第一章『MY PRAYER』
歴史と最新の街。イタリア、ミラノは最高だ。
サンタ・マリア・デレ・グラッツェ教会の中で初めて見た「最後の晩餐」はその絵画が描く世界の中に飲み込まれてしまいそうなほど素晴らしかったし、都市中心部にあるミラノ大聖堂は繊細に編み込まれたレースのような美しさだった。
地層のように重ねられてきた歴史の一番上で、けれどこの街はミラノ・コレクションを代表するように最新の美を魅せるファッションの街でもある。街を歩く人々のファッションは洗練されているし、ショーウィンドウは覗く度に吐息が零れる。
それからグルメも忘れちゃいけない。ふらりと立ち寄った店で買ったパニーニは声を上げたくなるほど美味しかった。しょっぱいものを食べた後は甘いものが食べたくなるからと思わず買ってしまったジェラートだけど、今だけはカロリーやダイエットのことは忘れることにする。
柔らかい母音のイタリア語。
幸せそうに笑い合って歩く人々。
どこまでも鳴り響く教会の鐘の音。
映画の中みたいな石畳の道路。
そんな素敵な街、ミラノで私は今、
「テメェら逃げられると思ってんのか!」
「止まりやがれクソがァ!」
「地の果てまで追いかけてやるからなァ!」
怖い人たちに追っかけられて、カーチェイスをしてします。
「ああああああ!!なんで!?なにが!?なんでこうなった!?」
「おい、ちゃんと前見て運転しろ」
必死の形相でハンドルを握る私の横で、助手席に座った腐れ縁の平等院がさっき私が買ったばかりのジェラートを手に持って他人事みたいな顔でそんなことを言った。
「誰のせいでこんなことになったと思ってんのよ!」
思わず前を見ることも忘れて平等院へ怒鳴りつけるが、彼はどうでもよさそうな顔で頭を掻いている。というか、目を話した隙に私のジェラートに歯形がついている。
「なに私のジェラート食ってんだ!!」
「うるせぇな。貴様が渡してきたんだろうが」
「黙って持ってろって意味だよ!!」
石畳の道路はでこぼこしてて走りづらいし、道も狭いし、人が道路全然歩くし、路面電車走ってるし、ミラノの交通事情最悪!ほんと最悪!全部最悪!
走れるならなんでもいいから一番安いのにしてくれと言ってレンタルしたオンボロ車はサンルーフがついたイエローのフィアット500。通称、チンクエチェント。
アニメ映画のルパン三世に登場した車、といえばわかる人もいるのかもしれない。
小さくて可愛いしロマンはあるが、こんなことになるならもっと最新で高性能のやつを借りればよかった、なんて後悔をしながら、私は現実逃避に事の始まりを思い返していたのだった。
◇
ドイツの国立体育大学への短期留学者、というのが私── 宇治宮朝日の現在の身分である。
私は柔道整復師志望として日本の大学で学んでいたのだが、将来的に海外で働く可能性も考えて大学で募集されていた短期留学に申し込んだのだ。そうし
てやってきたドイツですでに半年ほど語学とスポーツ医学について学んでいる。
学生は勉強が本分。とはいえ、せっかくの海外留学。休日くらい教科書を放り出して出かけたい。まして連休なのだ。せっかくヨーロッパに来たのだからドイツだけにいるのも勿体ないと足を伸ばしてイタリアまで行くことにした。連休初日にベルリンから飛行機で二時間弱。
そうしてやってきた憧れのミラノ!
ミラノの街は電車やバスでいくらでも移動可能だったけれど、せっかく取った国際免許を活用しようと私はレンタカーを借りて移動することにした。
運転は日本にした頃からしていたし、車好きの父に借りて乗った外車で左ハンドルの操作経験もある。それになによりしっかりと保険には入った。
まだ知らないことを知ってみたい。
まだ見たことないことを見てみたい。
まだ体験したことを体験してみたい。
つまるところ、そんな若い好奇心故の選択だった。
半日後には物凄く後悔しているが、ある意味それも含めて経験だ、と思うことで自分の心を慰めている。
とかく、私はチンクエチェントを相棒にミラノの街を走った。
歴史や美術に目を奪われたり、ガッレリアでショッピングやグルメを楽しんだり、気ままに過ごして、いつしか時は十七時に差し掛かっていた。
イタリアの初夏は日が長い。日本ならばすでに夕暮れになっているだろう十七時頃でさえ、まだ太陽が高く登っている。
陽の光が降り注ぐ大聖堂前の広場。
その中を買ったばかりのジェラートを手に歩いていると、そう遠くはない場所からドゥオーモの鐘が鳴り出して不意に足を止める。
私だけではなく、観光客らしい人たちはみな足を止めて顔を上げていた。一斉に羽ばたき出す鳩の群れ。鐘の音を気にしないのはここで暮らしている人たちばかりだろう。聞き慣れない異国の音色。見えないながらに大きな鐘が揺れるのを瞼の裏で想像する。
見上げた青空に吸い込まれていくかのように沢山の鳩が飛び立っていく。
吹き抜ける風の音、羽ばたきの音、石畳を往く足音、それらを全て包み込むような鐘の音。
その時、不意にたくさんの音の群れに紛れて、どこか剣呑な声音が耳に届いた。何の気もなしにそちらへ視線を向ける。
そのことに気がついたのは私くらいだったのだろう。
周囲の人たちは大きな鐘の音に気を取られて、それに気がついてはいないようだった。
目を向けた先にいたのは、誰かを探している様子の三人の黒服の男たちだった。
黒いサングラスをかけた三人は厳つい表情で声を出し、周囲へ目を向け、あちらこちらを指差している。
彼らの明らかに堅気らしくない雰囲気に、ただでさえ観光地ということで感じている非日常感が重なって思わず興奮に胸が高鳴る。
イタリアでギャングじみた人たちが人探しをしている、なんてまるで映画のワンシーンみたいだ。
ついそちらの方が気になって彼らの方をを眺めていると、広場の中、三人組からさりげなく距離を取ろうと離れていく人がいることに気がついた。その人は広場を出ようとして、出入り口付近に立つ私の方へ近づいてくる。
大きなラケットバッグを背負い、ジャージのフードを深く被ったその大柄な男性は、三人組に気付かれないよう人の流れに合わせつつ広場を離れようと歩いていく。
と、その時、周囲を警戒するように顔を上げたフードの男と不意に目が合った。
その野生動物のような鋭い琥珀の瞳に貫かれて、反射的に一瞬怯みかける。けれどそれ以上に覚えた既視感に目を大きく開いた。
…… いや、まさか、こんなところで?
ああ、でも、私があの男のことを見間違える筈がない。
「……平等院?」
「貴様…… 宇治宮か?」
スポーツマンらしい背丈と体格。フードの下で影を落とす金の髪、ウェーブのかかった前髪の下にある額の傷跡、見た者を怯ませるような鋭い目つき、精悍な顔つきを引き立たせるような無精髭。
何年経っても忘れられるわけもない、その顔。
留学中に行った観光地で母国の旧知と出会う可能性とは一体どのくらいのものなのだろう。
驚いて丸くした私の瞳に映っていたのは、同じように驚いた顔をした平等院鳳凰の姿。
偶然と呼ぶべきか、運命と呼ぶべきか、あるいはただの腐れ縁なのか。
とかく私は異国の地で、学生時代の友人と再会したのだった。
…… と、ここで終わっとけば奇跡的な再会だったのだが、そうは問屋が卸さない。
「いたぞ!あそこだ!」
私が平等院に気がついたのと、平等院が私に気がついたのと、黒服三人組が平等院に気がついたのはほぼ同時だった。チラリと背後を見遣った平等院は舌打ちをすると走り出す。
「チッ、バレたか」
「は!?」
何故か、私の右腕を掴んで。
加減無く走り出した平等院に腕を引っ張られて、慌てて私も走り出す。左手に持ったジェラートがコーンから落ちそうで怖い。
「話は後だ。撒くぞ」
「なんで私まで!?」
走り出した瞬間、フードが脱げて平等院の癖のある長い髪がふわりと露わになる。
日光を受けてキラキラと輝く彼の黄金の髪が風に靡いた。
あの三人組に追われているらしい平等院に手を引かれるがまま広場を抜けていく。
ミラノの石造りの町を走り、追手を撒くために狭い路地へ入り込み、スフォルツェスコ城方面へ向けて入り組んだ道を駆け抜ける。チラリと背後を見ればイタリア語で怒鳴りながら追いかけてくる三人組。思わず悲鳴じみた声が出る。
「うわ来てる!平等院、君、どこに行くつもり!?」
「決めてねぇ。とりあえずアイツらを振り払ってからだ」
無計画に走り続けても消耗するだけでどうしようもないが、計画を立てるだけの余裕も無く追われているのだろう。
厄介ごとに巻き込まれているという自覚は重々あったが、ここで知り合いを見捨てるほうが寝覚が悪い。
私は腹を括ると、走る速度を上げて平等院を追い抜く。掴まれたままの腕を引いて、こっちへ来いと彼を引っ張った。
「仕方ない。旧友のよしみだ。こっちおいで」
そう声をかければ、平等院は何も問わず黙って着いてきた。
「走って逃げるより車の方がいいでしょ」
広場からやや離れた道路傍に停めていたレンタカーの元まで辿り着くと、助手席に乗るよう平等院へ声をかける。
他の二人とは分かれたのか、後ろから黒服の男が一人、しつこく私たちを追ってくる。が、さっさと車に乗ってしまえば追いつけまい。
私は運転席に乗り込むと「持ってて」とまだ一口も食べれていないジェラートを助手席の平等院に持たせてからオンボロ車のエンジンをかけた。
「貴様の車か?」
「レンタカーだけどね。性能は外観の通り」
「ボロってわけだ」
「人の脚はマシだと思って」
サイドブレーキを外して、即座に車を発進させる。行き先はともかくここから離れるのが先決だ。
何があったかは知らないが、とりあえず中央駅あたりまで行って降ろしてやればいいか、と思ってそちらへ向かって車を進ませる。
「平等院、君に聞きたいことは沢山あるんだけど、まずは、」
と言っている途中で、不意に平等院は無言でバックミラーを指差した。自然、私の視線はミラーの中へ向かう。
そこには後ろから私たちを追う黒塗りの車があった。
気がついた瞬間、威嚇みたいに鳴らされる唸り声みたいなクラクション。助手席の窓から顔を出してこちらを見ているのは、先程まで平等院を追い回していたあの黒服の男のうちの一人だ。バックミラーの中で私たちをしつこく走って追いかけていた黒服が車に乗り込むのが見えた。
「うっそ!もう見つかったの!?」
「どうやら一人に俺たちを追わせて、他の二人が車を持ってきていたみてえだな」
「悠長に言ってる場合か!」
車通りの多い大通りから離れようと、慌ててハンドルを切って小道に入る。当然追いかけてくる黒いクルマから距離を取るためハンドル操作をミスらないギリギリのところまで速度を上げる。気分はミニミニ大作戦だ。
「ほう、やるじゃねぇか」
感嘆する平等院の声が右隣から聞こえるがそれどころではない。旅行前に地図を読み込んできたこともあって、ミラノの道はそれなりに把握している。右へ左へ歩行者や車に気をつけながらこれまでに培ってきたドラテクでミラノの街を縦横無尽に走る。
サイドミラーへ視線を向ければ、先ほどまでよりずっと小さく見える追手の車。
よし、このままの調子で逃げ続ければ撒ける!
私がそう確信したのと、背後から凄まじい速度で飛んできた何かが車のサイドミラーすれすれを通り過ぎていったのは同時だった。
背後から飛んできた何かは車の横を通り過ぎると、道路傍に立っている街灯の真ん中あたりにぶつかる。
街灯はその何かがぶつかった部分からボキリと、まるでお菓子か何かみたいに容易く折れた。
………… 折れた?街灯が?
見間違いでなければ、今後ろから飛んできたのは黄色いテニスボールだった様に見えたのだけれど。
ガッシャーン!と街灯が落雷みたいな音を立てて倒れる音が背後から聞こえたが、バックミラーを見る余裕も振り返る余裕もなく私はアクセルを踏んだまま固まっていた。
「……………… なに、今の」
「テニスボールだな」
「な、なんでテニスボールが飛んでくるの」
「奴らは南イタリアのテニスギャングだからな」
「テニスギャング!?」
日常暮らしていてまず聞かないワードに目を剥いた。意味が理解できずオウムのように言葉を反復する私に平等院は日常会話の様なテンションで答えた。
「テニスを犯罪利用するギャング共のことだ」
「テニスを犯罪に!?」
「プロのスマッシュ速度が戦闘機に匹敵することは貴様も知っての通りだが、」
「初耳だけど!?」
「つまるところ、使いようによってはテニスは凶器になる」
「なるの!?」
「俺は昔南イタリアのテニスギャング組織を壊滅させたことがあってな」
「そうなの!?」
「奴らはその残党だ」
「馬鹿なの!?そりゃ追われるわ!恨み買ってるに決まってんじゃん!」
思わずバックミラーで背後を確認すると、再びこちらでテニスボールを放とうと、助手席の窓から身を乗り出してラケットを構える男の姿が見えた。
追手の彼らは「テメェら逃げられると思ってんのか!」だの「止まりやがれクソがァ!」だの「地の果てまで追いかけてでも捕まえてやるからなァ!」と声を張り上げてラケットを振り回している。
目の前に組織の仇がいるのだと思えば、彼らの必死な形相にも納得がいくが、それはそれとして巻き込まれたこっちはたまったモンじゃない。
今すぐにでも意識を飛ばしたくなる気持ちを必死に堪えて、私は叫んだ。
「ああああああ!!なんで!?なにが!?なんでこうなった!?」
「おい、ちゃんと前見て運転しろ」
ここで話は冒頭に戻る。
出来るだけ右折左折を細かく繰り返して、私の可愛いチンクエチェントにテニスボールをぶち込まれないようハンドルを捌く。頭の中で地図を描き、逃げ道を探し続ける。が、それにだって限界は来る。
「わ、わ、わ、だめ、無理無理、もう無理!」
この路地を出て仕舞えばもう直線道路しか無い。速度を上げるにしたって、他の車も走ってるし、アウトバーンじゃ無いから限界がある。もう駄目だ、捕まる。
テニスボールをぶち込まれて煙を上げて壊れるレンタカーを想像して泣きそうになった。損害賠償ってどうなるんだろう。これ事故ですか?事件ですか?私のせいですか?
泣きそうな顔で悲鳴じみた声を上げる私に、隣でずっとサクサクサクサク咀嚼音を立てていた平等院は、…… いやコイツ私のジェラート全部食べてるよ、コーンまでとっくに達してるよ、なんなんだコイツ…… 。
いや、まあ、とにかく平等院はコーン最後のカケラを口の中に放り込むと「直線に出たら車体を揺らすな」とだけ言って、彼のラケットバッグからテニスラケットとテニスボールを取り出した。
「は…… ?君、何を考えて、」
「運転に集中してろ」
平等院はチンクエチェントの天井にあるサンルーフの窓を開けると、そこから外へ体を出した。彼の伸びた金色の髪が強い風に逆巻き、追手からはさながら獅子の如き姿に見えただろう。
何をするつもりかわからないが、もう後ろのことは彼に任せるしかなかった。
「ああもう!平等院!直線に出るよ!」
路地を抜けて直線道路に出る。言われた通り前を向いてただ車体を揺らさないように走り続けることだけを考える。
◇
チンクエチェントの天井に立ったその時、平等院は背後に迫り来る追手の車を見据えながら微かに口角を上げた。追手に向けてではなく、今この小さなオンボロ車を必死の形相で運転しているだろう古馴染みの女に向けて。
状況など何もわかっていないだろうに、それでもただ最善の選択をしようする姿は見ていて、…… 悪いものではなかった。平等院の笑みは彼女からは見えてはいないだろうが、そんなことは構わない。
逆光、神話のような金色の太陽を背に平等院は追いかけてくる車を睨んだ。
貴様らには悪いが、通り過ぎた過去にむざむざと捕まってやるつもりはない。
平等院は小さく呟いた。
「滅びよ」
彼の手の中でテニスボールが光り輝いて、逆光は反転する。左手で宙に放ったボール。刹那、それを平等院はスーパースイートスポットで撃ち抜いた。
それは破壊であり、排除の『ディストラクション』。
初めから、貴様らに示せるのは拒絶だけだ。
弾丸のように放たれたボールが追手の車のボンネットに当たった。そこから始まる軋み。至る破壊音。
結末は見なくてもわかる。彼は残心のように静かに瞼を閉じ、背を向けた。
あたりに響き渡ったその轟音を置き去りにオンボロ車は太陽へ向かって走っていく。
◇
サンルーフを閉めて助手席に戻ってきた平等院を私はドン引いた目で迎えた。
「………… なんだその目は」
「この目にもなるでしょうよ。…… あの、聞くのも怖いんだけど、あの人たち大丈夫、なんだよね?」
「フン、命までは獲らん」
「当然だろうが!獲ってたら問答無用でサツに突き出してるわ!!」
後ろを振り向くのは怖いのでやめた。
そもそもなに?さっきの音。爆弾でも爆発した?ってくらいの轟音だった。本当にあの人たち大丈夫なんでしょうね…… ?
当然のように助手席に座って踏ん反り返る平等院に私はハンドルを持ったまま肩を落とす。手段はどうであれ追手は撒いた、ということでいいのだろうか?
「ハァ…… しかし、なんていうか、災難だったね。それじゃあ君のことは中央駅あたりにでも降ろしてやればいい?」
「何を腑抜けたこと言ってんだ」
「あ?」
彼が何を言いたいのか分からず首を傾げれば、物分かりの悪い子供に対するように平等院は面倒臭そうに溜息を吐いた。
「言ったろうが、アイツらはギャングだ。一度追うと決めたら地獄の果てまで追ってくる。あの程度では折れん」
「うわー、マジか。君も大変だね」
「阿呆か。貴様もターゲットになったに決まってんだろうが」
他人事みたいな発言に予想外の言葉を返されて、思考が停止する。
「…… は?なんで?」
「俺の逃亡幇助をしておいて今更他人ヅラする気か?」
「幇助って、そもそも君が巻き込んだんじゃん!」
「広場で会った時点でアイツらには俺と貴様が顔見知りだとバレちまっていた。あの場に放置してたら貴様、奴らの人質にでもされてたぞ」
「怖!…… えっ、ってことは平等院、君、私を助けてくれたのか」
「ハッ、最悪盾くらいにはなるしな」
「おいコラ」
憎まれ口だと言うことくらいはわかる。巻き込まれたのは事実であるけれど、助けられたのも同じように事実だ。広場での再会が偶然であった以上、私がこの騒動に巻き込まれたのは平等院のせいでもない。
…… いや、そもそも平等院がギャングに追われるようなことをしなければよかったのでは?
思わず頭の中で審議が入る。
「俺の目的地はウィンブルドンだ」
不意に平等院は呟くようにそう言った。その行き先の意味ならば私にもわかる。
今、季節は初夏、六月。
来週には全英オープン、ウィンブルドン選手権が開催される。
そして平等院は今や日本を代表するプロテニスプレーヤー。ウィンブルドンに参戦する選手の一人なのだ。
追手のいない静かなドライブ。赤になった信号に車をゆっくりと停止させる。
「ウィンブルドン、ってことは飛行機かTGV?」
「TGVは最終便が十四時台だ」
「早ッ!新幹線の最終便が真っ昼間ってことある!?」
「乗るとしたら深夜発の寝台列車か明日朝のTGVだが」
「あー、まあ、追われてるってのにそんな悠長に列車待ってる暇はないよね」
「そもそも列車や飛行機は逃げ場がねえ。それに他人を巻き込む可能性がある」
「すでに私が巻き込まれてるんだけどなー」
「貴様は他人ではないだろう」
「…… じゃあ何?」
「俺の舎弟だ」
「マジパンチするぞオラ」
私は深く溜息をついて、それから頭の中に地図を浮かべた。列車はダメ。飛行機もダメ。そしたら残る手段はこの小さなチンクエチェントしかない。
「ここからウィンブルドンへってなるとまずは車でパリに向かうしかないかな」
「やはりパリか。今から行くぞ。貴様も同行しろ」
「平等院」
などという茶番は置いておいて。
深く溜息を吐く。肺が潰れるんじゃないかってくらい深く深く。それから息を吸う。たっぷりと空気を吸ってから背筋を伸ばして大声を出した。
「乗りかかった船だ!乗ればいんでしょ乗れば!」
ヤケクソみたいに腹を括る。いつしか退路は塞がれていて、だからといって隣の男を見捨てて一人で逃げることはできない。
ならばウィンブルドンまで、今は覚悟を決めて向かうしかない。辿り着いた先に何が待ち受けているのかもわからないけれど。
あとは乗った先が泥の船ではないことを祈るだけだ。
そう口にすれば平等院は鼻で笑って私の言葉を否定した。
「俺の船は沈まん」
確信じみた言葉だった。根拠など何も無いのに彼の言葉なら信じられる、と思ってしまったのはどうしてだろう。
信号が青になったのを確認してから私はアクセルをゆっくりと踏み出す。そうすれば小舟みたいなチンクエチェントは前へ進む。乗っている私たちも。
その先にあるのが嵐だと知りながら、私たちは大海へ漕ぎ出していく。
それが学生時代ぶりに再会した平等院と私のヘンテコな珍道中の始まりなのだった。