「えー、先日は皆さんの大事な抗争の邪魔をして誠にすみませんでした。まあ、どう考えても君らの自業自得だけどな」
「苗字」
「すべて私の不徳の成すところです。ハイハイ、私のせい私のせい」
「苗字」
「チッ、反省してまーす。すみませんでしたァー」
「苗字」
「お詫びにこれから前方かかえ込み2回宙返りをします」
「苗字」
「ソイヤッサァ!」
「苗字」
頭を抱える武藤をよそに、突然助走した苗字はその勢いのままアスファルトに手をついて新体操の選手みたいに空中でクルクル回った後、猫のように軽やかに着地した。
「おおー」
それを見ていた獅音が驚いた顔をして手を叩く。そんな素直な反応をしたのは獅音だけだった。
他の連中は、──他の連中というのはつまりは天竺の幹部メンバーたちのことなのだが、まずイザナはムスッとした顔でソファに寝っ転がったまま苗字の方なんか見ていなかったし、鶴蝶はそんなイザナの機嫌を取るので忙しかったし、竜胆は憧れのギタリストに再会できたのが嬉しいのかニコニコしているし、蘭はポテチを食べて汚れた指を弟の服の裾で拭くのに忙しかったし、望月はまた変な奴が来やがったと面倒くさそうな顔をしているし、武藤は苗字をここに連れてきたのは間違いだったかもしれないと溜息をついていた。
さて、ここは横浜。
天竺のアジトである廃工場。
あの夜、東京卍會と横浜天竺の抗争に女二人が乱入し、めちゃくちゃになってから二週間ほどが経った。
この女二人がただの女なら締めて終わりなのだろうが、片や東卍の総長の妹、片やその妹の友人と来たものだから、東卍の総長であるマイキーはあっさりの二人の暴挙を許してしまった。
そもそも東卍はある種彼女たちが襲われたことに対してのケジメのために天竺からの喧嘩を買ったところがある。それゆえに、当人であるその二人がもういいと言うのならば消えた火種にまた火をつける理由もないのであった。
そんなわけで、東卍に戦う理由は無い。
では横浜天竺としてはどうかとなると、こちらとしても言ってしまえば「総長次第」なのである。
で、その天竺の総長はというと、2月22日の抗争以降すっかり毒気の抜けた顔をしているのであった。
フワフワとしているというか、ホワホワしているというか、いつもより反応が悪く、低気圧でも無いのにムスッとして、喧嘩もせずに日がなビルの屋上かアジトのソファでぼんやりとしている。
あんまりにもそんなものだから、先日心配になった鶴蝶が「今日の夜、みんなで飯でも行かねぇか?」と誘ったのだけれど、イザナは筆舌し難い表情で「……今晩は、手巻き寿司だから、18時までには帰ってこいって、エマが……」などとポツポツ零れるようにそんなことを言う。
だから、鶴蝶は「おお……!良かったな!イザナ!」と心からそう伝えた。それは帰る場所がある尊さを鶴蝶が知っているからこその言葉だったのだが、イザナはギュッと眉間に皺を寄せると鶴蝶に掴みかかった。
「鶴蝶!テメェも一緒に来い!」
「は、はぁ!?行けるわけねぇだろ!家族水入らずの場になんて!」
「うるせー!
「いや、そうだけどよォ!」
ぎゃいぎゃい揉める二人を幹部何人かが見ていたが、その後どうなったのかは知らない。
ただ鶴蝶がイザナに勝てるわけもないので、おそらくイザナの実家に連れていかれたのだろう。翌日、鶴蝶も少しホワホワしていた。
そんなわけで、天竺が今後東卍と抗争することは恐らく無いだろう。
なにせ、東卍の総長と天竺の総長が同じ食卓を囲んで飯を食っているのだから。
そんな奴らが今更人集めて喧嘩してもただの兄弟喧嘩にしかならない。そういうのは家の庭かどっかでタイマンでやってくれ。
とまあ、そんなわけで東卍と事実上の和解を経た天竺。
東卍との抗争もなくなり、横浜も既に統一済み故に半グレグループにあるまじき平穏が流れていた。幹部たちもなんとなく、他所に喧嘩を売りに行くような気分にもならないのである。
そんなものだから天竺はここ二週間ほど、同年代で飯に行くだけの仲良しチームになりつつあった。
利害と恐怖とはなんだったのか。本当になんだったのだろう。まあ、言っても未成年の作ったチームだ。気安い仲間とつるむ、というのも利害のひとつではある。どれだけメリットがあったって、気に入らねぇ奴とはチームなんか組みたくもないものだ。
そんなフワフワホワホワ天竺に、ある日武藤が女を連れてきた。
オレの女を紹介という浮ついた空気ではなく、言うことを聞かない犬の世話に疲れ果てて友人を頼った、という空気の方が近い。
それが冒頭の元気な苗字の姿と、それに頭を抱える武藤の姿であった。
挨拶代わりに元気な前方かかえ込み2回宙返りをかました苗字は現在、何故か獅音、竜胆、鶴蝶と共にアジトに置かれっぱなしになっていたジェンガで遊んでいる。
「ア!?コラてめぇら揺らすんじゃねぇぶっ殺すぞ!」
「えーやだー、揺らしてないんですけど何?強めの被害妄想、こわーい」
「あー?雑魚がなんか言ってるわ。どうせ揺れてなくても負けるくせによォ」
「おい、いつまでちんたらやってんだ?時間制限つけっか?」
ラフプレーOKの治安の悪いジェンガのため、相手のターンに脚でわざとテーブルを揺らしたり、口汚いヤジを飛ばしたり、顔のそばで猫騙し連打をしたりしていた。ジェンガではなく乱闘が始まるのも時間の問題だろう。
それを武藤はやや離れた廃資材の山の上から眺めている。
……平和だ。武藤はそう思った。
ジェンガを抜こうとしている獅音の刺青に苗字がマジックペンで落書きをしているが平和だ。ラフプレージェンガで揉めた鶴蝶と竜胆が大人げなくピリついているが平和だ。平和といったら平和だ。
話を戻そう。
今日、武藤が苗字を天竺幹部たちの前に連れてきたのは、前の抗争の謝罪をさせるという意味合いよりも、苗字を彼らに認識させておくためという意味合いの方が強かった。
つまるところ、「コイツはオレの身内だから手ェ出すなよ」というアピールである。
無駄な火種は作りたくないのだ。
苗字がキレたらどうなるかというのを、前の抗争でみんなわからせられた。邪魔されたくなかったらウチの苗字にはちょっかいかけるなよ、フリじゃねぇからなマジでめちゃくちゃにされるからな、という意味だ。
それからもう一つ。
今の武藤には、もしも苗字に手を出されたらきっと自分は差し違えてでもそいつを殺すだろう、というはっきりとした自覚ができてしまったことも理由だ。
これまでの二年間と、虚な一ヶ月間と、先日の抗争で武藤はすっかり「自分にとって苗字は必要不可欠な存在だ」と現実を理解してしまった。きっともう苗字と会う前の自分には戻れない。絡まった連理の枝が解けないように、もうオマエでなければならないのだ。
奪う奴は地獄の果てまで追い詰めてでも殺す、絶対にだ。
ファッキンビッグエモーション。
つまるところ、武藤から苗字へのクソデカ感情である。
内心にそんな苛烈な感情を抱えながら、表面的な表情には凪いだ湖面のような静けさのみを見せる武藤はぼんやりと苗字たちを眺めている。
そんな武藤の隣に唐突にやってきたのは蘭だった。
足取り軽く武藤のそばまでやってくると、特に許可を取ることもなく彼の隣に腰をかけた。そうして武藤と同様にジェンガカルテットを眺め始める。
そんな不思議な時間が少しだけ流れて、不意に蘭が口を開いた。
「オレさあ、ムーチョに女ができるなら絶ッ対ェ乳と尻がデケェどエロい歳上の美女だと思ってたワ」
「は?何言ってんだオマエ」
「谷間とかすげーやつ」
「アホか」
「と思ってたら現実はアレかー」
そう言いながら何処かこちらを揶揄うような声で、その上面白がるような顔つきまで見せて蘭は武藤に笑う。
人の連れにアレとはなんだ。というかそもそも苗字は武藤の女ではない。否定の言葉を口にしようとした時、先んじて口が挟まった。
「いーや、コイツは絶ッ対ェなんだかんだいって破天荒で我儘な歳下に振り回されるタイプだろ」
いつの間にか蘭とは反対側の武藤の隣にどっしりと腰掛けていた望月が確信を持ったような声でそう断言する。
「アー、面倒くせえなって顔しながら世話焼くやつ?」
「焼くやつ。口では文句言うくせに内心満更でもねぇやつ」
「アッハッハッハッハ!」
「ハッハッハッハッハ!」
「テメェら好き勝手言いやがって……」
指を差し合ってゲラゲラ笑う蘭と望月に武藤は顔を顰めた。
ここにいると揶揄われ続けるなというのがわかってしまったので、武藤はさっさと離れることにする。積み上がった廃材から降りると、その脚でソファまで向かった。
後ろから上がる揶揄いの声を無視して、背もたれ側からソファを覗き込めば相も変わらずポヤンとした顔で寝転ぶイザナがいる。
「イザナ、今いいか」
彼の焦点が武藤に合わさる。イザナの意識の中に自分が認識されたことに気がついて武藤は微かに笑う。
「ずっと、オマエと話がしたかった」
「……おう」
武藤の言葉にイザナは静かに起き上がった。
そうして二人連れ立って部屋を出ていくイザナと武藤の背中を見送ってから、蘭はニタァ〜と意地の悪い笑みを浮かべた。そうしてジェンガをしている四人の方へスキップみたいな軽やかさで向かう。
それに気がついた望月は「あーあ」と言う顔をした。これは女を連れてきておきながら、横浜で一番治安が悪い場所で目を離した武藤が悪い。
乱闘寸前のピリつきを見せながらジェンガを囲む四人。唐突に蘭は声をかけた。
「なー、カクチョー」
「なんだよ、蘭。今忙しいんだよ、見てわかるだろ」
「わかんねーよ。なんでジェンガごときでオマエらはそんな本気になれんの?」
「兄ちゃん邪魔しないで」
「帰れー」
「タチサレ……タチサレ……」
「ポケモンタワー?」
埒があかねーと思った蘭はテーブルの上、絶妙なバランスで立っているジェンガを足裏で容赦なく蹴り飛ばした。当然のことながら音を立てて吹っ飛び、無惨に崩れ落ちるジェンガの塔。
「アーーーー!!!」
四人の悲痛な叫びが揃って、蘭は噴き出すように笑った。
「これで忙しくなくなったろ?なー、カクチョー、確か前ここにアコギなかったかー?持ってきてくんね?」
「……兄ちゃんさぁ、先にオレらに言うことあんじゃねぇの?」
「えっ?早くしろカス、とか?」
「殺せェーーー!!」
「死ぬまで殺せ!!」
「死んでも殺せ!!」
捕まえようとしてくる他の三人の手をするする逃げた蘭は散乱したジェンガを執拗に脛を狙って投げつけてくる苗字の首根っこを捕まえた。持ち上げる。軽い。ぱたぱた暴れるが子ウサギの抵抗だった。
人質を取られた三人は蘭に近づけない。一応苗字は客人であるため、武藤の許可なしに怪我させようものなら内輪揉めの原因になる。というか、苗字は弱そうなのでちょっと触っただけで怪我しそうで怖い。
「そいつを離せ。何が目的だ、蘭」
「だからアコギ弾かせようぜ、この女ギター侍に」
「誰が残念だ。君のこと壁に埋め込んでネウロのあかねちゃんみたいにしてやるからな……」
「おい、鶴蝶。アコギどこ?オレも探すの手伝うから」
「竜胆の野郎、秒で寝返ったぞ」
「……まあいいけどよォ、アレ、壊れてなかったか?」
アジトに出入りする連中があんまり好き勝手過ごすものだから、ここにはとかく様々なものがあるのだ。何が何処にどれだけあるのかなんておそらく誰も把握できていない。
結局蘭と蘭に捕まっている苗字以外の三人で手分けして、古ぼけたアコギを発掘した。
「これ紐伸び切ってね?」
「弦ね。シオン、それ貸して」
獅音からアコースティックギターを受け取った苗字は慣れた手つきでヘッドやペグを弄ってチューニングを始める。
ただ長いこと捨て置かれていたそのギターのチューニングには時間がかかり、完了する頃には苗字以外の全員が飽きていた。
やがて、チューニングを終えた苗字が蘭に声をかける。
「終わったんだけどー」
「ア?なにが?」
「なにが!?今なにがって言った!?」
「ずっとジャカジャカやっててうるさかったわ」
「…………ア゛?埋める」
瞬間、額に青筋を浮かべた苗字に慌てて鶴蝶が間に入った。
「オレ、楽器の演奏なんて碌に聴いたことねぇんだよ。ナマエはギターが得意なんだろ?せっかくだし聴かしてくんねぇか」
明らかに中坊の鶴蝶にそう言われて怒り続けられるほど苗字は大人げなくはなかった。
深呼吸数回。気を落ち着けてから「言っておくけど、私の本職はエレキだからね。あんまり期待しないでよ」と釘を刺してその辺にあったパイプ椅子に足を組んで座る。
膝の上にギターを置いた苗字。彼女の体格に対して抱えたギターはあまりにも大きくて不釣り合いで、蘭は少し笑った。
そんな蘭へ苗字は歯を剥き出しにしてカピバラのように威嚇をする。が、蘭にはファンサだと思われたのかニコニコ笑って手を振られた。そのあたりで流石に苗字も「これは相手にする方が疲れるやつだな?」と気がついた。
だから苗字はこちらを揶揄う目的の蘭や興味のなさそうな望月ではなく、ギターに関心のありそうな獅音と竜胆、そして鶴蝶の三人へ向けて演奏することにした。
苗字は普段誰かのために演奏するなんてしないけれど、今日は突然やってきた自分と遊んでくれた礼代わりだ。
それに何より、演奏を碌に聴いたことがないなんて言われたらギタリストとして黙ってはいられない。
彼が初めて音楽にふれるならロックンロールがいい。
何故ならカッコいいから。イカしてるから。イカしてるからこそロックンロールなのだ。それは在り方であり、精神性だ。つまるところ、祈りに帰結する。
時にロックンロールは負け犬の遠吠えだ。弱虫の強がりと言ってもいい。
己は強いと鼓舞しながら、震える足で大地を踏みしめること。泣き出しそうな涙腺を押さえつけて、逃げ出しそうになる足を叱咤して、精一杯の強がりと君への愛を込めて、正しさを選択すること。
だから苗字は鶴蝶を信じている。
あの夜、エマに殴りかかろうとしたイザナの拳を止めた鶴蝶の選択を、正しさを、信じている。
苗字はクッと口角を上げてソファに腰をかける鶴蝶を見た。
イカしてるぜ、君。だから君のために弾こう。けどアコギは趣味じゃないから、いつかエレキを抱えた私に会いにきて欲しい。
苗字はギターを構える。
一瞬の空白。
そして、躊躇いなく弦を掻き鳴らす。
この世界を一気に染め上げるように。
君の知らない世界の扉を開くように。
イカしてるってのがどういうことか、教えてやるよ、坊や。
・
・
・
「……なんだこりゃ」
イザナとの話を終えて、戻ってきた武藤が見たのは床に転がっている天竺幹部たちの姿だった。
武藤の背中から顔を出したイザナも床に転がる幹部たちと、ギターを抱えた苗字を見て首を傾げる。イザナは中に入るととりあえず獅音を蹴っ飛ばした。
「ぎゃん!」
「なにしてんだテメェら」
「ぐっ、蹴る前に聞いてくれよ、八代目……」
「してるつーか、されたつーか……」
「めちゃくちゃにされたな……」
「ヤベェ、立てねぇわコレ」
「アコギでドラム演奏するってなんなんだよ……」
「はあ?何言ってんだ?」
まさか苗字のギター演奏によって全員腰を砕かされたとは思うまい。
イザナが、まるで意味がわからないという顔であたりを見渡すとギターを抱えた苗字と目が合う。苗字は肩をすくめた。それから床に転がる男たちを見て「みんな敏感なんだねぇ」と口にする。それに思わず武藤は苗字に近づいてその頭をぺしんと軽く叩いた。
「あいたっ!」
「ったく、おい苗字、さっきマネ、……三途から連絡が来てよ、用があるっつってたからもう帰んぞ」
「うむ、わかったー」
じゃあな、とイザナに声をかけてアジトを出る武藤。苗字は抱えていたギターをパイプ椅子の上に横たわらせてから武藤を追いかける。
そんな苗字の背に、ソファに寄りかかりつつフラフラとなんとか立ち上がった鶴蝶が声をかける。
「待て、ナマエ」
「うん?どうしたの、カクチョー」
「……ギターありがとな。カッコよかったぜ」
そう言って鶴蝶が笑ったので、苗字もきゅっと口角を釣り上げた。それから鶴蝶に背中を向けたまま手を振る。
カッコいいなんて当たり前だ。
それこそがロックンロールなのだから。
横浜から東京までを走る武藤のバイク。
その後ろに乗った苗字は武藤の背中に引っ付きながら流れていく景色を眺める。衣服越しに感じる自分のものではない体温や、腕を回す体の厚み、そこから何故か生まれる安心感。そんなものが苗字の最近の気に入りだった。
そして武藤もまた、背中に他者の体温を感じながらバイクを走らせることが近頃の楽しみだった。まあ他者も何も、乗せる相手は一人しかいないのだが。
夕方、いつもの喫茶店でマネージャーと打ち合わせをする。並んでやってきた武藤と苗字を見て、先に来ていた三途はやけに嬉しそうな顔をしていた。その理由に心当たりがあったから苗字は照れ臭さ故にバツの悪い顔をして、心当たりがないから武藤はさして気にすることもなく椅子に座る。
事務的な話をいくつか、雑談をいくつか、そして最後に「明日が楽しみですね」と三途は笑った。武藤と苗字は顔を見合わせた。
打ち合わせを終えて帰りに牛丼屋に行って腹を満たし、いつもの銭湯に行って温まる。それでもアパートに着く頃には冷えてしまう真冬。
アパートの外階段で中藤と鉢合わせた。中藤は武藤と苗字をジロリと見た後、特に武藤を睨んだ。睨まれる理由に心当たりがあり過ぎた故に武藤はそれを黙って受け入れる。殴られないのが可笑しいくらいだと誰よりも武藤がわかっていた。
散々睨んだ中藤はその後二人に「風邪引くんじゃないよ」と言った。それから「明日は精々頑張んな」とも。武藤と苗字は顔を見合わせた。
すぐに寝るからストーブはつけたくなかったが、アパートの部屋は冷蔵庫の中のように寒い。ラップ音なのか乾燥による家鳴りなのか判別のしづらい音が鳴り続ける中、武藤と苗字は家に帰ってすぐ寝巻きに着替えて、
一人で寝ると寒いからだ。それ以上の理由もそれ以下の理由もない。中藤が見たらドン引きだろう。
二人はもはや抱き合っていると言っても過言ではないくっつき方で互いに身を寄せ合う。二人の体温を分け合った布団の中でうつらうつらと微睡む苗字に武藤はぽつりぽつりと言った。
「苗字」
「うん」
「一つオマエに言いそびれてたことがあってよ」
「うん?」
「……何も言わずに出てって、悪かった」
「……気にしいだね、君は」
「ちゃんと謝ってなかったからな」
「ムトー」
「ああ」
「大丈夫だよ、私は怒ってないよ」
「知ってる」
「……でも、もうしないでね」
「ああ、わかってる。オレはもうただ無為にオマエを一人にはさせねぇよ」
武藤は静かな声でそう答える。苗字は何も言わなくて、ただぐずった子供のように武藤の胸元に額を寄せて鼻を鳴らした。泣いているのかただ寒かっただけなのか、その判別は武藤にはつかなかったし、つける気もなかった。
だから黙ってその大きな掌で彼女の背中を撫でる。繰り返し何度も、その背を温めるように。
二人はそれきり何も言わなくて、やがてゆっくりと微睡み、眠りに落ちていく。
本当のことを言うと、苗字も武藤も寒くたって一人で眠れるのだ。お互いそんなことくらいわかっていた。わかっていて、何も言わずに互いの体温に寄り添った。
二人ともまだ一人で眠るのは少し怖いから。
一人ではうまく眠れずとも、二人でなら深く長く眠れそうだから。
深く長く眠って、……眠り過ぎて、今起きた。
「……ムトー、今何時」
「……四時過ぎだな」
「朝の?」
「夕方の」
「今日ライブ何時からだっけ」
「七時」
「リハ何時からだっけ」
「四時半」
「アー、終わったお疲れ様でしたこれにはマネちゃんもブチギレ大激怒」
「うるせぇ言ってる場合か早くしろ」
人生最高速度だった。
全力疾走したのに普通に遅刻して歳下のマネージャーに引く程怒られたり、リハーサルだと言っているのにアドリブを入れまくる苗字を武藤がシバいたり、控室で弁当の取り合いをしているうちにライブの時間が迫っていた。
『パイルバンカー・パンデミック』の初のワンマンライブの時間が、すぐそこまで来ているのだ。
「……思えば、君と会ったのもこんな冬の日だったね」
「……?……いやオマエと会ったのは秋口だったろ、記憶力大丈夫か?二年前のことだぞ」
舞台袖でギターを抱えた苗字が珍しく神妙な顔でそんなことを言うので、武藤はしっかり否定しておく。苗字は一瞬キョトンとして、それからいつもみたいなふにゃりとした顔に戻った。
「そいや確かに秋だったわな。あー、なんかそれっぽいカッコいいこと言おうとしたのに失敗した」
「バカかよ」
へらーと笑う苗字に武藤はいつものように溜息をついた。
「オマエはギター弾いてる時くらいしかカッコよかねぇんだ。無理にンなことしてんじゃねぇよ」
「…………ほーん?」
「あ?なんだよ」
「いーや?ギター弾いてる時の私は君から見てもカッコいいんだなーと思って」
こちらを揶揄うように、それでいて嬉しそうに苗字は武藤へ笑顔を向ける。それを素直に肯定するのにはやや腹立たしいものがあるが、否定することだけは出来なかった。
当然の話だ。
二年前のあの秋の夜。孤独だった武藤の前に現れた彼女。泥酔しながらも乱れることのない指使いでギターサウンドを響かせた苗字名前という生き物は、あの夜の武藤にとってたまらなくカッコよく見えたのだから。
とはいえ、そんなことを言えるはずもない武藤は黙ったまま隣にいる苗字の髪をしっちゃかめっちゃかにガシガシと撫で乱した。やられた苗字はバタバタと抵抗するが小柄な彼女では子ウサギの抵抗だ。
「髪!乱れる!」
「生意気言うからだろ」
「生意気なのは君だよ!私の方が先輩なんだからな!?」
散々乱して手を離せば、ぐしゃぐしゃ頭の苗字は上目遣いに武藤へ凄む。全然怖くなくて逆に驚いた。
それから武藤は手櫛で苗字の乱れた髪を梳くように直してやる。ぐしゃぐしゃのままステージに上がったら、おそらくマネージャーにまた叱られるから。
されるがままの苗字は真っ赤なレスポールを抱きしめている。
先日の抗争に巻き込まれて折られたレスポールはひどい有り様でもう引退だろうと思っていたが、なんとか修理は可能だったらしい。折れたネックを新しいものに変えたおかげでレスポールはネックだけがピカピカだ。修理の入っていないボディは散々バット扱いされたせいで随分傷だらけだったけれど、苗字は気にせず「傷も勲章」と笑っていた。
苗字名前とレスポール。
その二つが揃っている姿を武藤は愛している。
その二つが揃うのを本当はずっと待っていた。
そうだ、ずっと待っていたのだ。
二年前、イザナと離別して一人孤独に過ごしていた時、本当はずっと誰かが自分の手を取ってくれるのを心の奥底で待っていた。
己の意思で苗字から離れて天竺へ合流した時、本当はずっと苦しくて苗字が自分の元に来てくれるのを心の何処かで待っていた。
強い力と立派な体格を持ちながら、それでも武藤泰宏は未成年で孤独で無知で、誰かの助けを必要とするただの子供だった。
ずっと助けを求めていた。求めていながら、声を上げる方法を知らなかった。黙って座り込んだまま立ち方さえわからなくなっていた。
けれど彼女はその度にレスポールと共に現れた。
破天荒に、笑って、語って、叱って、許して、手を握ってくれた。
運命と呼ぶには小汚くて、奇跡と呼ぶには情緒がない。けれど、偶然と呼ぶには救われすぎた出会いだった。
「苗字」
「うん?」
「……オレは、オマエに会えてよかったよ。オマエといると楽しくて仕方ねぇからな」
いつかの夜に伝えられなかった言葉をここで口にする。
その言葉に苗字は目を丸くして、それからピースをした手を武藤へ向けて、笑顔でこう言った。
「知ってる!」
その時、オーディエンスの中から待ちきれなくなった誰かが叫んだ。
『パイルバンカー・パンデミック』と。
途端に噴き上がる卑猥なコールにも二人はすっかり慣れた。武藤は深くキャップを被り、苗字はサングラスで目元を隠す。
それから二人、互いを見つめ合った。
真っ黒なグラスの向こうで苗字がウインクをしたのが頬の動きでわかって、無意識に体に纏っていた緊張が解ける。
「それじゃあいこうか、ムトー」
「ああ、苗字」
苗字が握った拳を武藤に向ける。
その小さな拳へ応えるように武藤は自分の拳を軽くぶつけた。
さあ、『パイルバンカー・パンデミック』のワンマンライブの始まりだ。