第三章『On Days Like These』
グラン・サン・ベルナール峠。
それは知る人ぞ知るスイスの魔境の一つである。
その歴史は古く、青銅器時代からこの峠はアルプス山脈を越えるための重要な地点であった。過去には将軍ハンニバルや皇帝ナポレオンがこの峠を通って壮絶なアルプス越えを果たしている。
この峠はアルプス山脈である故に標高が高く、積雪量は多く、天候の変化も激しい。
これまでに数多くの遭難者を出してきた、まさにスイスの魔境である。
そんなグラン・サン・ベルナール峠を、私たちは今から越える。
「うわ、雨降ってきちゃったんだけど」
厚い雲が太陽を隠した。暗くなった空に怯えて思わずヘッドライトをつける。
チンクエチェントのフロントガラスをメトロノームのように揺れるワイパーが懸命に拭いている。しかし拭いても拭いても絶えることのない雨粒は時間を経るごとにその勢いを増しつつあった。どうにも、天候が悪い。
とはいえ、雨が降っていることを理由にアオスタに戻るわけにもいかない。
「これが背水の陣ってやつ?」
「俺と貴様の二人で陣ってのは役不足だな」
「…… それ、誤用じゃなくて?」
誤用じゃないのなら本当にこの男は相変わらず不遜というべきか、自信満々というか。とはいえ彼からのその言葉で、気を抜けば怖気付きそうになる気持ちがごく単純に鼓舞されてしまった。つくづく私も単純な生き物だ。
私が渡した帽子を被った平等院は助手席に腰掛けたまま、アオスタまでと変わらずフラットな様子だ。本当、羨ましいほどメンタルが強い。
変装には役立たなかった帽子だが、どうやら彼は気に入ったらしく車の中に戻っても被りっぱなしだった。気に入ったのならあげてもいい、と内心で思う。
街灯の殆どない雨の山道を小さなチンクエチェントは進んでいく。周囲に車は無く、また人工的な建造物も無い。整備されているだけの山道だ。
運転しながらふと右手を見ればすぐそばに残雪に染まった岩峰が聳え立つ。もしもここから落石や落氷があればそれは転がってくるのでは無く、チンクエチェントの天井に垂直に落ちてくるだろう。
岩峰の反対側には切り立った崖。その底は暗くて見えない。申し訳程度にガードレールはあるが、とてもじゃないがお守りのようなものにしか思えない。万が一ハンドル操作を誤ってここから落ちたらどうなるかは考えるだけ無意味だ。
普段人工物に囲まれているせいで忘れかけていた大自然の恐怖が蘇ってきて、運転は否応なしに慎重になる。
雨に濡れた窓の向こう、道の端に残る雪が視界に映った。場所によっては道が凍っているかもしれない。雨と雪、スリップの可能性を考えると下手にスピードは上げられない。やや緊張した面持ちのまま黙って運転をしていると、ふと平等院に名前を呼ばれる。
「宇治宮」
「ん、なに?」
「…… 貴様、今は何をしてんだ」
「え?運転だけど」
「違ぇよ、近況の話だ」
「近況!?えっ!?今のこのデッドオアアライブのタイミングで!?平等院がそんな普通の人間みたいな話題振る!?」
「貴様は俺を何だと思ってんだ」
「いやなんか君は常にもっとぶっ飛んだ話題を振ってくるものだと思っちゃって」
驚き半分面白半分にそう返答すると、平等院は目を細めてスッと黙り込んだ。私の反応が面倒くさかったのかもしれない。
…… 対話を試みてきた相手に対してちょっと悪いことをしたかもしれない。
多分だけど、平等院なりに緊張している私に気を遣ってくれたくれたのだ。揶揄いすぎたことを内心反省しつつ会話を続行する。
「わはは、ごめんごめん。ほら近況報告しよっか。君は最近は何してんの?」
「…… チッ、今日の夕方に貴様のジェラートを食った」
「日常会話初めて?近況すぎるだろ、知っとるわ。舌打ちしたいのはこっちだよ」
そう返せば、平等院は背筋悪く助手席に座って、窓縁に肘をついた。不機嫌そうな顔に思わず笑う。
笑っているうちにふと、峠での運転に対する緊張や不安が霧散していることに気がついた。よく考えれば、いくら峠といっても実態は人が通る道だ。そう過剰に怯えることなどない。
なんとなく柔らかくなった空気に、合わせるように段々と弱くなる雨脚。
私たちはこれまでの会っていなかった時間を埋めるように話を始めた。
「今はどこに住んでるの?」
「住所は兵庫。体はどこにでも」
「プロになっても相変わらず世界中回ってんだね」
「ああ、何処にでも行って、誰とでもテニスをして、」
「うん」
「…… たまに、行った先でガキ共にテニスを教えてやってる」
「君らしいね」
「昔のチームの奴らに言ったら目を剥かれたがな」
「そうなの?でも君、そういうの好きでしょ」
平等院が私の横顔を見ているのが視線で感じられた。どんな顔をしているのかを想像しながら、私は前を向いたままヘッドライトの明かりを追う。
緩やかな下り道。峠自体はそう長い距離ではない。順調にいけばもうすぐ峠を抜けられるだろう。
「君は案外世話焼きだよ。あー、いや、違うか。世話焼きというよりも、頑張ってる人のことが好きでしょ、君」
「何の話だ」
「とぼけてる?それともほんとに自覚が無いだけ?」
「…… 俺のことはもういい。それで、貴様は今何をしてんだ」
照れてんのかな、と思ったがあまりつつかれるのも嫌だろうと思って、彼の無理やりな話題転換に付き合う。
「ごく普通の大学生。今はベルリンに留学中だよ」
「貴様が普通のわけあるかよ」
「なんでよ、私はずっと普通じゃん」
「貴様が普通なら俺も普通だろ」
「自分が普通じゃない自覚はあんのね、君」
私の言葉に平等院は何か反論しかけて、止めた。
追撃で揶揄おうとしていた私は、しかし平等院の様子が先程までとは異なっていることに気がつく。
異常と警戒。
弛緩していた空気が、ピリと瞬間的に張り詰める感覚。
眉間に皺を寄せて、周囲を探るように感覚を研ぎ澄ませる彼に、私も思わず警戒を強めながら運転を続ける。
「どうかした?」
「…… 音がしやがる」
「音?」
呟いた平等院に、私も耳をすませた。
雨は止んでいる。私の耳にはエンジン音程度しか聞こえない。けれど平等院には違うものが聞こえているらしい。
「宇治宮」
「うん」
「全速力を出せ」
「今から急カーブの下り坂ってわかってて言ってる?」
「雪崩だ」
その単語に流石に息を飲んだ。が、びびってばかりもいられない。慎重に段階的に、しかし素早くアクセルを踏み込んだ。
息を吐いて、吸う。過剰な焦りは禁物だ。ここから早急離れなくてはならないのは事実として、雨上がりの上、冬季交通禁止明けの下り坂で無理に加速するのは比喩無しに命取りになる。
手汗を服で乱雑に拭ってからハンドルを握り直すと、ふと地の底から響くような低い音が背後から迫っていることに気がついた。初めて聞いた、雪崩が追いかけてくる音。逃げるように下り坂で加速する。急なカーブをドリフトで無理やり曲がれば、か
かったGに体が吹き飛ばされそうになる。
それでもピタリと後ろをついてくる轟音。ワッフ音どころではない自然の脅威の音に鼓膜を激しく揺らされて、背骨が氷に変わったかのように身体が硬直する。死の可能性と他者の命を預かる責任に対する恐怖に勝手に手が震えだす。それを押さえつけようと強くハンドルを握り込んだ。
「…… 貴様を巻き込んだな」
平等院がそう呟いて私の腕に触れたのはその時だった。震える体を落ち着かせるみたいに、怖がることなど何も無いと示すかのように。
「君、そういう殊勝なこと言えたんだ」
カーブでハンドルを素早く回しながら軽口で返せば、平等院は口角を上げて助手席から立ち上がった。脱いだ帽子をダッシュボードへ置いてから、立ち上がる。
そして視線だけで私を見た。彼が私を見ているのを、私はバックミラー越しに見た。
鏡越しに目と目が合う。
「死んだら俺を恨むか?」
「…… いや、恨まないよ」
強張りそうになる顔で必死に唇を吊り上げてみせる。
「生きてここを抜けて、」
長い直線の下り坂が目の前に現れる。小さな車が雪崩に飲まれるのと下り坂でスリップを起こすのと、どっちがより死の可能性が高いかを天秤に掛けて、碌に考える前により一層強くアクセルを強く踏んだ。今この瞬間だけは、ここが交通禁止明けの山道ではなくアウトバーンだと思い込む。
「一生君に文句を言い続けてやる」
バックミラーをチラリと見る。ゴゴゴゴと轟音を立てて背後から迫ってくる雪の群れが、チンクエチェントという獲物を追いかけているのが見えてしまった。
アクセルを踏む足に力が入る。加速させながらもハンドルをコントロールできるギリギリのラインを攻め続ける。本当に、今日は何かに追われてばかりで嫌になる。
「…… 一生、か」
そんな状況だというのに平等院は何故か妙に嬉しそうな声音でそう呟いて、サンルーフを開いた。
今日の夕方のみたいなデジャブ。冷たい風が刃みたいに車内に鋭く吹き込んだ。巨人の足音のような轟音が追いかけてくるのが遮るものなく鮮明に聞こえてくる。
「怖ぁ…… 」
「ビビってる奴の加速じゃねぇだろ」
「怖いから加速してる」
「なるほど、道理だ」
口角を吊り上げて平等院は笑った。
だから後ろのことはすべて彼に任せて、私は前だけを見ていた。
より速く、かつ正確に運転する。ただそのことだけに意識を割いていた。
それ故にこの状況を打破するために平等院が何をしたのか、その時の私は何も知らない。
ただ前を向いていた私が知っているのは、三つのことだけ。
次の瞬間、この雪山に不釣り合いな熱波を感じたこと。
止んだはずの雨が、バケツをひっくり返したような土砂降りになって一瞬だけ降り注いだこと。
その後、私たちを追い立てるような地響きが聞こえなくなったこと。
『中国火舞鸟』
雪崩さえ溶かすような火の鳥。
彼のその技を私が知るのはまだ先。平等院が全力を出した試合を見る、もう少し未来の話だ。
平等院が車内に帰ってきたことで、私はどうにかあの雪崩から生き残ったことを知る。
助手席に戻ってきた平等院は溶けて水になった雪崩によってびしょ濡れになっていた。例えるのなら風呂に入れられたネコチャンといった様相で、量のある癖っ毛がすっかり萎んでいる。
そのくせ相変わらず態度のデカイ平等院は助手席でふんぞり返ってはどうだと言わんばかりの顔で私を見た。
「死ぬまで俺に文句言ってろ」
「はいはい、私の遺言にするよ」
峠を越え、やっとイタリアからスイスに辿り着いた。
命の危機から脱出してひと休み…… といきたいのが心象だが、アオスタからグラン・サン・ベルナール峠までの距離は大して遠くないのだ。
距離は稼げるうちに稼いでおきたいし、早めにローザンヌに到着して燃料の補給もしたい。
峠を越えた先にある小さな村々を越えていくごとに景色が段々と人工的になっていく。だんだんと増えていく平坦な道や家々や人々の姿に心の底から安堵して、深く息を吐いた。
「あー、怖かった。死にかけたの人生で初めてかも」
「死にかけた、で済ませておけ」
「確かに。ほんとに死んだら洒落にならないからね」
「生き返れば洒落にできるがな」
「わははは!………… あの、ごめん、今のって笑うところだよね?」
「どうだろうな」
何故か意味深なことを口にする平等院だが、一度でも死んでいたら今私の隣にはいないだろう。他に車の無い直線道路、運転に支障がないタイミングで右手を伸ばして、手の甲で助手席の平等院の頬に触ってみた。
「なんだ、この手は」
「ゾンビにしては随分あったかいなって」
「フン」
「髭じょりじょりすな」
「………… 」
「じょりじょりすな」
そんなこんなで私たちがスイスのジュネーブに着いたのは二十時頃。山の雨は麓までは届かなかったらしい。空はどこまでも晴れ渡っていた。ジュネーブについた頃にはようやくヨーロッパの長い昼が終わりに近づいており、まだ昼間の太陽に似た夕
日がこの街を優しく照らしていた。
あんなに濃密な時間を過ごしていながら、実際のところはまだ平等院と再会を果たしてから数時間であるという事実が恐ろしい。
夜はまだこれから。ウィンブルドンはまだ遠い。
私たちの旅もまた、まだまだ続くのだった。