オーロラになれなかった人のために 1

私は天井を見つめて、ぼんやりとしている。
することがない。何かをしたいという気持ちすら湧かない。
からっぽだ。
虚脱感、虚無感、無力感。リビングのソファの上に寝転がったまま、なにもしたくない、私には何もできないという気持ちだけが風船を膨らませたガスのように私の体の中に溜まり続ける。そんな感情が体の中に詰まっていて、もう何日も家から出れていない。それどころか体が重くてソファから起き上がることすら億劫でならないのだ。
なにもしたくない。外へ出たくない、テレビも見たくない、ポケモンバトルなんてもってのほか。無気力の塊となって私はソファに転がる。

無職になって10日が経った。
クビ。リストラ。無職。それもなんと公衆の面前でリストラを宣言されてしまったのだ。うわ、私、かわいそう……。
フラッシュバックのように想起される記憶は、太陽を直視した時のように脳裏に焼き付いて離れない。

疲労に支配され膝をついた私の体。
群れを成すたくさんの見知らぬ人々の声。
私の目の前に立つ逆光。
次第に冷えていく汗。
真っ暗になった視界…………。

……詳細を思い出すと嫌な脂汗が浮かぶため、記憶の再生はここまでにしておこう。
代わりにもっと優しくて可愛くてステキなもののことを考えることにした。バチュルの柔らかいお腹とか、バタフリーのちっちゃいおててとか。可愛いんだよあれ。思い出すだけで可愛い。ふにふにで、ふわふわで、ぬくぬくで……。

「う、ううう……相棒……おてて……おてて触らせて……」
考えるうちにさわりたくなってくる。ソファに転がったまま呻き、ばたばたと手を振れば、初めて旅に出た時からの相棒であるバタフリーが「ったく、仕方ねぇなおめぇは」といった態度でソファまでふわふわやってきてくれる。
そうしてそっと差し出されたバタフリーの小さいおてて。それを親指と人差し指でそっと握る。乾いていて、柔らかくて、暖かい。控えめに言ってもものすごく癒される。かわいい……おててかわいい……ありがとう……大好き……。そうやってバタフリーの手をふにふにしていると、「呼んだ?呼んだよね?」とばかりにかつてのバチュル、今は大きく成長し進化したデンチュラがぽてぽてやってきて当然のように私の腹の上にデンッと乗っかった。
「ウッ」
重い。でもあったかくて柔らかい。ちょこちょこと顔を寄せてくるので私の方からも顔を寄せる。それからデンチュラのもさもさした体の毛に顔を埋めて吸う。ぬくい。肌に貼り付く毛に静電気を感じるが気にせず吸う。独特ながら慣れ親しんだ香り。
「ァアェーーーーーーー」
「うわっ、なにしてるんですか、あなた……」

バタフリーの手をにぎにぎしながらデンチュラを吸っていたら、リビングにやってきた友人にドン引いた声を出された。

何を隠そう、ここは私の家のリビングではなく、友人の家のリビング。つまり私は友人の家のリビングのソファをもう10日も占拠しているということなのだ!
……控えめに言っても最低では?
これは隠しておいたほうがいい事実だったかもしれない。

リビングにやってきた友人はデンチュラとバタフリーをそっと撫でると「そろそろ起き上がったらどうですか」とローテーブルにエネココアを置いてくれた。うーん、ニートのくせに甘やかされてる。
デンチュラを優しく退かすと、もぞもぞと起き上がりソファに座った。手を離すと途端にバタフリーはふわふわと飛んで友人の頭のてっぺんにふわりと着地する。それから、君フェアリータイプだったっけか?と思うほど友人にべたべたとくっついてはマーキングするみたいにほっぺをすりすりしている。私のバタフリーは私以上に何故か友人に懐いているのだ。今のところ一度もないが、もし私と友人が喧嘩をしたら、バタフリーは絶対に友人の味方をするに違いない。うちのバタフリーはそういうところがある。
複雑な気持ちになりながらよっこらせと座り直した途端に退かしたはずのデンチュラが私の膝の上にビュッと乗っかる。この子はバタフリーとは違って完全に私に甘えたちゃんだ。よしよしと頭を撫でると「もっとして」とばかりに頭を押し付けてくる。んーー、可愛い。

「名前、もうちょっとそっちに寄ってくれますか」
「あい」
デンチュラを膝に乗せたままソファの端によると、「すみませんね」と隣に友人が座る。すみませんもなにもここは友人の家で友人のソファだ。私のようなうろんな客などソファから叩き落として足蹴にしても文句を言われる筋合いなどどこにもない。
「傷心のあなたを追い出すほど冷血じゃありませんよ」
けれど彼は目に眩しいほど爽やかに微笑む。荒廃した心に優しさがしみる。優しい。好きだ。
「ウゥ、優しい……マクワ、好きだ……」
「はいはい、知ってます」
そう言って笑うのはキルクスタウンのマクワ。彼こそがこの部屋の持ち主であり、私がジムチャレンジした時からの同期であり、私の数少ないというかほぼ唯一の友人である。私は友達が少ない。
……気にしてないから。手持ちのポケモンたちが私の友達、泣いてない。

リストラされた後、行くあてのない私はほとんど押しかけるような形でマクワの家に転がり込んだ。
一人暮らしの寂しい家には帰りたくない。一瞬実家に帰ることも考えたが、実家はターフタウンにあるミツハニーの養蜂場で、今の時期はニャースの手を借りたいほど忙しいのだ。無職になったのをいいことにめちゃくちゃ働かされるに決まっている。嫌だ、絶対に嫌だ、ニートである自分を受け入れるわけではないがバンバドロの如く働きたいわけでもない。リストラ直後の私は肉体的にも精神的にも疲労していた。とにかく穏やかな、誰にも傷つけられないようなところでゆっくりと休みたかったのだ。

そう思って着の身着のまま訪ねた私を彼は快く迎え入れてくれた。しかももう10日も居座っているのに追い出すどころか3食おやつ付き。私のポケモンたちもマクワんちの床暖でぬくぬく。野生を忘れた私のアイアントが腹を見せて床暖の上に転がっている。可愛いけどその体勢やめなね、死にかけの虫みたいに見えちゃうからね。そんなひっくり返りアイアントにそっと毛布をかけるマクワ。いわタイプトレーナーなのに。むしタイプ使いじゃないのに。優しい。優しすぎる。神様?伝説のポケモンか?好きだ、結婚しよう。

そんな私ことニート、マクワが淹れてくれたエネココアをちびちび飲む。暖かくて甘くて美味しい。
「熱くないですか?」
「大丈夫、ありがとう。…………その、ありがとうっていうのは、このエネココアのことだけじゃなくて、色々と……」
「気にしないでください。僕が好きでしてることです」
その言葉にマグカップを持ったまま小さくなる。
有難い、嬉しい、……申し訳ない。
そんな私の心情を察してか、マクワは苦笑する。
「ここ数年、忙しくてゆっくり話もできなかったでしょう?この機会に一緒に過ごせてよかったですよ。それに帰った時に家に誰かがいるというだけで幸せな気持ちになりますから」
「うううぅ〜」
デンチュラの背中に顔を埋めて呻く。気遣いが出来るガラル紳士。決して淑女ではない私は照れ散らかす他ない。

「というか、名前、むしろあなたに遠慮される方が気持ち悪いです」
なにおう。
「ジムチャレンジの時、あなた何回僕のテントに潜り込んできたと思ってるんですか」
「言い方」
「そうでしょう。カレー食べに来たり、雨宿りしに来たり。ジムチャレンジの時はあなた、全然遠慮しなかったじゃないですか」
それは事実だけれども。
マクワと私はジムチャレンジのペースが似ていたから道中よく会ったのだ。当時から友達が少ない私は優しくしてくれるマクワにすぐ懐いた。彼はいつだって苦笑しながらも招き入れてくれる。それにマクワの作るカレーは美味しい。
「構いませんよ、付き合いも長いですし。それにあなたとこうやって一緒に居るのは好きです」
なんだかんだ言って、結局こうやって私を甘やかすのだ。何も返せずに黙り込む私。隣で笑みを浮かべるマクワ。
顔が熱い。それに妙に気恥ずかしい。せめて話題を変えようと私はローテーブルの上に転がっていたテレビのリモコンを手に取る。それから電源ボタンをぽちっとな。なんかこう、ちょうどよくいわタイプ特集とかやっててくんないかな、と一縷の望みをかけてテレビをつけた。

その瞬間。

『チャンピオン、名前選手まさかの敗北!連覇記録がここで打ち止められるーー!』

テレビの中に私が映っていた。

私が負けた瞬間が、私がチャンピオンでなくなった瞬間が、私が公衆の面前で何者でもなくなった瞬間が、あれからもう何日も経っているというのに世間はいまだに敗者を忘れてはいなかったらしい。

そこでようやく思い出す。マクワの家に転がり込んでから一度もテレビをつけなかった理由を。
反省のため見返す試合映像としてではなく、自分が敗北するただそれだけの瞬間がエンタメとして他者に消費されること。自分がその立ち位置になってようやく認識する。
なるほど、これは敗北に呻く心を打ち砕くに容易いものだ、と。

『予想外の大金星!チャンピオンを打ち倒したのは、なんと齢10歳、ハロンタウンのダンデ選手ーー!』

かつて私はガラルのチャンピオンだった。
ほんの2週間ほど前までは。けれどそれも今はもうかつての話だ。終わった話、済んだこと、あとの祭り。
チャンピオンでなくなった私はもうただの名前だ。

あの日の試合が、あの日からテレビで何度も流れる。当たり前だ。チャンピオンが敗北し、新たなチャンピオンが生まれたのだ。とっておきのビッグニュース。みんな楽しくて可笑しくて面白くてたまらないだろう。
まだ年若く、美しく、強いチャンピオンの誕生。
知っている、識っている、報っている。
戦ったのだから。他でも無い私があの少年と戦ったのだ。
正面から向き合い、見据え、己の持つ力を本気でぶつけあった。それ故に、あの少年の強さを今この世界で私以上に知っている者はいない。

今も覚えている。忘れられるはずもない。
ギリギリのバトル。一進一退の攻防。一瞬でも気を緩めれば瓦解するとわかっていた。油断のできない時間。釣り上がる口角。楽しそうな私のポケモンたち!

そしてそんな激しい戦いの果て。リザードンの『キョダイゴクエン』を受けて崩れ落ちるように失墜する私のバタフリー。それが見開いた瞳に映った瞬間、私はこの楽しくて堪らない時間がとうに終わってしまっていたことに気がついた。
頼れる相棒のか弱い鳴き声、頬を撫でる熱風、スローモーションになる五感。
世界から音は消え、あらゆる感覚は引き伸ばされ、世界から置き去りにされるあの瞬間を。
私を見据える少年のまだ短い紫の髪が熱を帯びた突風に揺れ、しかし瞳はまっすぐ前を見据えたまま爛々と輝いていたこと。その目に射抜かれた時、私はもはや両の脚で立つことさえままならなかった。
崩れ落ちるようにスタジアムの芝生に膝をついたのはこれまでの人生で初めてのことだった。

その瞬間の割れるような歓声、叫ぶような実況の声、大きく吼えたあの子のリザードン。

私がダンデ少年に敗北した瞬間。
チャンピオンでなくなった瞬間。
公衆の面前で無職になった瞬間。

忘れていない。忘れられるはずもない。脳裏に焼き付いて離れないあの日の記憶。
何もかもが過ぎ去って、夜は何度も過ぎた。
ダンデ少年は周囲の大人たちに支えられながらも新しいチャンピオンとして様々なメディアに出演、その愛らしくも頼もしい笑顔を見せている。
果たして私はというと友人宅のソファを占拠してニート生活。
……うーん、この差。勝者と敗者の差だけではない気がする。例えば人間性とか品性とかそういうの。

なんて事を考えているうちに、テレビのコメンテーターたちはあの日の私とダンデ少年の試合を口々に評し始める。
しかし、その時の私には、リモコンのボタンを押そうという思考回路がすっかり欠けていた。故に、他人の言葉が逆らえぬ濁流のように鼓膜へ流れ込んでくる。

『激闘のリーグバトルから2週間が経ちました。世間は若き新チャンピオンの誕生を祝福しています』
誰かが言う。
『勢いがありながらも冷静な技運びがダンデ選手の勝利の一因と言えるでしょう』
誰かが言う。
『幅広いタイプのポケモンをしっかりと育てている点も評価できますね』
誰かが言う。
『前チャンピオンである名前選手はむしタイプのポケモンに強いこだわりがあったようですが』
誰かが言う。
『タイプへのこだわりは強みよりも弱点の露見というデメリットの方が大きいでしょう』
誰かが言う。
『ジムリーダーならまだしもチャンピオンがタイプにこだわる前例はそう多くありません』
誰かが言う。
『チャンピオンとはこの地方の代表者でもあります』
誰かが言う。
『ガラル地方の代表者としてはもっと幅広いタイプや戦術が必要だったのではないかという意見の専門家もいます』
誰かが言う。
『まして、むしタイプは弱点の多いタイプですし』
誰かが言う。
『名前選手の切り札であるバタフリーなど弱点タイプがなんと5タイプもありーー』
誰かが、

ぱちん。

『みなさーん、アローラ!私は今、観光地として有名なアローラ地方へ来ています!自然豊かなアローラ地方では他の地方にはいない固有のポケモンたちが数多く生息しています!』

瞬きした一瞬の間に、チャンネルが変わっていた。
難しい顔をした人たちが顔を突き合わせる情報番組から、きらきらと輝く海が眩しい旅行番組へ。
私が持っていたはずのリモコンはいつのまにか姿を消し、気がつくとそれはマクワの手の中にあった。黙り込むマクワの横顔を見つめて、けれど何も言えずに私も黙って視線を正面に戻してテレビを見つめる。

テレビの中のリポーターはテレビの向こうにいる私たちの微妙な雰囲気など知りもしない。明るい声音で色彩鮮やかなアローラの街を紹介して歩く。
気を、遣われてしまった。それに気がつかないほど鈍感ではなかった。
2人で黙り込みながらテレビを見つめていた。静かにじっと見ていた、けれど、心はそこになかった。私だけでなく、多分隣にいるマクワもそうだったのだろうと思う。

「僕、キルクス出身なので暖かい街に憧れがあるんですよ」
「……そうなんだ」
「ええ。暖かそうでいいですね、アローラ」
「うん」
「……」
「…………私はわりかしあったかいターフタウン出身で」
「そうですね」
「家が、実家が養蜂場だからミツハニーがたくさんいて」
「はい」
「あまいみつにつられてむしポケモンがたくさん家に来て」
「ええ」
「その子たちと仲良くなったんだ」
「…………」
「その子たちと旅に出て、いろんなところに行きたかっただけなんだよ」
ただそれだけのこと。その未来の延長線上に私はガラルリーグのチャンピオンになって、その果て、ついに敗北して何者でもなくなった。

バトルで負けたことは悔しかったが、それは決して悲しむべきことではなかった。むしろ強いトレーナーと全力で戦うことができた。だからあの試合はものすごく、とてつもなく、永遠を願うほどに楽しくて仕方なかったのだ。
それにダンデ少年とは彼がジムチャレンジしている頃から少しばかり交流があって、見所のあるトレーナーだとわかっていたこともある。もしも私を打ち倒す勇士が現れるのならば、それはきっと彼だろうと。

だから彼へ向ける感情は全力で戦ってくれたことへの感謝と、彼が新しい世界へ歩みを進めることへの祝福だけだ。下世話な週刊誌の書いた『妬んでいる』『怨んでいる』だなんてくだらない。トレーナーにとって勝ち負けとはそういう次元の話ではないのだ。

「いつだって、コートの『外側』にいる人たちは好き勝手な事を言いますから」
マクワが言った。彼のその少し不貞腐れたような顔に、変な話だが安堵する。些細な仲間意識。人前に立つトレーナーなら案外誰でも似た経験があるのかもしれない。

「トレーナーならみんな憧れますよ。あんなに楽しそうなバトル」
きっと見ていた誰もがあの場に立ちたいと思いましたよ。彼の穏やかな言葉が鼓膜を揺らした。
「……そうかな?」
「少なくとも僕は」
マクワはこちらを見て微笑む。私の親友であり、信頼するトレーナーであり、ライバルのマクワがそう言ってくれた。それだけでどうしてか、無性にホッとする。
「……アリガトウゴザイマス」
「あなたって意外と照れ屋さんですよね」
そういうのは放っておいてほしい。



まあ、それはそれとして、無職。

さて、これからどうするべきか。これまでも何か目標があってチャンピオンをしていたわけでもないのだが、チャンピオンだった頃は望まなくてもバトルやら取材やらワイルドエリアの巡回やらと様々な仕事がやってきた。
しかし今は無職。仕事がない。やることがない。やりたいことがあるわけでもない。将来への展望が無。

「でもあなたほどのトレーナーですよ?リーグ委員会から何かしら次の職の斡旋とか仕事の依頼とかが来ているんじゃないですか?」
「過剰評価だな、マクワは」
思わず肩をすくめる。
実際そんな話は来てない。それにどうやら世間からしたら無駄にタイプにこだわる弱々チャンピオンという評価のようだし。
「拗ねないでください」
別に拗ねてない。

いくらマクワが優しいとはいえいつまでもマクワんちにお世話になるわけにもいかないし。どうしようかねぇ。デンチュラの体をもしゃもしゃ撫でながらテレビを眺める。ヂュュュュと気持ち良さそうなデンチュラの鳴き声が膝から聞こえる。

『ご覧ください!あちらの草むらにいるのがカリキリ。カリキリはアローラにのみ生息するポケモンなんです』
かわいいな、あの子。見た目的にむしポケモンかな。しかし私のむしポケモンレーダーが反応しないのは何故だろう。画面越しだからだろうか。

テレビが写す青い空、広い海、ガラルにはいないポケモンたち。綺麗な自然、その中で人々がポケモンと共存する島。ガラルとは異なる文化。
テレビの中ではガーディくらいのサイズのいぬポケモンが観光客の足元にじゃれついている。
『こちらの人懐っこく可愛らしいポケモンはイワンコ。こちらもアローラに生息するポケモンです。ノーマルタイプやフェアリータイプを思わせる可愛らしい外見ですが、実はいわタイプなんですよ』
隣のマクワが身を乗り出した。
わかる、他の地方にいる専門タイプポケモン、気になるよな。

眺めているうちにぼんやりと憧れの感情が胸の内に浮かび上がってくる。
思えばこれまでの人生で一度もガラルの外に出たことはなかった。
すっかり頭になかったけれど、世界はガラルだけで出来ているわけではない。行こうと思えばどこにでもいけるんだと、そんな当たり前の事を思い出す。

「……どっか、行った事ないところに行ってみようかと思った、今」
「他の地方とかにですか?」
「うん」
「いいと思いますよ」
「そう思う?」
「ええ、とっても」
「……素敵ないわポケモンがいたら写真送るよ」
「ありがとうございます。楽しみにしていますね」
ちょろいのでちょっと肯定されるだけでその気になってしまった。

じゃあ行っちゃおっかな!アローラ!
いやでも観光地アローラか……。新婚旅行先として選ばれることも多いアローラに1人で行くのはどう……どうなんだろう……いや行きたければ行けばいいんだが。1人では行きたくないな……誰かと行くから楽しい場所っぽいだし。でも一緒に行く人いないな……。友達、少ないから……。
そんな悲しい理由により、アローラ以外の地方を後で調べることにした。少しだけ縁のあるカントー・ジョウト地方に行こうかな。ホウエンもいいな。ああ、シンオウのむしポケモンも気になるんだよな。でも観光するなら街並みの綺麗なカロス?
どこにだって行けそうだ。

そうやって2人、のんびりとテレビを眺めているうちに1日が過ぎていく。気がつくともう夕方。ニートだろうかなんだろうが容赦なく時間が過ぎていく。時間の流れは恐ろしい。いやほんとに。

「そろそろ夕食の準備をしましょうか。今日は名前の好きな甘口カレーですよ」
「わーい!マクワ大好き!よし、もう私たち結婚しようか」
両手を上げて喜ぶ。いや、言ってる場合か?タダ飯食らいの居候なんだから夕食くらいお前が作れという話である。
はいはいマクワの手伝いするからちょっと退いてもらっていいかなと、ぐぬぐぬイビキをかくデンチュラを抱き上げようとした、その時。

「……僕もそろそろだと思っていました」
「へ?」
デンチュラにふれていた掌をさらりと取られ、私の両手は抵抗する間も無くマクワに握られる。私のものより厚みのあるマクワの掌にそっと包み込まれて、微かに驚く。
けれど私を見つめる彼の目がひどく穏やかで優しいものであったから、戸惑いは容易く姿を消した。

「僕たち、交際を始めてもう随分経つでしょう?僕もそろそろ結婚を考えてもいい頃だと思っていました」

…………え?
私たちって付き合ってるの?

そう言いかけた言葉を飲み込んで、ギギギと微笑む。
マクワの頭の上でのんびりしていたバタフリーが「は?どういうことだオイ聞いてねぇぞ?」という目で私を見てくるが、いや、ちょっと待ってほしい。私も何もわかってない。ちょっとたんま、シンキングタイム。

……長年の親友だと思っていたら恋人だった。
何を言っているのかわからないと思うが私もわからない。大いなる誤解が随分前から生まれていたらしい。いや、まって、そんな関係性、認知した記憶がないのですが……。
しかし目の前のマクワは幸せそうに口元を緩めて、私を見つめている。驚いたことに今日はエイプリルフールじゃない。そもそもエイプリルフールでもマクワはそんな人を困らせるような嘘はつかない人だ。もし嘘つくとしてもツボツボが空飛んだとかそんな感じだろ。可愛い嘘だなおい。つまり、マクワの中で私たちの関係性は本当に恋人であるらしい。
んんーーーー、……ちょっとまってね。

「……マクワ」
「はい」
「私たちが付き合い始めた時のこと、今でも覚えてる?」
大変申し訳ないが本当に残念なことに私は覚えていないどころか全然知らないのでうまく質問し、誘導して現状を探ることにした。頑張れ私。マクワを傷つけたいわけじゃないのだ。
私のそんな質問にマクワはふにゃりと微笑んで「もちろん」とうなづく。笑顔が可愛い。知ってた。

「一緒にジムチャレンジをしていた時ですよね。ワイルドエリア内でキャンプをしていた時、僕が作ったカレーを食べて喜んでくれたあなたが「付き合おう」って言ってくれたこと、今でも覚えていますよ」
あの時のあなたの真剣な目を今でも思い出せます、と本当に嬉しそうに話してくれるマクワに凄まじい罪悪感。

今、背中の冷や汗が凄い。あったかくてぬくぬくのマクワの家なのにすごく背筋が冷えている。バタフリーからの目線も痛い。『れいとうビーム』かってくらい冷たい目線だ。わざレコードでも覚えられないよな、相棒。

マクワは、おそらく当時の私がフワンテより軽い気持ちでのたまった発言を本気にしてくれていたようだ。昔の私はきっとさっきマクワに言った「結婚しよう」くらいのジョークのつもりで言っていたに違いない。うわ……最低……。
これはもう10対0の問答無用で私が100%悪い。マクワという超絶善人優しさの塊ファンサの鬼に対してこの仕打ち。詐欺より最低。ジュンサーさん私です。いやほんとになんてことしてくれやがってるんだかつての私は。今すぐ氷点下の海に沈んでしまいたい。今から9番道路南下してきていいかな?

……どうしよう。
いや、どうしようじゃなくて。どうしたいんだろう、私は。伝えなくてはならないこと、伝えたいこと、本当のこと。それらが頭の中でぐるぐる回る。

当時言った「付き合おう」はジョークでした。全部嘘です。まさか本気にするとは思いませんでした。ごめんなさい。
……なんて、言えるはずもない。

それに、なんというか、こんな事を言うもの非常に都合が良すぎるとわかっているのだが。

私の手を握ったままマクワは変わらず優しく微笑むから、言葉が容易く力を失う。言葉など尽くさずともマクワが抱いている感情がありありと伝わってきた。
「実はあなたがそう言ってくれる前から、僕もあなたのことが好きだったんです。でも、なかなか伝えることができなくて。そんな時にあなたが真っ直ぐに気持ちを伝えてくれたから、僕はそれが本当に嬉しかったんですよ」

その言葉を聞いて、むしろ私の方が嬉しかった。

穏やかな笑みを私に向けてくれることが、好きだと伝えてくれたことが、手を握ってくれたことが。今この瞬間だけじゃない。
今までもずっとそばにいて、私という存在を受け入れてくれたこれまでの時間、全て。

……ああ、好きだ。好きなんだ。私もマクワのことが好きだ。
それを認識した瞬間に大切だと充分に知っていた全ての感情、その全てがより貴く愛おしいものになる。それはまるで、長い時間を経てサナギが蝶へ羽化するように。

「好きです。あなたのことがなによりも大切なんです」
そう言って、花がほころぶ様に彼が微笑むから。

握られていた手を抜いて、むしろ私がマクワの掌を包み込む。ぎゅっと手を握って、その蒼天のような瞳を見つめ返した。
「付き合ってます。私とマクワは付き合ってます」
「え?ええ。はい、そうですよ?」
「付き合ってるし、これから結婚もします。する。誰が何と言おうと絶対に結婚してやるからな……!」
「はい!しましょうね!」
笑顔が可愛い。いや付き合ってたわ。私たちずっと前から付き合ってた。そんな気がしてきた。

こみ上げる愛おしさにぎゅっと手を握る。
途端、突進する勢いでびゅっと飛んできた相棒であるバタフリーに頭をガシガシと何度も蹴られた。痛い。いや、言いたいことはわかる。わかってるよ相棒。都合が良すぎやしないか、って言いたいのだろう。

しかし今しがた自覚したが私もマクワが好きだ。大好きだ。
元々は親友として、ライバルとしての『大切』という感情だった。その感情に恋人としての感情が追加されるだけだ。彼を大切にする。その気持ちはこれまでもこれからも変わりはしない。今まで彼が私に向けてくれた優しさを全て、いやそれ以上のものを私の人生すべてをかけて返そう。

「……あの、ところで名前。その、頭は大丈夫ですか?バタフリーがものすごくあなたの頭に噛み付いてますが……」
「大丈夫。この子『かみくだく』を覚えてるだけから」
「そんなバタフリーいます?」
前述したように私のバタフリーはものすごくマクワのことが好きだ。大好きだ。多分トレーナーとしてではなくただの人間としてなら私よりマクワの方が好きなんじゃないだろうかというくらい好きだ。
それ故に大好きなマクワが何処の馬の骨がわからない私と付き合ったり結婚したりしそうなのが単純にめちゃくちゃムカつくのだろう。私の手持ちなのに全然私の恋路を応援してくれない。マジそういうところだぜ、相棒。痛いぜ、相棒。

しかしバタフリーが何と言おうと転がってきたこのチャンス、掴まない理由がない。

明日、出かけよう。無職は覚悟した。
いつまでも引きこもってはいられないのだ。ソファを捨て、町へ出よう。マクワの家から出る。そして指輪を買おう。今まで忙しくてたまる一方だった口座の金を下ろして、えーっと給料3年分だっけ?相場とかよくわからないがとりあえず買いに行こう。

「好きだよ、マクワ」
バタフリーのかみつきに一段と力が入ったが、マクワが嬉しそうに笑ってくれたから、それでよかった。





「どこに行くか、決まりましたか?」
夕食の最中にそう尋ねられた。
明日指輪を買いに行くよ、と口にしかけて、それは内緒のことだと思い出し、慌てて口を閉じる。少し考えて、他の地方に行く話のことだと合点がいった。

「ガラルにいないむしタイプが多いって聞くカントーとかジョウトに行ってみようかなって思ってるんだけど、」
「だけど?」
「……行っていいの?」
私の問いかけに今度はマクワが首をかしげる番だった。カレーを掬ったスプーンが中途半端な位置で止まる。

「行くのを迷ってるんですか?」
「というか、その、……結婚するんでしょ?私たち」
ぼそぼそと早口で言った言葉はテーブルの向こう側のマクワだけでなく、バタフリーにも聞こえてしまったらしい。結婚という言葉にバタフリーが一早く反応し、ポケモンたちが並んでご飯を食べてる場所からこちらへ鋭い目線が向けられる。相棒……。

「ああ、これから結婚するのに一人で遠くに出かけていいのか、という話ですね」
ざっくりといえば、そういうことだ。結婚したのに伴侶を置いてすぐ知らない土地に行ってしまうというのもどうなのだろう。
「なにも構いませんよ」
けれどマクワはそれをあっさりと肯定した。
「あ、いいんだ……」
「見聞を広めるのは良いことだと思いますし」
それに、と彼は続けた。

「指先に止まった蝶を虫かごに入れる趣味はないんです」
蝶は自由に飛んでこそ、でしょう?

……どうしてガラル紳士というのはそういう歯の浮きそうなセリフをさらりと言うんだろう。そしてそれがなんでめちゃくちゃ似合うのだろう。
「……ア、アリガトウゴザイマスゥ」
「照れてるんですか?」
「て、照れてない」
「顔が赤いですよ」
「カ、カレー食べてるから」
その微笑ましいものを見る目はやめてほしい。

そんなわけで私は1年ほどガラルを離れることにした。
マクワも「来期のリーグで母さ……あの人をボコボコにします!再来期からキルクスはいわジムですよ!」と張り切っている。可愛い。頑張ってほしい。
私が帰るまで、そしてマクワがジムリーダーになるまで、私たちの関係性は婚約者ということになる。フィアンセというやつだ。照れる。それに伴って互いの両親への挨拶も来年以降にしようと話がまとまった。
マクワのご母堂であるメロンさんとはジムチャレンジの頃から交流があり、チャンピオンの時にも大変お世話になっているので顔見知りというか、たまにランチビッフェとか行く仲なのだが果たして私とマクワの関係を知っていたのだろうか?わからない。まあ私も、私とマクワの関係を知ったのが今日だからなあ。


未来に約束を置いておく。いつかそれが現在になるまで、そして過去になるまで。
変わらずそばにいられたらいいと、今はただそれを願っている。


……さて、ちなみにネタバレになるが、1年後、私たちは結婚できない。
なぜなら私はとあるトラブルに巻き込まれてガラルに帰れなくなり、マクワはメロンさんにボコボコにされてまだジムリーダーになれないからだ。私たち、かわいそう……。
そんなこんなですったもんだの果て、さらに数年後にようやく私たちは結婚するのだが、それはまた別の話だ。

さらにネタバレになるが、明日、私は指輪を買えない。
なぜならシュートシティまで指輪を買いに行ったはいいものの、マクワの指のサイズがわからず、結局なにも買わずにすごすごマクワんちに帰ったからだ。「サイズがわからないとちょっと……」と言った店員さんの愛想笑いが辛かった。
一緒についてきてくれたバタフリーにはゴミを見る目で靴に唾を吐きかけられ、キルクスにあるマクワの家に帰ったら足元で寝ていたアイアントにつまづいて転んだ。フローリングに膝を強打した私は、指輪を買えなかったことを思い出して、少し、泣いた。


(2020.5.13)
こちらの作品群はPixivにも掲載しています。