愛と呼ぶには

彼の唇に一度だけふれたことがある。
どこまでも続くレモン畑の木陰。今にも落ちてきそう程に晴れ渡る夏空の下。世界を見下ろす太陽に隠れて、2人だけの秘密を得た。
彼の厚く柔い唇の感触を、私は私自身の唇で知ったのだ。

涙のように頬を走った汗。私より少し高い背丈。熱く湿った柔らかさ。精悍な彼の大きな黒目。私たちの間をすり抜けて通っていった風。
まだ幼かった私たち。

それを愛と呼ぶには早すぎた。

けれど、もしもそれを愛と呼んでいたのならば、次の年も、その次も、これから先ずっと繰り返される夏を何度も貴方と迎えられたのでしょうか。



平穏な島の田舎町で凄惨な事故が起こった。
左のえくぼが愛おしい小さな子だった。その子が凄まじいスピードで迫り来る鉄の塊に押し潰されて命を落としたのだ。
目を背けたくなるような有様、想像もしていなかった末路。あの子の未来はまだずっと続いていくのたと無条件に信じていた日々は砕け落ちた。

その子は無邪気に笑う子でした。
私が手を握ってやれば嬉しそうに跳ねるのです。
不器用な彼によく懐いていていました。
まだ6回しか夏を知らない、幼い子供でした。

幽鬼のように俯いた喪服の人々が長い葬列を作って、あの子を悼んだ。それに連なりながら、私はあの幼子のメープルの葉のように小さく、真綿のように柔らかい掌を思い出す。けれどそれがもうこの世界のどこにも無い。
歪んだ視界の中、ふと列の前方へ目を向ける。あの子の血縁である彼は葬列の中、ただただ黙って立ち尽くしていた。一切の表情が抜け落ちた透明の顔、その胸の奥には身を焼くような深い絶望と憤怒があった。

せめて罪に相応しい罰が下されていたのなら、或いは。
……いいえ、それでも何も変わらなかったのかもしれない。

ただ事実として、ひとりの青年が町からそっと姿を消した。言葉もなく、予兆もなく。それでも、理解できてしまう。彼が、幼子が無残に死んでも当然のように繰り返される日々を、その中でのうのうと生き続ける罪人を強く憎んでいたことを知っていたのだから。

夜の空は彼の瞳の色によく似ていた。
いつか夜明けが来るのでしょうか。



差出人の名がない手紙が届いたのは、それから数年後。私が18歳になった時のことだった。

他の人が読んだのなら、それが一体誰から宛てられたものなのかなどわかりはしなかっただろう。
右上がりの文字。少しだけ特徴のあるiの書き方。今はもうはるか昔、彼が貸してくれた数学のノートを覚えていた。大きな掌に似合わない可愛らしい筆跡をからかって笑ったのは私だったのだから。

微かな予感だけがあって、私はひと気の少ない真昼の港でその手紙を胸に抱いた。シチリアの降り注ぐ日光の下、一つの罪が明かされていく。

『ーーお前に遺してゆけるのはただこの虹だけ。戦って守り抜いた一つの信仰。暖炉にくべた硬い薪よりも、もっとゆっくり燃え尽きたひとつの希望の證しだけ』
手紙に綴られていたのは、いつか彼と肩を寄せて読んだ詩の断片。それは罪の懺悔であり、彼の願いの結末。

大陸からブーツの爪先のさらにその先まで流れてきた風のような噂。可愛いあの子を殺した罪深き男が無残に凄惨に殺されたのだと、声をひそめて誰かが言っていた。
噂は本当だったのだ。彼の深淵のような愛によってそれが起こされたのだとわかってしまった。
そのために彼はこの島から旅立ったのだから。

……ああ、我らが父なる神よ。どうか、どうかあの人を許し給え。もしも彼が地獄へ落ちるというのなら、一体誰が天国へ行けるというのでしょう。

決して長くはない手紙にはこうも書かれていた。
『レモンの花が次の年も同じく花を結ぶように、やがてお前に来る未来は変わらずに貴い。神のご加護を』
それは私の幸福を祈る言葉だった。

例えそれがどれだけ悲しくても、例えそれがどれだけ許せなくても、彼の行いは過ちだった。あの子を殺した男と同じ罪を背負ってしまった。
それでも自身の悲しみを確かにその手で清算した彼からの手紙。それをどれだけ読み返しても「帰る」とは一言も書かれていない。けれど「帰らない」とも明確には書かれていない事実に私は微かに希望を抱いてしまった。
彼がこの島へ、この町へ戻ってくる未来を。

もしも彼がもう一度現れてくれたのなら、きっと私をあのレモンの木の下へ連れていってくれる。私たちの、あの思い出の場所へ。
けれど、もし貴方がもう一度帰ってくるにしても、もう元の貴方ではないのでしょう。貴方の人生は、変わってしまったのだから。彼の業は、ずっと続くはずなのだから。

2人並んで帰ったスクールの帰り道。
抱き上げた幼子の命の重さ。
波打ち際で濡れ、色を変えた服の裾。
見上げた首筋、輪郭のライン。
広い大地を走った雲の影。
雨上がりに見た天使の梯子。
シチリアの太陽に焼けた肌。
潮騒の届かない静かなレモン畑。
少し温度の低い貴方の体温。

遠い、思い出。もう、すべてが遠い。

だから私は優しい夢想を、願った希望をそっと心の海底に沈めた。
きっと帰らない。
あの優しい人はもう二度とここには帰らないの。

それでも、もう歳を重ねることのない幼子の絶望を忘れなかったこと。そして、ただ一度だけ唇を合わせた私のことを忘れずにいてくれたこと。
それが私の盾となり聖域となり、彼の語る「やがて来る貴い未来」を守り続ける。その確信だけがこの一枚の手紙にあった。不意に雨粒のような跡が手紙に張り付く。

愛と呼ぶには遅すぎた。

(2019.5.26)

レモンの花言葉「誠実な愛」「思慮分別、自由裁量」

タイトル元ネタ「愛と呼ぶにははやすぎるけど…」八坂裕子
引用詩「小さな遺書」「虹」エウジェニオ・モンターレ