマエは行くのだろう。マイキー達とおんなじ。譲れないものとか守りたいもののためになら、傷つくことを恐れない。
それに気がついてしまったら、もうエマは苗字を引き留めることなんて出来なかった。
だから代わりにグッと覚悟を決めて、口を開く。
「……ウチも!ウチも連れてって!」
話をしないといけない人がいる、と苗字は言った。
その言葉を聞いた時、エマは思ったのだ。
自分もまた、話をしないといけない人がいる、と。
実の兄である黒川イザナ。
三歳の時に生き別れて以降、今日の事件の前に遠目から見た程度にしか会っていない。言葉なんてまともに交わしてさえいなかった。家族なのに、兄妹なのに。
だから、聞かなくてはならない。
どうして自分を殺そうとしたのか。
……どうして約束を守ってくれなかったのか。
例えその問いの果てにあるのがどれだけ悲しい事実であったとしても、きっともう大丈夫だと思った。
大丈夫。自分のことを「死んでもいい存在だと思う人」より、「生きていてよかったと笑ってくれる人」のほうがずっと多いことをエマは知っているから。
「ウチも、もう一度向き合って話したい人がいるの」
真っ直ぐに見つめてくる覚悟を決めたエマの瞳に、苗字はもう何も聞かなかった。ただ黙ってうなづく。それから微笑んだ。
「わかった。一緒に行こう、エマ」
「ありがとう、ナマエ」
二人は立ち上がると、軽くハグをした。それから体を離し、苗字はギターケースを閉じようとして、ふとポケット部分にいつか武藤がくれた男物のサングラスがあることに気がつく。割れも歪みもしなかったそれを額にかけてから、ケースを閉じて、背負う。折れていても、レスポールは苗字のプライドだ。
「横浜までタクシーで行くの?」
「うーん、抗争に突撃するのにアシがそれなのはダサいよね。……あっ!」
唐突に何かを思いついたらしい苗字が誰かに電話をかけ始めるのをエマはきょとんと小首を傾げて見ていた。
苗字は以前、着信拒否を解除
苗字は口角をキュッと意地悪げに釣り上げると、電話口へ言った。
「久しぶり。二年分の利子はチャラしてあげるからさ、今すぐ君の単車持って阿佐ヶ谷病院まで来てくれる?」
ヘルメットを被ったエマを後ろに乗せた苗字は単車に跨るとブゥンと元気よくエンジンを吹かせた。苗字の青い髪とエマの金の髪が風に靡く。
「行くよ!エマ!」
「おー!」
バイクは病院を出ると、ゆっくりと加速していく。
そして二月の冷たい風を切り裂いて、二人は遠く横浜を目指して走っていった。