※士凛前提
夕暮れの温かな光に包まれた街をアーチャーは学園の屋上から眺めていた。
人気のない校庭には我がマスターと気に食わない小僧。時々声を上げたり、笑いあいながら談笑しているのが見えた。
正直な話、見ていて非常になんとも言えない気分だ。自分とあの小僧は別人と言っても過言ではないけれど、理屈じゃない感情が胸の中にシミを落とす。
はぁ、ため息ひとつ。フェンスに背を預けた。
ふと鼓膜を揺らす小さな音。
屋上へ上がるための唯一の階段から聞こえてくる。
かつん、かつん。がたん。
建て付け悪い扉が仰々しい声を上げて開く。
暗い扉の先から光を切り取るように現れた女子生徒は、走ってきたのか酷く息を乱していた。
その姿に既視感。真面目さ故に他の生徒より少し長いスカート丈、流れる髪を下の方で緩く結いている髪型。
ああ、苗字だ。
薄れて、消えかけた記憶の中に蜻蛉のように残った少女。大人しくて、あまり目立たなくて、けれど優しく可愛らしさのある子だったのを憶えている。
(「ありがとうね、衛宮くん」)
その鈴のような声と笑顔を憶えている。
憶えているからこそ、屋上に上がってきた彼女の泣き腫らした顔に息を飲むほど驚いた。
嗚咽を漏らし、制服の裾で乱暴に目元を拭う苗字は、自分の知らない人のようだった。
涙に顔を歪ませた苗字は、一直線にアーチャーに向かって歩を進めてきくる。
自分のことが見えているのではないかとアーチャーが思ってしまうほどまっすぐに。
そんな彼女の歩みに、霊体化しているにもかかわらず思わず足を半歩引く。ランサーとも戦いですら、こんな怯えるような行動はとらなかったというのに。
そんな彼の心情も知らず、溢れる涙をとどめる術も知らない彼女は、アーチャーのすぐ隣で立ち止まった。
そうして冷たい鉄製のフェンスをつかみ、苗字は校庭を見下ろした。
アーチャーは校庭を見下ろす彼女の横顔を眺めた。
自分の背丈が変わったからだろうか、あの時とは違い彼女がとても小さくか弱い存在のように思えた。
眺めているうちに再び少女の目元から溢れ出す涙にアーチャーはぎょっとした。
声をかけることもできないが、泣いている少女を捨て置くのは彼の信条に反する。
どうしたものかと思い、ふと夕焼けに包まれる校庭に目をやって。
そこでようやく、彼女の視線の先の存在を察した。
ああそうか、彼女はずっと……。
やがて目を伏せて、彼女は体を反転させるとフェンスに背を預けて、ずるずると膝から崩れるように座り込んだ。
スカートが汚れるのも厭わず、膝を抱えて顔をうずめる。
震える肩と零れる嗚咽だけが屋上に取り残されていた。
フェンス越しの世界に彼女の手は届かない。
善意も好意も無しに、アーチャーはほぼ無意識に苗字に触れようとしていた。
頭を撫でて、好きなだけ泣いていいのだと胸ぐらいいくらでも貸してやりたかった。
そうして触れようと、撫でようと伸ばした手は、中途半端な位置で留められた。
再び、階段を上がってくる騒がしい音。
大きな音を立てて開く屋上の扉。
「苗字」
名前を呼ばれた苗字がうずめていた膝から顔を上げる。
膝を抱える自分に近づく少女を見て、苗字は無理やり笑顔を作った。
「あ、綾子ちゃん……」
屋上に入ってきた美綴綾子はその表情を見て、眉間にしわを寄せた。
苗字の前にやってくると蹲る彼女の頬を左右に引っ張る。
「いっ、いひゃい!いひゃいほ、あひゃこひゃん!」
「……無理やり笑わなくていいんだよ苗字、好きなだけ泣きな」
苗字の頬から手を離した美綴は、優しい目で友人を見つめた。
乾いてきていた苗字の瞳がまた揺らぐ。
瞬きと共に涙が零れる。
「……あやこちゃん、」
「……うん?」
「衛宮くんと、凛ちゃんさ、すごくお似合いだよね」
美綴は何も言わなかった。
「ほんとはね、ぜんぶわかってたの。衛宮くんは私を選ばないって」
バカみたい、と彼女は泣いた。
「衛宮くんはさ、”困っていたのが私だから”助けてくれたんじゃなくて、”私が困っていた”から助けてくれただけなんだよ」
それなのに、ひとりで勘違いしちゃって。
くぐもった声で苗字は言い出せなかった思いを吐露した。
すき、わたし、えみやくんがすき。
本当に伝えたい思いは、本当に伝えたい人に届くこともないまま、夜の帳に紛れて消えた。
また明日が来れば、彼女は何事もなかったみたいに、幸せな二人に笑いかけるのだろう。
(「おはよう、凛ちゃん。おはよう、衛宮くん」)
アーチャーは泣きじゃくる彼女の前に膝をつく。
そっと手を伸ばし、あふれる涙を親指の腹で拭ってやる。
けれども霊体化したままの体では何もさわれない。拭ったはずの涙は何に遮られることもなく滑り落ち、彼女の制服に小さなしみ一つを作って消えた。
自分は早々に立ち去るべきだったのだ、とただアーチャーは思った。
えみやくん、とつぶやいた苗字の言葉が何より胸をかき乱した。
アーチャーは夕焼けに背を向けてその場を去ろうと立ち上がる。
あてのない感情とともに、今日もまた冷たい夜がこの街を飲み込んでいくだろう。
「さよなら、オレの運命じゃなかった人」
願わくば君に、しあわせに訪れますように、と。
(2014.1.26)