第二章『魂こがして』
私と平等院の関係性を一言で言うのならば、高校生の時の同級生だ。
私と彼は三年間ずっと同じクラスだったのだけれど、彼はテニス部でとにかくテニスに入れ込んでいる人で、急に長期に休んで海外へ修行に行ったりと突拍子もない行動ばかりをしていたから、教室で顔を合わせることはほとんど無かった。きっと彼は私と三年間クラスメイトだったことなど覚えていないだろう。
その上、平等院は愛想のいいタイプではなく、むしろ野生動物のような警戒心と威圧を隠さないくらい人だったから、あまり仲の良い友人というものはいなかったと思う。それこそ同じテニス部の渡邊くんくらいとしか連んでいるのを見たことがない気がする。
変わった人ではあった。
だが、彼の言動にはいつだって妙な説得力があった。
孤独ではなく孤高。誰よりも自分に厳しい彼を前にすると自分のままならなさを目の当たりにさせられるような気がした。
自分の努力は本当に努力と呼べるものなのか?
自分の本気は本当に本気と呼べるものなのか?
自分の覚悟は本当に覚悟と呼べるものなのか?
彼の目に見つめられると大人たちに守られた生ぬるい箱庭の中で不平不満を吐く己が酷く矮小なものに見えてしまう。十代の年若いアイデンティティなど糞以下の酷く下らないものに思えてしまう。
だから同級生はみんな、彼へ一目置きながらも彼に向き合うことが怖かった。その目で見つめられたら、自分の価値を信じられなくなってしまいそうだから。
だから彼はずっと孤高の存在だった。
全身全霊で生きている人。傍から見ていてもそうだった。だから本当は少し、いやとても、怖かった。
生きるとは、死に向かうことだ。本気で生きている人だから、いつかその本気のまま死んでしまうような気がした。
孤高で強くて怖くて、儚い。
そういう人だった。私はそう思っていた。
少なくとも、高校三年生のあの日までは。
◇
ぐうう、と腹が鳴った。
私のではない、平等院のだ。
ミラノからずっと運転しているものすごく偉い私ではなく、助手席に座ったまま気怠そうに窓の外を眺めてばかりいてミラノでは私が買ったジェラートを勝手に全部食べた平等院が呑気に腹を慣らしている。
「私のジェラート食っておいて腹鳴らすのなんかムカつくな…… 」
「腹の足しにもならなかったな」
「後で車降りたら本当に君のことブン殴るからな…… ほんと加減無しでグーでいくからな…… 」
ミラノを離れた私たちはパリへ向かって進んでいた。ミラノからパリまでは単純に計算して約九時間の旅になる。当然休憩なしに突き進む、ということは不可能だ。
そんなわけで私と平等院はまずイタリア北西部、スイスやフランスとの国境近くの街『アオスタ』へやってきた。一つ目の休憩地点である。
アオスタは二千年前のローマ時代の遺跡が多数残るとともに、スイスの国境近くという事で美しいアルプスの山嶺が見える、史跡と自然の町である。
とはいえ、今のところ追手らしい人は来ていないが、私たちは追われる身。のんびり観光するわけにはいかない。
今回は腹ごしらえをしたらすぐにこの街を離れることになりそうだ。
せっかくの美しい街にサービスエリア程度にしか立ち寄れない悲しさを抱えながら、見かけたトラットリアに車を停める。
「とりあえず晩ご飯にしようか」
サイドブレーキを掛けながらそう言えば平等院はこちらを見て真顔で腹を鳴らした。
本当に空腹で仕方ないようだ。
さっさと車から降りようとする平等院をけれど私は慌てて引き留めた。
「ちょっと待ちなさい、食いしんボーイ」
「誰が食いしんボーイだ」
「君はもう少し自分に見た目に気をつけなよ」
私は後部座席に置いていた自分の旅行用のボストンバックからデニムキャップを取り出した。後頭部部分のベルトを緩めてから「はい」と平等院の頭に深くかぶせてやる。
「…… なんだこれは」
「君みたいなデカくて厳つくて顔怖くて額に傷のあるアジア人なんて人目を引くでしょ。一応追われてる身なんだから、せめておでこと目つきくらいは隠しなさい」
されるがままキャップを被せられた平等院は何か言いたげな顔でこちらを見ていた
が、小さく溜息をついただけで結局何も言わなかった。
「さ、ご飯行こ!」
「ハァ…… 」
「溜息つくんじゃない」
車を降りた私たちはあえて観光客をターゲットとしたようなトラットリアに入る。
地元の人ばかりの店だと目立ってしまうからだ。きっとそういうお店の方が美味しいのだろうけど。
「って思ってたけど、全然美味しいわ。本場のチーズ最高ね」
アオスタがあるヴァッレ・ダオスタ州の名物料理であるポレンタ・コンチャ。マッシュポテトみたいに柔らかくしたとうもろこし粉をフォンティーナチーズでグラタン風にしたものだ。中に豚ベーコンがたくさん入っていて食べ応えもある。
「美味しい…… 」と幸福感に満たされていると、正面に座っている平等院が当然のように私の料理にまでフォークを伸ばして食べ始めた。ジェラートといいコイツ人のものばかり…… 。
食われてばかりでは付け上がらせるだけなので、私も負けじと平等院の皿にフォークを向けた。
彼の皿に乗っているのはコストレッテ・アッラ・ヴァルドスターナ。簡単に説明するなら、アオスタ風のカツレツ、と言ったところだろうか。仔牛のロースにフォンティーナチーズやプロシュートを挟んで衣をつけて揚げた食べ応えのある肉料理だ。
「んまぁ…… 」
サクサクの衣を齧れば中から零れるチーズと柔らかい肉。イタリアは何を食べても美味しいと聞くけれど本当になんでも美味しい。これでワインが飲めたら言うことなしだ。機嫌良く食事を進めていれば、平等院に「呑気なツラだな」と鼻で笑われる。
呑気に助手席乗ってた君にだけは言われたくない。
「ん、そうだ、平等院」
「なんだ」
「さっき調べたんだけど、ここからだとモンブラントンネルを抜けてジュネーブ方面に行くでしょ、それからA40号線でアヴァロンを通ってパリに向かうのが良いみたい」
お冷やを飲みつつ今後のルートについて相談しようとすると、平等院に興味なさげな顔をされる。
「聞いてるー?」
「聞いてはいる」
さては聞いてないな?
「ともかくこれからのルートの話なんだけど、今調べただけの私より君の方が海外長いから他に良いルートがあるなら聞こうかなって思って」
「知らん」
「オン?なんだァその態度?グーが出るぞ?時には暴力も辞さないぞ私は」
「だいたい俺は車を運転しねぇから高速はわからん」
「…… えっ、君、免許持ってないの?」
「バイクのしかねぇ」
あっけらかんとそうのたまう平等院に、流石に唖然としてしまう。
「は、」
「は?」
「早く言いなさいよ!普通に二人で交代制で運転すると思ってたわ!え!?じゃあ私がパリまで一人で運転すんの!?」
「パリまでじゃねぇ。ウィンブルドンまでだ」
「やかましいわダボ!絶対パリに着いたら車なんか乗り捨てて絶対ユーロスターに乗ってやるからな!」
憂さ晴らしに平等院の皿の中のカツレツを次々食べてやったら平等院にストレートに頭をはたかれた。お前も私のグラタンを食うな。なんでカツレツより食いつきがいいのよ。最終的にお互いの皿を交換して食べた。なんなんだ。君、グラタンの方が気
に入ったのかよ。
不平不満を吐いても先には進めないので、とりあえず食事を終えて店を出ることにした。とにかく今は進むしかないのだから。
そう思いながら、外へ出て車へ戻ろうとしたその時。
「奴ら本当にこっち方面に来てるんですかねぇ、マーレの兄貴ィ」
「今日はフランスの方でストがあって飛行機は大半が欠航、列車も止まってる。つったら陸路しかねぇだろ。陸路の最短はジュネーブとアヴァロンを通るルートだからよ、だとしたらアオスタ来ててもおかしくねぇぜ、テラ」
「へぇ、流石っすねぇ!兄貴!」
「奴らの最終的な目的地はわかってんのさ。チェーロが先回りしてんだから俺らは俺らでやることやるだけだ」
「まずは腹ごしらえっすね!」
店を出ようとしたところで、店に入ろうとしている黒服の二人組とかちあわせた。
「え?」
「あ?」
「あん?」
「アレェ?」
上から順に、私、平等院、黒服の先輩っぽい人、黒服の後輩っぽい人。
二人と二人で真正面から向き合って、目を丸くする。
間違いなく、ミラノで私たちを追ってきていた黒服三人組のうちの二人だった。お互いにお互いを見て、固まる。追っている側も追われている側も、まさかここで鉢合わせするなんて誰も思っていなかった。一瞬、ポカンと惚けて、それからすぐにハッとする。
やばい、見つかった!
咄嗟に平等院の腕を取って逃げようとした、その一拍前。
誰よりも早く動いた平等院は、黒服の偉そうな方の鳩尾へ躊躇いなく前蹴りを決めた。綺麗なヤクザキックだった。
「ぐあああ!!」
「ア、兄貴ィ!?!?」
「ヤ、ヤクザキック!?平等院マジモンのギャングにヤクザキックした!?」
「行くぞ」
「行くの!?」
「行かねぇのか」
「行くよ!!」
吹っ飛ばされてすっ転んだ先輩黒服とそんな黒服に慌てて駆け寄る後輩黒服を尻目に、私たちは互いの腕を掴み合いながら走り出した。私は慌ててチンクエチェントに乗り込んでエンジンをかける。
「平等院!シートベルト!」
「真面目か。した」
アクセルを踏んで即座に加速する。ブゥゥン!と厳つい音を立てて飛び出すチンクエチェント。オンボロ車の割りになかなかに頑張りを見せてくれる。
「ルートが奴らにバレていた。変えるぞ」
「マジかよ、平等院」
確かに一応別のルートも調べてはいたのだ。それを慌てて思い出す。
ジュネーブに行くためにはモンブラントンネルを通る必要があるが、バレていた以上トンネルを通るルートは使えない。つまるところ、トンネルを使わないルートに限定されるということだ。
…… となると、グラン・サン・ベルナール峠を通ってスイスのローザンヌに向かうしかない。
一番使いたくなかったルートだ。冷や汗が額に浮かぶ。
前提として、アオスタからパリへ向かうには主に三つのルートがある。
一つは当初計画していたモンブラントンネルを使って国際都市ジュネーブを通るルート。安牌な最短ルートだが、それ故に当然追手にはバレていた。
二つ目はスイスを経由せず、フランスのリヨンを通るルート。これは最も平坦で安全なルートだが、最も遠回りなルートでもある。そしてこれもモンブラントンネルを使う必要がある。
そして最後、私が最終手段として考えているのはジュネーブの北東に位置する大都市ローザンヌを通るルート。
このルートの特徴は他でもない、イタリアとスイスの国境にあるグラン・サン・ベルナール峠を通ることだ。
アオスタからジュネーブやリヨンを目指すのならば、モンブラントンネルを通って安全にイタリアを出ることができる。
だが、アオスタからローザンヌを目指すのならば、これまでに数多の遭難者を出してきた危険な峠道、グラン・サン・ベルナール峠を通るしかない。
そこは標高二千五百メートルの荒れた峠道。特に冬季は氷点下三〇度にもなり、夏場であっても雪が降るような場所だ。特に十月からは五月までは危険すぎてそもそも
車の通行さえ禁止されている。ちなみに現在は六月半ば。通行が解禁されたばかりのギリギリの時期。
このルートは危険だ。
そもそも標高の高い山道であるし、残雪が雪崩れたら軽自動車などひとたまりもない。
逆に言えば、その危険さ故に彼らもまさか我々がそのルートを選ぶとは思わないはずだ。確実に追手を振り払うことはできる。
追手に捕まる危険と峠を通る危険を天秤に計れば、前者の方に傾く。追手は確実に迫ってきているが、山での雪崩は起こるとは限らないからだ。
…… だが、もしも万が一が起こったら?
私だけなら良い。だが平等院がいる。もしも何かあったら、私は私の判断の正誤に平等院まで巻き込むことになる。
それに気がついた瞬間、ハンドルを握る手に汗が滲むのを感じた。
ハンドルを握っている以上、どうであれこの船の船頭は私だ。最終的な判断は全て私にあり、私の判断に全ての責任がある。運転するとはそういうことだ。それは同乗するすべての命の責任を負うということに他ならない。
判断、責任、覚悟。重くのしかかるプレッシャーに身体が無意識にこわばる。
「宇治宮朝日」
その時、怖気付く私に気がついてか、平等院に鋭く名前を呼ばれた。突然の声に驚いて肩が揺れる。反射的に助手席の彼を見た。真っ直ぐに前を見つめる彼の横顔を。
平等院は酷く穏やかな顔つきをしていた。きっと、真に腹を括った人間の顔とはこういうものなのだろう。平等院は低い声で私に告げた。
「俺は貴様の判断に殉じる」
そう、ただ一言。たったそれだけ。
それだけの言葉で、私は覚悟を決めることができた。
向けられた信頼に怯むことはない。ならばただ応える。
私は息を吐いた。それから大きく息を吸う。
「…… 平等院、私たちはこれよりグラン・サン・ベルナール峠を越え、ジュネーブ湖を北上してローザンヌを目指す」
腹を括った私に平等院は満足げに笑った。
「…… 峠の通行は解禁されたばかりで、危険すぎるけど、」
「構わねぇ。行くぞ」
「…… 平等院」
「どうした」
「…… ありがとう、頼ってくれて。その信頼に応えるよ。私は、何があっても必ず君を守る」
私がハンドルを握り、前を向いてそう返せば、隣に座る平等院が小さく笑うのが感じられた。
「…… フ、貴様は昔から変わらんな」
「え、何の話?」
「言ってもどうせ覚えてねぇだろ」
「それは言ってみないとわかんないじゃん」
「高三の時の十月二十七日の話だ」
「それでわかるわけなくない!?」
「ほらみやがれ」
「ムカつく!!」
速度を上げて北上する。
もう、アクセルを踏む足に躊躇う理由は何もなかった。