第六章『Break into the Dark』


小さなチンクエチェント。
運転席に私、助手席に平等院、そして後部座席に、

「アマデウス、貴様なんでここにいやがる」
「ディジョンはワインの名産地だからな。来月母の誕生日で、プレゼントのために
昨日ワイナリーをいくつか回っていたんだ」
「なんて親孝行…… !平等院、君もせめて盆と正月くらいはご実家に帰りなよ」
「………… 電話くらい、してる」
「当たり前のことで対抗するな」

アレキサンダー・アマデウス。
それが新しい旅の道連れの名前だった。
癖のある長い黒髪をバンダナでまとめている彼が何者なのか、なんて聞くまでもないだろう。

ハイティーンでプロデビューした将来有望なスイスのテニス選手。堅実ながらクールでカッコいいプレイスタイルの彼はスイスは勿論、私が留学しているドイツでも人気の高い若手選手だ。

そんな彼が私たちのチンクエチェントに乗ったのはなぜか。
言うまでも無く当然平等院のせいだ。

「アマデウス、貴様免許はあるか」
「ある」
「じゃあ乗れ。今からウィンブルドンに行く」
「わかった」
というノリでアマデウスさんが乗車した。田舎の乗り合いバスじゃねえんだぞ。
とはいえチンクエチェントは四人乗り。別に一人くらい増えても問題はないので「狭っ苦しいところで恐縮ですが…… 」と場の雰囲気に流されるまま私も彼を車内へ招いた。

太陽が東から顔を出していくらか経った頃、偶然出会ったアマデウスさんを乗せて発進する。
そしてディジョンの街中を走り出したあたりで、アレ?これ乗せてよかったんだっけ?私たちってマフィアに追われてるんじゃなかったっけ?プロ選手巻き込んでない?と思い出した。

「アマデウスは免許持ちだ。よかったな宇治宮、残機が増えたぞ」
「誰がワンアップだ」

と、気安く話をしている二人の会話を耳にして、同時に別のことも思い出す。

「…… いやでもアマデウスさんさあ、ドイツでも広告見かけたけど確か車のスポンサーしてたよね?万が一事故ったら洒落になんなくない?」
「貴女のいう通りだ。プロとして緊急時以外の運転は控えるようにしている」
「チッ、使えねぇな。貴様もう降りろ」
「その理論で言った時一番に降りるべき人間が誰かわかる?免許が無い君だよ、平等院」
「すまないが俺を降ろすなら駅まで行ってからにしてくれ」
「君もわりと図々しいな!?」

ディジョンの大きな駅ってどこだったかな、と頭の中で地図を広げていると、助手席の平等院が前を向いたまま「降ろさんでいい」と言った。

「アマデウスは強い男だ。乗せておけ。後々役に立つ」
「そんな、脱出ゲーム序盤にゲットしたマイナスドライバーみたいな言い方しなくても…… 」
「貴様の例えの方がおかしいだろ」
「俺が、マイナスドライバー…… ?」
「掘り下げんでいい」

これまでの会話だけでアマデウスさんが天然ボケであることは十分わかってもらえたと思う。平等院がツッコミにまわるほどだ。
小気味のいい会話に思わず笑っていたら、ふとバックミラー越しにアマデウスさんと目が合う。彼は少し目尻を下げてから、その薄い唇を開いた。

「失礼、挨拶がまだだったな。アレキサンダー・アマデウスだ。アマデウスでいい。急に乗り込んですまない。迷惑ではないだろうか」
「気にしないで。というか、むしろこっちこそ巻き込んでごめん。私は宇治宮朝日。握手したいんだけど運転中だからウインクで失礼」

バックミラー越しにウインクをすると、アマデウスも「わかった。よろしく」と真顔でウインクを返してくれた。純度高めの天然ボケだ。楽しいドライブになりそうだぜ。

アマデウスは前の座席に座る私と平等院へ視線を向けると、こてんと小首を傾げた。

「しかし平等院がヘアバンドではなく帽子をかぶっているのを見るのは珍しいな」
「ほっとけ」
「ところで、二人はパートナーか?」
「いやただの友達」
「舎弟だ」
「オイコラ平等院君マジで後でグーパンだかな…… 」
「ハッ、かかってこい」
「ミラノからずっと運転してあげてる恩人相手にこの男、気性が荒すぎる」
「フッ、二人は仲が良いんだな」
「オイ、節穴が増えたぞ」
「私とアマデウスで挟んで君も節穴にしてやる」
「オセロかよ」
「ところで、我々の行き先はウィンブルドンで間違いないな?」
「そう、ノルウェーではなくイングランド」
「………… ?何故今ノルウェーが出たんだ?」
「あっ、えっ、あの、今のはノルウェーの首都オスロとオセロを掛けてて…… えっ、恥ずかしいな!小ボケの解説させないでくれる!?」
「なるほど。すまない、今理解した」
「あ、謝られると逆に恥ずかしい…… 」
「…… フッ」
「何わろてんねん平等院!」

日本人が二人とスイス人が一人、イタリア車に乗ってドイツ語を公用語にしながらイングランドを目指してフランスの地を走る。なんだかヘンテコだ。

けれど、不思議とこの空間にストレスや緊張はなかった。多分、平等院とアマデウスも同様なんじゃないだろうか。
平等院が私とアマデウスそれぞれと既に親しい仲であることや、アマデウスが善良で威圧の無い性格であることもその理由だろう。ありがたいことこの上ない。

もしも私とアマデウスのどちらかが平等院と初対面だったらこうはなっていなかっただろう。
平等院ほど第一印象を最悪にできる男はそういない。車内の空気は壮絶なものになっていたはずだ。

…… よく考えるとそれも変な話なのだけれど。
別に平等院はそう悪い奴ではないというのに。

「えーっと、一応共有しておくけど、ウィンブルドンへ行くためにひとまずパリを目指すよ。ってことで私たちはこれからディジョンの北東からA31に乗ってグラン・テスト地域圏のショーモン方面を目指して、」
「貴様の勝手にしろ」
端っから聞く気のない平等院とは異なり、アマデウスは「パリに向かうならアヴァロンやオセールを通るルートの方が近いんじゃないか?」と至極真っ当な問いかけをしてきた。免許と土地勘のある人間のまともな言葉に妙に安堵する。

さて、改めて説明をすると、ディジョンからパリに向かうには主に二つのルートがある。

一つが私の言ったディジョンを北上してショーモンやトロワという都市を通るルート。
もう一つがアマデウスの言った、ディジョンを西に出てアヴァロンやオセールという都市を通るルートだ。ディジョンの西側にあるパリを目指すのだから、当然アマデウスのいう西ルートのほうが近い。

がしかし、私たちは今マフィアに追われているのである。

イタリアのアオスタで出会い頭に会ってしまったマフィアたちには、私たちがアヴァロンを通るルートでパリに向かうだろうと予想されていた。となれば当然、マフィアと鉢合わせの危険があるアヴァロンには行けない。

…… なんてことを、無関係のアマデウスに言えるはずもない。

マフィアに追われているなど言ってしまえば彼を巻き込むことになってしまうからだ。

「確かにアヴァロンを通る方が近いんだけど、」
「ああ」
「…… あの、あれ、あの、あれだよ、えーっと、ト、トロワのマカロン!トロワに美味しいマカロンの店があるって聞いてさ、せっかく機会があるならお土産に買っていこうかなって思ってて!な!平等院!」

この善良な青年を巻き込んでたまるか!君も話を合わせろ!という気持ちを込めて平等院へチラッチラッと視線をやったが、彼は返事もせずに大きな欠伸をして気怠げに窓枠に肘をつくだけだった。何だコイツ。だから君、第一印象最悪なんだぞ。内心で悪態をつく。

しかし、さして気にした様子もないアマデウスはこくんとうなづくと口を開いた。

「なるほど、移動と買物の両立か。合理的な判断だ」
「アマデウスもそれに付き合わせちゃうことになるけど、大丈夫?」
「乗せてもらっている身だ。問題ない」
「まあ、乗れって言ったのは平等院だけどね」
「文句あんのか」
「君への文句だけで夜になるよ」

そんな緩い雰囲気で、私たちは畑が広がる長閑な道を走っていた。当分はこの景色が続くだろう。太陽が登り、段々と世界が明るくなっていく。柔らかな日の光を窓ガラス越しに浴びながら、私たちは車内で会話を積み重ねた。それによって自然、互い
の人となりを知る。

ふと空に見えた影に「鳥だ」と呟けば、「デケエな」「ハヤブサだろう」と返事が返ってくる。言葉が独り言にならないことが言いようもなく嬉しい。

フロントガラスを見上げて同じ方へ視線を向ける平等院とアマデウスに、私は窓際に並んで窓ガラスの外を眺める二匹のネコチャンを幻視した。デッカいネコチャン。

…… こう表現すると図体のでかい成人男性二人がまるで可愛らしい生き物のように思えてくる。まあ、言うまでもなく気のせいだが。

フランス北東部の街、ショーモンに着いたのはディジョンを出て一時間ほど経ってからだった。日もすっかり上がった午前十時。賑やかな街には人出がある。

ショーモン中心部のパーキングにチンクエチェントを置いた私たち三人は、近くのカフェテラスに入って朝食を取ることにした。腹が減ってはなんとやら、だ。

「ねえ聞いて。私今ドイツに留学してるんだけど、講義で仲良くなった子がいるのよ。だから『ユーちゃん』ってファーストネームのあだ名で呼んだんだけど、そしたらなんかやんわりと断られたの。これって実は嫌われてんのかな?」
「好き嫌いの判断はつかないが、そうだな、宇治宮はその友人と知り合ってからどのくらい経つ?」
「えーと、二、三ヶ月くらいかな?」
「地域にもよるだろうが一般的にドイツでは知り合ったばかりの時はファーストネームやあだ名では呼び合わないことが多い。ある程度関係と時間を深めてから、という考えの人が多数派だな」
「仲良くなったと思ってたんだけどな…… 」
「中には家族や恋人レベルにならないとファーストネームで呼び合わないようにする人もいるし、異性間では特に呼び方を気にする人もいる。相手のペースもあるからな、焦る必要はない」
「ああ、なるほどね、確かに相手の子は男の子だし、真面目な子だからゆっくりペースなのかも」
「時間をかけて相手を理解することもコミュニケーションのひとつだ。互いに無理のないペースで関係を作っていくと良い」

うんうんとうなづきながら話をする私たちを平等院は半目で見つめていた。

「…… つまらねえ会話してんな、貴様ら」
「つまるつまらないではない。より良い人間関係はより良い人生を求めるにおいて重要なことだ」
「そうそう。それにこういう一見つまんなそうな会話が後々の伏線になったりすんのよ」
「…… なんだ、伏線って」
「人生の伏線だよ」

私が適当に言った言葉に、出来立てのクロワッサンを齧っている平等院は意味がわからないという顔で首を傾げた。

ショーモン中心部の大通りに面したカフェテラス、その歩道に並べられた円卓のひとつを三人で仲良く囲っていた。
円卓の上には三人分の朝食プレートが所狭しと置かれている。プレートの中には一つ一つの量が多いクロワッサン、サラダ、オムレツ。テーブルの上には三人しかいないのに何故かコーヒー、紅茶、ホットチョコレートがそれぞれひとつずつ、その上オレンジジュースが三人分あった。ただでさえ狭い円卓は圧迫されて、洒落たテーブルの模様はちっとも見えない。黙々と食べるのもつまらないと思って、頭を使わずに話題を振る。

「二人はオムレツに何掛ける派?私は納豆」
「どうでも良すぎんだろ」
「宇治宮、まず前提としてオムレツの定義から合わせるべきだ。ここでいうオムレツとは具材の入っていないプレーンを指しているという認識でいいのか?」
「要らんところにこだわるな」
「重要だ。オムレツは国や地域によってバリエーションが多い。会話の起点となる部分で認識を合わせておかないと後々齟齬が発生する可能性がある」
「発生してもいいだろこんなもん別に」
「オレンジジュースとホットチョコレートを混ぜたものをミックスジュースと呼ぶのって何らかの冒涜にあたるかな?」
「宇治宮は話題提供者としての責任を持て。貴様が始めた物語だろうが」
「俺はチーズだ。ラクレットだとなお良い」
「うるせえよ、勝手にしやがれ」

平等院って割と律儀にツッコんでくれるなあ、と半分面白がりながら会話を進めていれば「貴様遊んでんだろ…… 」と平等院に見抜かれて睨みつけられる。ちなみに言うまでもなくアマデウスは素直に真面目に喋った結果の天然ボケだ。おもしれー男……。

フランスのボリューミーな朝食を終えて席を立つ。
停めておいたチンクエチェントに歩いて戻りながら、指に引っ掛けた車のキーをクルクル回す。ふと私の後ろを歩いているアマデウスが隣を歩く平等院に問いかけた。

「平等院はどうなんだ」
「…… 何の話だ」
「オムレツに何を掛けるかという話だ」
「あ、オムレツの定義は具材の無いプレーンだからね」
「どうでもいい…… 」
「未回答って、君それでも関西人か?」
「オムレツに掛けるものさえ答えられない男がテニスで勝てるとは思えないな」
「関連性のない否定をやめろ。なんらかのハラスメントだろ」
「オムレツハラスメント」
「略してオムハラ」
「…… 貴様ら、出会ってたかが数時間でその結託はなんなんだ」
「仲良くなるのに時間はいらないからね」
「ああ、その通りだ」

アマデウスとハイタッチしながら車に戻る。平等院は不服そうな顔だ。仕方ないなあと思いながら、平等院へ手を掲げてみせたが「は?」みたいな顔で「は?」と言われる。

「いや、ハイタッチだよ」
「しねえよ」
「私とハイタッチをしろ」
「ハラスメントやめろ」
「ハイタッチハラスメント」
「略してハイハラだ」
「天丼うるせえな」
「で、強いて言えばオムレツには?」
「………… 醤油」
「ハイタッチ」
「ハイタッチ」
「………… 」

私とアマデウスで左右から挟んでヘイヘイと手を上げれば、平等院は嫌そうな顔をしてから渋々ハイタッチに応じた。…… 案外押しに弱いのかもしれない。或いは単に絡まれるのか面倒だったか。多分後者だろうが、本当のところ理由はどうでもよくて、
応えてくれたことが単純に嬉しかった。

ショーモンからトロワまで、葡萄畑の広がる長閑な道を車で走っていく。大地よりも青空が広い景色、この辺りはフランスの中でも比較的田舎にあたる地域なのかもしれない。

千切れ雲の浮かぶよく晴れた空。高速道路、周囲に車が少ないのを良いことにアクセルを踏んで加速する。気まぐれにサンルーフを開けてみた。吹き込んだ風が平等院とアマデウスの長い髪をバサバサとかき混ぜる。顔に当たる髪に邪魔そうな顔をしな
がらも、二人共文句は言わなかった。言わないだけで車内を走る風が心地よかったのかもしれない。喉を鳴らして笑う。

それから雑談が続き、話は進んで私と平等院がどこから来たのかという話に移った。

「二人はミラノからここまで来たのか」
「そう、スイスを通ったよ。ローザンヌ。経由しかできなかったけどいい街だった」
「ローザンヌ?ジュネーブではなく?アオスタから来たのだろう?モンブラントンネルを使わなかったのか?」

キョトンとするアマデウスに私はバツ悪く答えた。

「…… あー、ちょっと色々あってグラン・サン・ベルナール峠を通ったんだよね」

するとアマデウスは信じられないものを見たという顔で私と平等院へ視線を向けると「死にたいのか?」と言った。本気の口調だった。

「解禁明けしたばかりの道だ。今の時期のあの峠は地元の人間でも使わないぞ」
「だろうね…… 」

雪崩にあったことを言わないでおこうと思った。多分本気でアマデウスに怒られるから。そして勘だけど、本気で怒ったアマデウスは怖そうだから。

それから、私たちのミラノでの私と平等院の再会、アオスタで食べた物、ディジョンの宿のこと。アマデウスがディジョンで私たちと出会うまでの話をした。

そうやって互いのこれまでを共有していくような会話を続けているうちに私たちはトロワに到着する。ショーモンから一時間程度しか経っていないから休憩には早い気もするけれど、アマデウスへの誤魔化しのために「マカロンを買う」なんて言ってしまったのだからここトロワでマカロンを買わなくてはならない。街の中心地で車に乗りながらパーキングを探すふりをして、マカロンのお店はないだろうかとさりげなくあたりを見渡していた。

「…… 」
「…… ?」

赤信号で止まった時、ふと助手席に座る平等院がノンバーバルでさりげなくこちらに意識を向けさせようとしていることに気がつく。顔は前を向いたまま視線だけで平等院を見れば、彼がアマデウスからは見えない角度で窓の外を指差しているのがわかった。

指差す先の十字路の角にパティスリー。ガラス張りのウィンドウからは煌びやかなマカロンのショーケースが見える。

マカロン屋さんあった〜〜〜!嘘をつかずに済んだ!

ありがとうの気持ちを込めて平等院へ連打するみたいに滅茶苦茶にウインクをした。
平等院は無反応だった。こちらを見てさえいない。見ろ。君もウインクを返せ。
近くのパーキングにチンクエチェントを停車する。私だけでさっさと買ってくるつもりで「あのお店だから行ってくるね」と二人に言ったら、何故か二人も車を降りた。
彼らもマカロンを買うのだろうか。

「平等院、マカロン食べたことなさそう」
「マカロンくらいある」
「ウケる。アマデウスもなさそう」
「差し入れでもらって食べたことがある」
「可愛い」

パティスリーは白を基調としたスマートな店内で、ケーキとマカロンの他、焼き菓子やチョコレートなど幅広い種類のお菓子がショーケースの中に並べられていた。アマデウスに目的を誤魔化すための嘘だったけれど、可愛らしくて美味しそうなお菓子の数々に来て良かったと素直に思ってしまった。

入店したもののさして興味もなさそうに私の後ろをついてくるばかりの平等院とは違って、アマデウスは興味深そうに店内を眺めていた。あまりに興味深そうだったからか、スタッフがアマデウスに声をかけて商品の説明をしている。アマデウスもそれにうなづいて、彼の方からも何やら尋ねているようだ。

私は店内奥にあるメインのショーケースを覗き込むと、平等院の腕をぐいぐい引っ張って引き寄せた。

「ねえ翻訳機、一番人気とおすすめを聞いて」
「誰が翻訳機だ」
「私フランス語わかんないから助けてよ」

へへへと笑いながらお願いしてみると、平等院は眉間に皺を寄せて溜息一つ、面倒臭そうにしながらも店員さんに話しかけてくれた。

「Quel est le plus populaire et le plus recommandé d'entre eux ? 」
「La framboise et la vanille sont populaires. 」
「店員さんなんだって?」
「……C'est lequel ? 」
「Vous pouvez le trouver ici. 」
「Je ne comprends pas. Incluez-le et choisissez au hasard. 」
「平等院?」
「Oui, monsieur. 」

店員さんとなんらかのやりとりをしている平等院だが、なぜか私に何の報連相もしてくれない。結局一番人気どれ?おすすめは?

何故かニコニコ顔の店員さんがショーケースの中のマカロンを一つ二つ三つ…… と選んで箱に詰めてくれる。まってまってまって、なんも聞いてない、私なんも注文してない。

「平等院平等院まってまって」
「Combien ? 」
「Veuillez patienter un moment. 」
「ねえねえ、私抜きで話を進めてない?」
「宇治宮」

不意にアマデウスに背後から声をかけられて振り返る。
アマデウスは真顔で首を傾げて「フィナンシェとマドレーヌって何が違うんだ」とドイツ語で聞いてきた。目の前の店員さんがいるのに何故私に聞く。君は私と違ってフランス語話せるでしょ。手招いてくるアマデウスへ首を傾げながら近づく。

「えー、なんだっけ、確かフィナンシェはアーモンドパウダーが入ってるんじゃなかったっけ?」
「そうなのか。詳しいな」
「いや、私より店員さんに聞いた方が早いと思うけど…… 」
「知らない人に話しかけるのは勇気がいるからな」
「さっき店員さんと話してたよね!?」
「実は人見知りなんだ」
「私と秒で仲良くなったのに!?」

微笑む店員さんに見守られながらアマデウスとわちゃついていると、背後から平等院に「何してんだ貴様ら」と声をかけられる。

「何が起きてるのか私が一番わかってないよ。アマデウスが急に赤ちゃん返りした…… 」
「赤ちゃん返りはしていない」
「…… アマデウス、要らん世話を焼くな」
「気のせいだろう。それともお前は俺に世話を焼かれた自覚があるのか?」
「…… 貴様」

平等院とアマデウスの二人が何の話をしているのか分からず首を傾げる。すると不意にアマデウスから視線を離して私を見下ろした平等院に持っていた箱を押しつけられる。押し付けられたまま、私は何も考えずに箱を受け取る。

「え、なに。なにこれ」

押し付けられたのはこのお店の箱だった。さっき平等院が店員さんと勝手に話して勝手に買ったマカロンらしい。

「やる」
「え、ありがとう。いやなんで?」

答えずに平等院はさっさとお店の外へ出る。何もわからない。
助けを求めるようにアマデウスを見ると、何故か真顔でサムズアップされた。なんで?振り返ってショーケースの奥の店員さんを見る。何故か笑顔でサムズアップされた。本当になんで?

先に出た平等院を追うようにアマデウスと共にお店を出る。よくわかっていない顔で首を傾げていれば、隣に並んで歩くアマデウスは表情を柔らげた。

「恐らくあの男なりに運転をしてくれる貴女へ感謝の意と愛情を示しているのだろう。受け取ってやるといい」
「…… なるほど。でもこれで今までの苦労を全部許しちゃうのって甘過ぎない?」
「ああ、甘いな。もう少し困らせて問題ないだろう」
「だよね」

マカロンの箱を手に私は、先を行く平等院を駆け足で追いかけた。彼の名前を呼んで、腕を掴んで引き留める。そうすれば彼は強い力でなくても立ち止まってくれた。

そうして私を見下ろした平等院と視線を合わせる。じっと、静かにこちらを見る彼の深い色の瞳。その瞳にどうしてか穏やかに凪いだ海を見た。言葉は無いまま、引き止めた理由を問うその目に、私は息を吸って言葉を紡ぐ。

「ジェラート食べたいんだけど」
「あ?」
「昨日私のを平等院が食べちゃったじゃん。だから買ってきて。今すぐ。アマデウスの分も。そこの広場で待ってるから」

近くにあったジェラートの路面店を指差して、我儘を言ってみる。そうすれば平等院は私をじっと見て、小さく息をついた。それから黙ってジェラート屋さんの方へ歩いて行く。隣に並んだアマデウスが呟くように言った。

「貴女は昨日久々に平等院と会って、ウィンブルドンへ行くという平等院のために自身の予定を放ってミラノから運転しているんだったな」
「え、あ、うん、そうだね」
「これは俺個人の意見だが、普通はいくらなんでもそこまで他人の世話を焼かない。
貴女も十分平等院に甘いようだ」
「まあ、それはそうかも」
「だからといって、他人に言われるがまま平等院が使い走られるのも初めて見た。あの男はあの男で貴女に甘い」
「それは、どうだろうなあ…… 。舎弟としか思われてなさそうだしなあ…… 」

平等院の帰りを待つために広場のベンチにアマデウスと並んで腰掛ける。ベンチは木陰の中にあって、初夏の乾いた陽の光を遮ってくれた。通り抜けていく風は涼やかで心地よい。

「宇治宮、聞いてもいいだろうか」
「うん。なにかな?」

不意にアマデウスが前置きをするものだから、なんとなく背筋を伸ばす。アマデウスはその吸い込まれそうな黒い瞳でじっと私の目を見つめながら言葉を続けた。

「貴女は平等院のことが好きなのか?」

アマデウスの穏やかで低い声音が空気を伝い、波となって私の耳に届く。それが鼓膜を揺らし、音として認識した。認識された音が脳を通り意味のある言葉に変換する。

そしてその言葉の意味を理解した瞬間に、

「んえ?」

首を傾げた。
首を傾げた私を見て、アマデウスも首を傾げた。お互いに同じ方向に首を傾げたから、斜めっているのに互いの顔は真っ直ぐによく見える。

「違うのか」
「いや好きだけど。好きではあるけど」
「ああ、やはりな。俺から見た個人的な考察ではあるが、見ていて貴女は平等院のことを大切に思っているのだと感じられた」

アマデウスは首を戻して、話を続ける。私もそれに倣って顔を真っ直ぐに戻した。

「平等院はあまり人好きのする性格ではないだろう。上手く付き合うには少なからずあの男への好意は必要だ」
「…… アマデウスって、割とはっきり言うね」
「誤解は与えたくないからな。言っておくが俺自身、平等院のことは嫌いじゃない。むしろ尊敬している。テニスプレーヤーとしても、友人としてもな」
「うん、正直私から見ても君たち二人の関係は良好に見えるよ」
「結局は単純な話なんだ。友人には幸福でいてほしい」
「それって、君もかなり平等院のことが好きってことなんじゃない?」
「ん、誤解を与えた。今言った友人とは貴女のことだ。平等院は放っておいても好き勝手に生きていく類の男だから気にしなくていいと思っている。あの男は周囲のことを考えないからな。周囲ばかりが慮る必要もないだろう」

アマデウスの言種に、彼らは本当に仲が良いんだなあと思った。

「貴女とは出会ったばかりだが、平等院といる貴女は楽しそうに見えた。平等院もまた同じように」
「…… 確かに私は楽しいけど、平等院はどうかなあ」
「楽しくなければ既に車から降りているだろう」
「そう言われると否定できないけどね…… 」
「平等院が貴女といて幸福そうなのは見てわかる。だから貴女がどうかを言葉として確認しておきたかったんだ」

アマデウスはそう言って、穏やかに微笑んだ。
彼の言葉に、私は一度戸惑って、それからそこに彼の優しさと配慮があることを知る。昨夜の宿のお姉さんといい、みんな優しい人ばかりだ。

けれどいつだって私は私の意思で物事を選択をしている。嫌ならば嫌だと言えるだけの自分を持っているし、好きならば好きだと言えるだけの心を持っている。確かにこの旅は平等院に巻き込まれて始まったものだ。けれど継続しているのは、車を運転しているのはこの私なのだ。

だから、私が幸せかどうか、それを問われた時私の答えはいつだってひとつだけだ。

「ありがとう。大丈夫、私も幸せだよ」

そう返せば、アマデウスはこちらを優しく見守るような顔を見せてくれる。そこに彼の根源にある不変の善良さを見た気がした。真面目な彼だが、硬い表情よりそういう柔らかな表情のほうがよく似合う人だ、と思う。

それはそれとして平等院が幸福そうという言葉はよくわからない。アイツずっと仏頂面なんだけど。全然私の頭はたくんだけど。ニコリともしないんだけど。

「何黙り込んでんだ貴様ら」

両手にコーンのジェラートを持ってベンチにやってきた平等院。相変わらず仏頂面でニコリともせず私たちを見下ろした。

「お、ほんとに買ってきた」
「素直だな」
「宇治宮に脅されたからな」
「脅しに屈する可愛げのある人間かよ」

平等院は押し付けるように私とアマデウスへジェラートを渡すと、ドカッと私の隣に腰掛けた。

「自分の分は買わなかったの?」
「いらねえ」
「平等院、これは何味だ」
「知らん」
「お使い初心者?」

多分バニラ味だな、と口をつけて思う。ジェラートの色を見るにアマデウスのも同じだろう。

「旨いな」
「うん、美味しい」
「おい、寄越せ」
「暴君?」

さっきのいらないという発言は何だったのか、私の右手首を掴んで自分の方へ引き寄せた平等院は大口を開けて、私が持っていたジェラートに噛みついた。綺麗な歯並びのわかる噛み跡に怒る気もしない。昨日も見た。

「あ、平等院、ひげ」
ふと平等院の口元の無精髭にジェラートがついていることに気がついて、むいっと親指でそれを拭ってやった。平等院は無抵抗で、されるがまま一度瞬きをする。

…… 拭ってから、このジェラートのついた親指どうしようと思った。
行き場がない親指を仕方なく平等院の服の裾で拭いたら、間髪入れずにアイアンクローされた。

「あだだだだだ」
「貴ッ様は本当に…… 」
「だって拭った親指私が舐めても平等院に舐めさせても嫌でしょ」
「阿呆か、ハンカチかなんかで拭けばいいだろう」
「あ、そっか。あ、ハンカチ持ってない」

駅前の吐瀉物を見る目で見下された。へらへらと笑ってごめんごめんと謝れば、アイアンクローする指先に力を込めたあと「次やったら貴様の顔面潰して小顔にするからな」と脅された。なんかちょっと魅力的言い方するのなんなの。

ジェラートを食べ切ってから三人ベンチを立って、車に戻る。トロワからパリまでは時間的にも体力的にも休憩無しで向かえるだろう。いよいよこの旅も佳境に来た感覚に再度気合が入る。

「みんなでパリに行くぞー!」
運転席でシートベルトを着用してから拳を突き上げる。が、反応はない。

「行っくぞー!」
「………… 」
「………… 」
「行ぃぃくぞぉぉ!!」
「………… 」
「………… 平等院」
「アマデウス、反応するな。調子に乗るだけだ」
「いや乗ってもいいでしょ。乗せてよ。誰が君らを車に乗せてると思ってんの」
「その上手いこと言った感がやかましい」

サイドブレーキを外してドライブに、ゆっくりとアクセルを踏めば車は走り出す。
トロワの街を出るのにそう時間は要らなかった。

バックミラーで離れゆく街を見つめながら、滞在時間は短いながらも楽しかったなと内心で思う。友人と買い物をして公園でジェラートを食べるという何処にでも転がっていそうな普遍的な休日。そんなことが堪らなく楽しかった。またこの三人で遊べたらいい。そしてそれが今度こそは隠し事や困り事ない状態だとなお良い。残る問題は私が誘った時に二人が、というか平等院が来てくれるかどうかだが。そんなことを考えてから、頬が緩む。

…… きっと来てくれるだろう。
そうでなければ、メールでも電話でも、彼が仕方ねぇなと諦めるまで何度でも誘いをかければいい。

再び高速道路の流れに沿って、速過ぎず遅く過ぎずの速度でチンクエチェントを走らせる。この小さな黄色い弾丸ともすっかり相棒気分だ。レンタカーであることを忘れそうになる。どうにかして買い取れたりしないだろうか、なんて後先考えず単純に考えたくなる。

「ところで、確認したいんだが、」

不意に話を切り出したのはアマデウスだった。
私も平等院も前を向きながら自然とそちらへ意識がいく。それに気がついてか、返事を待つ事なくアマデウスを言葉を紡いだ。

「二人は何かトラブルに巻き込まれていたりするのか?」

その言葉にピシリと固まる。あまりにも唐突過ぎる問いかけ。
しかし先ほどまでががあまりに平和で楽しかったものだから忘れかけていたけれど、そうだ、私と平等院は厄介事に巻き込まれているのだった。
何と答えるべきか迷っていた私の隣で、気怠そうに頬杖をついて座っている平等院が唇を開いた。

「俺が昔潰したギャングの残党に追われてる」
「なるほど」

アマデウスは流し目で背後を見やって、言葉を続けた。

「後方のメルセデスに付けられているぞ」
「えっ?」

バックミラーを見れば、確かにメルセデスのオフロード車である堅牢で厳つい黒のゲレンデヴァーゲンが付かず離れずの距離で走っているのが見えた。よくよく見ると運転席と助手席に黒服の二人組がいる。一体いつからだろう。つけられていたなんて気が付かなかった。

反射的に車を加速させようとした私に平等院が「速度をキープしろ。こっちが気がついた事に気が付かれるな」と鋭く告げる。
その言葉にハッとして、アクセルを踏み掛けていた右足から力を抜く。それまで通りの運転を続けるよう意識を強めた。

「…… ごめん。気が付かなかったんだけどいつから?」
「街を出てすぐだ」
「平等院も気づいてたの?」
「フン、この程度の追手もわからんとは。貴様は前線から離れ過ぎたな」
「くっ、事実だから何も言えない…… 」
「気にしなくていい。それだけ運転に集中していてくれたという事だ」

フォローを入れてくれたアマデウスは運転席と助手席の間から顔を出して「どうする」と私たちの顔を見た。

「先手必勝で戦うか、このまま振り切るか」
「前者だな。振り切れるほどの馬力はこのオンボロにはねえ。短期決戦だ」

アマデウスの問いかけに、平等院は腕を組んだまま当然のようにうなづいた。なんで当然のように選択肢がデッドオアアライブなんだろう。テニス選手、気性が荒すぎる。

「いや戦うって何?」

引き攣った顔で問えば、二人は何を今さらそんな初歩的な質問をするんだ?とでもいうような顔で、後部座席に丁重に置かれたラケットバッグを指差した。すぐ暴力に訴えるな。いや、そもそもテニスは暴力ではないんだけども。

「乗せてもらった恩をまだ返せていない。俺が出よう」

バッグからラケットを取り出したアマデウスは私の肩に手を置いた。穏やかな声音と掌の温みに思わずホッとしそうになるが、そんな状況ではない。

「宇治宮、俺が相手を無力化する。サンルーフを開けて天井に出るから車線変更は最小限にしてくれ、狙いがブレる」
「なになになになに、どういうこと。え、天井に上がるの?いや待って落ち着こう。何もこんな危ないところで戦わなくても」
「オイ待て、アマデウス」

平等院もアマデウス止めてくれた。…… と思ったが、

「なんだ、平等院」
「トンネルに入ってからにしろ。暗所こそ貴様のテリトリーだろう」

そんなわけがなかった。アマデウスは不敵な笑みを平等院に見せる。言うまでもない、と言ったところだろうか。

その時、運が良いのか悪いのか、隣の車線を走っていた車が加速して私たちを置き去りに走り去っていく。トンネルに入っていったその車はカーブと加速ですぐに見えなくなった。それによって今この周囲には私たちの乗るチンクエチェントと、追手の
ゲレンデヴァーゲンしかいなくなる。
瞬間、背後のゲレンデヴァーゲンが音を立てて加速した。

明らかにこちらに追いつこうとして加速するその車がバックミラーに見えた瞬間、私はアクセルを踏む。そっちが隠す気なく来るのならこっちだって遠慮する必要もない。こうなったらもうヤケだ。覚悟を決めるしかない。どうせ二人とも言うこと聞か
ないのだから、だったら彼らが最大限のパフォーマンスを出せるようサポートするのが今の最善だろう。

「ああ!もう!二人ともトンネルに入るよ!」
「フッ、死地に向かう覚悟ができたようだな」
「後ろは任せてくれ、宇治宮」

トンネルに入ったその瞬間、晴天の空から人工の洞窟へ視界は切り替わる。
開かれたサンルーフ。そこから吹き込む風。気がつけば後部座席にいたアマデウスがいない。すでに天井に上がったのだろう。踏みつけられた天井からミシミシと人の重み故の音が聞こえた。

ゴオンゴオンとトンネルの中で反響する走行音はどこまでも響き渡り、とてもじゃないが心地よい音とは言えない。晴れやかな光は消え失せ、どこか不安を感じるような薄暗い世界に迷い込む。壁に一定の間隔で取り付けられた小さな灯りは車の速度に
ついていけずに点ではなく線の光となって過ぎ去っていくばかり。

バックミラーを見れば、薄暗いトンネルの中、ゲレンデヴァーゲンは当然そこにいた。後部座席の扉を開いて、黒服の後輩の方がアマデウスに対抗するようにラケットを手に車の天井に上がるのが見える。あちらも真っ向からやりあうつもりらしい。

「平等院、サポートをお願い」

テニス未経験の私には車の運転はできても、テニスにおける最適な判断はできない。
アマデウスが最高のパフォーマンスをするに必要な車間距離や速度、位置は平等院に判断してもらう必要がある。

「二十三. 七七メートル。それがテニスコートの縦幅だ。その距離内であればアマデウスならどこにでも打てる」
「メートルで言われても全然ピンとこない。加速?減速?」
「減速」
「これくらい?」
「もっとだ」
「近いな…… 」
「ここだ。この距離を保ち続けろ」

速度を下げてゲレンデヴァーゲンとの距離を縮める。二十メートルちょっとというのは車で言うと四台分程度。学校のプールより狭いわけで、バックミラーを見ればゲレンデヴァーゲンの運転手の集中した表情さえも見える。感覚として後ろの車との距
離は非常に近く感じた。

テニス選手というのはこんな距離感でタマを獲り合っているのだから凄まじい。と、口にしたら平等院に「は?貴様が言うな」と強めに返された。こわ。

天井の上ではアマデウスがストロークの度に踏み締める足音と、ラケットがボールを打つ音が聞こえる。
背後のゲレンデヴァーゲンの上に立つ黒服とアマデウスのテニスはすでに始まっているようだ。

長いトンネルを突き進む小舟のようなチンクエチェントに対して、追手は頑丈なオフロード車。ミラノの時とは違って、テニスボールの強打で車を破壊して足止めをする、と単純にはいかなそうだ。

しかしアマデウスはそれをわかっていて自らその役目を買って出た。きっと彼に彼なりの考えはあるに違いない。と、そこまで思考が至ってからふと思う。

「…… いや、テニスボールの強打で車を破壊して足止めってなに?」

思わず自分の思考にツッコミを入れてしまった。
そもそもなんでアマデウスは車の上でテニスしてんだ。何で向こうも受けて立ってんだ。なんかもっと他にやりようがあっただろ。

「なに意識飛ばしてんだ。しゃんとしやがれ」
「ぐえー」

遠い目をする私を叱咤するように平等院に平手で背中を叩かれる。
これ、私がおかしいの?




アレキサンダー・アマデウスの幼少期は血と硝煙に塗れたものだった。
物心がついた頃には祖国で内戦が起こっていて、耳を塞いでくれる母の手をすり抜けて聞こえる銃声や悲鳴や爆音こそがアマデウスの日常だった。

母の手に引かれて紛争地から抜け出せたのはきっと幸運なことだったのだろう。それが出来なかった人が沢山いたことを知っているから。

助けてもらえずに置き去りにされた人、壊されるばかりで置き去りにされた日々、世界と世論から置き去りにされた祖国。

救われなかった彼らと救われた自分の違いを考えなかったことはない。生き延びて、逃げ延びて、命は続いていて、されどなお続く人生の先々。命の危険の減った異国で、成長したアマデウスの前に空っぽの幼少期が顔を出す。安心安全な国で、街で、学校
で、成長したアマデウスは悪意のない顔たちに問いかけられる。

「お父さんの職業はなに?」
「子供の頃に好きだった遊びはなに?」
「サンタさんはいつまで来てくれた?」
「思い出の旅行先は?」

うまく、答えられない。
聞けないことがあって、思い出せないことがあって、知らないことがあって、経験できなかったことがある。

握りしめた母の掌とテニスラケットだけが確かな感覚。それ以外持っていないから、それだけは離さなかった。それ以外知らないから、それだけは裏切らなかった。

そんな幼少期に出会ったテニスはアマデウスにとってとても楽しいものだった。
テニスは幼いアマデウス少年にスポーツの楽しさと安らぎと、未来への希望を見せてくれた。

「キミはきっと素晴しいテニス選手になるよ」

そう言ってくれた人がいた。だから早くプロになりたかった。もらった言葉を本当にしたかった。母に楽をさせてあげたかった。強くなりたかった。勝つことでしか報えなかった。勝つことにしか意味はなかった。だから、強くなって、勝って、勝って、勝って、勝って、勝って、誰よりも、誰よりも、ずっと、強く、強く、強く、戦って、戦って、独りで、ずっと、ずっと、ずっと、戦って、戦って戦って戦って戦って戦って戦って戦って戦って戦って戦って戦って戦って戦って戦って戦って戦って、

「お前ほどの選手がチーム戦の楽しさも知らずにプロになるのは、あ〜〜っ勿体無いわい」

後に恩師となるオノジイハ監督がそう言ってアマデウスに手を差し伸べてくれたのは、まだプロに転向する前のことだった。

アマチュアの、まして学生間の試合なんて勝ったところで何の意味もない。そう意気地になるアマデウスの心を溶かしたのはスイスのチームメイトたちだった。

「アマデウス!そんな暗いところにいないで、みんなで飯食おーぜっ!」
手を引いてお節介を焼いてくれたこと。

「さっき差し入れがあったんだけど数が足りないんだよな。俺たちで食べちゃうか。
アマデウス、ランディ」
「どうする?こっそり食べちゃう?アマデウス、アルバート」
幼子みたいな秘め事を共有したこと。

「…… あのさ、主将。ワールドカップが終わってからも連絡していいかな?」
そっと心を開いてくれたこと。

…… 意味が無いなんて、その価値を知らないから言えたことだ。

それまではずっと「仲間がいるから頑張れる」なんて耳障りの良い言葉を嫌悪にしていた。そんなものがなくても人は努力をすべきだ、と。

けれども今の自分ならばそれを否定できる。
違う。孤独では生まれない力がある。
仲間がいるからこそ生まれる力があるのだ、と。
置き去りにされ続けてきたアマデウスのジュブナイルを取り戻してくれたのはテニスによって繋がった仲間たちだった。

そして今、テニスというつながりを経てアマデウスにもう一度青春のきっかけが与えられる。

(「じゃあ乗れ。今からウィンブルドンに行く」)
(「仲良くなるのに時間はいらないからね」)

かつて命がけで戦った平等院と、その友人である宇治宮。
そんなチグハグな三人組で車旅行をする未来なんて、一体誰に想像できただろう。

少なくとも監督と出会う前の孤高しか知らなかったアマデウスにはきっと見えていなかった未来だ。
気がつけば、半日にも満たないこの旅行が堪らなく楽しい。明日には忘れてしまいそうなくらい些細なお喋りも、列車でも飛行機でもなく車で往く旅も、三人でテーブルを囲んで食べた食事も、その全てがアマデウスをどこにでもいるような年相応の青年に戻す。

きっとかつての自分なら下らないと一蹴していたものが今のアマデウスに心からの喜びを教えてくれた。
青春ごっこと他人に笑われても構わない。置き去りにせざるを得なかった日々をもう置いていきたくないから。本当は子供の頃のささやかな願いを忘れたことなんて一度もなかったんだ。

…… 本当は、そう、ほんとうは、じゅうせいもひめいもこわがることなく、ともだちと、めいっぱいあそんでみたかった。

だから母さん、ずっと俺を守ってくれてありがとう。
いつかの恩人、俺にテニスを諦めさせないでくれてありがとう。
監督、チームのみんな、人と人とが触れ合う幸福を教えてくれてありがとう。
平等院、宇治宮、叶わなかった子供の頃の俺の夢を叶えてくれてありがとう。

これまでの全て、何一つとして無意味じゃなかった。
そう心から確信できた今のアマデウスに恐ろしいものなど何も無い。

…… 生きていてよかった。
そんな月並みで、けれど心からの気持ちがあるから。

「だから悪いが、俺は彼らの友としてお前たちの前に立ち塞がるぞ」

追手の男はテニスプレーヤーだった。堅牢で広いゲレンデヴァーゲンを足場に力強いストロークでチンクエチェントに向けてボールを放ってくる。
平等院の言葉を借りれば『オンボロ』なこの車にパワーショットを受ければ大きなダメージとなるだろう。当たりどころが悪ければ故障しかねない。チンクエチェントは三人の唯一の足だ、それは困る。

チンクエチェントを狙った強烈なショットをアマデウスは危なげなく相棒であるラケットで撃ち返す。
決して相手を打ち倒すようなものではないけれど油断をすれば足元を掬われる。そんなアマデウスの鋭いショットを、黒服の男は少し危なっかしく窮屈そうに、けれどお手本のようなフォームで力強く撃ち返した。その瞬間にアマデウスは気がつく。

…… テニスの心得があるだけのギャングだと思っていたがそうではなさそうだ。

むしろ、独学で学んできたテニスをここ最近になってちゃんとした指導者のもとで学び出したかのような…… 。
ハイティーンといったところか、まだ幼さのある彼のそのあまりにもまっすぐなテニスに、アマデウスはふと小さな違和感を覚える。

…… そもそも、あの追手たちの目的は何だ?
彼らは昔壊滅させたギャングの残党。平等院はそう言っていた。

だがもしも仇討ちのために平等院の命を狙っているのならば、もっと殺気があってもおかしくない。それこそ銃火器だって使ってくるだろうし、車上でテニスをせずとも車ごとぶつかってくれば良い。オフロード車と古い軽自動車の衝突で前者が負ける
わけもない。

けれど彼らはそれをしなかった。殺意はない。敵意もない。そもそも平等院たちを傷つける気はない。
ならばなおさら、何故追ってくるのか。その疑問に帰結するが、答えは出ない。

しかし、だからといって追手に捕まるわけにはいかない。平等院はともかく、あの善良でお人好しな宇治宮を巻き込むわけにはいかない。平等院に話を聞くのは、追手を撒いてからでいい。

走るチンクエチェントの進行方向とは逆を向いて立ち、背後から追ってくるゲレンデヴァーゲンを見つめるアマデウス。その背にトンネル明けの光が差し込む。

その瞬間、彼はチンクエチェントの天井を爪先で二度叩いて合図をした。その合図を受けた黄色い車体は、車上のアマデウスに負荷が無いよう気遣いながらも素早く加速する。

こちらの加速に合わせて慌てたように速度を上げる追手の車を見据えながらアマデウスは微かに口角を上げた。追手に向けてではなく、今この小さなオンボロ車を必死に運転してくれているだろう優しい彼女に向けて。状況など碌にわかっていないだろ
うに、それでもただ最善の選択をしようする姿は見ていて、…… 好ましかった。きっとあの男も彼女にそういうところに惹かれたのだろう。

トンネルの終わりが近づく。吹き込む風がアマデウスの纏うジャージは船の旗のように激しくはためかせた。
逆光となったアマデウスは凪いだ海のような心で追ってを見据える。

薄暗いトンネルから快晴の外へ出るとき、人は急激な明るさの変化に過剰に外の光を眩しく感じてしまう。トンネルの薄暗さに慣れてしまったからこそ、なんでもないはずの明度は過剰な光となって見る者の瞳を白く焼くのだ。そして、中から外へ出る
時に加速をするほど光と闇のコントラクトは強くなる。

強い光。それは同時に強い闇を生む。
だから、アマデウスはこの瞬間を待っていた。
真っ白な光を背に、アマデウスは追手へ向けてボールを撃ち抜いた。黒服の男はアマデウスからのボールをなんとか打ち返したが、正面から差し込む強い光に目を細めてしまう。ドライバーの男もまた、ほとんど何も見えない光の中で感覚だけを頼りにハンドルを握る。その中でアマデウスだけが視えていた。

慣れ親しんだ闇の中に身を落として、返ってきた球を見据える。素早いストローク。
ラケットはボールを的確にスイートスポットで射抜き、アマデウスがラケットを振り抜いた後にはボールの影だけが疾っていく。これこそが彼の『ダークサイド』。

アマデウスの力は今、かけがえのない友人たちのために振るわれる。
狙った場所に着弾したテニスボール。けれど破壊音が聞こえることは無かった。
そしてアマデウスのショットが撃ち返されることも、また無かった。

トンネルを抜けて弾丸のように素早く駆け抜けていくチンクエチェント。それとは対照に、ゲレンデヴァーゲンはトンネルを抜けた途端に急激に速度を落として、ガタガタと大きく震えながら路肩に停止する。まるで突然故障を起こしたかのように。

路肩に止まったオフロード車の上で蹲る黒服の青年に怪我がないことを確認してから、アマデウスは構えを解く。
そして晴れ渡る空の下、ゆっくりとチンクエチェントの車内へ戻った。



「…… あの、アマデウス、あの、後ろの人たちは大丈夫なん、だよね…… ?」

トンネルを出た時にはもう全てが終わっていたらしい。路肩で止まった追手の車をバックミラー越しに見ても、何が起こったのかわからない。なに?なんで?なんでテニスボールひとつで車を止められるんですか…… ?

車内に戻ってきたアマデウスは不安がる私に「心配しなくていい」と落ち着いた声で答えた。

「車にはエンジンの下にオイルポンプがあるだろう」
「えっ?うん、あるね」
「そこに当たるようにボールを撃って、オイルポンプを変形させた。つまりは軽いエンジンブローを起こして車を停止させただけだ。急ブレーキが発生したわけでもないから鞭打ちもないだろう」

あまり車に詳しくない人のために説明をすると、車のお腹部分にはエンジンオイルを貯めておくためのオイルパンと呼ばれる部品がある。
エンジンが起動している時、オイルはエンジンの中を循環するのだが、オイルはエンジン内部を通った後にオイルパンに戻り、再度オイルポンプによって吸い上げられて再びエンジンの中を循環していく。このサイクルを繰り返すことにより車は走行す
ることができるのだ。

逆に言えば、オイルの循環によって走る車は、オイルポンプが破損すれば循環に支障が出て動けなくなる。
そんなわけでアマデウスは走行する車の天井に立ってテニスボールを打ち、車の下部にボールを潜り込ませてオイルポンプに当て、破損させた。

…… いや、そんなこと出来るわけがない。

出来るわけがないのだが、事実それが行われてしまった。バックミラーの中で段々と小さくなるメルセデスはもうこちらを追いかけてはこない。
息が切れた様子もなく、天井に登る前と変わらないフラットさで後部座席に座るアマデウスに私はこう言うしか無かった。

「…… すごいねぇ」

脳味噌を空っぽにしてそう返せば、バックミラーの中のアマデウスは満更でもない顔をしていた。

ふと、今のは同じプロ選手である平等院からしてもすごいミラクルショットなのだろうか、と思って助手席を見た。視線に気がついた平等院と目が合う。
彼は軽く胸を張ると「俺も出来る」とだけ言った。

「…… そっかあ、すごいねぇ」

褒めれば平等院は満更でもない顔をしていた。
専門外のことは考えないでいよう。そう思った。