近頃、主人である盧俊義の様子がどうにもおかしい。
妙に落ち着きがなく、パタパタと忙しなく動いていたかと思うと、急に何やら難しそうな顔でむっつりと考え込んだりし始める。いつにも増してピリピリイライラしているのが目に見えてわかるので、これには番頭たちもヒヤヒヤとして、あまり刺激しないようにと遠巻きに怯えて見ている。
このことには燕青も思うところがあったようで、昨晩など名前の部屋に訪れて酒を飲みながら「なーんか嫌な予感がするんだよなぁ」と眉を寄せてそんなことを言っていた。
「……嫌な、予感……?」
名前が彼の言葉を鸚鵡返しすると、燕青はうなづいた。
「おうよ、なんか碌でもないことに巻き込まれそうっつーか」
と言って酒を煽った。
それから布団に潜り込む名前を見つめながら「名前も、なんかあったらすぐに俺に報告しろよ」と目を細めた。名前が軽くうなづくと、燕青は「あーいや、まあ、旦那様のことだけじゃなくな?」と困った顔で笑った。名前はその意味をよく理解できなかったが、とりあえずうなづいておく。
燕青の予感は割と当たる。だから名前は布団の中で眠気にうつらうつらとしながらも心に留めておくことにした。何も知らずに嵐に巻き込まれるのと、嵐がやってくるかもしれないと先に覚悟しておくのとでは、心の持ちように大きな違いがあるのだから。
屋敷での名前の仕事は掃除や洗濯などと言った雑用が多い。今日とて朝から洗濯物を干し、ほつれがあれば直し、それが終われば今度は掃除。
その日、何度かに分けて洗濯物を運んでいる途中、
「ちょっと、」
聞き馴染みのある声に名前は振り返ってすぐにこうべを垂れる。主人である盧俊義の奥方、賈氏の声だ。
「貴女、李固がどこにいるか知らない?」
番頭長である李固を探しているらしい。どこか落ち着きのないその様子からして、急ぎの用であることが伺えた。だから名前もつい、つられるようにして早く答えねばと思ってしまった。
「はい、李固でしたら広間の方に……」
いるのを見かけました、と言い切る前に、名前はあることに気がつき、ハッとして慌てて顔を上げた。
眼前に見える、名前を見下ろす賈氏の憐れみと不愉快と侮蔑に満ちた表情。
しまった、と名前は己の軽率な言動を恥じる。
賈氏は名前の、この醜い声を酷く嫌っているのだった。
盧俊義や他の者の前ではそのような素振りは見せないが、以前に一度、自分と2人きりの時は決して声を出すなと命じられたことがある。
謝罪しなくては、とすぐに思ったが、だからと言って彼女の前で再び声を出すこともできない。名前は慌てて膝をつき、深く頭を下げる。
顔を上げることもできずにじっと黙りこんでそうしていると、賈氏は何も言わずにパッと身を翻して早々に立ち去った。向かう方向からして広間の方だろう。名前は足音が聞こえなくなるまで、膝をついて顔を伏せたままでいた。
……悲しくなどはない。これが普通なのだ。主人や燕青がまるで名前が普通であるかのように接するから、勘違いをしてしまっていただけなのだ。
「あ、……あ、あ」
蹲ったまま、小さく声を出してみる。ざりざりと雑音の混ざる声。枯れ果てたような、ひび割れたような声音。もはやこんなもの、声ですらない。ただの不愉快な音だ。雑音だ。地獄の悪鬼ですらこのような声は持たないだろう。この声は人を不愉快にする。
……だから、口を噤んでいよう。
声が無ければ意思疎通が図れないから、旦那様も燕青も受容してくれていただけだ。そうでなければ、誰がこんな声を持つ者を愛するだろうか。
名前は立ち上がり、洗濯物を抱え直す。口を噤み、無感情に無感動に。身も心も凍らせたように生きよう。黙り込む、そのためにならどんなに苦しんだっていい。だって、そうするほかない。
そうするほかないと、思っていたのに。
「名前!名前!どこにいる!名前!」
ドスドスと足音を立てて、盧俊義は屋敷の中で使用人の1人を呼んだ。普段から目立つような子ではないし、積極的に口を開くこともないが、
「おお、名前!ここにいたか!」
2、3度呼べば必ずすぐに現れるのが名前という幼き使用人であった。
廊下の角からひょっこりと現れた雀は盧俊義の元に傅いて、頭を下げる。盧俊義はそれを「いらんいらん」と、すぐに立ち上がらせると「お前にしか頼めん仕事がある」と名前の手を引いて歩き出した。名前は引っ張られるままに引きずられるようにして彼の後に着いていく。
道中、盧俊義はたわいのない話をアレコレとした。普段の名前なら「それは宜しゅうございましたね」などと盧俊義を立てるように言葉を返すいうのに、今日の名前に限っては盧俊義の話に黙りこんだまま、うなづいて相槌を打つばかり。
盧俊義はそれを訝しんで「……?どうした?何故今日は喋らない?」と足を止め、振り返って名前の目を見た。己の主人から真正面に真っ直ぐ見つめられた名前はそれらしく誤魔化すことも顔を背けることもできずに、ウロウロと困ったように視線を泳がせるばかり。それには流石に盧俊義も何かあったのだなと気がつき、兎にも角にも部屋まで連れていくことにした。
自分の部屋まで名前を連れてきた盧俊義は、上座に腰を落ち着けると対面に名前を座らせて「先ずは話を聞こうじゃないか」と切り出した。目の前でちょこんと小さく座る名前は、先ほどと変わらず居心地悪そうに目線を泳がせている。
盧俊義は名前を使用人として雇っているが、子のない彼にとって名前は娘のようなものだ。だからこそ、従者とはいえつい過剰に構ってしまいたくなるのだ。ましてや実子のように可愛がっている名前に何かあったのだ。盧俊義としてはそれを放っておく選択肢がない。
「何があったかは知らんが、何、気にするな。話してみなさい」
盧俊義に穏やかにそう呼びかけられてしまえば、名前も黙り込み続けるわけにはいかない。おずおずと躊躇いがちに名前は口を開いた。
「……旦那様は、私の声を、醜いとは思いませんか」
出会った頃から、拾ってからも変わりのない、名前の低く嗄れた声。初めて聞く者ならまさかこの儚げな少女からこのような声が発せられたとはつゆ思えず、彼女の顔をまじまじと見てしまうようなものかもしれない。彼女を可愛がる盧俊義といえども、その声を美声と評価することは出来ない。確かに聞くものによってはこれを醜悪と受けとるかもわからない。
だが、名前の問いかけへの答えは「非」。
ただそれだけを返すほかない。
怯えたように縮こまる名前を見て、盧俊義は愛らしい小動物を見たように心が凪ぐのを感じた。仕事をきっちりと熟し、感情を抑え、自身を律する、そんなどこか人間味の薄さを感じるこの少女にも、誰かに厭われることへの恐れがあったのだと思うと、そのことへの愛しさしか感じなかった。
「なんだ、新しい女中にでも嫌味を言われたか?」
盧俊義は微笑みが溢れるのを抑え切れずにいる。手が届く距離にいたのなら頭を撫でていたかもしれない。
名前のほうもそんな穏やかな主人の声音に落ち着いたのか、ようやく彼女のほうから視線を合わせてきた。
「そうだな、確かにお前の声は美しいものではないかもしれない。だが、それが一体なんだというのだ?」
目を細める己の主人から、名前は目を離せないでいた。その表情に、その声に耳を傾ける。
「名前、お前はこの地を離れた事がないから知らないかもしれないが、この国にはな、数え切れないほど沢山の人が暮らしている。高い声を持つ者もいるし、低い声の者もいる。それは肌が黒いとか白いとか、そんなことと変わらない。善悪で判断のつくことではないのだ」
名前はうなづく。それを見て盧俊義もまたうなづき返す。
「お前の髪と瞳が黒いように、その肌が白いように、手先が器用なのと同じようにお前はお前の声をしているだけだ。それもお前の一部なのだ。ただお前がお前であるだけだ。それの何に問題がある?何故そんなことにケチをつけられねばならぬ?」
真正面に座る名前の頬が朱に染まるのが見えた。眉は泣き出す直前のように歪み、だが目を深く強く瞑ってそれに耐えている。
言葉が足りていなかったのかもしれない、と盧俊義は少し反省する。もっと肯定してやればよかった。彼女の曇りのない忠誠に応えるように、もっと言葉をかけてやればよかった。名前の面倒を燕青が見ているからと思い、目を離し過ぎていたかもしれない。燕青ではなく、他の番頭や女中でもなく、自分が名前に声をかけることに意味があったのだ。
「お前の声を醜いと思うか、と尋ねたな。では、答えよう」
盧俊義は微笑んだ。そのささやかな微笑みが、名前にとってはどんな宝石の輝きにも勝るものだった。
「私はお前の声を醜いなどと思ったことは一度としてない」
その肯定だけで、名前はこれから先、何があっても生きてゆけると思えた。例えこの身は朽ち果て、我が名は消え、すべては歴史の中に埋もれていくとしても、この胸に満ちる幸福だけは永遠であると思えた。
「それでもなお、お前はその口を噤むと言うか、名前?」
「……っ、いいえ、いいえ、旦那様……!」
名前は手をつき、深く頭を下げた。そうして名前は長く胸の中にあった誓いを決して折れることの無い確固たるものにした。
自分の大嫌いだったところを、笑って肯定してくれた。誰かを愛する理由としては三流かもしれない。それでもいい。
私が気がつかなかっただけで、このお方はずっと私を肯定し続けてくれていた。私以上にずっと、ずっと。
だから、この人の為に生きよう。
例え明日この人に殺されるとしても、例え明日全てを裏切られるとしても、決して悔いなどしない。
この人の為に生きて、この人の為に死のう。
きっとこの身はそのためにあるのだ。
溢れる涙が床を濡らした。肩が震え、顔を上げる事もままならない。無様な姿を見せている。それを恥じて涙で揺れる声で「申し訳、ありません」と呻くが、それも「構わん」と笑って返されるだけ。
どうしようもなく、幸せだった。
あれから暫し時間が経ち、やがて名前も落ち着きを取り戻した。
「それで、その、私に任せたいお仕事とはどのようなものでしょうか」
顔を上げた名前は視線を彷徨わせながら、どこか恥ずかしげに口を開いた。その目元は赤く腫れているし、彼女は気がついていないようだがその頬には涙の線が残っている。
痴態を晒してしまったと真っ赤になって照れる名前にわざわざそれを指摘してしまっては、きっと真っ赤な顔で黙り込んで俯いてしまうに違いない。盧俊義は彼女が気づかない程度に苦笑するに留めて、本題に入ってやることにした。
「うむ、そうだったな。お前には一筆書いて欲しいものがあってな」
盧俊義は部屋にあった箱から上等な白布を4枚取り出した。
「それぞれに七文字ずつ、これを書いて欲しいのだ」
と、なにやら28文字が書かれた紙を差し出した。名前はそれを受け取り、その文字を見ると、ぱっと盧俊義の顔を見て、それからまたすぐに紙に目を戻した。
書かれたその言葉に困惑した名前は困った顔をしながら主人に尋ねた。
「……旦那様、よもや道場破りにでも行かれるのですか……?」
名前としてはこれは冗談のつもりで発した言葉だったのだが、盧俊義は少年のような笑顔を見せると
「おう、そのようなものだ!」
と快活に言った。その笑顔があまりにも裏表のないものであったから、名前はなにも言えず、黙ってうなづくことしかできなかった。
なにかあったら……とわざわざ告げてくれた昨晩の燕青の言葉を思い出す余裕さえそのときの名前にはなかったのだった。
これから巻き起こるであろう嵐の予感に、名前は主人に気がつかれない程度に小さく溜息をついた。
(2019.1.6)
水滸伝における盧俊義たちの始まりの話より