第七章『爆ぜる心臓』
ガタガタガタガタ、ガタン、ガタン、…… ゴトン。
チンクエチェントのエンジンから不穏な音がしたのはパリの中心部に入ってからだった。
「え?」
「は?」
「む?」
市街地の平らな道にも関わらずガクンガクンと不自然に揺れる車。急激に速度が落ちたことに反射的に不穏さを感じて慌ててハンドルを切る。そうして後続車に影響が無いよう路肩に停車をさせて………… それきりだった。
「あ、え?エンジンつかなくなった」
「ついに壊しやがったか」
「これまでの功労者に責任をなすりつけるんじゃない」
平等院のじゃれつきにツッコミで返しながら、何度かエンジンを付け直してみるが、チンクエチェントは「もうムリもうムリ絶対ムリ」とばかりにしんどそうな音を立てるだけでエンジンはちっとも付きそうにもない。
「うーん、これダメそうかも」
「なら降りんぞ」
「ああ、ユーロスターで向かおう」
判断が早い平等院とアマデウスは既にラケットバッグを背負って扉を開いていた。
後部座席の私の荷物は平等院が抱えていたので、私は着の身着のまま降りて車にロックをかける。駐禁取られたらどうしようと思ったが、だからといってここから離れないわけにはいかない。私はここまで頑張ってくれた相棒のサイドミラーを一撫でして
から、先を行く平等院とアマデウスを追った。
二人に追いつきながらふと思ったことを口にする。
「でもユーロスターってチケット予約しないといけないんじゃ…… 」
「今取った」
「は、早い…… 優秀…… 」
「二本後の列車だ。パスポートコントロールがあるから早めに着きたい。すぐに駅へ行こう」
手に持った携帯でチケットを取ってくれていたアマデウスは、操作を終えて携帯をしまうと歩く速度を上げた。
キビキビ先を歩く平等院とアマデウスに、パリの土地勘がない私はほぼ駆け足で着いていく。二人とも背が高いからそのぶんコンパスもあるのだ。パタパタしている私に気がついた平等院が「なにしてんだ」と言いながら腕を引いてくれた。引っ張られたお陰でやや速度が上がる。
「ちまちま歩いてんじゃねぇ」
「君と違って一歩が小さいんだよ」
「そのぶん歩数を増やせばいいだろうが」
「その結果ちまちま歩いてるんだよ…… 」
鼻で笑われる。ので、脇腹を小突く。と、脳天にアイアンクローをされる。
そんな私たちにアマデウスは「仲がいいようで何よりだ」と言った。それから前方の建物を指差す。
「そこがパリ北駅だ。イギリスはシェルゲン協定に加入していないからユーロスターに乗る前に出入国検査がある。パスポートは持っているな?」
「ある」
「持ってきててよかった〜」
チンクエチェントを停めたところから十五分ほど歩いた頃だろうか、ターミナル駅であるパリ北駅に辿り着いた。まるで美術館のような石造りの外観の大きな駅を前に「おお…… 」と声がこぼれてしまう。
花の街とはよく言ったもので、ここまで来る道中の街並みも綺麗だった。
今まで通ってきたイタリアやスイスも綺麗だったけれど、フランスはなんというか、絢爛とか華やかと表現するのが近いような気がする。感嘆しながら大きな駅を見上げていると「何してんだ、置いてくぞ」と呼ばれて、慌てて着いていく。
地上階から駅へ入れば、中は見上げるほど天井の高いコンコースが広がっていた。
古い建物の中に並ぶ新しい飲食店が目を引く。ユーロスターが通っているためか、スーツケースを引いた旅行客らしい人の姿を多く見る。目的地に向かって歩く人々の群れ。それぞれは一つの目的地に向かっているのだろうが、様々な目的地に様々な人々が向かえば、側から見れば縦横無尽に数多の人間が歩いているように見えた。けれどそんなことはない。誰にでも目的地はあるのだから。
先程アマデウスが言ったように、フランスからイギリスへ国境を渡る場合は出入国検査が必要となる。
私たちはどこかに寄ることもせず、駅にやってきてそのまま真っ直ぐ出入国検査の列に並んだ。人が多いから荷物検査までまだかかるだろう。暇を持て余して雑談を振る。
「ねえ平等院、今までで一番面白かった入国拒否理由はなんだった?」
「直前に襲ってきた強盗を返り討ちにした時の返り血が付いてたから」
「むしろよく入国拒否で済んだね。返り血ついてる顔怖い奴が国境来たらまずは問答無用で捕まえるでしょ」
「逮捕はされた」
「されたのかよ」
「…… ふ」
「お、アマデウスにウケてる」
「何笑ってんだテメェ」
「こんなの笑うか引くかどっちかの反応しかできないでしょ」
平等院が入国で引っ掛かったらどうしよう。そうしたら置いて俺たちだけで行こう。
などとアマデウスと話していたが、平等院は問題なく荷物検査まで抜けてきた。
「平等院がラケットという凶器を持ってるのに通しちゃうとは、イギリスの審査も甘いんじゃない?」
「ラケットは人を傷つけるためにあるんじゃねえ」
「平等院が言っても説得力が皆無なのよ。君がミラノでしたこと忘れてないからね」
「ラケットは人を傷つけない。人を傷つけるのはいつも人だ」
「流石アマデウス。至言じゃん」
予約した便のユーロスターが来るまでまた時間がある。駅のベンチに三人団子のように並んで喋りながら待った。
会話の大半は私が喋っているが、返答がないわけではない。それぞれのペースで会話のラリーを続けている。車の中でも思っていたけれど、二人との会話はストレスが無い。私がどれだけ自由に喋って自由に過ごしていても適度に放置して適度に構ってくれるからだ。
「喉乾いたな。自販機探してくる」
入国審査を通ってユーロスター用のホームに入ってしまうともう飲食店が無いのだ。
ベンチから立ち上がって伸びをする。
「ああ、ここで待ってるから好きに探検してくると良い」
「小学生だと思われてる?」
「列車が来たら貴様を置いて行く」
「容赦って知ってる?」
飴と鞭を背中に受けながら自販機を探す旅に出る。
数歩歩いて、ふと立ち止まり、振り返る。
どうしたのかという目でこちらを見てくる二人に尋ねた。
「…… 列車来るまであと何分?」
「十五分だ」
「気にしてんな、どうせ遅延すんだろ」
◇
「…… アイツ、車内販売あんの知らねぇんだな」
周囲をキョロキョロ見渡しながら楽しげに構内を歩き出した宇治宮の背中を見ながら平等院が面白がるように呟いた。
教えてやればよかったじゃないかと思ってから、あえて言わなかった平等院の心情を想像した。
何も得られずにしょぼしょぼ帰ってきた宇治宮を揶揄うか、何らかの成果を得てニコニコと帰ってきた宇治宮を揶揄うか。そうでなくても初めて訪れる駅を楽しそうに探検しに行く姿を見ることはできる。
ワールドカップの時のチームメイトにはやや唐変木のきらいがあると思われていた節のあるアマデウスだが、強靭な精神力で敵の弱点を突く彼の観察眼は鋭い。それに半日も共に過ごせば見えないわけもない。
「…… 俺は得意ではないし、あまり縁のあるものではなかったが、」
なんだ急に、とばかりにこちらを見る平等院に構わずアマデウスは続けた。
「恋愛は人生を豊かにするものだ」
「…… 戯言を」
「好きなんだろう、彼女のことが」
確信じみた問いかけに平等院は何も答えなかった。ただ不快げに眉間に皺を寄せただけで、だからこそその無言は言葉より雄弁だった。
性根の部分で平等院は正直な男だ。まして、自分の心に嘘はつけまい。肯定できるほど素直でないとはいえ、否定という嘘は口にできない。ならば選べるのは沈黙だけだ。そういう意味で言えばこの男は驚くほど素直だ。
トロワの広場で宇治宮に問いかけた時のような問いをアマデウスは平等院にはしなかった。多くの言葉はすでに不要だった。人の秘めた感情を暴きたいわけではない。
ただ、前に進む気のない平等院の背中を押したいだけだ。
しかし、平等院はじっと貝のように唇を閉じたまま、耐えるように沈黙を選ぶだけだった。
深海のような沈黙が続く。二人はベンチに座ったまま、人々が行き交う構内を眺める。そんな人の群れの奥で、買ってきたのだろうペットボトルを手に平等院とアマデウスのいるベンチを探してか、キョロキョロとあたりを見渡す宇治宮がいた。
まだこちらに気が付かない彼女を見つめながら、平等院は重い口を開いた。
「アマデウスよ、貴様はここに座っている間に目前を通り過ぎた名も知らぬ人間の顔を一人でも覚えているか?」
「…… 何の話だ、平等院」
「素朴実在論は貴様にもわかるな。『自分の目に映ったものだけが存在している』つう考え方だ」
穏やかな表情で宇治宮を見つめる平等院の瞳には深く凪いだ色がある。
「つまりは『認識されなければ存在することさえ許されない』」
「…… 平等院」
「所詮は路傍の石に過ぎないということだ」
二人に気がついた宇治宮が、安堵の表情を浮かべてこちらへゆっくりと歩いてくる。
「どうして」と言いかけたアマデウスを遮るように、定刻通りにやってきた列車が轟音を響かせてホームに滑り込む。やがて鳴った乗車可能のアナウンスに、ホームにいた人々は列車へ向かって歩き出した。その人並みに逆らうようにゆっくりと歩いて
きた宇治宮が笑う。
「おー。列車時間通りに来てるね。もう少し遅かったら置いてかれるとこだった」
「チッ、間に合ったか」
「なんだァ?今の舌打ち」
何事もなかったみたいな、慣れたじゃれあい一つ。平等院が宇治宮の前でそれまで通りに過ごすものだから、アマデウスはそれ以上平等院を追求することはなかった。
列車に入る人波が落ち着いてから、二人はベンチを立ち上がる。先んじて平等院とアマデウスが列車の乗り口に向かって進んだ。その背を追うようにペリエを飲みながら宇治宮が着いてくる。
「席は?」
「四人席で予約している。腹が空いたから軽食付きの一等にしてしまった」
「自由か貴様は」
平等院とアマデウスのそんなやりとりに、それまで通りなら笑いながら入ってくるはずの宇治宮の声が無かった。
なんとなくそのことに平等院もアマデウスも物足りなさを感じて振り返ったのと、彼らの後ろにいる宇治宮の手からペットボトルが落下したのは同時だった。
振り返った二人の視線の先、前を行く二人から三メートルほど離れた距離で宇治宮は立ち止まっていた。
振り返った二人に罰の悪そうな顔をしながら。
「動くなよ」
そう言ったのは平等院でもアマデウスでも、まして宇治宮でも無かった。
黒いサングラスに黒いスーツを身に纏った男。
宇治宮の左腕をがっしりと掴んでこちらを見据えるのは、パリまでの道中でこちらを追いかけてきていたゲレンデヴァーゲンの運転手だった。
しかし彼らは足止めしたはずだった。そう思ったアマデウスの思考を知ってか知らずか、男は「よお、後輩に車任せて、恥も外見もなくヒッチハイクで追いついてやったぜ」と吐き捨てる。
「彼女を離せ」
「平等院次第だ」
鋭い言ったアマデウスに男は間髪入れずに返した。そうして平等院を真っ直ぐに見据えた。
男の意識が平等院へ向いたのを確認して、アマデウスは隙を見て宇治宮を助けようといつでも駆け出せるようさりげなく重心を前にかける。
男は平等院を見つめたまま、低い声で言葉を紡ぐ。
「こっちの要求はわかってるよな、平等院。俺たちだって無関係な人間を巻き込みたくないんだぜ」
「…… フン、愚かだな」
平等院が嘲るように口角を上げれば、黒服の男は一度米神に震わせてから強く睨みつけた。その視線に怯むわけもなく平等院は言葉を続ける。
「その危機感の無さを見れば、貴様らの組織が壊滅したのにも納得がいく」
「…… なんだと」
平等院が男をわざらしく挑発したのを見て、アマデウスは宇治宮を助けるため動き出そうとした。
それを腕で制したのは平等院だった。アマデウスは反射的に平等院へ鋭い視線を向ける。彼女を助けるなら今が最大のチャンスだった、それを何故捨てるのか、と。
「…… 俺が貴様に警告してやってんのがわかるか?虎の尾を踏んでる自覚があんのなら足を退けた方がいいっつってんだ」
平等院はゆるりと余裕ありげに口角を上げながら男に静かに告げた。その言葉の意味を男は理解できていないらしい。眉を寄せたままじっと警戒するように平等院を見つめ続けている。
その時、緊張感のある沈黙は唐突に破られた。
「君さあ!」
沈黙という張り詰めた膜に針を刺すが如く、唐突に大きな声を出したのは宇治宮だった。突然の大声にアマデウスも黒服の男も緊張した精神にヒビを入れられて瞬間的に肩を震わせて怯む。
その次の瞬間、アマデウスの目の前で男が空中でひっくり返った。
「…… は?」
思わず目を見開くアマデウスの耳に、平等院の「自力で助かる奴を、貴様がわざわざ助ける義理もあるまい」という呟きが届く。
「人を!猛獣みたいに!言わないでくれるかな!」
── 柔道において『体落とし』という技がある。組み合った相手の体を前に崩し、反転させた自身の体の腰部分から相手を袈裟斬りのように斜めに落とす投げ技である。
たった一拍の出来事。宇治宮を完全に意識の外にやっていた男の隙をついて、右手で素早く男の襟を掴んだ宇治宮による『体落とし』。
宇治宮よりずっと大柄な男の体が浮き上がった。暴れる足が空を蹴り、瞬きの間に男の背中が地面に叩きつけられる。
「ぐうっ!」
叩きつけられた瞬間、男の肺から無理やり空気が吐き出された。車と衝突したような衝撃に身体が痺れて動けなくなる。
何が起こったのかわからないという顔で天を見つめたまま驚いた顔をするほか何もできない男の前で、静かに残心を取る宇治宮。その体落としは誰がどう見ても旗を上げる完璧さで決まっていた。
「近接格闘の中でも突きや蹴りといった点攻撃を中心としたボクシングや空手などとは違って、投げや絞めを中心とする柔道は常に相手と組み合った状態から攻撃に展開する。つまり常に互いの間合いに入った状態で戦闘を行うのが柔道だ。掴まれた時点で、アイツは既に宇治宮の間合いに入っている」
「これが日本のジュードー…… !宇治宮はジュードープレーヤーなのか!」
「…… 中一から高三まで全国大会で六連覇、世界大会で三連覇」
目を見張り感嘆するように言葉を溢すアマデウスに平等院は静かに続けた。
「いいか、アマデウス。貴様の前にいるのは文字通り世界最強の女なのだ」
現役を退いてなお鈍ることのない技の鋭さ。
鋭利な刃のように相手を見据える凛とした横顔。
この場において最も小柄で最も細身の彼女が、丸腰とはいえギャングの男を一瞬で動けなくした事実にアマデウスは驚きを隠せなかった。
「解説してる場合じゃないでしょ!列車!乗らないと!出発しちゃう!」
地に落とした相手が動けないのを確認してから、顔を上げた宇治宮に先ほどまでの鋭利さは失われていた。彼女はチンクエチェントに乗っていた時のような親しみやすさを表情に戻すと、その場にいる誰よりも慌てた様子で平等院とアマデウスをユーロスターのほうへ押した。扉が閉じる警告音の中、滑り込むように三人はユーロスターに乗り込む。
「ごめん!多分あと五分もしたら動けるようになると思うから!あ!あと貴方の右膝の古傷!ちゃんと診てもらった方がいいよ!」
口の横に掌を立てて、ホームに転がる黒服の男に声をかける宇治宮。目の前で閉まっていくユーロスターの扉に、ホームの男は苦々しげな顔をしながら、こちらに向かって何かを言った。ベルの音にかき消されかけたその声を、けれどアマデウスだけは聞き逃さなかった。
「平等院、わかってんだろ…… !俺たちは会ってほしいだけなんだ…… !」
その言葉にアマデウスは確信を持つ。
やはり彼らは平等院の命を狙っているわけでも、危害を加えたいわけでもない。別の目的があるのだ。
そして男は「こっちの要求はわかってるよな」「わかってんだろ」と何度も繰り返していた。だから、恐らく平等院当人も追われている訳を理解している。理解した上で逃走している。その理由は如何や。
「…… 平等院、お前は、」
閉じた扉と、動き出したユーロスター。
平等院へアマデウスが問いかけようとしたその時、怖い顔でやってきた添乗員に三人は飛び込み乗車したことをかなりしっかりめに怒られた。
いい年した大人が大人にちゃんとした理由で怒られると申し訳なさすぎて心がキュッとなるものだ。宇治宮とアマデウスはかなりしょんぼりとした。それに対して平等院は塵ほども気にした顔をしなかった。メンタルが強いというか、単純に反省する気がない。
アマデウスは四人席のうちの三席を予約していた。
二人が並んで座れる席と、隣が予約席ではない一人分の席。
予約していた席に辿り着いたアマデウスはさりげなく素早く一人分の席に座った。
そうすると自動的に平等院と宇治宮が隣同士で座ることになるからだ。
仕方なく並びの席の窓際に座った平等院から「貴様なんか余計な事をしてねえか?」という視線を受けたがアマデウスは堂々と腕を組んで座った。恥ずべきことは何もしていない。二人が並んで座っているのを見たいだけだ。
「あのさ、私たち話さないといけないことがあるよね」
腰を落ち着けた頃、宇治宮は硬い表情で二人へ言った。
アマデウスは目を伏せる。きっと彼女も気がついたのだ。当然だろう、この旅で平等院に一番振り回されているのは宇治宮だ。彼女こそこの旅の意味を知る権利がある。
宇治宮はキッと睨むように二人を見ると声を上げた。
「ユーロスターって車内販売あるんじゃん!なんかお洒落なワインとか売ってんじゃん!駅のホームで自販に飲み物買いに行った私ただのアホじゃん!これ絶対二人とも知ってたでしょ!知ってて私に言わなかったでしょ!」
「車内販売があることを知ってて探検しに行ったんだと思っていた」
「んんんん…… 怒りづらい…… 」
「買ったペットボトルをホームに置いてきたんだからいいだろ」
「そうだね。なんで置いてくる羽目になったと思う?」
「貴様の不手際」
「オォン?しっぺする。手首出して。しっぺする」
「いいだろう。だが貴様も出せよ。しっぺを返す」
「なに?なんで?どういう理論?」
「ユーロトンネルに入ったら軽食が来るぞ。楽しみだな」
「アマデウスが一番自由なんだよな」
ユーロスターはパリを離れていく。リールを通り、都市部を離れ、車窓の景色が葡萄畑に変わっていくらか経った頃、フランス北部の街カレーに辿り着いた。そこから列車はユーロトンネルに入る。
ユーロスターがトンネルの中に入り、窓の外が真っ暗になったあたりで軽食の提供が始まった。時間としてはランチに近い。キッシュかチキンかを選べて、各々好きな方を注文する。
宇治宮はキッシュを食べながら、真っ暗な車窓を眺めながら退屈そうに呟いた。
「美味しいけど、せっかくなら地上の景色を眺めながらのランチが良かったな」
「そうか?暗いほうが俺は落ち着くが」
「へえ、珍しいね」
「アマデウスは家の中を常に暗闇にして過ごしてやがるからな」
「平等院、何でそういう微妙な嘘つくの?」
「嘘じゃねぇ」
「ああ、事実だ」
「…… ん?まって、ごめん、これそういうボケじゃなくてマジのやつ?」
「マジのやつだ」
「なんで?」
「俺のテニスが『闇』だからだ」
「…… あー、流派的なやつ?私は流派は亀仙流です、みたいな」
「いや、どちらかというと音楽ジャンルに近い」
「ロックとかジャズとか、そういう?」
「ああ、そういう」
「…… そういうボケ?」
「そういうボケだ」
「どこからが!?」
アマデウスと平等院が「自分のテニスを音楽ジャンルに例えるなら何か」という話で無意味に盛り上がったあたりで、ツッコミ疲れしたのかいつしか宇治宮がうたた寝をし始めた。
初めこそ椅子に座ったまま姿勢良く寝ていた彼女だったが、いつしか隣に座る平等院の肩に寄り掛かって寝始める。「邪魔だな」と平等院は言いながら彼女を邪険にはしなかった。それを見てアマデウスは表情を和らげる。
「寝かせてやるといい。それだけお前に気を許している証拠だ」
「馬鹿言え、ただ運転疲れに決まっている」
「彼女はアスリートなんだろう?この程度で疲れはしまい」
アマデウスの言葉に、平等院はつまらなそうに足元に視線を落として答えた。
「元だ」
「元?」
「コイツはもう現役は退いている」
「…… 何故だ?先ほどの技のキレを見るに、今でも問題なく世界で戦えると思う
が」
「知るか」
俺がコイツのことを何でも知ってると思うな。
平等院はそう素っ気無く吐き捨てた。アマデウスはそんな彼の心情に察するものがなかったわけではないが、口にはしなかった。苛立ちや寂しさ、不安。その根源にある感情に平等院自身が気がついていない筈もない。
「ング」
不意に眠ったままびくりとジャーキングした宇治宮。その後何事もなかったかのようにゆるりと身動ぎすると平等院の肩に頭をぐいぐい押し付ける。二人の耳に彼女がむにゃむにゃと言葉にならない言葉を口にしているのが聞こえた。それから宇治宮は
大胆な寝返りを繰り返して椅子の上で三回転した。
寝言、寝返り、ジャーキング。想像していたよりも活発に動く宇治宮に本当は起きているのではないかと思って、二人して彼女の顔を覗き込む。
「白目を剥いて寝ている」
「平和ボケしやがって」
言葉の割に柔らかい声音で平等院は文句を言った。
イングランドに上陸したあたりで起床した宇治宮は、うたた寝したせいか自分がどこにいるのかわかっていないらしかった。「…… な、なん、なに?なんなん?」と日本語でむちゃむちゃと呟きながら周囲を見渡す。
「…… あ、そうだ、ユーロスター乗ってるんだった」
「ようやく目が醒めたか」
「もうすぐ到着するぞ」
「マジか」
「まだ立たんでいい」
「そっか」
「俺の膝に座るな」
そんなこんなの気の抜けたやり取りを続けた果てに、三人は到着駅であるロンドンのセント・ パンクラス駅に辿り着いた。
セント・ パンクラス駅は一般的にはその駅名よりも、小説「Harry Potter 」の実写映画の撮影地としてのほうが有名なのかもしれない。ロンドンのランドマークの一つである赤煉瓦造りの高い時計塔の駅は見る者を圧倒させるほどの存在感がある。
入国審査はパリ北駅で済ませているため、そのまま改札を出るだけでイギリスに入国ができる。
セント・ パンクラス駅から地下鉄でロンドンのウォータールー駅へ向かい、そこからはウィンブルドン会場最寄りのサウスフィールズ駅までは一本だ。
ウォータールー駅に無事に到着した三人はサウスフィールズ駅へ向かう地下鉄に乗って順調に目的地に近づきながらも、しかし全員心のうちに言いようのない引っ掛かりを感じていた。
「…… このまま終わるとは思わないんだよね」
そうポツリと言った宇治宮に、何の話かと問う者はいなかった。言うまでもなく、平等院を執拗に追ってきているあの黒服の男たちのことだ。
「君の熱烈ファンでしょ。なんとかしなよ」
「ファンサービスはしねえ主義だ」
「平等院、ファンは大事にするべきだ」
「少なくともアイツらは大事すべきファンじゃねえだろ」
「…… 黒服さあ、三人いたんだよねえ」
ミラノで追われた時のことを思い出す。あの時車に乗っていたのは三人だった。
だがパリまでの道中で追いかけてきていた車に乗っていたのは先輩後輩コンビだけ。
その二人もパリまでの道中の高速道路と、パリ北駅で結果的に振い落としている。
そうこう話しているうちにいつしか地上に上がってきていた。電車はサウスフィールズ駅に辿り着いて、三人は地上ホームに降りる。
「あと一人残ってんだよねえ…… 」
溜息混じりに改札を抜けた先にその男はいた。
「フハハハハ!やはり俺の計算通りにここに来たな!平等院!」
元気いっぱいに平等院へ向けて指を指す最後の黒服サングラスの男に、三人はややゲンナリした顔をした。流石にちょっと疲れてきた、精神的に。
「ファンからのご指名だぞ、平等院」
「じゃ、私たちは先に行ってるからガンバ」
「待て」
アマデウスと共に、上げた手をひらひらと振って平等院を置いて行こうとする宇治宮の腕を平等院は掴んだ。
「…… よく言うだろうが」
「なんて?」
「死なば諸共」
「せめて旅は道連れとか言いなよ…… 」
「おいコラ!俺を無視するな!」
喚く黒服に視線を戻す。三人の意識が自分に向いたのに満足したのか、黒服の男は余裕そうな笑みを浮かべ直した。なんとなく間の抜けた雰囲気のある男だ、と三人とも思った。
「おまえら、よくも俺の部下たちをボコボコにしてくれたな」
「弱者を寄越すな」
「怪我させちゃってたらごめん…… 」
「テニスの男は筋があったぞ」
「マジレスの暴力やめろ!アマデウスプロはありがとな!伝えとくわ!」
三者三様な発言に怒りつつ、ツッコミを返してくれる男だった。しかし、最後の一人にしてはなんというか、緊張感が無い。
「…… えーっと、結局何しにきたの?ってかそもそもなんで君たちは平等院を追っかけてんの?」
端から男の事情など興味のない平等院に変わって、宇治宮が腰に手を当てて呆れたように尋ねる。その問いかけに男が答えようと口を開いた、その時。
「わ、私がみんなに無理を言ってお願いしたんです…… 」
この場に不釣り合いな鈴の音のような声が響いた。
これまでずっと黒服の男の背後に隠れていたのだろう。男の背中からそろそろと顔を出したのは、緩やかに波打う栗毛を持つ小柄なハイティーンの少女。
柔らかに波打つその髪を揺らしながら、申し訳なさそうに眉を下げて彼女は三人を、いや平等院を見ていた。
高い踵の靴で小さな一歩を繰り返して歩き出てきた彼女は自信なさげな様子ではあるものの怯む様子は無く、平等院の前に立った。それから背の高い男を見上げて、眉を下げたまま困ったような顔で微笑む。
「あ、あの、お、お、お久しぶりです、平等院様」
「…… 平等院様ァ!?」
黙ったまま少女を見下ろす平等院に代わって、素っ頓狂な声を上げたのは宇治宮
だった。
◇
「…… つまり、ルーチェはマジでイタリアンギャングの孫娘で、マジでギャングの内部抗争で危なくなってたところをマジで平等院に助けてもらったってこと?」
「は、はい、そうです」
「マジで?」
「あの、はい、マ、マジです」
「おいコラお嬢様に変な言葉を教えるな!」
駅前で立ち往生しているのも邪魔だからと、私たちは駅から少し離れたところにあるウィンブルドン・ビレッジという洒落たエリアにあるカフェに移って話をすることになった。広い窓の開放的なカフェ。差し込む日差しが白いテーブルクロスに当たり、その白さを眩いほどに強めた。
私と平等院とアマデウスの三人と、黒服の男と少女の二人で向き合う形で五人は案内されたテーブルを囲む。…… まさかこんなことになるとは。いつのまにか想像もつかなかった未来に至っていることに頭を抱えたくなる。
さて、ルーチェ・ディ・メッシーナというのが件の少女の名前だった。
曰く、南イタリアのとあるギャングの孫娘らしい。とはいえ、彼女自身はごく普通に学校に通っていて、将来的には家から離れて堅気な職に就きたいと思っていたらしい。けれど、彼女は彼女の出自故に後継争いに巻き込まれてしまい、それこそ命さえ
狙われていたそうだ。そして例の黒服三人組はそんな彼女の護衛を任されていたらしい。
「平等院がギャングを壊滅させたという話はなんだったんだ?」
こてんの首を傾げてアマデウスが問うと、ルーチェは「それはその、け、結果的にそうなったというのが近いです」と答えた。
「抗争は激化して一般の方にまで影響が出るほどだったのに警察は動いてくれなくて。近くてたまたまテニスをしていた子供が巻き込まれかけたのを平等院様が助けてくださったのがはじまりなんです」
「ンエー!やるじゃん平等院!」
黙り込んだまま隣に座る平等院の背中をバシンと叩いて私が言えば、平等院は不愉快そうに私の脳天にチョップをかました。
しかしルーチェは目線を落として「ですがその結果、平等院様が目をつけられて次々と刺客を送られることになってしまって…… 」と悲しそうに眉を寄せて呟いた。
その言葉に合点がいったようにアマデウスがうなづく。
「その刺客を平等院が次々に返り討ちにした、というわけか」
「そ、その通りです」
「お前らのお友達ヤバイぜ」
うなづくルーチェに、平等院を指差したまま半目でこちらを見てくる黒服の男── ちなみにだが、彼の名前はチェーロというらしい。
結果的に刺客が来るのが面倒になった平等院がギャングの本拠地に乗り込んで大暴れ。ギャングは壊滅状態。その時に人質として本拠地に拉致されていたルーチェが平等院に助けられて逃げ延びた、ということだそうだ。
「あの夜、私はもう自分の死を覚悟していました。このまま他人の理不尽に巻き込まれて無意味に死んじゃうんだ、って」
ルーチェはぽつぽつと言葉を紡いでいく。
「でもあなたが目の前に現れて私を助けてくれた。私がこれまでに生きてきて築いてきた何もかもが壊されてしまう前に」
澄んだ瞳に涙を溜めながら彼女はそう真っ直ぐに言った。
私は彼女のことなど何も知らない。彼女の語る言葉でしか彼女のことを知らない。
けれど、それでもその言葉には何の嘘も無いのだと理解することができた。
「あなたはすぐに去ってしまったけれど、私はどうしてもあなたにお礼をお伝えしたかったんです」
だから平等院様にお会いしたいとみんなに無理を言ってしまったんです、と言ってルーチェは頭を下げた。
みんな、とは黒服の三人組のことだろう。三人の気持ちもわかる。彼女のような大人しい少女が身内の抗争に巻き込まれる様をそばで見ていて、まして命からがら助かった彼女が涙ながらに頭を下げて恩人に会いたい、と言えばそりゃあ多少の無理をしてでも叶えてやろうと思ってしまうだろう。
そしてルーチェの気持ちも想像に難くない。
死さえ覚悟するような状況で自分を助けてくれた人がいたのだ。蜘蛛の糸どころか、それこそヒーローや王子様に思えて仕方ないに決まっている。途切れた繋がりをもう一度繋ぎたいと思う気持ちだって理解できた。
だからこそ、の話だ。
「…… 平等院、君はさあ、彼女の気持ちがわかってて逃げ回ってたわけ?」
私は隣で何も言わない平等院へ日本語で問いかけた。他のみんなには伝わらない、内緒の話だ。どうしたのか、という周囲の視線を受けながら私は平等院を見る。そうすれば、平等院もまた私を見た。そこにある感情の色は読めない。そもそも私は人の
気持ちがわかるほど察しのいい質じゃない。だから言葉で愚直に問うしかない。
答えろよ、とじっと目を見つめ続ければ、平等院はこぼすように日本語で答えた。
「黒服の三人組もあの女も記憶にある。己の行動に身に覚えもある。だがアイツらの顔を一切覚えていなかった。…… わかるだろう、俺にとってはその程度だった。故に互いに得るものはない。与えられるものもな」
「だから会おうとしなかった、ってのはただの逃げじゃないの?」
「会わなければいつか忘れる。そうすればいつか無かったことになる。もし会ったとしても生まれるものはない。何があろうと既に結論は決まっている」
「それは結論の話でしょ。私は今、過程の話をしてるんだよ、平等院」
間髪入れずに返しても平等院の表情は変わらないから言葉を続ける。
「結論に納得はないよ。過程を経ることでようやく納得して結論を受け入れられるんだから。君は相手の方が世界ランクが上だからって、試合もせずに勝敗を決められても納得できる?」
過程を経て、己の中で納得して。そうしてようやく結末を受け入れることができる。
遠回りだとしても、私たちは納得しなきゃ前に進めないのだから。
平等院は少しの間押し黙って、それから「…… 貴様に何の関係がある」と吐き捨てる。しかし、そんな言葉に怯む私ではない。
「やかましいな!そもそも私を巻き込んだのは君でしょうが!」
ミラノで私の手を掴んだのは平等院だった。
関係ないと言うのなら、君は私の手を掴むべきではなかったのだ。
今度こそ返す言葉を失って、こちらを睨むばかりの平等院から視線を外して私は平等院を挟んで向こう側にいるアマデウスに声をかけた。それから、黒服の男にも。
「おし!私たちは店を出るよ!」
「ああ、わかった」
「は?いやアンタなに言ってんだ」
「ルーチェは平等院にお礼を言いたいって話でしょ!無関係の私たちがいたら邪魔で仕方ないんだから、お店を出る!はい、早く!」
「そんなことできるか!俺はお嬢様の護衛だぞ!」
「お前より平等院の方が強いから気にせず離れて問題ないだろう」
「え?マジレスの暴力つらい」
「じゃあ私たち外にいるから」
ちゃんとしろよ…… と平等院にじっと睨んでから、目を丸くしているルーチェにウインクした。
わかるよ、ルーチェ。いやわからないわけがない。
自分の命の危機に颯爽と助けてくれた人なんて、顔がどんなに怖くても好意を抱いてしまうに決まっている。だからこれは頑張れのウインクだ。
未練がましい黒服の背中をアマデウスと共にぐいぐい押しながら店を出る。出口に立った時に、ふと二人のいる席のほうを振り返った。
広いテーブルで向かい合って言葉を交わし合う二人。その声はここまで届かないけれど、部外者である私が見ていていいものでもない。後ろ髪引かれる気持ちを否定できないながらも、私は前を向いて外へ歩き出た。
「うう…… お嬢様はな、ご自身の出自のために周囲を巻き込まないよう、これまで親しいご友人や恋人さえ作っていなかったんだ」
「すごいいい子じゃん…… 」
「それが平等院の一件からこれまでよりずっと明るくなられて、一度でいいから平等院に再会したいと仰られたんたんだ。俺らとしちゃあ叶える他ねえだろうよ」
「いい話じゃん…… 」
「もちろんギャング組織が壊滅してお嬢様が自由に生きられるようになったことも大きいだろうがな」
「幸せになってほしい…… 」
「お嬢様が明るくなられて、学校でご友人もできて、ごく普通の年相応の女性のように日々を楽しく過ごされているのは平等院のおかげなんだよ」
「しちゃったんだ、恋…… 輝いちゃったんだ、世界…… 」
「でもポッと出の男に掻っ攫われるのは護衛としては複雑というかだな…… 」
「完全に父親気分じゃん」
近くの店でコーラを買って、カフェの目の前にある公園で飲んでいる。木陰の下、芝生の上に三人座り込んで、駄弁っている。のんびりとピクニックをしている家族連れやら観光客やらを眺めつつ、だらだらとしていた。
「宇治宮、聞きたいことがある」
「ん?どうしたの、アマデウス」
「貴女がパリ北駅で掛けていた技だが、あれはどういうものなんだ?」
「あれはねぇ、相手を正面から掴んでこう、ガッって…… 口で説明するのむずいな。チェーロ、立って」
「な、なんだよ急に」
黒服の男── チェーロを立たせてから私も正面に立って相手の服の襟を取る。
「ここをガッって掴んでここをこうしてこうしてこう投げる」
「ギャン!何で急に俺を投げた!?」
「すまない、速くてよくわからなかった」
「チェーロ、立って」
「なんなんだよお!」
「ここをこうしてこうしてこう」
「ギャン!」
「投げの起点は腕になるのか?」
「いや、ここをこうしてこうしたときのここでこう」
「ギャン!」
◇
「き、気を遣わせてしまったようですね」
「…… アレは息を吸うようにお節介を焼く女だ。気にするな」
困ったような笑顔でそう言ったルーチェに、平等院は溜息を吐きながらそう返す。
話を回してくれていた宇治宮たちがいなくなった途端、六人席のテーブルは物理的にも精神的にも非常に広くなったように感じられる。
心の準備もできないままに二人きりにされたルーチェは、何から話を切り出すべきか、膝の上に置いた手をぎゅうと握ったまま考え込んでいた。伝えたいことはたくさんあったはずなのに、急に二人きりになったのもあって混乱してしまい、どれから話せばいいのか迷ってしまう。迷えば迷うほど焦ってしまい「ああ、ええと…… 」と口篭るばかり。
どうしようと頭の中をぐるぐると回すルーチェへ、この混乱を断つように言葉を発したのは平等院だった。
「…… 貴様が望むものは得られないだろう」
腕を組んだまま、端的過ぎるほど端的に平等院は告げた。彼は言葉を尽くさなければ他者の強い感情を理解できないほど愚鈍ではなかったから、目の前の彼女が何故自分に合おうとしたのかを理解していた。
ルーチェは少し驚いた顔をして、それから自分の感情が他者に理解されたことを理解して、困ったように眉を下げて微笑む。それは例えるのならば、些細な悪戯がバレてしまった子供のような微笑みだった。
「私ってそんなにわかりやすいでしょうか…… ?」
平等院は何も言わなかった。ただ静かに言葉を待つだけ。
開かれた窓から流れ込む柔らかな初夏の風がテーブルを吹き抜けていく。遠く、外から楽しげに道を往く人々の笑い声が風に乗って流れてきた。そんな喧騒から離れた場所で、ルーチェは微笑んで言葉を紡ぐ。
「はい、私はあなたに恋をしました。あなたに助けられたあの夜が大きな愛の始まりなのだと、私のこれまでの不幸さえもすべてこの愛のためにあったのだと、信じて疑いませんでした」
彼女はどこか恥ずかしそうに、まるで己のかつての幼い過ちを思い出すかのように頬を緩めた。
「でも今ならわかります。私にとってあなたは私を助けてくれた唯一の人だけれど、あなたにとって私は雑踏の中の一人でしかないのだと。当然のことです。あの夜にあの場所にいたのか私じゃなくても、きっとあなたはその人を助けたのでしょう?」
「…… 仮定に意味などないだろう」
「それでもわかりますよ、あなたは優しい人だから」
「貴様の想いに拒絶しか返せないとしても、か?」
平等院の吐き捨てるような物言いに、ルーチェはしかし穏やかな表情を崩さなかった。わざと突き放し、遠ざけることでしか守れないものもあると知っていたから。
憑き物が落ちたように、あるいは重い荷物を下ろしたように彼女は晴れ晴れとした顔をした。
「いいの、私にもわかるもの。私、あなたのことが好きです。きっと、これからもずっと。でもそれだけでいい」
それだけでいいの、と彼女は涙を落としながら言った。
「ありがとう。あの時、たくさんの人から死ねばいいって思われていた私をあなたが、あなただけが助けてくれた。それだけでいいの。それだけがあればもう、私は胸を張って生きていける」
涙に光が反射して、流星のように頬を伝っていく。
美しい思い出を美しいままに胸に抱いて生きていける、と彼女は言った。
彼女のそれは一つの覚悟であり生き方だ。それ故に平等院は(…… ああ、だからだ)と確信する。
平等院はわかっていた。ルーチェが己に恋慕を抱いていたことを、そのために拒絶されるだろう未来を理解してなおもう一度会うための選択をしたのだと。
見せつけられてしまった。思い知らされてしまった。
(「…… 平等院、君はさあ、彼女の気持ちがわかってて逃げ回ってたわけ?」)
ああ、その通りだ。わかっていて、逃げていた。
他者を拒絶することを恐れたわけじゃない。他人を悲しませることを恐れたわけじゃない。そんなことに怯む自分ではない。そもそもが逆だった。事実は正しく反転する。
拒絶したくなかったんじゃない。
拒絶されたくなかったんだ。
目の前にいる彼女は自分と同じだと識っていたから。
自分によく似た彼女の想いを拒否することは、いつか自分にやってくる未来を直視することだと解っていたから。だから、見たくなかった。そのために愚かにも逃げ回っていた。
初めからわかっていたことだ。自分にとっての褪せない記憶は、アイツにとっては流れ去る日々の一つでしかないと。俺は彼女にとって認識されることさえない路傍の石に過ぎないのだと。
いつかの秋めく夕暮れ。廊下を吹き抜ける秋風。
掴まれた腕の感触。ワイシャツ越しの体温。
呼ばれた名前。笑った顔。伏せた瞳。かけられた言葉。
あの時の感覚もあの時の感情もあの時の風の匂いも光の色も遠い喧騒も何もかもを覚えている。そんな些細なことが忘れられない。今だってずっと忘れられないのに。
いつかの十月二十七日。
きっと宇治宮朝日はあの場にいたのが俺じゃなくても救っていた。
ルーチェ・ディ・メッシーナを拒絶したことで明確になったその事実が今度こそ平等院を追い詰める。
己が抱えている感情を自覚してなおどうして宇治宮に会いに行こうとさえしなかったのか、なんて自問自答さえも下らない。呆れるほど無様で、どうしようもなく愚かだった。自分にこんな感情があるなんて信じられなかった。
…… 抱える恋慕を拒絶されることを恐れていた、なんて。
「…… 何故、」
呟いたのは平等院の方だった。目を瞑り、深く呻くような声が溢れる。
何故拒絶されたことを受け入れられるのだろう。
だって、きっと自分は受け入れられない。
綺麗な思い出にしてしまうことなんて出来ない。嫌だ。俺は絶対に一番でありたい。
彼女にとっての一番でなくては嫌だ。彼女を必要とし、必要とされたい。そうなれないのならこの感情なんて捨ててしまった方がよほどマシだ。揺らぐ恋の船など、堕ちて海の藻屑にでもなってしまえ。
「何故、受け入れられる」
問うように、あるいはただの独り言のように呟く平等院にルーチェは同類相憐れむようにうなづいた。彼女もまたわかっていた。
目の前にいるのは彼女にとってのヒーローであり王子様であるけれど、それと変わらず誰かに恋をする一人の青年であることもわかっている。そういうところを知ることが出来て嬉しかった。それだけで会えてよかったと思える。
「あなたがそんな人だからです。あなたは私の想いは受け取らなかったけれど、否定はしなかった。私の痛みを理解してくれた」
涙の跡は残れども、もう濡れてはいない瞳で少女は微笑んだ。窓から吹く風が涙の跡さえ乾かしていく。
いつかそういう日が来る。だって恋さえできなかった。自分の出自のせいで誰かを不幸に巻き込むのが怖かった。初めて恋をしたこと、初めて失恋をしたこと。誰かにとって当たり前のことが、ルーチェには新鮮で幸せで美しかった。
「私の結末を人は失恋と呼ぶのかもしれない。けれど、あなたがこの想いを受け止めてくれた過程があるから、私は納得してこの結末を受け入れられるの」
ありがとう、と彼女は再度繰り返した。何度繰り返しても褪せることのない気持ちがそこにあり続ける。
揺られる瞳で自分を見つめる青年に微笑んでから、ルーチェは窓の外へ目を向けた。
晴れ渡る空の色や流れていく雲の形、この一度きりの初夏の香りを生涯忘れずにいたいと心から思う。そして今日この日の出会いと、ずっとそばにいてくれた人たちへ感謝を。
ねえ、同じ痛みを知る私たちは友達になれるかしら。
…… 言葉にはしないけれど。
「私の船は往ってしまったけれど、あなたの船はまだ間に合うのかもしれない」
せめてあなたの祈りが叶ってほしいと思うのは、外野のエゴだろうか。
「ルーチェ」
平等院は深い声音で目の前の彼女の名前を呼んだ。縛られ続けてきたファミリーネームではなく、誰にでも当てはまるような二人称でもなく、彼女の名前で彼女を呼ぶ。
「貴様に敬意を表する。…… 俺は、会いに行こうとさえしなかった」
真面目な声音で平等院がそんなことを言うから、ルーチェは一瞬目を丸くして、それから声を上げて笑った。
「あなたって不思議な人ね。ギャングはちっとも怖くないのに、好きな人に会いに行くのが怖いなんて」
◇
お前らとはもう遊ばない。
そう言って、離れた草っ原で四葉のクローバーを探し始めたチェーロの背中を眺めている。
黒い服を着ているのに直射日光の下だから熱を集めて暑そうだ。しかし、チェーロは拗ねたままこちらに背を向けてしゃがみ込んでいる。投げ過ぎた。反応が良過ぎるものだから、つい調子に乗って投げ過ぎてしまったらしい。すっかりいじけてしまった。
私とアマデウスは拗ねるチェーロを放ったまま、最初に座った木陰の芝生に変わらずいる。初夏の直射日光は汗ばむほどだけれど、木陰にいると涼しくて過ごしやすいくらいだ。たまに吹き抜ける風が心地良い。
「宇治宮」
アマデウスに呼ばれて彼の方へ顔を向けた。途端に相も変わらず何を考えているのか読めない瞳と視線が合う。何かなと首を傾げれば、彼はその薄い唇を開いた。
「ありがとう」
不意にアマデウスはそんなことを言った。何のことを言われているのか分からず、首を傾げて見せればアマデウスはゆるりと口元を緩めて続けた。
「たった半日ほどだったが、とても楽しい旅だった。貴女のおかげだ」
「いやいや、それは私こそだよ。偶然だったけど、君と友達になれてよかった」
「そう言ってもらえて嬉しい。…… 俺は、こんなふうに同年代と旅行に行くような経験が殆ど無くてな、だから今日がとても楽しかったんだ」
「じゃあまた行こうよ、私とアイツと君で。車はもう勘弁だから今度は船旅とかさ。今回がこんなに楽しかったんだから、次もまたきっと楽しいよ」
もしかしたら彼は早くからプロになったために、友人とこうやってテニスに関係なく遊ぶという機会が少なかったのかもしれない。
彼を見上げて私がそう言えば、アマデウスはまるで考えてもみなかったというような表情でこちらを見返す。それからゆっくりと雪解けみたいに柔らかく微笑んだ。
「ありがとう」
これまでの人生で何度も言われたことのあるただの感謝の言葉。ただ、アマデウスの表情を見るにとても深い意味がこもっているような気がした。その全てを察することはできないけれど、彼がこの旅を楽しいものだと思えたのならそれでよかった。
木の根元に置いていたラケットバッグを背負ったアマデウスは「俺は先に行く」と言って芝生に座ったままの私を見た。
「平等院に会わなくて良いの?」
「ああ、どうせ試合で会う」
「確かに。それもそっか」
「よろしく伝えておいてくれ」
「うん、またね」
「ああ、また会おう」
手を振れば、手を振り返される。それが嬉しかった。歩き去っていくアマデウスの背中へずっと見ていた。不思議と別れの寂しさは無かった。また会えるという確信があったからだろう。
アマデウスの背が見えなくなった頃、カフェの方から平等院とルーチェが現れるのが見えた。二人の話も終わったようだ。彼らに向かって大きく手を振れば、ルーチェは笑って会釈を返してくれたけれど、平等院はいつも通りの仏頂面でこちらをちらり
と見ただけだった。変わりのない愛想の無さにむしろ安堵する。
「お嬢様!お嬢様ぁ!ありましたよ!」
当然大きな声を上げてルーチェの方へ駆け寄っていったのはチェーロだった。掲げた右手につままれているのはきっと四葉のクローバーなのだろう。
嬉しそうに走っていくチェーロも、びっくりしながらも笑って受け入れるルーチェも、なんだか微笑ましくてここに座ったまま私まで笑ってしまった。
ここからでは聞こえないけれど、合流した二人はいくらか話をしていて、そうしてからルーチェが私の方を見た。
「朝日さん!本当にありがとう!」
憑き物が落ちたみたいに晴れやかに笑って、今日一番の大声で手を振ってくれたルーチェに私もブンブンと大きく手を振りかえす。彼女が平等院とどんな話をしたのかを、私は知らない。知らないけれど、あの笑顔を見るにきっと納得のいく結末に至ったのだろう。
ルーチェは平等院に何かを伝えて、それからチェーロと共に公園を去っていく。
少しずつ減っていく人々に、旅の終わりがやってきたことを感じた。
「…… 貴様は相変わらずだな」
「褒めんなって」
「褒めてねえ」
芝生を踏みつけ、私のそばにやってきた平等院は、呆れたような、それでいてどこか笑っているかのようなそんな声音をしていた。私は相変わらずな平等院にほっとして笑う。
「アマデウスは先に行くって」
「そうかよ」
「ルーチェと話できた?」
「ああ」
「そっか、ならよかった」
何があったのか、何を話したのか、そんなことを深く聞くつもりはなかった。だからそれきり口をつぐむ。私の隣に立った平等院は黙ったまま私を見下ろして、それから芝生の上に腰を下ろした。隣に並びあったまま、なにをするわけでもなく二人静かに公園を眺める。
こんなことが前にもあったな、と思い返す。あれは確かディジョンへ向かうサービスエリアでのこと。あの時もこんなふうに並んで座っていた。穏やかな沈黙は公園にいた時と変わらずに心地良い。
長い旅が終わった感覚があった。
目的地はここで、もう私たちを追ってくる人はいないから、これ以上どこかに行く必要なんてない。旅の始まりにはそうなることを望んでいたはずなのに、今こうやって終わりを迎えてしまうとなんだかさみしい気がした。こんな大団円がやってくるな
んて、想像していなかったからかもしれない。深い安堵と寂寞はどちらも矛盾することなく胸の内に存在していた。
「宇治宮」
「うん?」
名前を呼ばれて、隣に座る平等院へ目を向ける。平等院はこちらを見てはいなくて、じっと遠くを見つめたままだった。何か言いたげなその沈黙に、私は黙って続きを待つ。例え、長い沈黙の果てに空が夜になっても待っていようと思えた。
「…… 貴様は覚えていないだろうが、」
ゆっくりと流れた沈黙を破って、不意に平等院はそう前置きする。胡座をかいた膝に肘をついて、頬杖をついたままわざとらしく素っ気ない声音をしていた。気がつかないふりをして耳を傾ける。
「昔、貴様に腕の故障を指摘されたことがある。ワールドカップ前の調整期間だった。貴様に言われた通りに医者に行けば、曰くもう少し来るのが遅かったら大会に影響が出ていた、と」
ぽつぽつと零れ落ちるような、ふとすれば喧騒に掻き消されてしまいそうな、そんな声だった。端的で端折られた説明に、それでも私の海馬は機能する。
「…… 感謝を、している」
零れた言葉に、思わず顔を上げた。横顔を見つめる私に構わず、平等院は「これまでに築き上げてきた何もかもが無に返す前に、貴様に助けられた」と続ける。それからグッと眉間に皺を寄せて、普段の仏頂面をもっと仏頂面にして吐き捨てた。
「どうせ貴様は覚えてなどいないだろうがな」
人の記憶力を一切信用していない物言いに思わず吹き出してしまった。そんな私を訝しげな目で見る平等院に私は笑いながら言った。
「覚えてるよ、高三の秋の話でしょ」
「…… は?」
「あの時さ、君が私に言ったこと覚えてる?」
逆に問い掛ければ、平等院は何のことだとばかりに首を傾げる。もしかしたら覚えてないのはむしろ彼の方なのかもしれない。
「人の故障が見ただけでわかるなら予防医学なんて型無しだーって。君がそう言ってくれたのが嬉しくて柔道整復師を目指したんだよね、私」
だから柔道辞めてこっちの道に来ちゃった!
なんて、今まで誰にも言ったことのない内緒話をピースしながら笑って言えば、彼は珍しく不意を打たれたような顔をして固まった。そんな反応に私はキョトンとする。
そんなにびっくりすることだろうか?
固まっていた平等院はそれから肩を落として深い深い溜息をついた。それからぽつりと呟く。
「…… 路傍の石では無かった、か」
彼は体の中身が空っぽになってしまいそうなほど息を吐いてから、自身の右手で顔を隠して俯いた。そうすれば長い髪と掌で彼の表情は私からはちっとも見えなくなる。
どんな表情で、どんな感情なのかわからない。笑っているようにも泣いているようにも見えた。わからないから問いかける。
「どうしたの、平等院」
「…… 貴様は本ッ当に、」
呆れたような声が掌の下からくぐもって聞こえた。
本当に、…… なんだろうか。言葉の続きを待ちながら、じっと平等院を見つめる。
待つのは嫌いじゃない。
やがて掌を落として小さく息を吐いた平等院は、顔を上げて私を見つめた。その真っ直ぐな瞳に私も正面から向き合う。私の視界の中で平等院が笑った。昔から変わらない、少しニヒルな微笑み。
「…… 貴様は本当に、昔から変わらんな」
「んだコラ悪口かァ?成長が無いってかァ?」
「違う。好きだと言っているのがわからんか」
「……………… んえ?」
平等院の言葉が紡がれ、私まで届いて鼓膜を揺らす。
耳に入ってきた言葉を脳が理解した、その瞬間。
「どうやら乗船には間に合ったようだな」
私の表情を見た平等院は満足げにそう言った。