第四章『深夜高速』
ローザンヌを出た私たちはスイス国境を越えてフランスにやってきた。
そしてこれからフランスのオートルート、つまり高速道路を利用してまずはフランス西部の街、ディジョンへ向かうことにする。
というのも、ローザンヌからパリへ行くには五時間以上かかるからだ。このままパリに行くには体力が持たないし、着いたところで深夜だから朝を迎えるまで立ち往生してしまうことになる。
そんなわけで今夜のうちにディジョンに行ってそこで一夜を明かし、夜が明けてからパリを目指す、という方針になったのだった。
ローザンヌからはA391とA39という高速道路を利用してディジョンへ向かう。
高速道路のサービスエリアというものはヨーロッパにもあって、特にフランスのサービスエリアはかなり日本に近い。大抵ファストフードチェーンやスターバックスが入っていて、簡易的なレストランや休憩所や公園がある開放的な休憩地点だ。広さも日本の、ある程度充実したサービスエリアと変わらない。
ここのサービスエリアも例外なく、そういったところだった。
私たちがA39のサービスエリアに入った頃にはすっかり夕暮れ時になっていたが、駐車場の半分以上を埋めるくらいには車が停められていた。
レストランへ向かう家族連れ、新聞を顔にかけて運転席で仮眠を取る運送ドライバー、飼い犬のリードを持って歩く老人、旅行中なのか楽しげに笑い合う若者たちのグループ、スターバックスのコーヒーを手にしたカップル。
自分達が非日常的な騒動に巻き込まれているせいか、人々が日常的な暮らしをしている様にどうしてか心地よい安堵を覚える。
そんなサービスエリアの公園内のベンチで私と平等院はコーヒーを飲んでいた。
夕食はイタリアのアオスタで済ませていたから空腹ではなかったが、お互い車から出て一息つきたかったのだ。
カップコーヒーの自動販売機でコーヒーを買って、ベンチに並んで飲もうとする。が飲めなかった。自販機のコーヒーが想像よりずっと熱かったからだ。冷ましてから飲もう、と思ってふうふう息を吹きかける。
雨が降っていたのは本当にグラン・サン・ベルナール峠あたりだけだったらしく、ローザンヌからこのサービスエリアに来るまでの間、喜ばしいことに空はずっと快晴だった。少し霧がかったところはあったものの、視界はなかなかに良好で、空を覆い尽くすかのように聳え立つアルプス山脈を見ることができた。
スイスを出てフランスに入ると、景色は変わり、葡萄や麦などの畑がよく目につくようになる。窓を開けながら走行すれば、日本とは異なる欧州の夏の香りを感じることができた。
初夏のヨーロッパは日が長い。特にスイスやフランス西部は日がとても長く、日本では信じられないかもしれないが、日没時間が長い時には二十一時半頃になる。現在ようやく二十一時を過ぎたところで、私たちはどこまでも続くような広い麦畑の向こ
うに黄金色の太陽が沈んでいくのを見ていた。
静かな時間だった。
ふたり、穏やかに夕日の眺めるだけ。芝生の公園でボールを追って遊びまわる子供たちの可愛らしい異国の言葉が鼓膜を揺らす。柔らかな沈黙の時間。
「ところで平等院って三国志だったら誰が一番好き?」
「なんだ急に」
「いやなんか無言が続いてたからこの辺りでそろそろ小粋なトークシーンでも入れたほうがいいかなって思って」
「放送作家か貴様は。要らん気を遣うな。本当に要らん。つーか小粋なトークつって三国志の話題出す奴いねぇだろ」
呆れたような目で見られて思わず笑ってしまう。
せっかく数年ぶりに会ったのに無言の時間ばかりというのも勿体無い気がして、下らないことでもいいからなにか喋りたかった。まだ熱そうなコーヒーにふうふうと息をかけてから、もう一度口を開く。
「なんか不思議な感じがする」
平等院は何も言わなかったが、こちらの言葉に耳を傾けているような雰囲気があった。だからその空気感に甘えて言葉を続ける。
「だって最後に私たちが会ったのって高校の卒業式でしょ。今になって偶然再会して、勢いだけでイタリアからこんなところまで来ちゃったなんて」
信じらんないな、と笑ってから吐息でコーヒーを冷ます。まだ熱そうだからと口をつけない私とは違って、平等院は静かにコーヒーに口をつける。口に含んだコーヒーをゆっくりと嚥下して、カップの縁から唇を離して呟くように言った。
「運が悪かったと思うか?」
そう低い声に問われて、否定するために首を横に振る。
「久しぶりに会えて嬉しかったって意味だよ」
「厄介事に巻き込まれたくせに随分とお気楽なこった」
「楽しかったのは事実だからね」
そろそろ冷めたろうと思ってコーヒーに口をつけた。
「ダァッツ!」
「やかましいな。さっきからなにしてんだ、貴様は」
「熱っ!永遠に熱いんだけど。この紙コップ、実は保温タンブラーなの?」
「猫舌なだけだろ」
そう言った平等院がすでにコーヒーを飲み切っていた。
「…… もしかして痛覚がお有りではない?」
思わずマジマジと見ていう私を平等院は「なに馬鹿なこと言ってんだコイツ」みたいな冷めた目で見てくる。コーヒーもそれくらい冷めてほしいと思った。
唐突に平等院は溜息をついて立ち上がると「水買ってくる」と言ってこちらに背を向けた。咄嗟に「え、うそ、ありがとう」と口にして手を振れば、「誰が貴様のためと言った」とつれない返事が返ってくる。ツンデレ?
彼の背を見送ってから、ベンチに座ったまま静かに平等院の帰りを待つ。少し夜の匂いが混じった涼風に頬を撫でられて、それが無性に心地いい。
そんなことを考えていた時。ポンポンと音を立てて跳ねるように私の足元に子供用の小さなサッカーボールが転がって来た。
少し離れたところで遊んでいた子供たちものものだろう。
ボールをこちらへ転がしてしまった子供たちは言葉も通じるかわからないアジア人を前に、距離を保ったまま困ったような迷ったような顔でこちらを窺っている。
転がって来たボールを両手で拾い上げて、さてどうしようか、と私は小首を傾げた。
◇
平等院がミネラルウォーターのペットボトルを手にベンチまで戻った時、宇治宮は冷めたコーヒーカップだけ残してそこからいなくなっていた。
「Tu le fais ! 」
「え!?なんて!?」
「Passez-le ici ! 」
「なに!?パス!?」
平等院は黙ってベンチに座る。
それから公園の芝生の上で見知らぬ子供たちとサッカーをして遊んでいる宇治宮を眺めて、目を細めた。
眩しかったのだ。それは沈んでいく夕日のことかもしれないし、ヘラヘラと笑いながら子供と遊んでいる彼女のことなのかもしれない。
どちらなのか、平等院は答えを探さなかった。
わかりきった答えを再度探索することに意味など無いから。
(「お頭は、恋をされているのですなあ」)
昔、まだ学生だった頃に戦友から言われた言葉が不意に思い出される。愛の国とも呼ばれるフランスの血が流れているからか、或いは単に彼が察しの良い質だからか、そういうことにはどうにも聡い男だった。あの時だって、当事者である平等院よりも先にその感情を見つけて名前をつけたのだから。
愛だの恋だのそんなものに現を抜かす暇は無いと吐き捨てたかつての自分に、彼は穏やかに微笑んだ。
きっと何もかもわかっていたのだろう。平等院が不機嫌そうな表情を見せながらも、その感情の存在だけは否定できなかったことを。
Un grand amour rend léger tous les maux qui nous semblent trop lourds à porter seul.
── 大きな愛こそが一人で背負うには重過ぎるあらゆる苦しみを軽くしてくれる。
かつて戦友が自分に掛けたそんな言葉を、どうにも忘れられないまま今日に至る。
そうして至った人生の最果ての今日、鐘の音が鳴り響く広場の中で彼女を見つけた。
何もかもが有象無象の背景の中で、彼女だけが鮮明だった。
運命、なんてもの危うくを信じかけてしまったことを一体誰に言えるだろう。
「平等院!」
名前を呼ばれる。その瞬間、回顧の膜が弾けて意識が現在に戻ってくる。夕暮れの公園、こちらへ向けて屈託なく笑いかける彼女がいた。
「ねー!ナイスプレーってフランス語でなんて言うのー?」
サッカーはいつしか終わっていたらしい。子供たちの中で最も小柄な少女を片腕で軽々と抱き上げた宇治宮は微かに赤らんだ顔のままヘラヘラと手を振る。その姿に目を細めた。
頼られて嬉しい、と思うのは正常な感情なのだろうか?
「ねー!平等院ー!」
「……Bien joué 」
「び?びゃ?びゃんじゅえー!びゃんじゅえー!」
抱き上げられてからずっと宇治宮の首元にぎゅうと腕を回したままだった少女。宇治宮の下手くそな発音でもなんとか彼女へ伝わったらしい。
少女は宇治宮からの褒め言葉に照れくさそうに微笑んでから、彼女の米神にその小さく柔らかな唇を落とす。
「…… あ゛?」
その景色を認識した瞬間、平等院は手に持っていたペットボトルを加減なく握ってしまった。
器が潰れて圧迫された水が逃げどころを探してキャップをブチ破る。
途端に噴水のように噴き出したペットボトルと、溢れた水によって濡れた平等院の
手。それらを見た宇治宮はケラケラと声を上げて笑ってから少女を地に降ろして、平等院の方に歩いてくる。
「なにしてんのさ、君」
そう笑ってポケットから引っ張り出したハンカチを差し出したから、交換こみたいに平等院も彼女に半分ほど中身の無くなったペットボトルを手渡す。
「ありがとう」
彼女がそう言って何の躊躇いもなく笑って水を受け取ってくれたことが平等院は、………… 嬉しかった、のだと、思う、きっと。
親しみのない感情が胸の内に広がって、くらりと一瞬の目眩みたいに困惑する。
やがて保護者たちに呼ばれて公園を去っていく子供の群れに手を振り返してから、彼女はペットボトルに口をつけて空を仰いだ。
その凛とした横顔や水を嚥下するたびに動く喉を見つめながら、平等院は沈没船のように深く沈ませていた自己の感情が空を目指す泡のように浮き上がっていくことを感じていた。
もうとっくに水底で朽ち果てていたと思っていた恋慕の舟はまだ心の奥底で無様にも生き続けていたらしい。
…… いや、違う。きっと、今日再会さえしなければ。
もう一度お前に出会わなければ、舟は無惨な瓦礫のままでいられたのに。お前が俺の前に再び現れてしまったから、心は蘇ってしまった。
「平等院」
彼女に名を呼ばれることに慣れかけている自分がいる。
「もう日が沈むね」
「…… ああ、そうだな」
長い昼がようやく終わる。今にも落日に至りそうな今日最後の西日が二人をを照らした。太陽は沈み、やがて夜が来るのだろう。トラジコメディみたいな騒動に巻き込まれながらまだ旅の途中。ここで二人座ったままでいるのはきっと心地良いけれど、座ったままではどこにも行けないから。
「もう行くぞ」
「もう行こうか」
示し合わせるわけでもなく言葉が重なる。彼女は笑って、平等院は立ち上がった。
宇治宮はベンチに置いておいたとっくに冷めきったコーヒーを一息に飲み干してから、先を歩く平等院の背を追った。
車に乗り込んで、互いの定位置に腰を据える。
宇治宮がエンジンをつけて揺れるチンクエチェント。
目玉みたいなヘッドライトはさながら探海灯。
慣れた手つきでハンドルを捌く彼女の姿に不安を感じたことは一度もない。
「『深夜高速』って知ってる?」
彼女が不意に問いかける。知らないことを知っていると言う悪趣味はなかったから、首を横に振って素直に「知らん」と端的に返す。
「そういう曲があるんだよ。深夜の高速道路の歌」
そのままじゃねぇかと思ったし、口にした。彼女は聡明だがいつも妙に説明下手だ。
「深夜の高速道路っていうのはあくまでも場所を借りてるだけっていうか、舞台装置みたいなものでさ、本質はそこじゃなくて、」
サービスエリアの駐車場を出て、再び高速道路を走り出す。東の空はすっかり夜の様相になっていたが、向かう西の空はまだ黄昏の色を残している。
「生きていてよかったって思えるような夜があったらいいなあ、っていう歌だよ」
随分、ざっくりした説明だ。平等院は腕を組んだまま、フロントガラスの向こうをじっと見ていた。
後ろへ流れていくばかりの景色に振り返る理由もない。
口を閉じれば始まる沈黙を苦痛に感じることはない。
蘇った舟の上で再認識してしまったココロをただ噛み締める。
長い沈黙は時間にして数分か、十数分程度にはなったのだろう。不意に平等院はじっと耐えるように閉じていた口を開いた。深夜になってしまう前に言わなくてはならないことがある。
「…… 今」
それが多分、きっと彼の答えだった。
前触れもない平等院の言葉に運転席の彼女は小首を傾げて「今?」と聞き直す。
「今」
「うん」
「………… 山羊がいた」
「え!うそうそ!見たい見たい!どこ!?」
「十キロ先」
「わかるかよ!目ェ良すぎでしょ!視力五. 〇の人!?」
深夜ではなく、黄昏時。
生きていてよかったと思えるような時は確かに今だった。
今だけではない。今も昔も数え切れないほどたくさんそう思いながら生きてきた。
何一つ置いていかない。何一つ取りこぼしはしない。全てを抱えて生きていく。
全てを抱えて生きてきた今日こそが、彼の人生の最果ての今日。傷だらけ泥だらけで歩いてきた道の最果てが今この瞬間なのだ。
正しいも間違いも喜びも悲しみも、積み重ねてきたそれらすべてに意味があるのだと、今の彼ならば確かに信じることができる。
そうでなければ、あの広場での出会いはなかった。
あの鐘の音の中で彼女の手を取ることはできなかった。
高校三年生の十月二十七日、あの日黄昏の廊下で立ち尽くしていた自分にはきっとこの未来は見えていなかった筈だ。
「ラジオつけても全部フランス語でわからんし、宇治宮朝日!歌います!」
「貴様本当にもうノリと反射だけで生きるのやめろ。そのうち馬鹿が原因で死ぬぞ」
「メーーディーーン!ジャパーーン!!」
「うるせえ。踊るな。ハンドル握れ」
「デン!デデデーデデデン!テーテッ!テーテー!」
「イントロから始まんのかよ。つかそれMUSIC FOR THE PEOPLE じゃねぇか」
いや見えるかよ、こんな未来。