エピローグ『僕と僕らの明日』


ロンドンの路肩に停めたチンクエチェントの運転席で私は新聞を広げている。新聞もテレビもラジオもネットも先日閉幕した全英オープンの話で持ちきりだ。

選手一人一人に様々な試合と物語があった大会だったけれど、私の視点で話すのならばやはり準決勝の話は欠かせないだろう。

なにせ、スイスのアレキサンダー・アマデウスと日本の平等院鳳凰の試合だったのだから。

テニス界としては同世代若手のホープ同士であり、私としては顔馴染みである二人の試合だ。観客はもちろん多くのプロも注目していて、試合の盛り上がりは凄まじかった。

あの白熱と表現するしか無いあの激闘の結末については最早私が語るまでも無い。

あれだけ話題になったのだから、結果を知らないのは多分筋金入りのテニス嫌いだけだろう。

結果を知っているスポーツ面からページを巡って、クロスワードを眺める。

…… ドイツ語ほどでは無いにしろ、留学にあたって英語もそれなりに勉強してきたつもりだったのだが、普段使わない言語だと案外難しい。なかなか頭の中で単語が出てこない。

新聞紙と睨めっこしていると、ふと助手席側の扉が開いた。ちらりと視線をやれば、デニムキャップを深く被った平等院が我が物顔で乗り込んでくる。深くかぶったデニムキャップに彼の額の傷はすっかり隠されていた。改めて思ったが、真顔かつ無言だ
とほんと顔が怖いなこの男。顔馴染みじゃなかったら悲鳴をあげて殴っていたが、生憎この男のことはよく知っていた。

しかしあのキャップ、元は私のだったのになあと思った。いつのまにかすっかり彼の持ち物になっている。

「ねえ、「長期の旅行を表す名詞」って英語で何?」
「あ?「TRAVEL 」」
「最後がY。あと七文字」
「…… 「JOURNEY 」か」
「一、二、三…… あ、それっぽい」
「なんだ急に」
「いやクロスワードパズル」

待ち合わせまでの暇つぶしだったので、助手席が埋まった時点でパズルとはおさらばだ。新聞を後部座席に放り投げようとしたところで、助手席の男に掻っ攫われる。

「君、新聞に載ってたよ」
「興味ねえ」
「えーカッコいい写真だったのに」

褒めたのにスルーされた。彼が助手席でクロスワードを眺め出したので、私はエンジンをかけ直す。修理されたばかりで調子のいいエンジン音でチンクエチェントはいつでも出発可能なことを教えてくれる。エンジンの稼働によって揺れ出した車内に平等院は片眉を上げた。

「結局買い取ったのか、このオンボロ車」
「そう、買っちゃった。激安だったわ」

このイエローのチンクエチェントはミラノからパリまでの長旅を共にしてくれたあのチンクエチェントだ。
あの旅の後、パリに戻った私は近くの修理場に見てもらってとりあえず走れるようにしてもらってからミラノまで戻り、ミラノのレンタカー屋の主人に頼んでチンクエチェントを譲ってもらえるよう頼んだのだ。主人はむしろオンボロを買い取りたいと
言われたことに驚いていて、格安をさらに格安にしたような値段で譲ってくれた。買い取った金額と古いエンジンの修理代は対して変わらなかった。

「留学生だろうが貴様は。いつか帰るのに買ってどうする」
「なんかアマデウスが家のガレージ空いてるから、日本に帰ってる間は置いてていいって」
「あの野郎は本当に貴様に甘いな…… 」

呆れたような溜息ひとつ。私はそれに笑う。頼るべきは友だ。サイドブレーキを外し、ウィンカーを出して、ゆっくりと道の流れに入っていく。緩やかに発信したチンクエチェント。扱いはすっかり慣れたものだ。手に馴染むと言い換えてもいい。機嫌良く運転を始めたあたりでふと平等院が唇を開いた。

「朝日」

そして不意に名前を呼ばれる。低く、穏やかで、その奥に柔らかな熱のある声。その声には聞き馴染みがあるが、その呼ばれ方にはまだ馴染みがない。半拍遅れて「ん?」と反応すれば、低く喉を鳴らされる。

「死なば諸共、だな」
「せめて旅は道連れって言いなさいよ、鳳凰」

チンクエチェントの操作のように、そのうち互いの呼び方にも慣れるだろう。多分、これから始まる新しい旅のうちには。

そんなことを考えながら、私はゆっくりとアクセルを踏んで、車たちの流れに沿ってチンクエチェントを加速させていった。