ふたりだけの国

おぞましい女だ、とそう思った。
この世全てを闇に覆い尽くそうとしている自分が言えた言葉ではないかもしれないが、この女を見ていると延々と壁に語りかける狂人を眺めている気分になる。
柔らかな女の腿に頭を乗せられた闇の人格のマリクは何をすることもなく沈黙を続けていた。
この女に対してだけは沈黙が金だ、と彼は知っている。

ここはマリクの精神世界。殺伐とした先の見えない暗闇ばかりの心の部屋で、マリクと女のいるこの一ヶ所だけは祝福を受けたように光に包まれている。闇と孤独を愛する彼にとって針の筵のような場所。それでもマリクはこの女を手にかけることも拒絶することもしなかった。

マリクを膝枕する女は何も言わず、ただ彼の白銀の髪を細い指で梳き続けていた。その目は慈愛に満ちている。愛し子を見つめる瞳はマリクには鮮烈過ぎた。
無価値と知りながら沈黙を破る。
「……哀れな女だねぇ」
女は今更その程度の言葉に動揺するほど脆くはなかった。髪を梳く手は揺らぐことも止まることもない。

「主人格サマは貴様のことなどとっくに忘れちまってるぜぇ?」
その言葉で女の手が止まる。
さて、ようやく憎々しいこの女の寂寥に歪む顔が見られるのかと内心心踊りしながら女を見るために顔を上げて……顔を上げたことを後悔した。
期待していた絶望は影もない。
女の顔に浮かんでいた表情は「恋慕」だったからだ。
忘れられた、という言葉など大した意味を持たなかった。ただ主人格という名称から愛しい男のことを思い起こしたのだろう。その目はそれまで闇の人格のマリクに見せていた慈愛を浮かべてはいない。もはや恋などと可愛らしい言葉では言い尽くせない。強烈なまでの献身という名の愛だ。
そうだ、そうだった。この女は主人格のために、あのマリクのためだけにここにいるのだ。肉体を捨てて、魂だけの姿になって、ただマリクが悲しみにくれることのないように、と。

まだ何も知らないこどもだった頃。
一族の儀式も憎悪も知らなかった少年。彼とずっと手を繋いでいられると信じていた少女。
未来は無限にあり、その先には明るいものだけがあると無条件に信じきっていたあの頃。
少年が少女に告げた些細な未来への希望の言葉。
その言葉が嬉しかったから。
ただそれだけで女は己を犠牲にしてでも少年とその言葉を守るために生きることを決意したのだった。
例えてそのために愛しい少年と希望を失うことになってでも。

リシドがマリクの中の憎しみに溺れるマリクの人格を封じ込めるための存在、そうだ、主人格が好きなオートバイで例えてやるなら、そもそも車体を動かさないためのパーキングブレーキがリシドなのだとしたら、パーキングブレーキが解除され、動き出した車体を止めるためのクラッチブレーキこそがこの女だと言えよう。
出現した闇の人格のマリクを押しとどめるためにこの女はここにいるのだ。
結局予選の連中やリシドにトドメを刺せなかったのも、主人格とバクラに逃げる隙を与えてしまったのもこの女が邪魔をしてくるからだった。
ロッドの刃を向けようとする度に女は言う。
「マリクはそんなことを望まない」と。

ふざけたことを。
主人格だなんだといいながら結局体を乗っ取られ、大切なものを何も守れない弱い男だ。献身的に男を守ろうとする愛しい女の存在にも気付かなかったくせに!
そんなもののために生きるこの女も憎かった。
そんなことなら、いっそのこと主人格であるマリクだけを見ていてくれればよかった。憎悪という感情だけを押し付けられたマリクのことなど、見捨てて欲しかった。
リシドでさえ、姉上様でさえ、己を救うことを諦めたというのに、俺が『マリク・イシュタール』という存在であるというだけで、この女は俺さえも救わんとしている。救えると信じきっている。

腹の中で怒りという感情が地獄の釜のように煮え滾る。
死ね。死んでしまえ。
いや、殺してやる。この手で、他でもない、この俺の手で。
愛しい男と同じ顔をした男に殺される絶望と苦痛に顔を歪ませながら闇に沈んでいく姿はそれはもう見物だろう。

しかしそれはまだだ。
まずはこの女の目の前で主人格を無残に殺してやる。そうして有象無象を全てを闇に葬り去ったあとだ。お前だけは最後に残してやる。

ふい、と厭うように髪を梳く女の手を振り払ってマリクは女の腹に顔を押し付けた。
腕を潰し、脚を折り、平たいこの腹を捌いて、温かいその子宮の中で眠ってやる。目と喉だけは残してやろう。苦痛にのたうちまわりながら愛しい男と同じ顔と名の、俺だけを見て俺の名前を呼び続ければいい。

体を密着させた俺を甘えているとでも思い込んだのか。女が微かに笑うのがわかった。頭の中で無残に殺されているとも知らずに。哀れな、哀れな。

女の口は物語る。
「母の愛を知らずとも、祝福や祈りを受けずとも、お前が生まれたことには価値があるわ」
くだらない虚言だ。
「マリク、お前を愛しているよ」
無意味な戯言だ。
「誰に否定されようと、お前は確かにここにいるのだから」

けれども、もし、俺が主人格を殺し、世界を殺しきったときに。
俺とお前のふたりきりになったときに、お前がもう一度その言葉を言えたのなら、そのときは。
光を受けることもない闇の世界で俺の隣にいることを許してやる。

(2016.4.24)