私の運命にいらっしゃい

思えば私は酷く鈍感だった。或いは、理解することを放棄し続けていた。

「さあ、名前。もう寝る時間でしょう?」

私を促したその人は、あまり笑わない人だった。
寝室まで私の手を引いて、小さな私の遅い歩みに合わせてくれていた。優しい人だったのだろう。彼がそうしてくれる理由は知らないけれど、それがいつの間にか私にとっての当たり前になっていた。
ピンと張った弓の弦のような鋭利な彼の横顔。見慣れない褐色の肌。それに反して、眩いほどに白い異国の装い。
私の生活に無理やり捩じ込んだようなチグハグさだったけれど、それでも私は彼に対して違和感を感じなかった。あえて感じないようにしていたのかもしれない。それらもすべて、今となってはわからないことだらけだ。

「さあ、お休みなさい。どうか良い夢を」
ベッドに横になった私の胸元までそっとシーツをかけて彼は言った。電気は彼が消してくれた。部屋の中の光源は無くなって、窓から入ってくる月明かりだけが頼りだった。それもすぐに彼がカーテンを閉めることで途絶える。彼はベッドサイドに置いた椅子に腰を掛けて、私が眠るまでそこにいてくれた。
彼の言葉に黙ってうなづいて、私は彼の言う通りに目を瞑った。いつも通りに。

どうして?……わからない。
けれどもきっとその日は、いつも通りにしていられない日だったのだ。

「……あなたは寝ないの?」
「ええ、私には必要ないのです」
眠れと言う彼の言葉を拒絶して、眠らない選択をした私を彼は叱らなかった。怒られると思っていたから、少しだけ拍子抜けした。怒らないと知ったから、怖いものを失くした私はすぐに口を開く。
「どうしてここにいるの?」
「貴女が眠りにつくのを見守るためです」
「うん、……ううん、あのね、ちがうの。どうしていつもいるの?みんなはね、みんなにはあなたのことが見えな、」
「名前」
彼が微笑んだ。
きっと、それを見るのは初めてではなかった。初めてではなかったけれど、珍しいことではあった。薄暗い部屋で、でももう目は暗闇に慣れてしまっていたから彼の瞳の優しさも、口元の緩やかなカーブも見えていた。私にだけは見えていた。だから、私は口を噤んだ。何を言っても怒らないと知っていた。けれども怒らないからと言って、悲しまないわけではないことも知っていた。
「いい子ですね、名前」
彼の掌が私の髪を撫でる。指が髪を梳いて、離れ、また梳いて。

眠るのは容易かった。そうすればよかった。けれど私はそうはしなかった。だから、そのせいで彼は悲しいのに。

引き返せない。

「あなたの、なまえを教えて」
彼の笑みは消える。いつもみたいな沈黙の表情で、でも私は彼の笑みの穏やかさを知ってしまったから、いつもの顔すら怖くなってしまった。
じゃあなにもかも、知らなければよかった?
きっと、それは違う。

彼は黙り込む。何も言わない。私が眠るのを待っているのだろうか。
静かだ。この部屋に時計ないから、秒針の音もしない。私の心音が聞こえる。彼の僅かな吐息が聞こえる。
永遠のような無音。二人でいるのに、まるで一人ぼっちのようだった。

「……貴女がいればそれでいいのです」

彼がポツリと呟いた。その言葉の意味を理解できなかった。

「それだけでよかった」

ベッドに投げ出されていた私の手に彼が自分のものを重ねる。
温かいはずなのに、酷く冷たくて、優しくて、だから悲しい。
私は識っていた。故に何も知らなかった。

「それだけでよかったはずなのに」

握られた手。苦しそうな声音に怯んだ。眠っていればよかった。眠れなくても、目を瞑って、黙っていればよかった。そうすればよかった。だけど、もう間に合わない。今からでは何もかもが遅い。もう終わっていた。すべては終わっていた。私は眠ればよかった。気がつかなければよかったんだ。

「名前」
横たわっていた体を彼の元へ引き寄せられて、静かにシーツは体から離れていった。足に引っかかっていたそれが爪先を撫でて、さよなら。そうして私は抱きしめられていた。彼の胸の中で、私はじっと黙っている。呼び返すべきなまえを知らなかった。
彼の肩が揺れる。泣かせてしまった、のかもしれない。どうしよう、そんなつもりはなかった。ただ、ただ彼の名前を知りたかった。それだけだった。それだけだったのに。
「孤独が寂しいなどと、そんなことは知りたくなかった」
彼が言う。悲しそうに、哀しそうに。寂しそうに、淋しそうに。私はこんなにも近くにいるのに。

「泣かないで」
「ええ、泣いてなど」
「わたしがいてあげるから」
「ええ、ずっと、ずっと変わりません」

抱きしめる、腕の強さを私は識っていた。何度も繰り返してきて、ようやく初めての、触れ合い。

「私のことはどうか、アルジュナと。そう呼んでください。どうか、これまでと変わらず、そのように」

泣いてなどいなかった。ましてや悲しんでなど、怒ってなどいなかった。
彼は嬉しくて、嬉しくて、だから笑っていた。ただそれだけだった。言葉にするより容易い、感情の発露。

私がそれ知るのはずっと未来の先の先。

原初から一番遠い夜。
終末に一番近い夜。
夢より捉えがたく、なお現実には届かない夜。

「……アルジュナ、?」
「ええ、傍にいます。貴女の傍に」
何も変わりません。
彼はそう言った。彼は私に嘘を言わない。きっと、それも事実なのだろう。
だからこそ、その物語は誰にも知られることなく、この日まで連綿と続いてきた。
「アルジュナ」
何も知らない私は彼の名を呼んで、何事もなかったかのように穏やかに眠りにつく。彼の名前だけを胸に刻んで、ほかのことはすべて、すべて、放棄した。
腕の温かさ、聞こえない鼓動の音。私にしか見えない人のこと。識っているのに、知らないことだらけの世界。その全てについて。

私は知らない。
私がそれを知るのはずっと後。

そのときにこそ遠い未来であなたと私はまた出会う。
これはまだ始まる前の物語。すでに生まれていた出会い。終わりに向かっていく、いつか誰かの願いの果て。

「会いたかった」
ただ、それだけのこと。

(2017.7.4)