第五章『TONIGHT, TONIGHT, TONIGHT』


チンクエチェントをパーキングに停めた後、エンジンを止めて鍵を抜いた次の瞬間、宇治宮は思いっきりハンドルに突っ伏した。エンジンがついていたのならば、けたたましいクラクションが鳴っていただろう。

「ねむ………… 」
「オイ、寝るな」
「もういいよ…… 車中泊にしよ…… 」
「このミニカーで無茶言うんじゃねぇ。シルバニアハウスに住んでんのか貴様は」

ギリギリ四人乗りのコンパクトカーであるチンクエチェントで車中泊など無理に決まっている。足は伸ばせないわ、天井は低いわでエコノミー症候群になって最悪死ぬ。

そうでなくとも明日のコンディションは最悪になるだろう。
絶対に寝るなと言いつけてから、帽子を被り直した平等院は停車した車から外へ出た。空を見上げれば街の明かりにかき消されそうになりながらも星の光が見える。

二人がフランス北東部の街『ディジョン』に到着したのはすっかり夜も更け、てっぺん前になった頃だった。
サービスエリアを出た時には元気いっぱい体力有り余りだった宇治宮も、運転を続けてきたことで流石に疲労の色が強くなってきたらしく、ディジョンが近づく頃にはバラードしか歌わなくなっていた。

歌わなくていい、と言うのは容易かったが平等院は彼女を止めなかった。それが宇治宮なりの眠気覚ましであることくらいは理解できたし、それになにより彼女の声が聞こえてくるということは悪いことではなかったから。

ディジョンに到着後、中心街からやや離れた場所にパーキングを見つけて、ようやくチンクエチェントは休むことを許された。

さて、今から飛び込みで泊まれるところを探さなくてはならない。
このあたりに何があるかを見渡してから平等院は車から離れようとして、不意に運転席で寝こけている宇治宮を振り返った。…… 流石に寝ている女を一人、置いていくわけにはいくまい。

平等院は後部座席に置かれた宇治宮の小さなボストンバックと自身のラケットバックを背負ってから運転席の扉を開けて宇治宮を引き摺り出す。傍から見ればうら若い女性を襲っている強盗か何かにしか見えなかったが、その時は運良く誰も近くを通ら
なかったので通報されることもなかった。

「オイ、宇治宮」
「うん…… うん…… あるくよ…… 」
「………… 」

酷使させた自覚はある。ほとんど寝ているような彼女を叩き起こせる立場ではない。
仕方なく彼女の腕を自身の腰に回させて二人三脚の要領で歩く。半分以上寝かけている宇治宮だが、まだ歩く意思はあるらしい。平等院が足を進めれば、亀の歩みのようだが確かに歩いてくれる。酷くノロノロとした歩みで二人はディジョンの街を歩いた。

片割れがそんな状態の時に、すぐ近くの通りで安宿を見つけられたのは僥倖だった。

そこは石造りの古風な宿で、空き部屋の有無を尋ねればカウンターの中でラジオを聴いていた宿の女主人は二人を、というより平等院のことをジロリと睨むように見た。

酔った女を同意なく連れ込もうとしている男とでも疑われているのかもしれない。

「…… 宇治宮」
「…… んーー、ん?あ、あ?え?あ、なに?」
「どうにかしろ」

平等院は宇治宮を揺らして起こすと、主人の前に差し出した。状況を理解しきれていないらしい宇治宮は瞬きを繰り返しながら彼女の前に立つ。

「Quelle est votre relation avec lui ? (彼との関係は?)」
「んえー…… あー、ちょっと待って、私フランス語わかんないんだよね。あー、Verstehen Sie Deutsch? (ドイツ語でもいい?)」
「Ja, das ist möglich. Wie ist Ihre Beziehung zu ihm? (ええ、大丈夫。念のため彼との関係を聞いても?)」

主人の問いかけに寝ぼけていた宇治宮も自分達が彼女に何を問われているか理解したらしい。重たげな瞼を開いて真っ直ぐ答えた。
「Er ist mein Partner. (彼は私のパートナーだよ)」
「Ja, okay. Ich habe nur ein Doppelzimmer, ist das in Ordnung? (そう、ならよかった。ダブルルームしか空いてないけどそれで構わない?)」
「Es gibt keinen Grund zur Sorge. (うん、大丈夫)」

宇治宮の言葉に険しかった顔つきを和らげた主人は彼女へ部屋のキーを渡して部屋番号を伝えた。

「平等院ー」
「全部聞こえてる」
「あっちの部屋だって」
指差す彼女に着いて平等院も歩みを進める。

廊下の角を曲がりフロントから離れたあたりで、宇治宮は言い辛そうに「あー」と意味のない声を出した。それからソロソロと伺うような目で平等院を見上げる。

「えーと、あー、あのさ、」
「わかってる。別にいい」
「…… ほんと?」

どうせ関係性を問われて「パートナー」と返事したことについての話だろう。そう答えるのがあの場で一番面倒の無い回答であったというだけの話だ。掘り下げるほどの話ではない。宇治宮は安堵したような表情で平等院を見上げた。

「お姉さんにダブルベッドって言われたんだけど、私冗談抜きで寝相悪いんだよね。寝てるうちになんかしちゃったらごめん、主に攻撃とか」
「それかよ」
「それだよ。一番の不安事項だよ。寝てる間に君に絞技かけてたらどうしよう」
「したことあんのか」
「私さ、小学生の時までは姉妹全員で川の字で寝てたんだよ。でもクレームを受けて途中から私だけ別室で寝かされるようになった…… 」
「ほう、面白れえじゃねぇか。いいだろう、受けて立つ」
「あの、別に決闘とかじゃないんだけど…… 。なんでそんな好戦的なの?サイヤ人?」

案内された番号の部屋の前で止まり、古びた鍵にやや悪戦苦闘しながらも宇治宮は鍵を開けた。錠が落ちる音の後、ノブを回して二人、部屋に入る。

用意されたのはそう広くはないものの清潔感のある一階の角部屋だった。
部屋に入ればすぐ目の前に大きなベッドがあり、右手にシャワー室、左手に窓。窓辺にはアンティークチェアが二つあり、向かい合ったチェアの間に円卓があった。

二人の人間が眠るだけなら十分過ぎる設備だ。まして、長年世界中を回ってきた平等院からすれば、屋根と寝具があるというだけで贅沢に値する。

平等院は二人分の荷物をチェアに置いてから、顎でシャワー室を示すと「先に入れ」と宇治宮に言った。

「ありがと、お言葉に甘えるね」
「俺は少し出る」
「えっ、別にそこまで気を遣わなくてもいいのに」
「調子に乗んな。貴様如きに気を遣うほど落ちぶれちゃいねえ」
「落ちぶれるレベルまでいかないと私に気を遣ってくんないってこと!?」
「言った通りだ」
「あ?なんかムカつく!オラッ!出てけ!オラッ!」
「だから出るっつってんだろ」
「あ、鍵は持ってきなよ、一個しかないから」
「貴様も俺が出たら鍵閉めておけよ」
「はいはい」

部屋の外へ出て扉を閉じれば、向こう側で鍵を閉める音が聞こえた。それを聞いてから鍵をポケットに入れて歩き出す。

三十分ほどあたりを散歩してから戻ろうと思った。女の入浴が十分かそこらでは終わらないことは実家で知っている。

外へ出ようとフロントのほうへ近づけば、ラジオからフランスの名曲『Non, je neregrette rien 』が流れていることに気がつく。
ラジオが流れてるということはあの女主人がカウンターの中にいるということだろう。なんとなく、帽子を深く被り直した。

平等院がフロントを抜けて外へつながるドアへ向かおうとした時は、ラジオの中のエディット・ピアフが「Avec mes souvenirs J’ai allumé le feu (私は過去を焚べて火を灯した)」と歌った時であり、平等院に気がついた女主人が「ああ、アンタ。さっきは悪かったね」とフランス語で声をかけてきた時だった。

…… 別に気にしてはいないし、むしろ彼女の対応はある種正しい判断だっただろう。

だからわざわざまたこちらに声をかける必要はなかっただろうが、というのが本音であり、しかし無視をする理由もなかった。仕方なく顔を向けて、愛想なく「別に」とだけ返す。
主人は気にすることなく言葉を続けた。

「パートナーだなんて、彼女にまで嘘をつかせちゃったね」
「………何の話だ」
「惚けなくたっていいさ。だってねぇ、彼女がシャワーを浴びてるからって部屋まで出るパートナーがいる?」

主人は座ったままカウンターに頬杖をついて、背の高い平等院を下から覗き込むようにして碧い眼で見た。合わさった視線の中に、彼女が平等院を揶揄おうとしている色が見えて、ゲンナリする。

「…… 貴様の想像が及ばんだけでいるかもしれんだろう」
「おや、彼女、本当にシャワー中なのかい」

カマをかけられたことに気がついて、思わず眉を上げて反応してしまった。それを彼女に気がつかれて笑われる。平等院や宇治宮よりずっと年上の、ましてホテルの女主人だ、様々な人間と関わってきただけあって一筋縄ではいかない質らしい。

「まあ、座りなよ」と彼女はフロントのソファを指差した。仕方なくそこに腰を下ろす。女系家庭で育った平等院は時に女性相手にひどく大人しくなることがあった。

何事にも例外はあるものだ。どれだけテニスの技術を鍛え、世界中を渡り歩いて修行をしたって勝てないものはある。

祖母。母。妹。
あるいは彼女らに似た性質の女性たち。
誰にだって勝てない者はいる。当然力や肉体の話ではないし、まして理論の話でもない。時には抵抗という言葉を忘れるほうが良いこともあるというだけの話だ。

平等院がフロントに来たことを後悔していた時は、ラジオの中のエディット・ピアフが「Non! Je ne regrette rien! (いいえ!何も後悔していない!)」と歌った時であり、女主人が「たまに来るんだよね、アンタたちみたいに厄介ごとに巻き込まれてますって顔の客が」と言った時だった。

「うちは安くて小さい宿だからいろんな事情の人が転がり込んで来るのさ。アンタらのこともこんな深夜に飛び込んで来るもんだから最初は駆け落ちかと思ったけどね」
「…… 下世話な妄想しやがって」
「それがまさかアンタの一人相撲とはねぇ」
「オイ、勝手な話すんじゃねえ」
「私の見立てじゃあ、今のところ脈無いよ」
「うるせえな、わかってんだよ」

嘘でも他人にパートナーであると言うことに何の躊躇いもなく、シャワー中に隣の部屋にいても、まして同じベッドで寝ることになっても車内にいた時と反応が一切変わらないのだ。これで脈があると思える奴はポジティブにも程がある。おそらく存在しているだけで有害なタイプのポジティブだ。

わかりやすく眉間に皺を寄せる平等院に、女主人はカラカラと笑った。

「脈が無いのは当然だね。アンタ、まだ彼女に愛を伝えてないんでしょ?それなら伝わってなくて当然さ。言わずにわかってくれってのは烏滸がましいことだよ」

何も返せない平等院に彼女は続けた。

「この国には『愛は文明の奇跡』って言った作家がいてね。つまるところ、文明の始まりは言葉さ」

ニヤニヤと笑いながら「とっとと部屋に戻って、文明を作るところから始めな」と彼女は言った。
それからすとんと真顔になってこうも言った。

「まあ、言葉にした結果脈が完全に無くなって明日の朝アンタら二人とも気まずい顔で宿を出ることになるかもしれないけどね」
「勝手に話進めて勝手に最悪な想像して勝手にテンション下げんの本当にやめろ。なんらかの暴力だろ、それ」

平等院がまるでごく普通の男みたいにこれから先の苦難の恋のことを考えて米神に手を当てていた時は、ラジオの中のエディット・ピアフが「Car ma vie, car mes joies Aujourd’hui, ça commence avec toi! (私の人生は、私の喜びは、今あなたとともに始まるの!)」と歌っていた時であり、女主人が「で、いつから好きなわけ?どこで出会ったの?好きになったきっかけは?彼女ってどんな子?」と恋バナに前のめりになった時だった。

「やかましい、俺は部屋に戻る」
「まだシャワー浴びてるに決まってんだろ。ほら、この私が相談に乗ってやろうじゃないかい。さあ、有る事無い事全部話しな」
「山賊かなんかか貴様は」

無理やり外に出ることも部屋に戻ることも黙秘をすることも、やろうと思えば平等院には容易くできたが、…… 結局しなかった。口先だけの抵抗は示しつつ、なんだかんだで言葉を紡いでしまった。こんな話、親しい仲にはそう話せないことだから。

平等院が部屋に戻れたのはそれから三十分以上経ってからだ。長旅とは毛色の異なる疲労感に溜息をつきながら部屋の扉を開ければ、宇治宮はまだ少し湿った髪のまま、ダブルベッドの端に胎児のように丸まって眠っていた。その様子からして、もうすっ
かり深く寝入っているようだ。

平等院はラケットバッグから着替えを引っ張り出して、シャワー室へ入る。
濡れた壁や曇った鏡、密室に広がるシャンプーの香り。つい先ほどまで誰かがいた形跡を感じながら、冷たいシャワーを頭から浴びる。

…… 絶対に要らん話までしてしまった。
恥に似た後悔を胸の中に渦ませながら、何度目かわからない溜息をつく。
烏の行水のようなシャワーを終えて、平等院もベッドの中に潜り込む。宇治宮へは背を向け、真ん中にもう一人眠れそうなくらい端に寄って、瞼を閉じる。

眠るのは得意だった。休める時に休まなければ命取りになると知っていたから。
起き続けるのは得意だった。意識を失うことが命取りになると知っていたから。

今夜ばかりは自分が眠れるのかわからなかった。
それと同じくらい、起きていられるかもわからなかった。
居心地の悪さと心地良さは両立していた。筆舌難い感情だった。
あらゆる感覚は過敏になっていて、それでいながら脳の奥が酷く鈍麻していた。

窓の外の風の音。
自分以外の他人の気配。
馴染みのない寝具の感触。
身動ぎする度に聞こえる布擦れ。
思考。感覚。意識。呼吸。
自分の境界線が溶けていくような、予感。
握っていた拳が、無意識にほどける。それだけ。

あとには二人分の穏やかな寝息だけが残った。




それはいつかの秋めく夕暮れのことだった。

開かれた廊下の窓からは遠く、屋外競技の部活動が練習に精を出している声や音が微かに聞こえている。吹き込む秋風は乾きと冷たさを纏ったまま校舎内を吹き抜けてゆき、それが平等院の癖のある長い髪を揺らした。

「それ、痛くない?」

西日の差し込む学校の廊下を歩いていた平等院を引き留めるように、唐突に彼の右腕を背後から掴んだ彼女は眉を顰めてそんなことを問いかけた。

それがあまりにも唐突だったものだから平等院は腕を掴まれた瞬間に反射的に振り払ってしまったのだけれど、…… 強い力で掴まれていたわけでも無いのに振り解けなかった。

そのことに内心驚いて、思わず振り返って彼女の顔を見る。それから、理解した。

「…… 貴様か」
「貴様か、じゃないんだけど」

クラスメイトの宇治宮朝日は怒った顔をしていた。
振り払おうとしたことにだろうか。そう思って「急に掴むからだ」と文句を返せば「肘!」と大きな声を出される。

「腕の筋が伸びてる。こんなに放っておいて…… 。これじゃ痛いでしょ」

平等院の右肘をワイシャツ越しに両手で包むように触れた宇治宮は眉間に皺を寄せながら親指の腹で肘の内側を優しく撫でる。それから平等院を見上げた。

痛いだろう、と指摘されても平等院にはその感覚がよくわからなかった。確かに言われた通り、肘に微かな違和感はある。

しかしそれを痛みと評するには平等院という男は痛みに強すぎた。強靭な肉体と精神はそれが強固であればあるほど、些細な痛みには鈍くなる。その感覚の鈍さは平等院の強さだった。痛みに怯まない。怯まなければ戦いに恐怖することもない。なにを恐れることなく戦い抜ける。だからこの程度の痛み、感じない。

そんな平等院の微かな困惑に気がついたのか、宇治宮は訝しげな顔で唇を開いた。

「…… 痛くないの?」
「………… ああ」

そう答えた瞬間、宇治宮は平等院の頬へ手を伸ばすと、爪を立ててその頬を思い切りつねった。伸びた爪が皮膚とその下の肉を刺す、鋭い痛み。

「ってぇ!なにすんだ貴様!」
「あ、よかった。感覚が無いわけじゃないんだ」
「他に確かめ方があるだろうが!」

怒鳴る平等院に彼女はケラケラと笑う。平等院はつねられた頬を掌で抑えながら彼女を睨みつけた。

「…… 大体貴様、何故わかった」
「肘のこと?見ればわかるよ」
「わかるもんかよ」
「…… 君でも、わかんないの?」
「煽ってんのか?」
「いやいや、これはマジの疑問だよ」

おどけたようにそう言って、けれどどこか不安げな表情でこちらを見上げる宇治宮に平等院は息をついた。

「見ただけでわかんなら、予防医学なんざ形無しだな」
「…… あー、えーっと、褒めてくれた?」
「めでたい頭だ」

吐き捨てる平等院を気にすることなく、宇治宮は喜びを滲ませた顔で笑って、それから穏やかに彼の顔を見つめた。

「うん。でも、わかっても私には治せないから、君はちゃんと病院に行きなよ」

彼女はそう言って、続ける。

「君はこれからテニスの選抜合宿があるんでしょ?こんな故障なんかで、絶たれちゃダメだよ」

…… だからちゃんと治して、頑張れ。
一度目を伏せて、それから顔を上げてみせた彼女の笑顔に言葉を失くした、のは、どうしてだったのか。それを知る前に掴まれていた腕からするりと手が離れる。

「じゃあ、またね」

そう一度手を振って、そのまま何でもない顔で歩き出して行ってしまう彼女の背を平等院は黙って見つめていた。

呼び止める言葉を知らなかった。頑張れ、なんてこれまで数多に受けてきた陳腐で無責任な言葉がやけに耳に残る。

彼女に見つけられてしまった肘の故障が、疼きとなって平等院に残される。右腕を曲げて、伸ばす。痛くはない。痛みなど感じない。

なのにどうしてか、胸が酷く息苦しかった。その理由はわからない。もしも心という器官が胸の中にあるのならば、それがぎゅうと掴まれてうまく作動できないような感覚。その感覚の、感情の、言語化はまだ遠い。

広い海原で梶を無くした小舟のようにココロが揺れていた。
彼女がいなくなった廊下で立ち尽くし、誰もいない場所をただ見つめ続けていた。
吹き抜ける秋風に伸ばした髪が揺れる。
その時にふと、ずっと聞けずにいることを思い出した。

…… 宇治宮、貴様は何故競技をやめたんだ、と。





── 夢を、みていたらしい。

瞼を開いて、平等院は世界を認識する。
見ていたはずの夢はたった数秒前の微睡みの中の出来事だったのに、その記憶はもう遠く忘却の彼方に消えてしまった。

見た夢の内容はもう思い出せない。けれど、それがとても懐かしく、自分にとって大切なものであったことだけは記憶に残っている。

窓の外はまだ暗い。けれど、夜の暗さではない。夜明け前だろうか。人生の経験上、自分の体内時計の感覚は信用できた。

ベッドの上で上半身を起こして、意識を覚醒させる。それから隣を見た。

足があった。
昨夜までは枕があった位置に足があり、その足は掛け布団の中から生えている。

「………… 」
平等院はまじまじと隣を見てから、慎重に掛け布団を剥いだ。
掛け布団の中には本来足元に当たる方向に頭を向け、ホテル特有のバカデカい枕へ腕挫十字固をキメてながら半目で寝ている宇治宮がいた。

…… なるほど、昨晩宇治宮から距離を置いて寝た平等院の判断は英断だったらしい。
平等院は掛け布団を戻すとベッドから起き上がる。それから窓際にある椅子に座って、寝起きの獅子みたいなあくびをした。

起こそうとは思わなかった。
彼女が起きるのを待っていようと思った。

それから少し経って、布団の中の膨らみが動いた。それは布団の中から外を目指そうとモゾモゾと進んで、やがてベッドの端に辿り着いて、床に落ちる。べたん、と床に人が落ちる音が聞こえて、平等院はそこへ目を向けた。

蜘蛛みたいな体勢で床に落ちた宇治宮は、ゆっくりと上半身を起こす。それから崩れた正座のまま、椅子に座っている平等院を見上げた。寝ぼけ眼、めちゃくちゃになった髪の毛、半開きの瞼、涎の跡。

「あー、あはは、おはよう?」
「…… ああ、おはよう」

小首を傾げて宇治宮がへにゃりと笑ったから、平等院は真顔でそう返して、それから「顔洗って来い」と続けた。


一時間もせずに荷物を纏めた二人は部屋を出る。部屋を出る際、平等院は手にとっていたデニムキャップを被る。いつしか彼女が貸してくれた帽子はすっかり平等院のものとなっていた。
フロントへ向かって歩けば聞こえてくるラジオに、平等院は昨夜の出来事を思い出してややゲンナリとした顔をする。

果たして平等院の想定通り、女主人は昨夜と変わらずカウンターの中でラジオを聴いていた。いつ寝てんだコイツ、と平等院は内心で悪態をつく。

女主人はフロントにやってきた二人へ目を向けて、二人の様子が昨日と一切変わらないことに気がつくと「…… オイオイお前マジで何やってんだよこのミミズ野郎」と信じられないものを見たような、心の底から軽蔑したような顔で平等院を見てきた。
うるせえ。目がうるせえ。

「ニーナ、おはよう」

ホテルに一人の女性がやってきたのはその時だった。どこか柔和な雰囲気を纏ったその女性は、知り合いなのか女主人のことをニーナと気安く呼んでカウンターに近づいた。
カウンターの中で椅子に座っていた女主人は素早く立ち上がるとやってきたその女性をカウンター越しにぎゅうと抱きしめる。そして二人は当然のように顔を寄せ合うと互いの唇を重ね合った。リップ音の後に顔を離した女主人はパートナーの背中に手
を回したまま平等院を見ると「これが文明だよ、小童」とフランス語で吐き捨てた。
うるせえな。本当にうるせえ。

言葉はわからないながらも女主人と平等院のやりとりを見た宇治宮は、隣に立つ彼を不思議そうな顔で見上げて問いかけた。

「平等院、君、宿のお姉さんといつの間に仲良くなったの?」
「…… 仲良いように見えんのか?」
「仲良いようにしか見えないけど」
「その節穴でよく運転できんな」
「この節穴で運転する車に乗るんだよ、君も」
「…… デュークに電話してくる」
「遺言を残そうとするな」

宿を出て、パーキングで待つチンクエチェントのもとへ向かう。後部座席へ荷物を置いて、宇治宮は運転席へ、平等院は助手席へ乗り込もうとした、その時。

「平等院?」

宇治宮ではない声が、平等院を呼んだ。

瞬間、二人の視線が声の元へ向く。一瞬の警戒、けれど声の主に気がついた平等院はその警戒を容易く解いた。

歩道から平等院に声をかけてきたその人物に、平等院は肩を下げて、やや呆れたような顔つきで唇を開いた。

「…… なんで貴様がここにいるんだ」

── アマデウス。
そう呼ばれた褐色の肌の男は、平等院と宇治宮を見ては真顔のままきょとんと小首を傾げた。