あなたの背中は明るい

ヌテラの蓋が開かない。
白い蓋を渾身の力を込めて回してみるがピクリとも動かない。きっと前に食べた誰かがとんでもない馬鹿力で蓋を閉めたんだろう。このアジトを出入りする奴で馬鹿力な奴といえば、ギアッチョかリゾットか、もしかしたらプロシュートって可能性もある。頭の中で思い当たる連中を挙げてみるが、そいつらは今アジトにいないし、そんなことをしても手の中にある蓋が開くわけでもない。こういう時、パワー型のスタンドだったら良かったのになって思ったりする。

アジトの狭っ苦しいキッチンに立ち尽くして壁に掛けられた時計に目を向ける。午前四時。普段ならまだベッドの上で夢の中にいるはずなのに、今日に限って朝っぱらからヌテラの蓋が開かないなんて下らないことで立ち尽くさなければならない現実にまだ覚め切らない頭が困惑する。

…………善意だった、筈だ。
けれど、し慣れないことなどするべきでは無かった。これはきっとそういうことなのだろう。

手中には収まり切らない大きな瓶をじっと見つめる。それからそれを元置いてあった戸棚へ戻そう、と、した。
そのとき。

「随分、珍しい」
「……ッ!」
どこか感慨深そうな声が背後から響いた。反射的に肩が震える。声が聞こえるまで、誰かが背後に立っていることになど気がつけなかった。一瞬で跳ね上がった警戒心のまま、背後を振り返る。

「ッ、……リゾット。戻ったのね」
見慣れた黒衣の男がそこにいた。身長差ゆえに高い位置から彼に見下ろされることにはもうすっかり慣れたが、足音や気配の無い接近にはいつまで経っても慣れそうにもない。彼はいつもそうだ。そこが何処であろうと誰であろうと、足音も無く背後に寄る。
アタシは背後からの接近に気がつけなかった自身の未熟さと、警戒して振り返った先に居たのが身内であった気恥ずかしさに思わず眉を寄せた。不機嫌そうにでも見えていたのなら、いいのだけれど。

「あのさ、気配消して後ろに立つの、やめてって言ったでしょ」
「そうか。俺ならば、それに気が付けないお前の方に問題がある、と考えるがな」
これが仕事だったならば命は無かった、と正論を返されれば口を噤む他無い。眉を寄せたまま、鼻筋に力を入れて背の高い彼を睨む。沸き立つ反抗心がアタシにそうさせた。

「……それで?何が珍しいって?」
入ってくるなり挨拶もなく言われた「珍しい」なんて言葉を忘れたわけでは無かった。

「お前がこんな朝早くから起きていることが、だ。目覚ましの時間でも間違えたのか?まだ朝日も出ていないぞ」
「……アンタ本当にさぁ、こっちを馬鹿にしているわけ?」
「……? 何故そうなるんだ」
多分、おそらく、いやきっと彼はただ単にそう思ったからそう口にしただけなのだろうとわかっていた。
だが、言葉を受け取る側のアタシがそれを拒んでしまう。馬鹿にされてる。舐められてる。見下されてる。そんな風に捉えてしまう。いつもだ、彼を前にするとそうなってしまう。
アタシよりもずっと多く歳を重ねている彼は、アタシがこのチームに配属されてからずっと、なにかとこちらを気にかけてくる。まともな家庭などといったことなど知りもしないが、例えるのならそれはまるで出来の悪い下の子を世話する兄のようなふうに感じられた。

バカみたい。
こんなただでさえクソッタレなギャングの中でも最下層のような、人殺しロクデナシチームのリーダーのくせに。

私はそんな生ぬるい馴れ合いを不愉快に思っている。そうだ、どうせここの連中は全員人殺し。悪人には相応の末路がある。きっと皆ロクな死に方をしない。アタシたちには小さな偉業もなければ、偉大なる死も無い。このチームの連中は、アタシも含めて皆、いつか一人で無意味に死ぬ。全ては無意味なのに、どうしてそんな無駄な馴れ合いをするのか。アタシは彼の、まるでまともで正常な人間みたいな行動が、吐き気がするくらい不愉快で、下らなくて、馬鹿げてると思っている。

ああ、……うん、それは事実のはずなんだ。
……でも、だとしたらアタシは何故わざわざ目覚ましをセットしてまで、夜明け前に起きてこんなところに立っているのだろう。

そんな、わかりきった自問自答に頭が痛くなる。自分自身にだけは決して嘘をつくことは出来ない、なんて何処かの誰かが言ったらしい陳腐なセリフが頭をよぎった。

「目覚ましの掛け間違えでないのなら、どうしてこんなに早く起きるんだ?」
本当にわからないって顔で、オニキスのような瞳がアタシをじっと見た。
キッチンの狭い入り口はリゾットが立っているせいで塞がれている。彼の体の向こう側はアジトの広間につながっていて、一直線上にはカーテンが開かれた大きな窓がある。そこから微かな光が差し込むのが見えた。明けていく空。差し込む光が黒衣の男の背を祝福のごとく照らした。

本当に、どうかしている。
仕事とはいえ、昨晩人をぶっ殺して帰ってきた男を労うために朝食でも作ってやりたいなどと思うなんて。
ましてやそれをマジに実行するだなんて、本当にアタシはイかれてしまっているんだ。
これが大嫌いな馴れ合いそのものだって、わかってんのにさ。

アタシは棚に戻そうとして、結局タイミングを逃して手の中に残ったままのヌテラの瓶をリゾットに押し付けた。受け取った彼の大きな掌に瓶がすっぽりと収まったのを見てから手を離す。
「別に。今日たまたま目が覚めちゃっただけだから。そんでお腹が空いたから朝食作ろうって思ったの。あのさ、瓶開けてよ。ヌテラ好きでしょ、シチリアーノなんだから」
アンタの分のパンも切ったげるしさ。

冷静に普段のように言ってやろうと思ったのに、何故か妙に緊張してしまってつい早口になってしまった。なんだか気恥ずかしさのまま過剰に言い訳してるみたいで、自分が嫌になる。
そんな様子に気がついていたのかどうかはわからないけど、ヌテラを押し付けられたリゾットはアタシの手では開けられなかった瓶の蓋を容易に緩めると、再びこちらに渡してきた。
「お前たち本土の連中はいつもそうだ。シチリア人はゲロ甘いもんばっか食って生きてると思い込んでやがる」
「事実でしょ」
「俺は違う」
「うちにあるヌテラを一番食べてんのはアンタよ」
「ホルマジオも食べてるだろ」
「アンタとホルマジオよ」

ネット際でバウンドも無しにテニスボールを弾くみたいに言葉を返せば、リゾットは黙り込んだ。それから不意にこっちに手を伸ばしてくるから、アタシは思わず体を強張らせてしまった。けど彼が殴るなんてことするわけなくて、ただくしゃりと一度だけアタシの髪を撫でるみたいにして崩した。

「お前も朝食を食べるのか」
「食べるからキッチンに立ってんでしょ」
「……それもそうか。いや、お前はいつも朝はアメリカーノしか飲まないだろう。前から思っていたがお前は、」
「うるさいなァ!今日は食べるの!アタシのを作るついでにリゾットのも作ってやるって言ってんだからアンタはとっととあっちのスツールにでも座ってなさいっての!ここ狭いんだから、図体デカイアンタは邪魔なのよ!stronzo!(クソッタレが!)」
パロラッチャまで叫んで、足裏でリゾットの脛を蹴ってやれば、彼は嘆息して「朝から元気だな」と背を向けて、アタシに言われるがまま広間の方へ歩みを進めた。

リゾットをキッチンから追い出した私は、トーストした角パンにはたっぷりとヌテラを塗って皿に乗せる。それから淹れたばかりのアメリカーノ。それぞれふたつずつを広間のテーブルまで運んだ。言われるがまま大人しく座っていたリゾットはグラッツェと言ったのが耳に届いて、少し擽ったい気になる。テーブル越しに向かい合うようにスツールに座った。
「アジトには今誰が?」
「上の仮眠室でメローネが寝てる。でもあいつ、どうせ昼過ぎまで起きてこないでしょ」
「そうだろうな」
リゾットはアタシを見て、それからもそもそとパンを手に取り食べ始めた。私はそれを見てから、カップに口をつけた。正直、アメリカーノ一杯で朝食としてはもう十分だ。けど、仕方なしにヌテラが塗られたパンにも手を伸ばす。

そもそも朝は食べない派だ。今だって腹は減ってないし、喉だって食物を拒否してる。でも今これを食べなかったらアタシがリゾットにこんなことをしてやった理由が破綻してしまうから、無理矢理口の中へ甘ったるいパンを詰め込む。
朝からこんな甘いものを胃袋に収めるなんて、ほんと最悪だ。胃もたれしそう。
2口でげんなりとするアタシに対して、リゾットはなんでもないような顔で、いやむしろ普段より穏やかそうな表情で食べ進めていた。
ただそれだけのことがイラつく。
いつもだ。いつも彼を前にすると、どうしてか心拍数が上がるような、心臓を掻き回されてるみたいな、体内に熱が篭るような、そんなヘンテコな感覚になって苦しくなって、……とにかくイライラするのだ。

そんな私の気も知らず、彼は不意に私をじっと見つめ、その瞳に私を写した。それから食べるためじゃなくて喋るために口を開く。

「……ああ、そうだな。それがいい。そうするべきだ」
「なによ、急に。何の話よ」
「朝食の話だ。前から思っていたんだ、お前はまだ成長期だろう?なら朝もアメリカーノだけじゃあなく、もっときちんと栄養をとるべきだ」
少しだけ、わかりづらいけどほんの少しだけ口元を緩めて、笑みを形作ったリゾット。それを見てアタシは当然、眉間に皺を寄せる。リゾットが喋るたびに苛立つこの顔が、目の前の男には見えないのだろうか。

優しさとか庇護とか心配とか、そんなマトモで文化的で人間的な交流なんて、生まれた時からろくにしてこなかった。そういうものがあるような出生じゃなかったのだ。生まれた時からどん詰まり。世界にはアタシか、アタシを傷つける奴らしかいなかった。それは正しい社会から転がり落ちてギャングになっても変わらなかった。だから、流されてやってきたこのチームにだってなんの期待もしていなかったのに。


優しくされても、どうしたらいいのかわからない。
どれだけ暖かいものを貰っても、何も無いアタシに返せるものなんて無いのに。

優しくされると嬉しい、と心から思う。
けどその度にアレルギーのようにそれを拒絶する感情が波打つ。
それはなんて、矛盾なんだろう。


「朝はちゃんと食え」
「……うっさいな」
「炭水化物も野菜も肉も。特に鉄分だな。レバーやホウレンソウがいい。昨日から貧血気味なんだろう?」
「アンタってば、ほんと余計なお世話、…………ん?」
待って。
ちょっと待って欲しい。唐突に何かが私の中で引っかかり、リゾットの言葉を頭の中で繰り返す。
「昨日から貧血気味」?
彼はそう言った。
確かに貧血気味なのは事実だ。しかし、何故それを彼が知っているのだろうか。それも"昨日から"?確かにそれも事実だ。けど、"それ"は誰にも言っていない、言うわけがないのに。
その時、ある可能性が頭に浮かんだ。

「…………リゾット」
「どうした」
「アンタもしかして、……"知っている"のか?」
「…………」
口を閉じたリゾット。稀代の暗殺者が表情で内心を悟らせる訳がなくて、だからその表情からはイエスもノーもわからない。が、それでも確信した。
こいつはそれを"知っている"のだと。
気がついた瞬間に冷静ではいられなくなって叫んだ。

「答えろッ!リゾット!アンタ、知っているんだなッ!」
「落ち着け、名前」
「落ちッ……!落ち着けるかこんなッ……!こんなッ……!」
カッと顔に熱が上がる。すっかり忘れていた、というか思考が繋がらなかった。だけどよく考えてみればありえない話じゃ無い。この男のスタンド能力なら!
思わず椅子を蹴って立ち上がった。途端に下腹部がグズリと痛みを訴える。どろりと外側に溢れ出る感覚。

……つまり、だから、その、婉曲して言うけど、アタシは、その、3日目だった。

熱くなる私に対して、至極冷静なリゾットは頬に指先を当てて口を開いた。
「スタンドプレーが中心とはいえ俺たちはチームだ。個々ではなくチームとしてやっていくにはどうしたって最低限の信用が必要になる。わかるだろう?」
「なッ……急になんなのよ……」
淡々と吐き出される言葉につい怯む。
「聞け。信用を崩す原因の一つに嘘がある。当たり前だな、仲間に嘘をつくような奴は信用できねぇ」
「だからッ!?」
「お前に嘘はつきたくない。が、本当のことを言ってもお前がキレるのは目に見えている」
「〜〜〜ッ!それもうただの答えじゃないのッ!しんっじられない!このデリカシー0男!」
「断っておくがスタンドは使っていない。ただ、他人の顔色を見ればわかるんだ。体内の鉄分を失わせる、そういう殺し方をすることもあるからな。相手が貧血かどうかだとか、症状はどれくらいなのかくらいの判別は容易い」
「だからなんだってのよッ!何の弁解にもなってないんだから!」
「悪かった」
「謝るのが遅いッ!」

しんっじらんない!最ッ悪!何が悲しくて上司にこんなことを把握されてなきゃなんないのよ!
テーブルの上で握りしめた拳が震える。気を抜けばスタンドが出てきてしまいそうなくらい顔が熱い。切れる寸前。ぶっ壊れた理性のブレーキ。アクセル踏み込んだまま、叫んだ。

「Cazzo(畜生)!最ッ低!なんなのよほんとにアンタ!こんなことなら帰ってくるアンタの為にわざわざ早起きしてまで朝食なんか作るんじゃなかった!」
「…………ほう」
「疲れてんじゃないかなとか変に気なんか遣うんじゃなかったわよ!馬鹿なことしたわ!っていうか普段からアンタのこと見てるとイラつくしムカつくし心臓バクバクするしなんなのよほんとにもう!やっぱりアンタのことなんか嫌いだわ!Che palle(もううんざりよ)!」
「名前」
「何よ!Mannaggia(こんちくしょうが)!」
「わざわざ早起きしてまで俺のために朝食を作ってくれたのか」
「ハァ!?アンタ何を言っ、!…………あっ」

一瞬で頭がショートした。
カッと頭に上っていた血が急激に冷える。
「ちっ、違うッ!今のは言葉の綾っていうか、」
「……フッ。グラッツェ、名前」
「うるさい笑うな感謝するなバカ!」
口元を押さえて、クツクツと低く喉を鳴らすみたいに笑うリゾットは本当に珍しかった。けど、その時のアタシはそれどころじゃなくて、寝汚いメローネでさえ起き出すような、悲鳴みたいな声で叫ぶことしかできなかった。

「vaffanculo!!」



(2019.5.25)