オスカー・フォン・ロイエンタールは幼少期に誘拐されたことがある。
……少なくとも、そういうことになっている。
妻を亡くしたロイエンタールの父親は酒に溺れた。彼はそれまでに築いてきた真面目で誠実な人柄を崩壊させて、狂気に身を落としたが、その身の狂気は彼の肉体の内部で膨れ上がるのみに留まらなかった。悲しみは怒りになり、怒りは敵意に姿を変える。その矛先は他でもなく、彼自身の息子へと向かった。
やがて日常的に行われるようになった精神的肉体的暴行に、先に根をあげたのは幼きオスカー少年ではなく、ロイエンタール家へ仕える使用人達だった。
「旦那様は狂ってしまわれたのだ」
生まれるべきではなかったと吐き捨てられ、時にはその柔らかい頬を躊躇いなく一線される様を見ることは、気弱かつ善良な屋敷の使用人達には地獄の景色であった。広大とは呼べない邸の中で父と子の距離を出来る限り離そうと抵抗にもならない抵抗をするものの、館の主人から「どけ」と命令されれば使用人たちもその身を引く他ない。
「もはやオスカー様をこの邸から逃すほかに方法はあるまい」
寝静まった深夜に使用人達が小声で話し合った。このままではあの愛らしい少年は血の繋がった父親によって殺されてしまう。日に日にその恐怖が使用人達の内心に巣を作り出した。これ以上黙って見過ごすわけにはいかない。それは小さなオスカーのためだけではなく、かつては不器用ながら心優しかった主人のためでもある。
主人には決して知られないように、離れた惑星にある遠縁の屋敷へオスカーを逃がすという計画は、立てられてすぐに実行へと移される。オスカーを連れて他星へ旅立つ役目として白羽の矢が立ったのは、彼のお目付役の女性であった。
幼き頃のオスカーは彼女のことを「婆や」と呼んでいたが、思い返せば彼女は当時まだ若く23.4歳程度の女性で、とてもではないが「婆や」などと呼ばれるような年齢ではなかった。けれど彼女はそう呼ぶオスカーにもことさら優しく、婆やと呼ばれるたびに朗らかに笑いながらそばに来てくれた。
さて、そんな大役を任された婆やだが、まだ年若くやや気弱な質の彼女はとにかく年相応に泣き虫だった。オスカーの肉体や精神が主人から傷つけられるたびに自らの無力さを悔やみ泣きながらその手当てをしたし、この大それた主人への背信的な計画を聞いた時も、可愛い少年に降りかかった不幸を想ってはグズグズと鼻を鳴らし、いつまでも目を赤くしていた。 オスカーは蹲み込んで顔を覆う彼女のつむじをじっと見ていた。いつまでもめそめそとしていた彼女だったが、やがて幼いオスカーに「婆やはいつもめそめそしているから嫌いだ」と言われた途端、真っ赤な目のままパッと顔をあげた。オスカーと彼女は黙り込んだまま、その視線をぴたりと合わせた。それはほんの数秒のことだった。彼女は生涯、オスカーの色の異なる瞳に対して、美しい以外の感情を抱いたことはなかったが、そのとき涙で濡れた眼を通してみたその青と茶は筆舌にし難いほど眩い輝きを放っていた。そこにはうら若き女性に全ての覚悟を決めさせる程の力があったのだ。
それからの彼女の働きは獅子奮迅だった。
彼女は自身とオスカーの最低限の荷物を纏めると、遠縁の親戚のいる惑星までの航路を確保し、ロイエンタール家の主人にはバレないように使用人達で画策した真夜中にオスカーの手をしっかりと握って邸を出たのだ。
いくらか落ち着いた状態が保たれているとはいえ、帝国は同盟との戦争状態。また偶然にもタイミングの悪いことにオスカー達が渡航しようとしていたちょうどその頃は、両軍の戦いが活発化している頃でもあったのだ。
民間人がーーロイエンタール家は貴族だったが、その貴族の家から逃げ出してきたのだからそれを盾にすることもできなかったーー容易く他の惑星に渡航できる程、安定しきった情勢では無かった。それも明らかにどこぞのお坊ちゃんのような少年と使用人じみた風体の女性などという2人組みになれば、怪しく思う人間もいただろうが、それでもどうにかオスカーが生まれ故郷から離れ、安全地帯まで逃げ切れたのは婆やのおかげに他ならなかった。
情勢がどうの、同盟軍がどうのと言えど、若く美しい女性に涙ながらに必死の形相で頼み込まれれば、空港の係員とて何もできない、知ったことではないとそっぽを向くことも出来なかったのだろう。ではどうにかしてみようと係員が動いてくれれば、子供と大人の2人分の席くらいを確保する程度の融通は効いたらしい。婆やと係員の働きの結果、オスカーは荷物を何一つ失うことも、見ず知らずの他人に傷つけられることもなく、一切の障害もなく船に乗ることができた。
それがオスカー少年にとっては初めての宇宙旅行であった。
初めての経験に困惑するオスカーは婆やの手をぎゅっと掴んだ。彼女はそれ以上の力で握り返す。何が起きているのか理解し切れていないオスカーより、自分以外の命の責任を抱えた若い彼女の恐れは相当大きなものだっただろう。その手は微かに震えていた。
けれどまだ幼いオスカーにとってその旅は、困惑や恐怖以上に感動や好奇心に心が奪われた旅であった事もまた事実だった。
宇宙とは地上から見上げるものではなく、闇を裂いて進む船と共に抱かれるべきものなのだと、このときの体験が教えてくれた。
それはもしかしたらーー例え彼が家や血縁から離れる為に進んで選び取った選択だったとしてもーーオスカーが軍人を生涯の職として選んだ無意識の理由の一つになっていたのかもしれない。その問いに正しく答えられる者はこの世の何処にもいないとしても、朧げな彼の記憶には窓から覗いた決して明けることの無い夜の景色があった。
主人への背信を起源としたこの旅はその始まりに反して驚くほど穏やかに終わりを告げた。3週間程の船旅を終え、ようやく遠縁の親戚へ邸へ辿り着いた2人は親戚たちの驚きと困惑によって迎えられることとなった。しかし、うら若い使用人が涙を堪えながら必死に狂気に落ちた主人とその小さな被害者の苦しみを伝えれば、親戚たちは2人を同情と共に温かく受け入れた。彼らに、「子供を守ろうとする良識」があったことは、少なくとも婆やにとっては得難い幸運に他ならなかったのだ。
「オスカー様」
もう何も怖いものなどありませんよ。
そう言って彼女はオスカーに目線を合わせて優しく微笑んだ。
「……婆や、婆やはそばにいてくれる?」
「はい、オスカー様。わたくしはずっとオスカー様と共におります」
見知った顔の者などいない見知らぬ場所で、婆やだけがオスカーの精神の命綱だったから。彼女はとても強い女性だった。旅立ちの前、オスカーに言われて泣かなくなってからは、特に。
だから、ロイエンタール家次期当主であるオスカー・フォン・ロイエンタールを攫った誘拐犯としての汚名を被せられた時だって、彼女は涙の一粒も流さなかった。
実の父親が息子へ虐待を行い続け、その結果使用人たちが結託してその息子を親戚のもとへ逃した。そんな真実のストーリーは、貴族である彼らにはあまりにも外観が悪すぎたのだ。
『ロイエンタール家の使用人が一人息子を誘拐し、離れた惑星へ逃亡したがそこでロイエンタールの遠縁の家の者に見つかった。息子は保護されたが、誘拐犯は憲兵に引き渡される前に姿を消してしまった』
そんな、三文芝居の作り話。彼女が本当に憲兵へ引き渡されなかっただけでも、マシだとでも言うべきなのだろうか。
ただ、事実として彼女はオスカーの目の前から消えた。まるで初めからそんな人間などいなかったかのように。
彼女がいなくなった夜は月のない夜だった。子供はみな母の温もりに似た毛布の中で夢を見る時間、ベッドに横たわるオスカーはその頬に温かな掌の感触を受けた。本当は起きていたのだ。知らなかったから、もう会えないと知らなかったから。子供のいたずらみたいに目を閉じたまま、眠ったふりを続けたのはどうしてだったのか。離れていく体温へ腕を伸ばし、縋り付いたら、彼女は誰かによって創出された作り話を真実にしてくれただろうか。
今となってはもう、なにもわからないけれど。
「オスカー様、どうか、」
そう、何かを、彼女は最後に言ってくれた。
静かな夜だったから、聞こえていたはずなのに、オスカーはもう何も思い出せやしなかった。彼女が捧げてくれた献身も、握ってくれた手の締め付けも、頬に触れた温もりも、優しい祈りの言葉も、何一つとして。
それは確かに、愛と呼ぶにふさわしいものであったはずなのに。
(2019.8.24)
「白い縫いぐるみの兎」片岡義男