地獄に落ちても

デイビット・ゼム・ヴォイドの原初の景色はあの研究室の中だ。
海馬に残したその記憶を彼が忘れることはない。忘れることを彼自身が許さないのだから。初めて自分の意志で掴み取った、記憶5分

再生される記憶。喪失のない記録。……或いは、思い出。
デイビットは静かに思い出す。

それは全てが終わって、しんと静まり返った部屋の中のこと。光は絶えていた。『天使の遺物』は役目を果たして停止する。

媒体となった少年が光に灼かれることで生まれたソレは少年と何一つ変わらない姿でそこに座り込んでいた。

ぼおっとする。頭の奥がしびれる。
自分は此処にいるのにどこにもいないような気がして、肉の身体の中にいる自分がもっと奥深くに入り込んでしまったような感覚だった。
世界を見ているのに、現実感がない。
さわっているのに、感覚が遠い。
纏わりつく疎外感、異物感。何もかもが自分と違う感覚。

ふとあたりを見渡せば、床に張り付いた2つの影。
それから、死体。

自分だったものの姉だったものが死体に成り果てていた。微かな熱を残したまま転がる銃、床に飛び散った脳髄、広がる血溜まりと、鼻孔をかすめる鉄と火薬の匂い。
凄惨な景色。けれど視覚も嗅覚も、あまりにも遠い。だから何も思えない。大切な人だったはずだ、少なくとも彼にとっては。なのに何も思わない。それどころか、体温も鼓動もちゃんとあるのに全てが果てしなく遠くて、自分が此処にいるという感覚さえ抱けない。

光に灼かれて、彼の身体は原子レベルまでバラバラにされた。全部崩れて、ぐちゃぐちゃにされて、自分という形を失くして、それからもう一度同じ場所に同じ原子を戻された。
だから壊れる前と直された後の彼は全くもって寸分違わす完全に同じ存在で、どこも変わっていないし何も変わっていない。

──ほんとうに?

人は死んだらおしまいで、だから命は一度きりなのに、身体をあんなにバラバラにされたのに、心臓なんて脳なんてカタチが無くなるくらい原子に還されたのに、あの瞬間生きていたなんて誰も言えないはずだから、今ここにいて鼓動が鳴らしている自分は生きていても、ほんとうに生きているのかわからない。
どこまでが自分?どこからが自分?バラバラにされたときも自分だった?何もかも戻されても自分は前と同じ原子の配列に過ぎない。それでは原子を持たない記憶は、気持ちは、心はどこにあるの。

不意に誰かから呼ばれた気がして、少年は顔を上げる。
たくさんのものが見えるから、瞼を閉じる。そうしたらもっとたくさんのものが視えるようになった。瞼の裏に映るは幾千もの星々。深く黒く、なにもかもを飲み込むブラックホール。その向こうから遠く、遠く、こちらを呼ぶ声。そこにいるのはだれ?どこにいるの?こちらを呼んでいる。こちらが呼んでいる。こちらへ呼んでいる。だから、呼べば来るとわかった。此処にいると伝えれば、見つけてくれる。遠く果て無き宇宙の最果てのその先。手を伸ばしては誰かが笑ってる。誰かが嗤ってる。自分のことだからもう全部わかっている。成り果てる、ただの記憶装置RAMに、端末に。だからもう誰かじゃなくて、誰でもなくて、此処にはいなくて、何も無い。ただの空白で、虚ろで、NULL。

「そこにいたの?」

誰かが、──うそ、誰かなんてわかってるけど──そう、誰かがそう問いかけてきて、彼は閉じていた目を開いた。途端に接続は途絶えて、明るい研究室の景色が目に入る。
声の元へ視線を向けると、自然と彼女の死体が目に映った。

そして、目が合った・・・・・

姉だったものの死体が転がったまま、目を開いてこちらを見ていた。
引き込まれるような紫の瞳。ぴたりと合う視線。開いたままの瞳孔。脳天から血を流したまま、彼女は床に寝転がって、それからこちらを見て笑っている。

「『デイビット・ゼム・ヴォイド』」
「…………あ」
「ああ、なんだ、あなた、ずっとそこにいたのね……ふふ、私も彼女も全然気が付かなかった……」

彼女が呼んだその名前。聞いたこともないのに、どうしてかそれが自分の名前なのだとわかった。

もはや世界から消失した   ではなく、端末に成り果てた彼を彼女はそう呼んで、初めて見つけた。だから、彼もまた初めて彼女を見つけた。

彼女を見つめたまま動けない彼。彼女は床に手を付けて起き上がる。まるで何事もなかったみたいに起き上がって、普通の女の子みたいに乱れた髪を直した。

「言っておくけど──」

彼女はそう言って立ち上がると、デイビットの傍まで近づいて座り込む彼を見下ろした。逆光、頭からぽたぽたと零れる鮮血、開ききった紫の瞳。ニンマリと笑う勝ち気な表情でこちらを見下ろして彼女は続けた。

「私のほうが先なんだから」
「…………」
「わかるでしょ?」
「……うん、姉さん」
「ええ、そう、その通りよ、私の弟。お前より先に生まれた私が姉よ」

手を差し伸べられる。掴むべきだと思って、その手を握る。柔らかい。感触はある。体温は薄くて遠い。でも、そこにいる。目の前にいる。

引っ張る姉の手に従って彼は立ち上がった。この部屋に入るまでとは反対に、姉に右手を引かれながら彼は歩く。彼女は当然のように扉へ向かい、外へ出ていこうとした。何処へ行くのだろう?そんな彼の疑問に気がついた彼女は鼻で笑う。

「なに?ここでまだしたいことでもあるの?」
「…………」
「どこにいたっておんなじよ。異常なものって目立つから、すぐに魔術師共が来てお前は回収される」
「……うん」
「だからそれまで私と遊ぶの。ここを探検するのよ!さっきまでの身体じゃ扉が開きっぱなしでたまんないんだから!」

機嫌よく笑って彼女は扉を押し開く。ぐいぐいと引かれる手のまま、彼もついていこうとして、扉をくぐるその直前、どうしてか振り返る。

紫の瞳に映るのは、研究室の床に残る少年と父親の形をしたシミ。それから、変わらずそこに転がっている少女の死体。
広がる血溜まりも飛び散る脳髄も変わらない。そのまま、そこにある。

死んだ者は生き返らない。二度と蘇ることはない。
死者は生者から永遠に離れる。繋いだ手はとこしえに遠ざかる。
だから自ら頭を撃って死体になった彼女はもう死んでいて、生き返ることはなくて、閉ざされてしまった扉の向こう側でこの宇宙が冷え切っても生き続ける2つの影を待ち続けている。

──じゃあ、彼女きみはだれ?

少年は自分が握っている少女の掌に意識を向けた。
確かに掌の感触がある。薄い皮と肉、その先の骨。平べったくて、でも柔らかくて、容易く壊れそうなのに不思議と力強くて。少し力を込めて握れば、同じだけの強さで握り返される。
確かに此処にいる。存在している。

けれど本当はわかっている。きっと彼女は此処にいなくて、実在性なんかなくて、自分以外の誰にも見えなくて、生きてなんかいないということ。
それはきっと自分が無意識に作り出した作り物で、幻覚。
元になった少年の記憶をベースに作り上げた己の片割れという防波堤。足りない現実感と違和感を覆うためのライナスの毛布。再構築された原子の群れの中に混ざった、原子では証明できない曖昧で不可視のココロとか、そういうものの切れ端。

それでも、望んで生まれた。望んで産んだ。
オレの姉さん。オレだけの姉さん。
作り物でも、幻覚でも、紛い物なんかじゃない。
誰に理解できずとも、自分にだけは尊く、輝けるもの。
地獄に落ちても忘れない、渡さない、決して離さない。

「ええ、そうよ。ずっとそばにいてあげる。ふふふ、あはは!」

彼女は声を上げて笑う。研究室から飛び出した廊下の真ん中で、踊るように彼女はターンをする。その手に引かれてデイビットは衛星のように彼女の周りを回った。

「お前が死ぬまで、お前が死ぬ最後の時まで、決して一人きりにしないように」

二人は手を握る。離さないように。
彼女が自身と彼を完全な別存在として扱ったのはその時が最初で最後。結局、彼女が彼の名を呼んだのはたったの2回だけ。
彼を見つけた時と、彼と約束をした時。

「デイビット、どうか私を── さないで」

彼はうん、と頷いた。
子供が容易く小指を絡ませるみたいに。
彼女は嬉しそうに笑う。
子供が容易く蛹を千切るみたいに。
幕が引かれるまで踊ろう。
いつかやってくる終わりがオレたちを飲み込んでいくまで。

もはや地球人類では無くなった少年は、影のない少女と手を繋いで駆けていく。
一人分の足音と共に。


『天使の遺物』による事象発生から17分後、伝承科学部長は少年を発見する。
彼は物理的・魔術的封鎖をされていた伝承科の第8保管室内部へ密室状態のまま侵入し、厳重に保管されていた超遺物No.0383、通称『グレーテの羽』を完全に制圧、解析した状態で床に座り込んでいた。

少年は姿が見えない伝承科学長からの問いに対しても動揺することなく淡々と回答する。その際、まるでそこに何かがいるかのように時折自身の右側へ視線を向けることが多々あった。
また、彼は自身の名前を問われた際に「デイビット・ゼム・ヴォイド」と回答している。





「……っあ、ぐぅ……、がっ、あああっ!」

湿度の高い石造りの部屋の中で、男の呻き声が響く。
石でできた寝台の上で青年は上半身を裸にした状態で仰向けになっている。呻き声が彼からだった。身体の中身をぐちゃぐちゃに掻き混ぜられているかのような苦悶の声、奥歯を噛み締めて耐えようとしてもなお零れる悲鳴。暴れそうになる身体を寝台の縁を掴むことで耐え抜く。

鋼鉄の精神を持つデイビットにとってさえ、異星の神の心臓を移植するという所業はそれほどのことだった。

「まったく……。いいか?オレは生きたまま心臓を抜くのは得意だが、生きたまま心臓を入れるのは専門外だ。無茶をさせたのはオマエだぞ、デイビット」
「……っぐぅ、あ、ああ、世話を……ッ、かけた……っ!」
「喋るな。舌を噛みちぎるぞ」

デイビットの胸で中に移植した異星の神の心臓が蠢く。木の根のように浮き出た異形の血管は彼の胸の中心から首筋近くまで伸びていた。その中心で鈍く光る赤い鉱物のようなものは彼が苦痛に呻く度に明度を変える。

デイビットから頼まれて異星の神の心臓を移植したテスカトリポカは、ほとんど流血させることなくその大仕事を終えた。それ以降のことは彼の管轄外である。移植された心臓に耐えられるかはデイビット次第だ。
とはいえ、いくら役目を終えたからといって苦しむマスターを放るほど薄情な神でもない。彼がこの試練を耐え抜くか、或いは耐え切れずに息絶えるか、そのどちらかの結末を迎えるまでは見守ってやろうと椅子に腰掛ける。

デイビットから離れたテスカトリポカとは反対に、彼に近寄る小さな人影があった。
高い寝台のそばで爪先を立てて、デイビットの顔を覗き込む少女。デイビットと鏡写しのように似た顔をしながら涼しげな顔で彼を眺める。
その視線に気がついたデイビットに激痛に耐えるために強く瞑っていた瞼を開いた。途端に生理的な塩水が彼の目の縁から零れる。姉を映したその瞳に浮かぶのは無自覚な安堵の色。それを見て少女は口角を上げた。

「ふふ、今のお前を見て、昔見た映画を思い出したわ。人の皮膚の下を這いずり回って中身を食べちゃう甲虫が出てくるの」
「……ぁ、あ、ゔっ……ハム、ナ、プトラ………だなっ……一作目の……ぐぅっ!」
「怖かったわよね、たくさんの虫と一緒に棺に詰められて生きたまま中身を食い荒らされるの。二人して父さんにしがみついて見てた」
「あ、あ、夜……ぐっ……こわ、くて……三人でねた、ね……ガあ、ああぁッ!」
「だから喋るな、喋らすな」

案外余裕か?と背後から飛んでくる呆れた声に少女は笑う。必死になって頑張っている弟を見ていられるのは幸福なことだった。がんばれ、と汗ばむ額を撫でては彼へ囁く。

「……死に近づいてるのね。ねえ、いたい?こわい?くるしい?ふふ、私は即死だったからいたいのは知らないの。お前は覚えてるでしょ?飛び散った脳髄の色まで。私はあっという間だったから、いたいの知りたいな」

興味深そうにそう口にする少女に、二人のやりとりを見ていたテスカトリポカは違和感を覚える。
デイビットが呻きを上げるほどに苦しみ、下手したら死ぬかもしれないという時に、あの弟への庇護欲が強い姉がああもヘラヘラと笑っているものだろうか?

……アレは本当にオレが知っている女か?
ふとテスカトリポカの胸に疑心が過ぎる。

「だめ、だよ……ねえさん……」

そんな神の心も知らず、苦痛に喘ぎながらもデイビットは己の片割れへ微かに笑みを見せる。
普段の彼女とは少し違う、あの日研究室の中で初めて見つけてくれた時のような振る舞い。普段の優しくて世話焼きな彼女も好きだが、素っ気なくて自由な彼女は出会った時を思い出して懐かしくて、安心する。多分、死を感じるほどの激痛の中で見た走馬灯のようなもの、あの日の記憶を無意識に再生したから、それに連動して彼女はそうなっているのだろう。
彼女の性質を自分の勝手で変えてしまったことに微かな罪悪感と、やはり彼女は自分のものなのだという独占欲から来る悦びはどちらも正しく今のデイビットのものだった。

「……ねえさん」

手を伸ばす。ずっと硬く握りしめていて汗ばんだ掌で彼女の額から頬を撫でる。

「──オレをゆるさないで」


デイビットが意識を落としたのはその直後だった。
強い痙攣の後、彼はぐったりと体を弛緩させる。浮き出た異星の神の心臓は肌の上からでも分かるほどドクドクと蠢いているが、それはデイビットの身体が生きている証拠にはならない。
しかし、テスカトリポカも彼女も不安に思いはしなかった。テスカトリポカはデイビットとまだパスが繋がっていることを把握していたし、彼女もまたデイビットの生死がわかる程度には繋がりがあった。

彼女はもう一度弟の額を撫でてやってから振り返り、テスカトリポカへ視線を向けた。そして彼が問うよりも先に答える。

「あの子の持つ鮮烈な記憶をいくつか無理やり再生させてオーバーフローさせたの。そうでもしないと気絶しそうになかったから。無闇に精神力が強いから、痛み程度で気絶もできないなんて本当に面倒な子!」

父親の記憶と、彼女を見つけた時の記憶。デイビットにとって負荷と価値の高い記憶を限界状態のタイミングで無理やり想起させてメモリ不足にして意識を落とした。
肩をすくめてテスカトリポカのところまでやってきた彼女はテスカトリポカが最も見慣れている彼女に戻っていた。

「なるほど、世話焼きめ」
「あなたに言われたくないわ。よくもまあこんなワガママに応えたものね」
「惚れた戦士には尽くすタイプだぜ、オレは」

そう笑ってテスカトリポカは煙草に火をつけた。人と同じように神だって一仕事終えたあとの紫煙は美味いものだ。
揺らぐ煙を目で追いながら彼女は問いかけた。

「あの子の心臓、どうするの?」
「オレが貰う。当然の対価だ」

デイビットの胸の中にある異星の神の心臓のことではない。それを入れるために引き抜いた、元々のデイビットの心臓だ。
引き抜かれた彼の心臓は用意された儀式用の器の中。他の器官との接続を失った心臓は重力に潰れ、中に残っていた血液と共に器の中を赤く染めている。

「心臓が無くても人体ってそこそこ生きられるのね、驚いたわ」
「ああ、どうにも頑丈なもんさ、人間ってのは」
「食べるの?」
「食べるさ」
「美味しい?」
「好物だよ。それに良き戦士、ましてオレのマスターの心臓ときた。そりゃあもう極上だろうよ!ご要望とありゃあオマエらの前で食レポ付きで食ってやるさ」
「デリカシー……」

喜びの声を上げるテスカトリポカに、少女は溜息をつく。笑うテスカトリポカに彼女は壁に背をつけてしゃがみ込んだ。影を落とす表情、色の薄い唇が開いた。

「……今からバカなことを言うわ」
「ん?ああ」
「私、昨日までみたいな日々がずっと続くと思ってた。つまり、ORT起動の準備をしてる日々。いつか来るその日のためにずっと準備してるけど、その日はずっと遠くて、まだ遠くて、…………このまま来ないんじゃないか、って……」

今日、デイビットが異星の神の心臓を取り込んだことで彼らは不退転となった。不可逆で可塑的で、もう戻れない所まで来てしまったのだ、と。
段々と小さくなる声には、言わなければよかったという悔恨と自嘲が混ざっていた。何度かの逡巡、それからもうどうでもいいという気持ちを隠すことなく彼女は息を吐いた。

「……カルデアなんか来なければよかったのに」

デイビットならばそんなことを口にしない。
最早隠す気さえない、彼との差異を言葉にして彼女は抱えた膝に顔を埋めた。
耳鳴りするほどの沈黙の中でテスカトリポカは煙を口から吐き出す。今の彼だからギリギリ許容できた発言だ。戦士にはほど遠い言葉。違う人格だったら殺していたかもしれない。……それとも、それさえ理解した上で彼女は罰されたかったのか。
灰を落としながらテスカトリポカは淡々と言った。

「……カルデアが来なくても変わらんよ。どうあれ異星の神はミクトランに来ただろうし、デイビットの目的のためにはORTの起動は不可欠だ。いつかは必ず来る」
「……ええ、あなたの言う通りよ。だからこれはただの──」
「感傷、か?くだらんな。膝を抱えて動くこともなくする感情の発露など無駄だ。オレを失望させるな。オマエらしくもない」

戦の神としての側面を強く出したテスカトリポカの慳貪な物言いに、彼女は微かに肩を落とす。そもそもの在り方がそうである彼なのだから、どんな言葉が返ってくるかくらい予測できないわけではなかったけれど。肩を下げて身を小さくする彼女を流し目で見てテスカトリポカは吐き捨てる。

「なんだ、不満か?」
「……別に。……望んだものではないからといって臍を曲げるほど子供でもないわ」
「わかりやすく臍を曲げているようにしか見えないが……何が言いたい?」
「……ささやかな慰めくらいあってもいいのかもと思っただけよ」
「……慰め?」

何の話かすぐに理解できず、テスカトリポカは煙草を指に挟んだまま考える。
一瞬の思案の後、ハッと言葉の意図を理解したテスカトリポカはわかりやすく「やばい、やらかした……!」という顔を浮かべた。咄嗟に彼女のほうへ体を向けると、考えるより先に口を開く。

「……あー、あれだ、生憎だが寝台は今オマエの弟が使っていてな。いや、寝台である必要もない。場所などどこでも……いや違う、ああそうだな、わかった。──別室に連れて行こう」
「慰めという言葉から何を想像しているの?あなたの脳味噌がどこについているのか認識を改める必要があるようね」

結果的に向けられたのは侮蔑の目だった。
少女は立ち上がると「風を浴びてくるから、一人にして」と言い残してさっさと部屋を出ていってしまった。

沈黙の降りる部屋。テスカトリポカは短くなった煙草の火が指先まで迫っていることにも気が付かずにうなだれる。
気がつくのが遅かった。あの女はこちらに弱みを晒したのではなく、わざと見せていたのだ、と。

弟が確実に入り込めない状態になってからの駆け引き。
わざと弱った姿を見せてこちらの反応を試していたのだ。
まさかこのタイミングで、神としてではなく男として言葉を求められていたとは。読めなかった、このテスカトリポカの目をもってしても。
指先に強い熱を感じて煙草を手放す。床に落ちたそれが燻る様を自分事のように眺めた。

「……テスカトリポカ、流石に今のは……」

第三者、ある意味では中心人物であるデイビットは寝台に横たわったまま顔をテスカトリポカへ向けた。いつしか目を覚ましていた彼は、呆れた声音で言いかけた言葉を最後まで言うか思案して、結局途中でやめた。彼なりの優しさだったのだろう。テスカトリポカにはそれがむしろ辛い。

「クソ、最悪のタイミングで起きてきたな、デイビット。どこからだ」
「『感傷、か?』からだ」
「クソ、本当に最悪のところからじゃねえか」
「オレもあまり身内のこういう事に口を出したくはないんだが──」
「勘弁してくれデイビット。見ての通りだ」

ヤヤショゲ・テスカトリポカだった。
絶好の機会を逃したこともそうだが、自分に仕掛けられた戦いを見逃したという事実が戦の神を打ちのめす。
わかりやすく落ち込む相棒の姿に、デイビットも流石に口をつぐんだ。

姉がそれを良しとし、テスカトリポカがうまくやっていたのなら、デイビットとてあと40秒くらいは寝た振りをしてやるつもりだった。
──ちなみに1日が5分のデイビットにとって、40秒は普通の人間にとっての3時間に値する。これがどれだけ気を遣った時間なのかについては察してほしい。
もちろん、40秒を越えたら問答無用で暗黒界との接続が開始されていたが。

「気にするな、テスカトリポカ。姉さんは少しも気にしていない」
「………………」

デイビットは優しさでテスカトリポカにとどめを刺した。