俺はお前のことがわからないんだ。
もうずいぶんと長くそばにいて同じ時間を歩んできた気がするけれど、やはりお前のことがわからないんだ。
展覧会でお前が足に根が張ったように立ち尽くしてシュルレアリスムを眺めていたときの、あの日のような気持ちをいつまでも抱え込んでいる。
別に、お前が俺の理解の外にあるからといって、それが拒絶になるわけではない。わかっている。ただ、恐ろしいのは理解に至らないこと。
お前が何を思って立ち尽くしたのか、何を思って微笑むのか、あるいは何のために涙を流すのか。
現象を受け入れることは容易い。俺はお前が満足するまで待ち続けることを厭わないし、お前が微笑むというのなら微笑み返そう。涙を流すというのなら俺の肩を貸そう。
けれども『なぜ?』
なぜ、お前はその言動を選ぶのか。そこに至らなければならない、と俺は思ってしまう。お前のすべてを理解したいと願うのは無謀な願いだろうか。
浅い眠りのお前は夜更けに一度起きたね。俺は瞳を閉じたまま、お前が隣から去っていくのを衣擦れの音と薄れる熱と、少しの寂しさで気がついた。
どこへいくのだろう。そう思っていたら、少し離れたところで椅子が引かれる音がした。俺は寝返りを打つふりをして、ゆっくりとそちらに顔を向けて、それから薄く瞼を開いたんだ。
闇に目が慣れないまま、それでもどこからやってくるのかわからない薄明かりがぼんやりとお前の影をうつした。お前は椅子に座って、背もたれに背中をぴったりとくっつけていた。ただ、それだけ。
夜に目が慣れていくうちに、輪郭だけだったお前が確かな形を露わにするようになった。お前はその両の指たちを神に祈るように絡めて、自分の腿の上に放っていたね。目は開いていたのだろうか、それとも瞑っていたのだろうか。そこまではわからなかった。
俺はお前のその、祈るような或いは諦めるようなその姿が愛しくて哀しくてたまらなくなって、右目から一筋だけ涙を流したのだ。お前はそれを知らないだろう。俺がお前のことを何一つとしてわからないように。
病院が嫌いだ。あの大きな白い入れ物も、静かな病室も、冷たい廊下も、されるがままの手術室も、なにもかも、きらい。
一番嫌いなのはレントゲン室。
レントゲンはただ肉体を透視しただけだというのに、それだけで俺という人間のなにもかもを暴き立て理解しきったような顔をする。ここでは肉体の秘密は生き残れない。だから精神はより遠くへ逃げ込み、より深い眠りにつく。
理解されたくなかったんだ。そんな幼い子供の癇癪。けれどすごく寂しかった。ここにたったひとり取り残されるのが。何もかもを見透かすようなそれが、恐ろしくてたまらなかった。
けれども現状を顧みれば、俺はあの忌々しい電磁波にすら劣るのだ。
精神はもとより、俺は彼女の肉体についてすら、レントゲンに劣る程にしか知り得ない。そんな俺の無様な無知。
ああどうか、その体に恐ろしい絶望は抱えていないだろうね。お前に俺がいつか着ていたあの衣は似合わないのだ。どうかどうか、俺に独り寝などさせないでくれ。ああ、どうか、どうか。どうか、どうか………………。
気がつけば夜は明けていて、お前はもうキッチンに立っていた。俺は上体を起き上がらせて部屋を見渡す。けれど昨晩誰かが椅子を引いた痕跡はどこにもない。もしかしたらあれは夢だったのかもしれない。そう、寂しい俺が見た夢だったのかも。
「おはよう」
そうお前は微笑んだ。寝癖がついてると俺を笑うお前の後ろ髪だってくるりと重力に逆らって跳ねている。手を伸ばし一房摘んで教えてやれば、照れたように笑った。
「昨日はどんな夢をみた?」
唐突にお前が尋ねた。
「夢? 夢なんて…………」
「そう、ならいいの」
「どうかしたのかい?」
「大したことではないんだけど」
一瞬言い淀んだお前は、少し躊躇ってからおずおずとまた言葉を紡いだ。
「……昨日泣いていたから」
俺は口をつぐんだ。昨晩の夢現が鮮明に蘇る。あれは決して夢ではなかった。それにそうか。お前は知っていたのか。そう、知っていたんだね。
「昨日の夜、眠れなくて起きていたの。椅子に座って眠気が来るのを待っていたけど、まるでやってこないからずっと貴方が眠る姿を見ていた」
呟くようなかすかな声には穏やかな安堵。
「悪い夢を見ていないならそれでいいの」
寝癖のついた俺の髪を撫でて、撫でては笑みを深めるお前。俺がお前を見ていたように、お前も俺を見ていた。愛しくて、愛しくて、それが何よりも哀しかった。俺たちは夜を共に過ごしていた。遠くて近い距離で、決して一人きりではなかった。
「ああ、悪い夢なんか見ていないよ」
ただ、お前が愛しくてたまらなかっただけなんだ、と。
染まる頬、崩れた口元の笑み。驚いたように開かれた瞳。中途半端に開かれた掌。
俺がそう言ったときのお前の肉体のこと、精神のこと。今なら容易く理解できそうだよ。ああ、どうせレントゲン氏には永遠にわからないだろうけどね。
(2018.5.9)
谷川俊太郎「秘密とレントゲン」