加速が最高到達点に至った。その速度を保ちながら首都高を黒いバイクが突き進む。あらゆる景色は過ぎ去る一瞬の閃光で一秒後の記憶にも残らない。
光の群れの中を走るGSX250E。
人から借りたものだから、バイクに然程興味のない苗字はその名称も知らない。ただ真っ黒なそのボディを見た時、苗字は赤だったらもっとよかったのになあと思った。赤い色が好きだ。目が覚めるような鮮明な赤ならなおいい。
……ああ、レスポール。私のレスポール。
真っ赤なボディが最高にイカしていた私のレスポール!オマエの仇は絶対に取ってやるからな。
苗字は強くハンドルを握りながら誓い直す。
そんな彼女が運転するバイクの後ろ側に座っているのがエマだった。
エマは苗字から預けられたギターケースを背負って、ハンドルを握る苗字に後ろから抱きつくように腕を回す。
苗字は回された腕に入ったその力加減で、エマがひどく緊張していることに気がついた。当然だ。これからヤンキー共がわんさか殴り合っている場所に乗り込み、生き別れた自分を殺そうとした兄と向き合うのだから。
だからこそ、苗字はあえて気が抜けるような柔らかい笑みを浮かべた。
「ねぇねぇ、エマ」
「っ、な、なに?ナマエ」
「あのさ、ケンちゃんって誰?」
「えっ?えっ!?なんでナマエ、ケンちゃんのこと知ってるの!?」
「いや病室で私をフった時に言ってたじゃん。『ウチにはケンちゃんがいるからナマエとは付き合えません〜〜昨日きやがれバーカバーカ』って」
「言ってない!絶対そこまでは言ってないんだけど!」
左腕を苗字の腰に回したまま、右手でぽこぽこと苗字の脇腹を叩くエマに、苗字は「アッハッハ」と声をあげて笑った。
途端に車体が揺れて、エマは思わず苗字の背中にしがみついた。思わぬハプニングで物理的な距離が縮まる、なんて少女漫画みたいだ。けれどエマは(折角ならこういうシチュレーションはケンちゃんとしたかったな……)と思って溜息を吐いた。
しかし残念ながら、ドラケンはドラテクが凄いので惚れた女を乗せたバイクをうっかり揺らすなんてことは絶対にしないのである。
「で、そのケンちゃんって恋人?」
「……まだ、違うけど……」
「まだ?」
「まだ!これから!」
元気いっぱい恋する乙女はバイクやら車やらのエンジン音に負けない声でそう言った。そうだ、エマの恋はまだまだこれからなのだ。
ケンちゃん、絶対エマに惚れさせたらァよ……!と彼女は心の中で拳を握って誓いながら、そういえば、と思って口を開いた。
「そういえば、ナマエは?」
「へっ?私?なにが?」
「いなくなっちゃった恋人を探してるんでしょ?ね、その人ってどんな人?」
びゅんびゅんと風を切ってバイクが進んでいく。
………………。
………………。
沈黙。エマからの問いかけに苗字からの返事がなかった。アレ?聞こえなかったのかな?と思ってエマがもう一度、尋ねようとしたその時。
「……あっはっはっはっ!!んふっ、ふ、ふハハっ、えっ!?………ええっ!?え、えへへへあはへへ!えひっひっひっ!」
突如大爆笑し始めた苗字と、ぐらぐら揺れだすバイク。
エマは慌てて苗字に抱きついてから「ちゃんとハンドル握って!こら!ナマエ!」と大声を上げた。反省の色なく右手をハンドルから離して自分の脚を叩いて笑う苗字にエマは「手を離さない!」と叱る。
ひとしきり笑った苗字は笑い過ぎて流れた涙を腕で拭った。
「ムトーと私はそういうんじゃないよ。ただの相棒だからね」
「……ほんとぉ?」
「ほんとほんと」
苗字があっけらかんと言うものだから、エマはどうやら本当にそういう甘い関係ではないらしいと知る。
「恋人かと思ったのに」
「そんな運命的なもんじゃないよ」
あっさり答える苗字にエマはちょっと唇を尖らせた。自分ばかり揶揄われてしまったから少しはやり返したかったエマは「あーあ」と声をあげた。
「なーんだ、つまんないの。その人がいなくなっても探すってくらいだから、すごく大事な、ほら!それこそ運命の人!みたいな、そういうのかと思ってた」
「ナイナイ。大体運命の人なんて陳腐じゃない?」
「そお?素敵だと思うけどなー、運命の人って」
そう言うエマに、正面を見つめながら苗字はそっと口角を上げた。
「運命より、運命じゃないってほうがすごいことだと私は思うよ、エマ」
「……んー?どういうこと?」
「100%出会うべくして出会う運命より、偶然出会うって方がもっと確率低くて、奇跡って感じですごそうじゃん。もしも何かが少しでも違ったら会えなかったのかもしれないのに実際は会えたんだから」
苗字の言葉に、エマは少し上を向いて考えた。ヘルメットのシールド越しの夜空はなんだか曇り空。眺めながら苗字の言葉を咀嚼する。
何かが少しでも違っていたら会えなかった人。
でも結果的にその人と出会えたのなら、やっぱりその人とは出会うべくして出会う運命だったんじゃないだろうか。
「……会えたんだから、やっぱり運命だったんじゃない?」
「運命ね、ドラマチックでそれもいい」
「なんだっていーんだ」
「なんだっていい。どうであれ、出会ったことに意味があるんだよ、人生は」
「……なんかナマエって、たまにちょっと大人っぽいね。ウチ、兄貴たちしかいなかったからさ、ナマエみたいなお姉ちゃんがいてもよかったかも」
「おー?なんだかデジャヴな言葉」
大人っぽいも何も十四歳のエマに対して、苗字は二十歳。六個も歳が離れている。でもエマは苗字を同い年くらいかな、と思っていた。せいぜいメイク上手にしてるからもしかしたら高校生かも、くらい。ちっちゃくて元気が良くて童顔な苗字は年相応に見られたことがない。
マ、例え本当の年齢を知ったとしても、二人は今みたいに仲良くやれただろうけれど。
「ねぇ、ナマエ」
「うん?」
「ナマエはさ、そのムトーって人のこと、好き?」
エマはそう問いかけて、斜め後ろから苗字の顔を見つめた。ひとつしかないヘルメットをエマに譲った苗字は二月の冷たい風に吹きさらされて鼻を真っ赤にしている。けれどそんなことさえ大したことじゃないみたいな顔で、苗字はやっぱりきゅっと楽しそうに口角を上げた。
「そりゃあ、────」
苗字が口を開いた時、丁度隣の車線を大型トラックが轟音を立てて走っていく。その走行音に掻き消されて、エマには苗字がなんと言ったのか、聞こえなかった。
聞き返してもよかったけど、エマはなんとなくそれをしなかった。聞かなくても、わかる気がしたから。
だからエマはそっと身を寄せて小さなその背中に甘えるように顔を寄せる。小さいのに不思議と安心感のある背中だ、と思った。
二人の乗った黒いバイクはその装甲に街の灯を反射させながら、流星のように夜を駆け抜けていく。
◇
横浜第7埠頭で始まった横浜天竺との抗争において、東京卍會の士気はこれまでに無いほど高まっていた。
抗争前に武蔵神社で総長であるマイキーから告げられた「天竺は東卍とは無関係のマイキーの妹とその友人を狙った上、抗争前に隊長格を不意打ちで病院送りにする卑怯者共の集まり」であるという言葉は、多くの東卍メンバーにとって許せるものではなかったからだ。
「無関係の奴ら巻き込んで、卑怯な手で三ツ谷やスマイリー潰して……。そんな連中にやられっぱなしでいいのか!?良いわけねぇよなぁ!?」
未成年のチーム同士の抗争において、士気というものには容易くジャイアントキリングを起こすほどの影響がある。ましてマイキーやドラケンといった東卍最高戦力が無傷のままとなれば天竺にはかなりの不利な条件となるはずだった。
けれど実際に第7埠頭で起こった抗争において、東卍と天竺の争いは拮抗していた。
単純な戦力の差や主戦力を事前に潰しておいたこともその要因だが、天竺側による戦力の当て方が上手かったこともその要因だった。
そもそも天竺としてはマイキーさえ潰せばそれで目的が達成できるのだ。
故に千冬や乾といった副隊長レベルの実力者には四天王を当てて確実に倒す。
半間をドラケンに当てるのは想定外の対応ではあったが、そこまで問題ではない。半間とドラケンの実力が拮抗しているのは血のハロウィンで把握済みだった。
マイキーは強すぎるが故に、並の人間では彼の助力はできず、この場においてはドラケンの他にマイキーを助けられる者はいない。
つまり、ドラケンが半間に釘付けにさえなればマイキーに助けは来ないのだ。
そのマイキーには人海戦術で有象無象の雑兵を数当てる。当然雑魚共は簡単に倒されるが、数の分無敵のマイキーとて消耗はしていくだろう。その果てに消耗し切ったマイキーをイザナが討ち取ればいい。
つまるところ天竺としては長期戦になればなるほど有利になっていく。
これらの作戦の立案はすべて稀咲によるものだった。
「自分のミスは自分で取り戻せたみたいだな?」
積み上げられた巨大なコンテナの前で、未だ殆ど抗争に参戦していないイザナは意地悪げな顔で隣にいる稀咲へ目を向けた。稀咲はそれに対して何も言わない。ただ黙って自身の眼鏡の位置を指で直す。
イザナの発言通り、佐野エマを殺害することでマイキーとドラケンを戦闘不能状態するという作戦は失敗した。
他人に任せられないからこそ自分の手で実行した結果が失敗に終わったことは少なからず稀咲のプライドを傷つけたが、作戦の失敗自体はいくらでも取り戻せる。
天竺と東卍が合併した後にまたゆっくり殺し直せば良いだけだ。どちらにせよ、マイキーを貶すためには佐野エマやドラケンといったマイキーの理解者は不要なのだから。
稀咲は静かに、抗争のど真ん中にいる
花垣武道は焦っていた。
エマを殺害するという稀咲の目的は潰したはずで、東卍の士気もこれまで以上に高いというのに、この抗争は膠着を続けている。
変化がない。終わりが見えない。
このままでは良くないという直感はあるのに、現状を打破する手段が見つからないのだ。
周囲を見渡す。仲間たちはみな目の前の敵と戦うのに精一杯で、武道もまた稀咲の元まで辿り着けない。
停滞。手詰。デッドロック。
どうしたらいい。考えろ。考えろ!
武道は必死に頭を回す。
助けたい、守りたい、救いたい。
そのために何をするべきなのか。
その時、遠くバイクのエンジン音がこちらに近づいてくるのが聞こえてきた。その音に、東卍のメンバー数人が目を見開いて耳を澄ませる。千冬も、ドラケンも、マイキーも。
ただ近くを流しに来たライダーのエンジン音にしては、
「場地、さん……?」
千冬は思わずうわごとのように呟く。
GSX250E。通称、ゴキ。
かつて場地が乗っていたバイクによく似たエンジン音が、まるで東卍を鼓舞するかのようにこちらに近づいてきていた。
段々とこちらへ近づき、そのエンジン音を大きくしていくバイク。暗いコンテナ街の向こう側から目玉のようなライトの輝きが近づいてくる。警告のようにボリュームを上げ続けるホーン。ブレーキを知らないかのように加速を続ける真っ黒な車体。
そしてそのバイクは天竺と東卍の抗争地帯のど真ん中へ躊躇いなく突っ込んできた。
その躊躇いの無さは「最悪数人轢いても仕方ねぇや」と思っているかのようだった。
人を避ける気もなく密集地帯へやってきたバイクに屈強な不良共さえ悲鳴をあげて道を開ける。
「うわーッ!」
「バカ!こっち来んな!」
「ぎゃああ!」
バイクは自由だった。己の走る場所こそが道であるとでもいうかのように、天竺東卍関係なくあたりを好き勝手に引っ掻き回すかのようにぐるぐるぐにゃぐにゃと蛇行運転を繰り返す。その度に赤や黒の特服が蜘蛛の子を散らしたように逃げ回った。
「は、ははっ……」
なんとか安全地帯に逃げ込んだ千冬は先程まで殴り合っていたはずの望月と仲良く横並びになってバイクを見つめる。見つめながら、思わず笑った。笑うしかなかった。
なんだよ、あいつ。あんなめちゃくちゃさ、まるで本当に場地さんみたいじゃねぇかよ。
抗争に乱入してきたバイクは散々好き勝手に走り回ると、やがてやや東卍陣営に寄りながら停車した。
それを誰もが呆気に取られた顔で見つめる。
バイクは2ケツだった。
前に一人、青いショートカットで顔の割りにやけにデカいグラサンをかけた小柄な人間。
その後ろにしがみつくようにしてフルフェイスヘルメットの人物。
青い髪の人物はバイクを停めると、座ったまま後ろへ振り返った。
「ねね、どう?このグラサン、似合ってるくない?」
「えー、グラスデカすぎ。それメンズでしょ?今度ウチがもっと似合うの選んだげる」
「マジ?デートじゃん」
どちらも女の声だった。乱入しておいて最初にする会話がこれ。は?原宿のカフェか?
困惑する男共を他所に、青い髪の女は掛けていたサングラスを額に引き上げるとバイクから降りる。
それから後ろの女へ手を差し伸べて彼女がバイクから降りるエスコートをした。
バイクから降りたヘルメットの彼女は背負っていたギターケースを青い髪の女へ渡してからヘルメットを外す。するとその中から柔らかな金髪が溢れ出た。
埠頭の強い照明によって彼女の、佐野エマの髪は星の川のようにキラキラと輝く。
乱入してきたその二人組、苗字とエマが何者なのかを知っていたのはこの場においてマイキーと武道だけたった。
マイキーの妹であるエマはともかく、苗字のことを知っている人間は少ない。
だから苗字を知っている人間は彼女を見て、驚愕に目を見開く。
マイキーも、武道も、……武藤も。
「エマちゃんに、ナマエちゃん!?」
「おっ、タケミっちじゃん」
苗字はニコーっと笑うと駆け寄ってきた武道へ手を振る。あんまりにも気の抜けた表情に思わず手を振り返しかけて、いやそんな状況じゃないと首を振る。
「どうしてこんなところに来たんだよ!?危ないだろ!」
「安心してよ。わかって来てるから」
「なんで!?」
苗字は武道へニコニコ笑ったまま、エマからヘルメットを受け取る。機嫌良くバスケットボールを指先で回すみたいにヘルメットを回しながら、「なんでって、そりゃあ……」と口を開いた。
「テメェらが私とエマをカスみてぇな抗争に巻き込んだからだろうがァ!」
苗字は唐突に持っていたヘルメットを思いっきりアスファルトに叩きつけた。ライダーの目を守るヘルメットのシールド部分が地面に叩きつけられて割れる。
その小さな体のどこからそんな大声を出しているのか、空気がビリビリと振動するかのような怒声にその場にいた人間は皆びっくりしたし、何よりすぐそばにいた武道が一番肩を揺らしてビビった。
武道が、顔は笑顔なのに青筋を立ててブチ切れている人間を見るのは人生で二度目だった。柴大寿と、苗字名前だ。
「テメェらのせいで私もエマも死にかけたんだわ。縦軸だか横軸だか知らねぇが、頭がいんだろ。出てこいよ。そいつのデコ陥没するまで土下座してもらわなきゃあ割りに合わない」
額に青筋を立てながら笑う苗字は転がったヘルメットを勢いよく蹴り飛ばした。プロのストライカーもかくやというキックフォームによって蹴られたヘルメットは天竺陣営を飛び越え、積み上げられたコンテナの前にいるイザナの元まで飛んでいく。
けれどイザナはヘルメットに驚くこともなく、むしろ飛んでくるそれを邪魔だとばかりに蹴り技で他所へ蹴り飛ばした。イザナの蹴りによって再度アスファルトに叩きつけられたヘルメットは事故にでもあったかのようにひしゃげて潰れる。
イザナは真正面から売られた喧嘩に微笑んだ。
カラン、と彼の耳元でピアスが揺れる。
そうして、それまで戦闘に参加していなかったイザナが遂に前へ進み始めた。彼が進むたびに、天竺のメンバーはさながらモーゼの海割り如く彼が進むための道を開いていく。
イザナが歩みを進める間、苗字は彼から目を離さなかったし、イザナもまた啖呵を切ってきた女から目を離さなかった。
苗字はこちらへ歩いてくるイザナを真っ直ぐに睨みながら、目を逸らさずに武道を呼ぶ。
「タケミっち」
「えっ、あ、な、なに?」
「なんかこっちに来てるアイツ、誰?」
「知らないで喧嘩売ったの!?」
「いや、蹴ったら偶然あっちにいっただけだからさ……」
「そんな偶然ある!?えっと、今こっちに向かってきてるのが、」
「黒川イザナだよ」
武道の言葉を遮ったのは、苗字の隣に立つエマだった。
「あの人が、イザナ。……ウチのお兄ちゃん」
「……エマ」
エマはそっと苗字の手を握ると、自分を瞳に写した苗字へ微笑みかける。
「ナマエ、ありがとう。ウチのわがままに付き合ってくれて。……エマのために怒ってくれて、ありがとう」
そう言って前へ進もうとするエマの手を苗字は咄嗟に掴んだ。掴んで、それから口を開く。
「エマ、何があっても私は君の味方だから」
その言葉にエマは嬉しそうに笑ってうなづいた。それからこちらへやってくるイザナを見て、腹を括った顔で彼の方へ歩き出す。エマとイザナは互いに向き合いながら前へ進んで、それから数メートル離れた距離で足を止め、見つめ合う。
そうして生き別れていた兄妹は、12年ぶりに再会する。
「……エマ」
「よかった、ニィ、ウチのこと覚えててくれたんだ。すっかり忘れられちゃってるかと思った」
名前を呼んだイザナに彼女は微笑んだ。けれどその表情にさえ、イザナは不愉快げに眉を寄せる。
「オマエ、馬鹿なのか?オレがオマエを殺そうとしたことくらい知ってんだろ?なんで自分を殺そうとした奴のところに来たんだよ。そんなに死にてぇの?」
その発言に怒りの表情を見せたのはマイキーであり、ドラケンだった。自分にとって大切な人が、他人から「死んでもいい存在」だと軽んじられる怒りに拳を強く握る。
けれど今はエマの戦いだとわかっていたから、口は出さない。ただしもしもイザナがエマに手を出そうとしたのならば、どんな手を使ってでも止めるとだけ心に強く誓う。
不穏な兄妹の再会を不安げに見つめている武道の耳元に唇を寄せた苗字は声を潜めて彼に問いかける。
「あのさ、タケミっち」
「……わっ、ナマエちゃん?」
「今ここに私とエマを殺そうとした金属バット野郎っている?」
「い、いる、けど」
「どこ?どいつ?」
武道も苗字に合わせて声を小さくしながら、稀咲を指差そうとして気がつく。
「……あれ?いない」
コンテナの前にいたはずなのにいつのまにか姿を消していた稀咲を探して武道はあたりを見渡す。けれどどこにも見当たらない。
「そいつの特徴は?」
そう問いかける苗字に、武道は「えーっと、赤い特服で、金髪で眼鏡で……」と、稀咲の見目を伝える。
それを聞き終えた苗字は「オッケー恩に着るありがと感謝永遠に」と早口言葉みたいに素早く答えたかと思うと、ギターケースを背負い直してから人混みの中へと足早に消えていった。
「ナマエちゃん、何をする気なんだろ……ハッ!」
まさか混乱に乗じて稀咲を闇討ちでもするのだろうか。
危ない事を考えているのかもしれない、と慌てて苗字の姿を探そうとするも、彼女の姿もまた数多の大柄で屈強な男たちの影で見失ってしまっていた。
「ニィにとってウチが要らない子だから、もう死んでもいい邪魔な存在だから、殺そうとしたの?」
イザナにそう問いかけるエマの表情は穏やかだった。怒も哀も無い、普段通りの優しげな微笑み。
それを真正面から目に映したイザナは微かに動揺する。
自分が殺そうとした相手がこちらに恐れも怒りも見せずにやってきて、ただ対話を望もうとすることは、コミュニケーションのほとんどを暴力によって解決してきたイザナにとっては未知の存在であり、それ故に恐怖を感じさせるものでもあった。
どうして怒らない?どうして恐れない?どうして笑いかける?どうして自分を未だ兄と呼ぶ?どうして、どうしてそんなことができる?
イザナの内心の恐怖に気がついてか否か、エマは一歩、彼のほうへ近づいた。それを見て、無意識に引きかけた足をイザナは矜持だけで止める。
……今、後ろに下がろうとした?オレが?たった一人の、こんな小さな、弱っちい女相手に恐れをなすなんて、ありえないのに。
動揺のまま言葉を返せないイザナにエマは続けた。
「ねぇ、覚えてる?ニィとお別れした時のこと。あの時にニィはエマに言ってくれたんだよ。『いつか迎えに行く』って。ずっと覚えてたんだ。すっごく嬉しかったから。毎年毎年、誕生日の度に今年は来てくれるかなって、待ってたんだよ」
エマの浮かべるその微笑みは変わらない。けれどそこにある感情が変化する。微かな期待を含んだ笑みから、諦めに満ちた笑みへ。
「ニィはママと一緒だね」
それは自分を捨てた母親を許せないイザナにとっては、どこまでも残酷な言葉だった。
「ママもエマを捨てるときに言ったんだよ。『いつか迎えに来る』って。だからずっと待ってた。迎えにきてくれる『いつか』をずっと、待ってたの。……迎えなんて、来なかったけどね」
だったら、初めから期待させるようなことなどしないでほしかった。最初から、オマエなんか「要らない」のだと、自分の人生に「邪魔な存在」なのだとそう言ってくれた方が良かった。
信じていたものに裏切られる方が辛いのに。
強く信じれば信じるほど、許せなくなるのに。
エマは微笑む。戦い方はここに来るまでのバイクの上で苗字が教えてくれた。
『エマ、男ってのは何故か取捨選択の権利が常に自分側にあるんだと思い込んでる。そういうプライドなんだろうね。だから、そのプライドを折ってやればいい。選ぶも捨てるもこっち側なんだって教えてやろう』
苗字はエマが怖くないように笑い飛ばしてくれた。
『いつも通りの顔で、言ってやればいい』
だから、エマはいつも通りの笑顔を見せた。
少し気の強い、けれど少女らしさが見えるいつものエマの表情で、どこまでも残酷に冷酷にその言葉を告げた。
「どうして、迎えに来てくれなかったの?」
『オマエが私を捨てるんじゃない。私がオマエを捨ててやるんだ、ってね』
「ニィの嘘つき」
妹の、エマの、手を振り払ったのはイザナだった。
死んでもいいと思った。邪魔だと思った。だから殺そうとした。目的でさえなく、ただの手段として、過程として。
エマが死ななかったと聞いた時、計画が狂ったとしか思わなかった。生きてて良かったなどと思うはずもなかった。何も思わなかった。何も期待していなかった。
そのくせ、今、エマから何の期待も籠もっていない瞳に見つめられて、ひどく動揺している自分に気がつく。
おかしい。おかしいとわかっていた。殺そうとしたのは自分で、死んでもいいと思ってて、オマエなんか要らないと思っていながら、今、伽藍堂なエマの瞳に見つめられて、イザナは傷ついていた。……どうしてそんな目でオレを見る?当たり前だ。エマにとってオレは裏切り者なのだから。約束?迎えに行く?知らない。そんなこと覚えていない。だってオレを迎えに来てくれたのは真一郎だけだった。会いに来てくれたのはあの人だけだった。
それから、気がつく。
──オレはエマを迎えに行かなかった。エマを迎えに行く人は誰もいなかった。
「……あ、あ、ああ、あああ……!」
でもオマエには家族がいたじゃないか!
真一郎がいたんだろう!本当に血の繋がった家族が!オレには何も無いのに!誰もいないのに!血なんて繋がっていないのに!
約束を破った。うるせぇ。迎えに行かなかった。うるせぇ。家族じゃない。うるせぇ。血が繋がってない。うるせぇ。母親と同じ。うるせぇ。嘘つき。うるせぇ。オマエなんか要らない。うるせぇ。うるせぇ。うるせぇ!
「うるせえぇえええええ!!!」
だからもう殺そうと思った。自分の手で殺そう。初めからそうするつもりだったのだから。
非力で、細くて、小さな、目の前の女に拳を振り上げる。それなのにエマは黙ってイザナを見るばかり。その瞳が嫌だ。その瞳が怖い。その瞳が、恐ろしくて仕方ない。そんな瞳でオレを見るな!
恐怖のまま振り上げた拳が、エマに向かって落とされていく。
その瞬間、マイキーがエマとイザナの間に割って入り、鶴蝶が振り下ろされるイザナの腕を止めた。
静寂。振り下ろせなかった拳。荒い自分の息。混乱する思考。冷たい夜風。イザナを見つめる三人の瞳。口を開いたのは鶴蝶だった。
「イザナ、もういいだろ……?本当はもうわかってんだろ?」
落ち着かせるように、語りかけるように鶴蝶はイザナへ言葉を紡ぐ。
「イザナ、オレはオマエの為だけに戦ってきた。どんなにオマエの思想が歪んでいてもかまわねぇ。オマエの為なら喜んで死んでやる」
でも、と鶴蝶は続けた。
「でも、オマエの前にいるのはどう見たって弱い女だろ?強いオマエが女相手に声上げて、拳振り上げて……もうそんな醜態をさらすな」
イザナは荒い息を繰り返し吐く。鶴蝶がイザナの命令に背いたのはこれが初めてだった。王の命令を聞かない下僕なんて、そんなもの、そんなもの……。
鶴蝶を殺せ、と他の幹部に命令しかけたその時、マイキーの背後に守られていたエマがイザナの前へ姿を現す。彼の前に立ち、それから振り下ろされるはずだったイザナの拳を両の掌で包んだ。冷たい拳にじんわりと他人の体温が移る。あたたかい、とただ思った。
「ねぇ、ニィ、だから迎えに来てよ。エマのこと、今度こそ迎えに来て。エマのニィを嘘つきにしないでよ」
「……無理に決まってんだろ」
「どうして?」
俯き、零れ落ちたイザナの言葉を拾い上げて、エマは問いかける。何も知らないからそんな事を言えるのだ、とイザナは苦しそうにエマを睨みつける。それは奇しくも今にも泣き出しそうな子供の顔によく似ていた。
「オレは真一郎ともマイキーともオマエとも兄弟じゃない」
拒絶ではなく、いつか突きつけられた残酷な真実を口にする。
「誰とも血がつながってないんだよ……救いようねぇだろ……?」
自嘲するような笑み。冷たい、絶望のような声が鼓膜を揺らす。けれど、その言葉にエマは思い出した。
『もしも何かが少しでも違ったら会えなかったのかもしれないのに実際は会えたんだから』
思い出して、それからイザナに向けて微笑んだ。冷たい兄の手を握る。大丈夫、大丈夫、と伝えるように。もう一人ではない、と教えるように。
「大丈夫だよ、ニィ」
その言葉に、イザナは顔を上げる。虚ろな瞳にエマの微笑みだけが希望のように映る。
本当だったら兄妹になれるはずもなかった。だけど、兄妹になれた。家族になれた。私たちは運命じゃない。運命じゃないからこそ。
「運命じゃないって、すごいことなんだよ」
目に映ったその笑顔に、視界が滲むのはどうしてだろう。イザナはぼんやりとそう思った。
近づく大団円の足音に歯噛みをしたのは稀咲だった。
計画は佐野エマを殺せなかった時から狂い続けている。
狂いを戻すには殺すしかない。イザナを繋ぎ止める全てを、マイキーを虚ろを埋める全てを。
だから、懐から取り出した銃からセーフティを外し、銃口を佐野エマへ向けた。
初めから殺すつもりだったのだ。結果が同じになるだけ。一キロ近くある重い拳銃を真っ直ぐに構える。対象を視界に捉えた時、その向こう側で武道と目が合う。
瞬間、驚いたような顔。
驚愕に大きく開かれた口から言葉が発せられる前に、稀咲はその引き金を引く、
「ヨイショーッ!」
ことが、できなかった。
気の抜けるような掛け声が後ろから聞こえた。
そう思った次の瞬間には、稀咲の無防備だった背後に立った誰かによって、側頭部を何か硬いもので思いっきりぶん殴られていた。受け身を取る間もなく地べたに叩きつけられる。
強く握っていたはずの銃がいつしか稀咲の手を離れて、数メートル離れたアスファルトに転がっていた。何が起きたのか一瞬理解できない。
「ナマエちゃん!?」
武道がそう叫んだことで、稀咲は誰に殴られたのかを理解する。
二度目だ。舌を打つ。この見知らぬ女に邪魔をされるのはこれで二度目。痛む頭を押さえて地面に這いつくばっていると、女物の赤いスニーカーが軽やかに歩いて転がった銃を拾うのが見えた。
銃を拾い上げた苗字は俯せに倒れている稀咲の肩を足裏で蹴ってこちらへ顔を向けさせる。立ったままの苗字と、仰向けから半身起き上がって地面に座り込んだ稀咲。憎々しげな瞳と目があって、苗字はニンマリと意地悪げに笑った。それから銃口を稀咲の額へ向けて唇を開く。
「夕方ぶりだね、少年。野球は卒業したのかな?」
右手に拾った銃を握り、左手にネックの折れた真っ赤なエレキギターを持った女は稀咲の前に堂々と立ってみせた。
たくさん人混みの中から稀咲を探し出し、彼の頭を背後からレスポールでブン殴った苗字。
目には目を、歯には歯を、フルスイングにはフルスイングを。いわゆる意趣返しというやつを決めて、苗字の唇がゆるりと上がる。
きっとギターが五体満足だったのなら弦を掻き鳴らしていただろうが、レスポールのヘッドが折れたのを病室で確認した時に弦はすっかり外してしまっている。
今のレスポールは楽器ではなくただの鈍器だった。
「テメェ……何度も何度も邪魔しやがって……」
「そっちこそ、何度も何度も殺そうとしやがって」
苗字は小柄な女だ。稀咲よりもやや背が低く、その手も腕も小さく細い。単純なタイマンなら稀咲にも勝機はあった。
苗字が銃さえ握っていなければ。
稀咲の視線が銃に向かっていることに気がついた苗字は挑発するようにそれを手の中で揺らした。
「人生で一回くらいは撃ってみたかったんだよね。ありがとう、ハワイに行く手間が省けたよ」
苗字は引き金に指をかける。
周囲の困惑も稀咲の歪んだ表情も「苗字!」と己を制止する声にさえも無視して、苗字は躊躇いなくその引き金を引いた。
鼓膜を裂くような破裂音が冷たい埠頭に響く。
苗字は何度も何度も、執拗に引き金を引き続ける。
繰り返される銃声。落下し続ける薬莢。反動に衝撃を受ける腕さえ気にすることなく、苗字は銃弾が空になるまで引き金を引き続けた。
繰り返された破裂音はやがて絶え、引き金を引いてもカチャカチャと反応の無い音が返るばかりになった頃、苗字はようやく銃を投げ捨てた。
「チート状態は終わりだよ」
苗字はそう言って、銃弾など一発も当たっていない稀咲に笑いかけた。
苗字は銃口を稀咲へは向けなかった。誰もいない空間へ、銃弾を空にする目的で連射をしただけ。
「かつて、ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズはライブ中、ステージに上がってきたファンをギターでブン殴った後、こんな名言を残した」
彼女はそうぽつぽつと語りながら、左手に持っていたギターのネックを両手で握り直す。まるで野球のバットを握るように。
「『相手の頭をブン殴るには、やっぱりギブソンよりフェンダーなんだよな』ってね」
「ま、待て……!」
両手で握り込んだレスポールを、苗字は右肩に担ぐように振りかぶる。
それだけでその場にいた全員が、この後何が起こるかを理解する。当然、それを前にした稀咲が一番理解していた。理解していて、動けなかった。
「だが違う。真に人の頭をぶん殴るのに適したギターはフェンダーよりギブソン。そう、レスポールに他ならない。……何故なら」
埠頭の照明を背に逆光となった女の目が狂気的に爛々と輝いていたものだから。
「テレキャスより!」
苗字は笑っていた。本気で怒っていたものだから感情の制御が上手くできなくて、結果的にまるで楽しくて笑っているかのように見えた。
「レスポールのほうが!」
さっきの一発はエマの分。
そしてこれが、私と壊されたレスポールの分!
全身をバネのように捻り、遠心力にレスポールのボディを任せて、最後は腕力でブッ飛ばす!
「重いからァッ!!」
苗字がそう叫んだ瞬間、一陣の風が空気を裂いて音を鳴らす。
振り上げられた真っ赤なレスポールが、稀咲の顔面を狙ってフルスイングされたのは一瞬のことだった。
重く堅い木材で人がぶん殴られる痛ましい音が響き渡り、あたりにいた不良たちも思わず顔を引き攣らせる。
その一発で意識を刈り取られた稀咲を前に、苗字は背中を弓形に逸らせ、天を見上げた。
「重さは速度!速度は威力!」
勝利の雄叫びの如くそう叫び、苗字はレスポールのネックを握ったまま、その拳を天高く突き上げた。
これがプロレスだったら拍手喝采満員御礼だったろう。
だが、現状苗字は急に抗争にバイクで乱入した挙句天竺の総長に喧嘩を売り、総参謀をギターでぶん殴ってノックアウトした不審者なので、主に天竺メンバーからはドン引きした目で見つめられていた。
なんなら、味方であるエマもマイキーも武道も困惑した目で見つめていた。いや、わかる。殴られたから殴り返しに来たのはわかる。目には目を、歯には歯を。いや、わかるけど。わかるけども。
「ナマエちゃんが、稀咲を倒しちゃった……」
大番狂わせにも程があるのはなかろうか。
いつしかめちゃくちゃになった抗争に、天竺メンバーも東卍メンバーもなんとも言えない顔で周囲を見渡す。
苗字が倒した相手が稀咲だったのも悪かった。
もしも苗字に倒されたのが幹部、それも例えば人望厚い望月だったのならば、「テメェうちの隊長に何しやがる!」と彼の配下の隊員たちが黙っていなかっただろう。
だが、稀咲は天竺の中でも新参な上、幹部以上のメンツとしか関わりがなかったため、天竺の一般隊員たちからしてみればあまり交流のない人物なのだった。つまるところ、正直なんとも反応し辛い。
えっ、オマエどうする……?
いや、そんなこと言われても……。
むしろなんか急に銃とか持ち出して怖かったし……。
そうやってチラチラと隣と目配せし合うばかりだった。
幹部たちとしても、ちょっと反応し辛い。
「勝ったもん勝ちや!」とまでは言わずとも、最終的に勝った方こそが勝者であるという思考は不良共通だった。
故に言ってしまえば、「倒された方が悪い」。
先に武器を持ち出したのが稀咲である以上フルスイングギターのことは卑怯などとは口が裂けても言えないし、やはり稀咲が新参者故にじゃあオレが仇を取る!というテンションにもならないのだった。
横浜第7埠頭になんとも言えない空気が流れる。
さてそんな空気をよそに、散々暴れ回った苗字はというと、正直もう限界だった。
そう!こう見えてこの女、重傷者なのである!
道を歩いていたら唐突に殺されかけ、意識を失って病院に運び込まれ、慣れないバイクで長距離移動して、不良たちのわんさかいる抗争に乱入して啖呵を切り、殺す気で銃を握る相手にギター一本で立ち向かう。
濃厚すぎる一日だ。
パンピーが一日に体験していいハプニングの量では無かった。あと昼から何も食べてなくて空腹だ。辛い。
……つか、私、そもそもここに何しに来たんだっけ。
長い間、張りつめいていた緊張が今ようやく解けて、足がガクガクと震えた。高く掲げていたギターを下ろした、その瞬間ブレた重心に膝が砕けて、脚がもつれる。
「うあっ」
そのまま苗字が背中から地面に倒れ込みかけたその時、彼女を背後から抱き止めるように腕で支える人がいた。
武道でも、マイキーでも、エマでもない。
「オマエって奴は本当に、何をしでかしてくれてんだ……」
倒れかけた体を背中で支えられて、自然と顔は上を向く。溜息混じりの呆れた声が高いところから落ちてきて、その疲れ切ったような顔を見上げた苗字は思わず笑った。
「わはは、久しぶり、ムトー」
「テメェ、ほんと、オマエ……オマエは本当によぉ……」
罵倒する言葉さえも見つからず、武藤は額を押さえながら肺がぺしゃんこになるのではないかというほど深く深く溜息を吐いた。
これが『パイルバンカー・パンデミック』のメンバー二人の、約一ヶ月ぶりの会話だった。
自分を支えてくれているのが武藤だと気がついた途端に、遠慮なく体重をかけて寄りかかる苗字に武藤は本日何度目になるかわからない溜息を吐いた。
苗字が抗争に乱入してきた時も、イザナに喧嘩を売った時も、稀咲をノックアウトした時も冷や汗をかきっぱなしだった。本当に勘弁してほしい。
苗字を放ることは容易かったけれど、彼女がヘラヘラなんでもない顔をしながらも本当は立って歩くことさえままならないくらい疲れ切っているらしいことに武藤は気がついていた。だからそのままその細くて小さい体を支え続ける。
「苗字」
「うん」
呼ばれる声に返事をしながら、苗字は自分をそう呼ぶ武藤の声に酷く安堵をしていた。そして同じように、表情には出さないながら、自分を独特の発音で呼ぶ苗字の声に武藤もまた似たような感情を抱いていたことを、苗字は知らない。
「……死にかけたってどういうことだ」
「アー、事故った」
「は?いや、事故ったってオマエ」
「そうは言っても全然無事だから大丈夫だよ」
「死にかけたっつー奴が無事な訳ねぇだろうが」
苗字がついた嘘くらいすぐにわかったから武藤はムッとした顔で苗字の額を指で弾いた。
「で、事故って死にかけたオマエはなんでこんなところまで来たんだよ」
「そりゃあ、君と話をするために」
苗字は意地悪げに口角を上げた。
それから彼女は武藤の腕を支えに一人で立ち上がろうとした。ふらつくその体へ咄嗟に手を差し出しかけて、やめる。
壊されかけた体で、崩れ落ちそうな脚で、それでも自力で立とうとする彼女を支えようなんて思えなかった。
そうすることの方が今ここで立ち上がろうとする彼女への侮辱だと思えたから。
大地を踏みしめた苗字は真っ直ぐに背筋を伸ばすと武藤を見つめて笑った。
「話をする前に、迷惑料代わりに一発いい?」
「……は?なにを、」
する気だ、と言う前にまたもやギターを野球バットみたいに構えた苗字が一本足打法のフォームを決めた。
「苗字、まさか、いや、オマエ、待て、いったん待て」
「喋ってないで歯とか食い縛ったほうがいいんじゃないの?知らんけど」
思わず足を引く武藤に苗字は問答無用とばかりにそう言って、自身よりずっと背の高い武藤の左頬をレスポールのボディで元気よく振り抜く。
「勝手にいなくなりやがって!この野郎!」
その直前、好戦的に笑う苗字の八重歯に、一瞬見惚れてしまったのは武藤が墓まで持っていく話だ。
ばっこーん。
稀咲を殴った時よりもやや気の抜けた音だったのは、苗字の手加減の賜だろうか。
流石のフィジカルを持つ武藤だったので、転がされることはなく、軽くたたらを踏み、殴られた顔が真横を向いた程度で済んだが、普通にめちゃくちゃ痛かった。レスポールは鈍器なので。ちょっと涙目になりそうなのを堪えながら、前を向いて苗字を見る。
「……いっ、てぇな」
「痛くしたからね」
彼女は満足げに笑って、レスポールを下ろした。
散々迷惑をかけられた分のケジメはつけたからもう充分ですといった晴れやかな顔だ。恨みがましい瞳で見つめる武藤のことなどまるで気にしていない。それから息を吐いて軽く肩を落とした。
「『出ていく。さがすな。ゆるしてくれ』だっけか」
「……人が酔って書いた文を口にすんじゃねぇよ」
「意味わかんなかったからさ、こりゃあ話をしないとって思ってね」
「探すなっつってんだろ」
「そういうフリかと思った」
「ふざけんな」
「わはは」
「……苗字、言いたいことがあんなら言え」
「……あー、うん、あのさ、ムトー」
「ああ」
「……君のいない日々は、まるで音楽の無い世界みたいだったよ」
音楽のために生まれてきたような女が言ったその言葉の意味がわからないはずもなくて、だから武藤は心臓が締め付けられるような痛みを知った。
ふと苗字はあたりを見渡す。埠頭に集まる赤い特攻服の群れ。遥かなる天竺を目指したその成れの果て。
その中に容易く紛れてしまいそうな、武藤の格好。
「君はここにいたかったの?」
真っ直ぐな瞳に見つめられて、武藤は言葉を失った。
その問いかけに深い意味など無いとしても、己の心に触られているような感覚に陥ってしまう。
うなづいたとて、嘘では無い。イザナと共に同じ地平を見たいと、共にありたいと願っていた自身に偽りはない。ない、けれど。
揺らいだ武藤の瞳に、苗字はやはり笑った。
それは彼女が時折見せる、年相応に大人びた微笑みだった。
「なら心配する必要はないよ」
苗字はそう言って笑う。その笑みにどうしてか背筋が冷える心地がしたのは何故だろう。
「私は君の選択を尊重する。君は君のいたいところにいていいんだ、ムトー。私は君の望みを否定しないよ」
苗字はそう微笑んで武藤の裏切りを許した。
握ってくれた手を振り払い、寂しいところに一人きり置いていき、共に築いていくはずだった未来を踏み躙って、碌な言葉も残さずに消えた自分をたった一言で許してくれた。
……許された。許された、のに、どうして、寂しいところにひとり放り出されたような心地になるのだろう。
手放したのは武藤の方だった。手を離したのは武藤だった。それなのに、それを許されて、肯定されて、微笑まれて、…………見捨てられたような気になった。
捨てないでくれと縋りつきそうになる。捨てたのは自分の方なのに。許さないでくれと泣きつきたくなる。許されたかったのは自分なのに。
そんな武藤の動揺に気がついてか否か、苗字はニカーッと笑うと彼の前でグッと親指を立てた。
「うち副業とか、全然オッケーだから!」
「……は?」
「ちゃんとライブ出てくれればそれでいいし」
「は?」
「売れないうちなんかはバイトして二足の草鞋やってるやつとか山ほどいるからね」
「は?」
「私も前のバンドん時とかキャバでバイトしてたし」
「あ゛?」
思わず威圧的な声が出た。
キャバ?……は?……ハァ?
何故かムカついた。ムカついたがそれが何に起因する感情なのか、武藤にもよくわからなかった。
「……オマエに客が付くかよ」
「なにおう!私スマブラ強すぎて個室指名とかめちゃくちゃ来てたんだからな!」
「客とスマブラしてんじゃねぇ……」
「私のヨッシーに勝てる奴はいなかったよ!」
「せめて接待プレイしろ……」
「だから、君のその、なに?なんだっけ、縦軸?も副業扱いでいいよ。確定申告だけ気をつけてね」
天竺な。つか余計なお世話すぎる。そもそも半グレグループを副業扱いすんな。しかもバンドの方が本業なのかよ。オマエ本当は何もわかってねぇのにここに来たんだろ。
言いたいことは山程あったのだが、それらは全て深い深い溜息になって二月の冷たい風に攫われていってしまった。
「言っとくけどね、ムトー。君がバンド抜けられんのは棺桶入る時だけだから」
当然のようにそう言う苗字に武藤はもう呆れ返った顔をするしか無かった。
ああ、そうだ、そうだった。こいつはそういう奴だった。人の都合も感情も無視して目の前にやってきては、軽やかにこちらの手を取って笑うのだ。いつかのように、これまでのように、きっとこれからも。
「……苗字」
「うん?」
「……オレは、」
……オレは、オマエに会えてよかったよ。オマエといると楽しくて仕方ねぇからな、クソが。
「サツだーー!」
どこからかそんな叫び声が聞こえたのはその時だった。
遠くから段々と近づいてくるサイレンの音に辺りが騒つく。
人数集めて喧嘩をしておいてこんなことを言うのも変な話だが、まだ此処ではサツを呼ばれるほど派手なことはしていない。
皆、そう思っていたが故に慌てた。
「なんでもうサツが来てんだ!」と喚く数多の声に、けれど苗字は「そりゃそうでしょ」とケロッと言った。
「私が何発撃ったと思ってんの?夜の埠頭であんだけ銃声響いたらそりゃあ事件性しか無いでしょ、サツもわんさか来るわ」
「撤収ーーー!全員散れーーーッ!」
東卍も天竺も隊員も幹部も関係なく、右往左往しながら誰もが自身の単車に乗って次々駆けていく。その姿を苗字はケラケラ笑って見ていた。ので、武藤は拳骨を落としておく。テメェは反省しろマジで。
それから武藤は苗字を小脇に抱えた。多分今の苗字は疲労していて碌に運転などできないだろうと思ったし、事実無理だった。今苗字がバイクになど乗ったら首都高でド派手な事故が起こる。
当人もそれをわかっていてか抵抗することなく武藤の腕の中に収まった苗字は、口の横に手を添えるとエマの方へ大声を上げた。
「エマー!ごめんー!私帰り送ってあげれないからー!あー、えーっと、兄貴にでも送ってもらってー!」
「うん!わかったー!」
エマは笑って苗字へ手を振ると、すぐにイザナの腕にぎゅうと抱きついた。妹にゼロ距離でひっつかれて固まるイザナを、珍しいものを見たなと武藤は眺めた。
と、その時イザナと視線が合う。困ったような戸惑ったような、それでいて苦しんではいない様子の瞳に、無性に安堵する。
イザナと話をしたい、と武藤は思った。
お互いに重荷を少しだけ下ろした今なら、言えなかったこれまでの二年間の話もできるのかもしれない。苦しかったことも、辛かったことも、救われなかったことも、……救われたことも。まるでただの友人のように。だから、また会いたい。
少し笑う。武藤の表情に気がついてムッとした顔をするイザナを見て、きっとまた会えるだろうと思った。
だから持ちやすいように苗字を小脇に抱え直すと、自分の単車の方へ向かう。
「あー、待って、ムトー、ギターケース拾って」
「ったく、その辺に転がしてんじゃねぇよ」
仕方なく方向転換して転がっていたギターケースのところまで向かってやり、苗字が持っていた壊れたレスポールをその中に収めてやる。それを苗字の代わりに持ってやろうとした時。
「……アンタって、ギタリストのナマエ?」
「竜胆……」
声をかけてきた竜胆に気がついて武藤が呟く。
やけに険しい顔をした竜胆に、そういえば竜胆はギタリストのナマエのファンだったな、と思い出す。
憧れていたギタリストがこんなはちゃめちゃな女だったことを知ってショックだったのかもしれない。武藤は一応苗字が殴りかかられたら助けてやるくらいのことはしようと竜胆の動きを注視する。
やけに眉間に皺を寄せた竜胆は武藤に抱えられた苗字を見つめると、二、三度躊躇ってから口を開いた。
「『ベクトラーズ』ん時からファンです。サイン下さい」
「えっ?マジ?いーよ」
「ッしゃアッ!!」
竜胆はキレ良くガッツポーズをすると、特服の前を広げてその下に着ていた白シャツをサインが書きやすいように引き伸ばした。
「ごめん今サインペンとか無いから、アイライナーでもいい?」
「喜んでェ!」
「居酒屋か?」
「君、名前は?」
「竜胆です!」
「リンドーくん」
「オイ、竜胆、早くしろよ帰んぞー」
「兄ちゃん、ちょっとまって!」
竜胆が着ているシャツがいいとこのブランド物で三万は軽くすることも知らずに苗字は書き心地良いナーなどと思いながらサラサラとサインを書いた。もちろん「リンドーくんへ」と書くことも忘れずに。
それを見つめた竜胆は年相応にたまらなく嬉しそうに微笑んだ。大好きなナマエが目の前で暴れまくってくれて竜胆はもっと好きになったくらいだ。苗字に頭を下げてから、ふと武藤へも視線を向けた。
「ムーチョってナマエと知り合いだったんだな。……ん?つーかさ、そもそもムーチョって、もしかして、」
不意にハッと閃いた顔をした竜胆に、武藤は内心(ヤベェ、バレたか)と冷や汗をかく。
今までなんのために顔出しせずにバンド活動をしていたと思っているのだ。知り合いに自分が卑猥な略称のバンドでボーカルやっているのとか絶対にバレたくなかったのに。まさか竜胆がナマエや『パイパン』のことを知っているなんて思わなかったのだ。
大柄な男性でナマエと気安い関係だなんて絶対に『パイパン』のボーカルだってバレるに決まっている。武藤は諦めたように天を仰いだ。
ジーザス。強めに殴ったら忘れてくんねぇかな。
そんな武藤の物騒な祈りも知らずに竜胆はドヤ顔で言った。
「……ナマエと付き合ってんだろ!」
「ちげぇよ」
「ちげぇわ」
あーー、竜胆がバカで良かった。
武藤は竜胆の脚を強めに蹴ると、今度こそ自分の単車の元まで向かって跨り、ケースを背負った苗字を後ろに乗せ、単車にエンジンを掛ける。空気を揺らすようなエンジン音に遮られないように普段より声を張る。
「しっかり掴まってろ」
「はいよー」
近づいてくるパトカーから距離を取るため、武藤は一気にバイクを加速させた。ぎゅうと腰に巻きつかれた細い腕に微かに口角が上がる。
蜘蛛の子散らしたようなバイクの群れから離れるため敢えて道を逸らせて、武藤は二人で暮らしたアパートのある東京を目指した。
そうやって苗字と武藤は夜を駆け抜けていく。加速したその速度を保ちながら一台のバイクが夜を突き進む。あらゆる景色は過ぎ去る一瞬の閃光で一秒後の記憶にも残らない。
ふと武藤が見上げた夜空。空を覆う厚い雲に一瞬の切れ間が生まれ、そこからいつか何処かで見たことのあるような一番星が瞬いているのが見えた。
……嗚呼、思えばあの日もこんな寒い夜だったな。
「ムトー、君、友達から『ムーチョ』なんて可愛い渾名で呼ばれてるんだね」
「あいつらが勝手に呼んでくんだよ」
「だが勘違いするなよ!他所でなんと呼ばれてようが、私の前にいる限り君は永遠にただのムトーだからな!」
「……なんだよそりゃあ」
「ってかお腹減ったな。帰りどっかで食べてかない?」
「どうせ牛丼屋だろ」
「いいじゃん、私が奢ったげるしさ」
そんなのいつものことじゃねぇか、と武藤は思った。
……そうか、これがオレにとってはいつものことなのか、とも思った。
それが良いことなのか悪いことなのかはわからない。
目の前にある事象やその意味なんて、きっとこれから先もよくわからないままだろう。
ただ、それでも心は安堵に満ちていた。
迷子になった子供がようやく見知った道へ出られたような、そんな些細な安堵。それが何によってもたらされたのかがわからないほど愚かでは無い。
だから、息を吐いた。白い息が生まれて、すぐに後方に流れ去っていく。そうやって日々は流れていく。
それでもきっと、これからも隣にはオマエがいるのだろう。変わらず、オレの隣でヘラヘラと笑って、好き勝手に生きていくのだろう。
……ああ、そうか。それなら、きっと──。
「……ようやく、寝れそうだ」
「あ!?ムトー、君今ここで寝るのはマジでやめろよ!死ぬぜ!?心中なんかごめんだからな!」
「……ンなことしねぇよ、バーカ」
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本来ならば「関東事変」と呼ばれるはずだったこの抗争は、決着を迎える事なくサツに追われるというあんまりにも微妙過ぎる終わり方を迎えたために、この世界線ではそんなカッコいい呼ばれ方にはならなかった。
「東横抗争ギター女乱入事件」
略して「ギ乱事件」。
この夜のことは後にそう激ダサに呼ばれることになる。
もうめちゃくちゃだった。
……めちゃくちゃだったが、そのめちゃくちゃな結果にかすかな救いを得た者もいたのもまた事実だった。
トチ狂った運命の果てに至った結末を運命とは呼べなくても、それは彼らがこれから生きていく現実でもあるのだ。
どうであれ、誰だって、生きている限りは生きていかなきゃならないのだから。