時計はもうすぐ、てっぺんでぴったり重なる。
誰も彼もが家に帰って眠りに着いてる頃、俺たちはふたり、家を飛び出して車に乗り込んだ。
雲ひとつないけど夜だから真っ暗な空。深夜の田舎の道路じゃ、すれ違う車もろくに無かった。ポツンポツンと間隔をあけて光る街灯を俺たちはいくつも置き去りにしていく。
「深夜に海に行くなんて、心中するみたい」
名前はそう言って助手席でけらけらと楽しそうに笑った。脚をバタつかせるたびに彼女のワンピースの裾が揺れる。縁起でもないことを言う。けれどそこに深い意味はない。人が思うほどこいつは物事を深く考えてなどいない。案外適当な奴なんだ。みんな、あんまり知っちゃいないだろうけど。
「バーカ」
へらへら笑っている名前のこめかみを中指で弾いた手でそのまま俺はラジオのボリュームを上げた。
底抜けに騒がしいサウンドが今の俺たちにぴったりだった。
すべての始まりは、金曜の夜にやってるテレビ番組を見た名前の一言だった。バリ島だったかセブ島だったか、とにかく海外の綺麗なビーチを画面越しにぼんやり眺めていた名前がぽつりと呟いた。
「いいなあ、海」
名前の隣、ふたりがけのカウチに腰掛けていた俺は九十九里の浜辺を思い出した。久々に海で遊びてぇな、とちょうど思っていたところだった。
「海に行ったことねぇの?」
「それはある。そうじゃなくて、砂浜で遊んだ記憶がないんだよね」
憧れるように画面を見つめ続けたまま名前は答えた。青い海、広い空、漣の音。明度の高い画面が日光のようにきらきらと反射して名前の瞳に映っている。
「潮干狩りとか、砂のお城とか貝拾いとかそういうのしたい」
「…………したことねぇの?」
「ねぇっす」
マジかよと思ったが、思いかえせば名前は同じ千葉県でももっと東京側で育ったと言っていた。海といえば東京湾とかの港のことなんだろう。同じ海だけど、繋がってるけど、ちょっと違う。
いいねぇ、と名前はまた呟いた。画面の中では夏の格好をした若い女優が波打ち際で波を蹴っている。
そうか、こいつは寄せてくる波を蹴ったこともないのか。そう思うと勿体無いような気がした。
サーフィンとかウェイクボードとか、そういう凝ったことをしなくたって、ただそこにいるだけで海は楽しいのに。
憧れを憧れのままにしておくのはちょっと惜しい。だって海は遠くなんかない。いつだって届く場所にあるんだ。
「行くか」
考えるより先に言葉が出た。名前の肩を組むみたいにして右腕でこちらにぐいっと抱き寄せる。
名前はされるがまま、俺の胸と肩の間らへんにこてんと頭を寄せた。
「海に?」
「海に」
「いつ?」
「いまから」
「…………えっ?いまから?」
「いまから」
テレビの方に集中していて気だるげだった名前の声音が急に変わる。
びっくりした顔でぱっと俺の方をちゃんと見た。それからカウチの腕置きにぽんと置きっぱなしにしていた携帯をつけて時間を確認する。23:28の文字が俺の方からでも見えた。
「いまから?」
「嫌か?」
「いや、じゃ、ない、けど、11時半だよ?」
「今から行ったら日跨ぐな」
「だろうね!」
いいじゃねぇか、朝日でも見に行こうぜ。
一度言葉にしたら行きたくなって仕方がなくなってしまった。そういう魅力があるって、きっとお前だってすぐわかる。
だから行っちまおうぜって、まだ少し濡れてる髪の毛を撫でたり、柔らかい頬にさわったりしながら「いいだろ?」ってじいっと目を見つめたら、名前の目がくらっと揺れた。
よっしゃ、あとひと押し。少し強引なくらいに誘ってやればなんだかんだ来てくれるってこと、これまでの付き合いで知っているから、たまにそういう悪い手を使ったりする。
あともうちょいだなと耳朶をさわりだしたら、名前ははぁと肩を落としてへらりと笑った。
「……仕方ないなあ」
ほらな、そういう優しいところにつけ込まれる。けど、金曜の夜だ。明日は2人とも休みで、何もなくて、なら海に行ったっていい。
まかせとけって、後悔はさせねぇから。
海に行く途中のコンビニで買ったホットコーヒーとサンドウィッチは名前のリクエストだった。
海に行ってサンドウィッチを食べるのが夢だったと言う。多分今さっき適当に思いついただけだろうが、悪くない案だと思った。
本当はあったかい物も買いたかったが深夜だからかレジ前に肉まんとか唐揚げとかは全然無くて、カップラーメンとかじゃ海に着くまでに伸びてしまいそうだった。
「車だから酒も飲めないしね」
「海、まだ寒ぃかもしんねぇ」
「上着持って来ててよかったよ」
運転してる俺の口に頼んでもいないのに小粒のチョコレートを詰め込みながら名前は言う。甘ったるい口内に眉をひそめてるうちにやがて海岸線に辿り着いた。
境界線のわからない真っ暗な空と海にぽかりと月が浮かんでいる。夜の海は明かりが少ない。浜と海の境目だって曖昧だ。
浜のそばに車を駐車させて、外へ出る。途端に海風が俺と名前にまっすぐ吹いてきた。バサバサと髪が揺れる音が耳のすぐそばで聞こえる。
まだ夏じゃないから流石に涼しい、というか、ちょっと寒い気もする。隣にいたはずの名前はいつのまにか俺の背中に回ってしがみつき、俺の体を風除けにしていた。
「おいこら名前このやろう」
「無理無理風強い、それいけハルくん」
「こんにゃろお、人を盾にしやがって」
海経験者でしょ、プロでしょ、なんて適当なことを言って笑って彼女は背中を押す。抱きつかれてる背中は少し温かい。それを背に砂浜へ降りた。
靴の下に感じる懐かしい地面。足を取られそうだけど、柔らかく受け止めてくれる砂の感触。流れ着いた海藻や貝殻がそこかしこの転がっていて、そういうささやかなこと全てが懐かしい。
「すごいな、何もかもが新鮮だ」
俺の肩の横あたりから顔を覗かせた名前がおっかなびっくりあたりを見渡した。
波の音、潮の香り、柔らかい砂、遠くから運ばれてきたたくさんの漂流物たち。
そうか、お前にとってはこれら全てが新鮮なのか。
「なんか、いいね。すごく」
「だろ?」
背中から名前を引っ張り出して、手を繋ぐ。海側を歩く名前の右手と、道路側の俺の左手。
歩こうぜって言わなくても、俺たちはおんなじペースで歩き出した。
濡れた砂浜に足跡が残る。夜はどんどん深まっていく。日を超えてまでやってきた意味とか価値とかそういうのはもういいから、今はただ楽しんでいたい。2人でいることを。2人で海にいることを。
俺は楽しそうに砂の上を歩く名前の横顔を見ていた。いつもより強く握られた手からは興奮と緊張が伝わってきて、それを微笑ましく思う。
これまでもたくさんの日々を2人で超えてきた。俺にとっての日常が名前にとってはそうでなかったこと、おっかなびっくりで擦り合わせてきた価値観とか生き方とか、大事なもの、大切なこと。
そういうものの上に立っている。そんな俺たちの基盤は決してグラついた脆いものなんかじゃない。だって2人で生きていきたいんだ。互いにそう願ってきたから。
ちょっとだけ、と名前は俺の肩を支えに靴を脱いで、それから靴下も脱いだ。丸めた靴下を靴の中に押し入れて、波のやってこないところに揃えて置く。
「ちょっとだけでいいから海に足をつけたい」と言うもんだから手を離してやると名前はぱっとスキップみたいな早足で、海へと、波打ち際へと足を踏み入れた。
「わ、濡れるっ」
名前はスカートの裾を掴んで濡れないように高く上げた。翻った裾から見えた膝頭。寄せて返す波が何度も彼女の足首まで濡らした。その度にわたわたと動く素足。
それからこっちを向いて堪らなく楽しいって顔で笑って、名前は俺に手を振った。波を蹴る名前の足が高く上がって、すこし離れた水面に雨みたいな雫がぱらぱらと一瞬だけ落ちる。
まるでそういう絵画みたいな、一瞬みたいな景色。
ここに来てよかった。
連れ出せてよかった。
こんな景色を見せたかった。
こんな景色が見たかった。
それは突然。不意に、これまで積み重ねてきた過去の果てに今があるって気がついた。
幸福な毎日がずっと続いていくように思えた幼い日々。悔しさに眠れなかった夜。言葉を飲み込んだ日。感情に振り回されて優しくできなかった時。どうにもならないことへの後悔。交わした約束。電話をしたかった夜明け前。選び抜いたのに間違えた選択肢。聞けなかった理由。間に合った言葉。掴めた掌。
そんな今でも思い出せるたくさんの記憶、或いはもう思い出せない膨大な記憶。繰り返してきた選択肢の果ての果てが今日この日の今だったのなら、きっと何も間違ってない。
苦しかったことも悲しかったこともそれだけでもう十分に意味がある。それが幸福でないと誰が言えるだろう。いいや、誰がなんと言ったって構いやしない。誰に何を言われたって関係ない。
今この瞬間だっていつか未来の足元になる。それはきっと俺にとっての福音だって胸を張って言えるから。
過去が今になり、今が未来になる。
そんな使い古された言葉が、今ようやく実感とともに理解できた。
「ハルー!」
漣の中から呼ぶ声に目線を上げる。
急に、なにかを彼女に言いたくなった。多分「ありがとう」とか「好き」だとか「愛してる」とか、そういう類の言葉。でもそんな言葉じゃなんにも足りないって思えた。使い古されたような言葉じゃ、本当に伝えたい今の気持ちのほんの少しすら伝わらない気がした。
考えるより先に足が動いた。名前も、古くからの仲間たちも、俺のことを直線的だと笑うけれど、本当はいろいろ考えてて考えた上で動いてるんだって、信じやしないだろうけど、ずっと言ってやりたかった。けど、今この瞬間は本当になんにも考えてなくて、体だけが先に動いた。靴を履いたまんまだったとか、ズボンの裾が濡れるだとかそんなことなにも考えずにざぶざぶ海に入って、笑ってる名前を真正面から抱きしめた。
「おわっ」
名前の驚いたような声が吐息になって首筋の肌を撫でる。
ずっとこうしてぎゅぅっと強く抱きしめていたいような、高く抱き上げてそのまま走り回ってしまいたいような、そんな気分だった。
名前の掌が背中に回って、ぽんぽんと俺の背を叩く。離せ、ではなく、大丈夫か?の掌。
「……あと10秒、このままでいいか?」
「うん。10秒でも10分でも100分でも全然構わないよ」
まだまだ夜は長いし、さ。
背中を撫でる掌の体温が柔らかくそこに在り続ける。夜中の海にふたり。はたから見たら心中の直前だとでも思うだろうか。生きてることの喜びをこんなにも噛み締めているんだけど、な。
これ以上ここにいたら、名前の素足が冷えてしまうって気がついたから、彼女を抱き上げて冷たい海から上がる。
「重たくない?」
「超重てぇ」
軽口を言ったらバシンと背中を叩かれる。
いってぇ平手はやめろよな。そこは嘘でも軽いって言ってよ。おう、天使の羽みてーだよ。
嘘つけ、と言いながら満更でもない顔で笑っていて、それだけのことが嬉しかった。
夜は驚くほど長いのに、すぐに過ぎ去ってしまうから、俺は名前を抱えたまま砂浜に一人分の足跡を残して一旦車に戻ることにした。途中で名前の靴を拾って、濡れて重くなった靴のまま歩いていく。冷めたコーヒーとサンドウィッチが車の中で待ってる。
「海、楽しいね」
「来てよかったろ?」
「まあね」
月と星を見ながら朝焼けを待とう。
なんでもない話をしたっていい。ラジオを聴いてたっていい。眠っちまったっていい。
なんだっていいよ、そばにいてくれるのなら。
(2018.4.17)
旧題「瑠璃色の地球」