イカレちまったぜ

「高いところが苦手なのか」
金城は幾分か確信を得たような顔でそう尋ねた。そんなにわかりやすい顔をしていただろうか。私たちを乗せた観覧車はもうてっぺんまで来ていて、小さな振動と穏やかな時間を内側に詰めてゆっくりと下っていく。

「苦手ってほどじゃないよ」
彼の前で嘘をつくのは無意味である。彼が見抜けるかどうかではなく、彼の持つその目の前に立つと嘘をつくということが酷く無意義なことに感じられるのだ。それだけのことで、金城自身は他人の嘘をたいして見抜けていないのだろうと思う。多勢が思っているほど、彼は他人にことさら関心がない。

「昔父親と山に登ったことがあるの。たぶん5歳とかそれぐらいの時。もう少しで頂上だって時にふと振り向いたら、後ろにいた男の人が足を踏み外して山を転がり落ちてった」
どこの山を登ったとかはもう覚えていないが、人工的に設備された階段の外、わかりやすく言えば崖の方面にその人は落ちていった。
「気づいた父親がすぐに私の目を塞いでくれた」
暖かく汗でしっとりとした手のひらが視界を塞いで、でも二つしかない手のひらは私の耳までは塞いでくれなかった。
初めて聞く音、筆舌難い色々な音が混じっていた。布が擦れる音、誰かが息を呑む音、石や砂が転がる音、低いうめき声。
そのあとどうなったのかは覚えていなくて、もしかしたらあの崖は大したことなかったのかもしれないし、大したことあったのかもしれない。今となっては知る術も無くて、きっとあったとしても知ろうとはしないだろうという確信があった。

ゆっくり回って270度。黙って聞いていた金城が穏やかに微笑んで言った。
「大丈夫サ。きっと生きてる」
彼にそう言われるとそんな気がした。
「子供が見る景色というのは大人のものより随分小さいんだ。大した段差でなくても子供の視点だと大きく感じる」
きっと大した崖ではなかったろう、と彼は言った。その言葉をただ無条件に信じたいと思った。

それに、と彼は楽しそうな顔で続けた。
「俺も前に時速60キロ近く出ていた自転車から落車してガードレールと接触して血まみれで完走したが今じゃピンピンしてる」
ちなみにあとで医者に見てもらったら肋骨が折れていたんだ。
彼がたまらなくなって笑い出したから、それにつられて私もへらりと笑った。
金城の笑いたい時にしか笑わない性質が、時折泣きたくなるほど好きだった。

観覧車から降りた私は、トイレに行くと言った金城としばし別れた。
彼はすぐに帰ってくるだろうと思い、ちょうどよく小腹も空いていたからぼったくりみたいに高い売店でアイスクリームを買うことにした。違う味を楽しめるようにバニラとチョコの二つ。
こんなに寒い真冬にアイスを買うやつがあるか、と笑う金城の顔が見たかったのだ。
一人しかいない店員が手際よくアイスを作る間、私は自分が今まで乗っていたあの観覧車を見上げた。
観覧車に好んで乗る奴なんてキチガイだ、と思った。あの頂上の俯瞰は人を狂わせる。まるで全てが手に届かない遠くにあるようで、見慣れたはずの景色さえまるで見知らぬもののように見せる。
それに、あの守られているようであまりにも薄っぺらな箱によくも載っていられたものだと今更になって思う。
死の恐怖と視界の感覚が狂う恐怖。それをなんとも思わなかったことがなによりも恐怖だ。

お待たせしましたーと店員から受け取ったアイスを両手に近くのベンチに向かうと、そのベンチの向こう側からちょうどよく金城がこちらに向かって来るのが見えた。
彼の両手にはなぜかアイスクリーム。
「……トイレに行ったんじゃなかったの」
「トイレには行った。……その近くに売店があったから」
「こんな真冬にアイスを買うなんてバカじゃないの」
「両手がふさがってなかったら手鏡を突き付けてやってるところだ」

冷たいベンチに座って、ダブったバニラとチョコを二人して無心で食べる。これは食事ではなく消費だった。内側から冷えていく感覚とそれからキーンとした頭痛。温かかった舌が冷たくなって、だんだん動きが鈍くなっていく。作業、義務、カロリーという言葉が頭の中を乱舞して、喋る気力もなかった。

食べ終わった後、達成感のため息がこぼれた。しかしそこに充実感はない。ただただ冷たく甘ったるい口内が虚しい。
ちらりと隣に座る金城の様子を伺うと、メガネの奥の目が死んでいた。綺麗な深緑の目が濁っている。今にも魔女化できそうな混沌ぶりだった。

「……当分、アイスはいらないな」
「……そうだね」
同意せざるおえない。
「……あと、冬に外で軽率にアイスを食べるのもやめよう」
「……そうだね」
同意せざるおえない。

何者にも妨げられない風がベンチのそばを吹きすさび、その寒さに耐えられなくなってマフラーを口元まで引き上げた。暖かい場所に行きたい。そう思ったとき金城が口を開いた。
「また、観覧車に乗らないか」
空を覆うような円を指差して彼は笑った。
「楽しかったの?」
「楽しかった。好きかもしれない」
浮遊感や歪んだ俯瞰、それらが彼の琴線に触れたのかもしれない。私が高いところが苦手であることを見抜いておきながら、彼は私の手を引いた。きっともう恐ろしくないことも見抜いているのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
キチガイだ、と心の中で呟いた。人のような姿をしているだけの妖怪かもしれない。

けど、観覧車の中は暖房が効いて暖かいから。私は、私の手を引いて前に進んでいく彼に黙ってついていった。
しっとりとした手のひらをつなげて、レディファーストで私を観覧車に誘い入れる金城はたまらなく嬉しそうな顔をしていた。

「高いところは苦手か?」

(2015.1.27)