「ったく、昔なじみに会うだけだってのに金取られるっつーのも阿保な話だぜ」
薄暗い売春宿のベッドに腰を掛けてヘラヘラ笑う鬼柳に、私は眉を顰める。
「……あなた、また来たの」
しっし、と虫を払うように手を振って、帰りなさいと言外に伝えるけれど、そんなことをしたところで今更この男が帰るわけもない。鬼柳はわざとらしく傷ついたみたいなふりをして、大げさに肩をすくめる。そんな仕草が嫌味なほど似合う男だった。
「そんな言い方ねえだろ。こっちは心配してんだぜ」
「私はあなたのほうが心配だわ。ご存じ?私って高い女なの」
「ああ、さっき俺の財布が嫌ってほど思い知らされたぜ」
ごろりとダブルベッドに転がって「俺のアジトのベッドよりやわらけーわ」などとくだらない独り言を漏らす昔なじみを、私は呆れたような、安心したような、そんな気持ちで見つめてため息をつく。仕事だと思ってしていた化粧は無駄になった。そう思いながら安堵していた。無駄になってよかった。ダブルベッドの片側を空けて、ここに来いとベッドを軽く叩く鬼柳に黙ってうなづいて彼の隣に横に寝転ぶ。それだけで昔に戻ったようだった。
私たちは変わった。何も知らない子供ではなくなった。薄汚いごみ溜めの中で二人身を寄せ合って冷たい夜を過ごすことはもうない。私たちを虐げる汚い大人たちに怯えることもない。
生きるためには仕方がないと、諦めて、受け入れて、そうやっていつしか成長した私は娼婦となって毎晩花を売り、鬼柳はデュエルギャングくずれでその日限りの日々を過ごしている。この街で生きるために必要なのは、受け入れること。多くを求めるのは愚者のすることだ。私は愚者になれなかった。
温かいベッドを手に入れた代わりに私が失ったものは自由だった。正確に言えば、自由と言う幻想。
幼かった私はこのサテライトのどこかに自由というものがあると信じ続けていた。
どんなに虐げられても、傷つけられても、いつか幸せになれると、いつか自由になれると、そんな幻想を抱いていた。
そんなもの、この街のどこにもないのに。
自由なんてものどこにもないと知った私にはもう縋る幻想がなかった。幻想などないと、受け入れて生きるしかなかったのだ。
けれども、鬼柳は、京ちゃんだけは。
「仲間ができたんだ」
ベッドの上で横向きに転がった鬼柳は私を瞳に映して笑った。
「このサテライトを制覇するんだ」
未来を語る鬼柳の目は美しかった。未来を、希望を求める鬼柳は愚かだ。けれども、その愚かさだけが私の救いだった。
「デュエルしてさ、他の地区連中のデュエルディスクぶっ壊して、カードと金かっぱらってんだ」
「やってることがストリートのゴロツキと一緒ね」
「とっとと金貯めたいんだよ」
「貯めてどうするのよ」
この街に金で買えるものは少ないのに。そう目で訴えると、鬼柳はわかってるというふうに微笑んで、私の瞼にキスを一つ落とした。
「名前、お前を身請けするよ」
ささくれ立って、傷だらけで、とても綺麗とは言えない様なその掌で鬼柳は私の髪を撫でた。彼の手が髪をそっと掬い、それから頬に流れ、私は頬に触れるその手の暖かさを知った。
「こんな牢獄みたいな店からお前を連れ出してやる」
なんでもないふうに鬼柳は言った。
「二人の家を作って、俺たちの家に帰ろうぜ」
私はぎゅっと目を閉じた。
「チームの仲間たちにも紹介するぜ、あいつらみんなバカだけどいい奴らなんだ」
私は諦めていたかった。希望なんて持つだけ無駄だって知っていた。でも鬼柳はそうじゃないって笑っていた。このからっぽの街で、それでも満足してやると昔のように京ちゃんだけは。
「わらえよ」
そう言って京ちゃんは私の涙をぬぐった。
目を開いて、歪んだ視界の中で、それでも確かに京ちゃんは笑っていた。
バカみたいっていつもみたいに呆れてやればいい。
くだらないっていつもみたいに一蹴してやればいい。それなのに、
「……やくそくよ、京ちゃん」
そんな気持ちに反して、私の口からは弱弱しい言葉しか出てこなかった。
大して広くもないベッドで京ちゃんにしがみついて、彼の胸に顔を押し付けた。
京ちゃんは昔みたいに震える私を抱きしめていた。
朝がやってくるまで、ずっと。
キスを一つ残して、鬼柳は部屋を出ていった。
残された私はひとり、希望を抱いて眠る。
またここに来てくれる、愚者を待って。
鬼柳京介が死んだと、人伝に聞いたのはそれからずっとあとのこと。
◇ ◇ ◇
荒い息で私に覆いかぶさる男の首に手を回して、淫猥な女の笑みを浮かべた。
もう慣れ切った快感を、生娘みたいな振りして悦んでみせる。
暗い部屋では男の顔はよく見えないけれど、雨のように降ってくる汗の粒は男が溺れている証。
わざとらしく声を上げれば、男の腰の動きが激しくなる。
そうして男の顔を引き寄せ唇を重ねれば、生温い舌と舌が私の口内で音を立てて絡み合う。
鬼柳が本当に死んだのか、ここから出ることの叶わない私にはそれが真実なのかどうかを確かめる術はない。
ただ事実として鬼柳が私に会いに来ることはなくなった。
それまではそれなりに長い間隔を空けながらも、彼は定期的に私のもとへ顔を出していた。今までならそろそろ来る頃、と心のどこかで期待していた。そっけないふりをして、本当はずっと心待ちにしていた。
鬼柳にとってなんでもない外の話を、夜が明けるまでずっと聞いているだけで満たされていた。
鬼柳が死んだのか、或いは私を捨てただけなのか。
真実のほどはわからない。
けれども、ここに鬼柳が来ないならどちらせよ同じことだ。
甲高い声を上げて絶頂する。
見知らぬ男に金を対価に抱かれて、それでも想うのは鬼柳のことだけだった。
(こんなことなら無理矢理にでも抱かせればよかった)
鬼柳は私を一度も抱かなかった。ふらりとやってきて、夜が明けるまで話すだけ。まるでベッドの中で夜更かしを楽しむ子供たちみたいに。
彼にとって私は、まだ自由を求めていたときの幼い少女のままだったのかもしれない。
こんなことなら無理やりにでも抱かせればよかった。そうすればこの恋心は死に場所を得られたのに。
もう二度とやって来ないということが、終わるはずだった永遠を持続させる。
死ねないまま恋心は永遠となる。薄暗い部屋で交わした約束を拠りどころにして。
私たちの家はどこにもない。
二人で歩くはずの帰り道は消えてしまった。
隣にいるはずのあなたはもういない。
もう誰も二人の物語を語れない。
(2016.5.15)
kalafina「fairytale」