テーブルの上には清潔感のある真っ白な箱。それを開くと中には色とりどりのケーキがみっしりと詰まっていた。
それと、テーブルの向こう側でこちらの様子を伺いながら微笑む恋人の姿。
「本当にごめん」という謝罪の言葉とともに渡されたケーキたちに罪は無い。
けれど気に食わないのはその考え方だ。
物を渡しながら謝るなんて、それではまるで、これをあげるから許して、と言ってるようなものではないか。
「ええと、それはつまり、ケーキが美味しくなかったってこと?」
トンチンカンなことを言うのはテーブルの向こう側の佐伯だった。
何を言っているのだろう、この男は。国語の読解力を試すテストだったら、ばってんだ。
それに何よりこれまでの人生でケーキが美味しくなかったことなんてあっただろうか?いや、無い。ある訳がない。私にはよくわからないけど多分統計学的な観点から見てもばってんだと思う。
「つまりケーキは美味しかったんだね?」
「とてもおいしい」
そう答えると佐伯はとても嬉しそうに笑う。それからすぐに申し訳なさそうに眉を寄せて言った。
「本当に前のデートの時はごめんよ。俺も頑張ったんだけどさ」
事の始まりは2日前のことだ。
私と佐伯は仕事終わりに待ち合わせをしてレイトショーを見るつもりだった。
同じ部屋で暮らしてはいても、いや暮らしているからこそわざわざ外で待ち合わせてデートというのは久々だ。
だから服もいつもよりおしゃれして、仕事終わりだけどちゃんと化粧直しだってして。顔には出さずとも内心わくわくと、ステップを踏むみたいに心は踊っていたのだ。
佐伯から「仕事が長引いて間に合いそうにない」というメールを貰うまでは。
別に怒ってなんかいなかった。
お互いに社会人だからそれくらいの理解はある。仕事が長引いたのは彼の上司のせいであって佐伯のせいではなかったし、行けないという連絡だってすぐにしてくれた。がっかりしたのは事実だが、その程度で怒れるほどお互い子供ではない。
佐伯に非はなかった、なにひとつ。
私は何ひとつ非がない佐伯に謝って欲しくなどなかった。
だから私は何も言わなかった。言えなかった、というのが正しいのかもしれない。紡ぎ出す言葉が彼の罪悪感を引き出さないと思えなかったから。私は貝のようにじっと口を噤んだ。
けれど佐伯は多分、ちゃんと謝りたかったのだろう。
だからケーキ箱を片手にいつもより早く帰ってきた。
わざわざインスタントじゃないコーヒーまで準備して。
「名前が怒ってないことくらいわかってるよ。でもさ、それじゃあなんだか俺の気が収まらなくて」
「うん」
「だから目一杯甘やかしたいなって思ってるんだ。どうかな?」
……どうかな?って言われても。
2日前のレイトショーで見た映画は公開終了間近で劇場にはほとんど誰もいなかった。正確に言うと私だけだった。
だから佐伯がいたら、本当に私と佐伯2人だけの貸切状態だったのだ。
けれども佐伯は来れなかったから、私1人であの広い劇場を占領した。
ポップコーンを多少音立てながら食べても誰も文句は言わないし、周囲を気にせず泣いたり笑ったりできる。
最高の時間だった。そこに間違いはない。
佐伯がいなくたって、映画の面白さや感動が損なわれることは決してない。
佐伯がいなくたって、ポップコーンは相変わらずおいしかった。
でも映画の主人公の相棒が着ていたジャケットがきっと佐伯に似合うだろうって思ったことを私は誰にも言えないままだった。
途中のアクションシーンの爽快感も終盤の予想外の展開も、感動も驚きも誰かに話したかった。
……嘘をついた。
誰かに、じゃない。
私は佐伯に話したかったんだ。
けれどそれを伝えたい相手は隣にいなかったから、すべてをじっと胸の内に秘めたまま帰路に着いた。それは家に着いてからも誰にも言えないままだった。
佐伯が一緒だったら、と思ってしまった。
映画は公開終了した。
一昨日きやがれ。一昨日なんてもう無いよ。2日前はもう2度とやってこない。私たちがふたりぼっちで劇場のスクリーンを眺めることは多分もう、そうそうない。
主人公の相棒が着ていたジャケットはどんなだったっけ?どんな色だったっけ?あんなに話したかったのに、もう思い出せそうにもない。
「本当にごめん。俺も名前と一緒に映画が見たかった」
別に怒ってなどいない。
怒れるはずがない。
怒る理由もない。
怒りたくもない。
けれどようやく今になって気がついた。
そうか、私は寂しかったのか。
私は私の感情に今になって気がついたけど、きっと佐伯はもっと前から気がついていたんだろう。
「虎次郎」
「うん」
「私、怒ってないよ」
「うん」
「本当に、ほんとうに怒ってないの」
「うん、わかってる」
「でも寂しかったみたい。私も今気がついたんだけど」
「うん、知ってたさ」
「そっか、知ってたか」
なんでもお見通しだ。
彼は目が良いから、なんて。冗談で誤魔化すには惜しいくらいの優しさ。そういうものに守られていた。
「ケーキ、食べよう。誰かさんがこんなにたくさん買ってくるから、私1人じゃ食べきれないよ」
多分ここに佐伯がいなくたって、ケーキの美味しさはなにも変わらない。私1人でだって、きっとケーキは美味しくて私の心を慰めてくれる。
けれども、佐伯がいたほうがもっとおいしい。
一口あげたり、もらったり、なんでもないことで笑いあったり、お喋りしたり。そんなふうに2人で過ごす時間が何にも変えられないほど大切なものなのだと知ってしまった。
「甘やかすって言ったのは佐伯でしょ」
そう言ってやれば、ケーキの向こう側の彼はいつもの男前さは何処へやら、へにゃりとだらしなく柔らかく、それでいて嬉しそうに笑った。
◇
「ところでさ、デートの日に俺に仕事を振った上司って女の人なんだよね」
「へえ」
「あっ、勿論何にもなかったし何かあるはずもないんだけど、名前的に思うところとかってない?」
「何もなかったんでしょ?なら無いです」
「ちょっとくらいヤキモチとか」
「無い」
「そっか……」
「…………私は佐伯が浮気とかするはずないと思ってるし、すごく信頼してる」
「それは当然だけど」
「でももし無理やりにでも佐伯を自分のものにしようとするような奴がいたら、」
「いたら?」
「殺してでも佐伯を取り戻す。……これで満足?」
「…………名前」
「なに」
「だ、だいすき……」
「知ってる」
「そっか、知ってたか……」
(2018.4.2)