潮の香が体に纏わりつく。沖からやってくる風は流れていくこともなく、衣服に身を寄せては離れることもない。
人気のないがらんどうの砂浜でたった一人、名前だけが波と戯れていた。楽しそう、なのかどうかはよくわからない。潮風を嫌い、海から離れたアスファルトの道路まで逃げた大倶利伽羅には遠すぎて彼女の表情は読めない。
水を好まない刀剣をよくもこんなところに連れてきてくれたな、と抱きかかえるようにして己の本体である刀を潮風から守り、自分をほったらかして波を蹴る名前を睨んだ。
◇ ◇ ◇
「上司が有給を消費しろと煩い。そういうわけで今晩から明日の夜まで有給を取って現世に帰る。護衛には大倶利伽羅を連れていく。まあそんなわけで明日は一日全員臨時休暇とする。好きに過ごせ。後、大倶利伽羅は朝餉後で執務室まで来い。以上だ。」
名前がそう言ったのは昨日の朝。彼女の起き抜けにだった。
やれ、飯はまだかとその日の飯当番をせっついて賑わっていた大広間が一瞬で水を打ったように静まり返ったのを今でもありありと思い出せる。
かこん、と庭の鹿威しの音が響き、息も感じぬほど静かだった屋敷だったが、それも一瞬のこと。突然すぎる主の言葉に屋敷の刀剣たちは一気に騒がしくなった。
その中で刀剣たちは主に二つの派閥に分かれた。
一つは、主もずっと働き詰めだったし、たまにはゆっくり休んでおいでよっていうか休み一日じゃ足りなくない?という穏便派。主に燭台切光忠やにっかり青江、蜂須賀虎徹などがこの派閥だった。
もう一つは、主が休むのはわかるよ!けどなんで護衛が大倶利伽羅な訳?俺にしてよ!という過激派。加州清光やへし切長谷部がそれだった。
加州はまだいい。主である名前に「なんで俺を連れてってくれないの!」としがみついてる分大倶利伽羅のほうには一切被害が無いからだ。
問題は長谷部。主のことづけを聞いた瞬間から、今にも抜刀しそうな血走った目で大倶利伽羅を睨んできた。そんな目で見られても、大倶利伽羅自身護衛だとか有給だとかそんな話を聞いたのは今この瞬間が初めてであったし、誰よりも主になんで俺がそんな面倒なことをしなくてはならないのかと詰め寄りたいのはほかでもない彼だった。
結局不満がある連中を諌めたのは主であったし、大倶利伽羅を選んだのは「我が本丸で一番錬度が高いから」という実用一遍な理由からであるらしかった。
ひと悶着あったが最終的には、主が決めたことであるから、という理由で満場一致した。執務室に向かう途中で長谷部に「主に傷一つでもつけようものなら圧し切る」と宣誓された程度の気苦労で終わったのはまだ運が良いほうだったのだろうと大倶利伽羅は思う。
嫌な事件だったね、とばかりにそんなことを思い返して胃を痛めていると、海遊びに飽きたのか名前が大倶利伽羅のほうに向かってやってくるのが見えた。
女袴によく似た現代風の衣装(ろんぐすかあと、などと言っていた)の裾を濡れないように持ち上げて名前は砂浜を横断する。女人が無暗に肌をさらすものではないと歌仙や蜻蛉切が頬を赤らめて言っていたのは初めの内だけだった。そのうち名前の女らしくない態度が当たり前になって、やがて誰も何も言わなくなった。言わなくなっただけで何も思わなくなったわけではないのだろうと思う。自分もそのうちの一人だ。警戒心がないのは好都合であり、それと同時に不都合だらけでもあった。
「お前なんか嫌いだ」
呟いた声は彼女には遠く、漣が掻き消して、呟いた大倶利伽羅自身の耳にすら届かなかった。
「波で膝までびっちょびちょだよ。大倶利伽羅、腰巻貸してくれ」
「ふざけるな。何に使う気だ、近寄るな」
ふらふらとアスファルトの地面まで上がってきた名前は退屈そうだった大倶利伽羅ににやにやと笑いながら絡む。
そらそらと執拗に付き纏う名前を手刀で一閃したあたりでふざけあいは終わった。名前は大倶利伽羅の横に座り込んで、やがて煙草に火をつけた。
その先端の時折瞬く赤い光に目が眩む。
火は嫌いだ。水と同じぐらい。或はそれ以上に。
赤い光がね、熱くて、恐ろしくて、と眠れない夜に笑って語った旧友を思い出す。
自分は炎や水から生まれたというのに、それらを恐れるなんて、なんて矛盾だろうと笑いたくもなる。けれどもそれは本能的な恐れで、それらの恐ろしさを知っているからこそそんなものには殺されたくないと思う。己の死に場所は自分で決める。その傲慢で我儘な願いを主には既に伝えている。主はそうか、と言った。ならば死に場所を選べるぐらい強くなるのだな、とも言った。
「退屈だ」
名前が言った。
興味がない、と無言を貫く大倶利伽羅の耳元で名前が再び言った。
「退屈だ!」
「知るか!」
喧しい、と頭を叩くと小気味の良い音がした。
「現世のことなど知らん。アンタが行きたいところに行けばいい」
「その行きたいところが無いからこうして別に興味も無い海なんかに来てるんだよ」
「知ったことか。実家にでも帰ればいいだろ」
「家には審神者なる前に勘当された」
「それこそ知ったことか」
見ることもできない彼女の過去など知ったことではないのだ。けれどもそれにしたって破裂する風船のような言葉ばかりが口をついて本当に言いたいことも言わなくてはならないことも満足にいえない。
厄介な性質であるという自覚はある。それでもいいと思えていたのは昔までのことで、今は兎に角早急に名前に伝えるための言葉が必要だ。しかしそれを邪魔するのも自分自身であったから、大倶利伽羅にとっての最大の敵は温かい目で見守ってくる旧友でも、遠くからにやにやと笑う過去の同居人でも、殺意に限りなく近い敵意をぶつけてくる同僚でもなく、ただ一人、自分自身だけなのだった。
言ってしまえばいい。お前を好いていると。歯の浮くようなセリフを並べ立てて。
けれどもそんなものに意味はないのだ。言ったところで、伝えたところで、名前は人間で、大倶利伽羅は人のような姿をしているけれども一振りの刀で、どうしようもないほど二人の間には生命の溝があった。
大倶利伽羅が想いを伝えて、名前がそれにうなづいても、結局のところどうしようもないのだ。生きる時間も違えば、種族も違う。共にいられるのも敵を倒すという目的がある今だけ。そもそも決して出会うはずの存在が出会うだけで奇跡であるのに、それ以上のものを望むのは余りにも強欲過ぎた。
報われない恋をした。
叶わない愛を知った。
言葉にしても現実は変わらない。
けれどもなぜか、それを不幸なこととは思えないのだ。
短くなった煙草を捨てて海を眺める名前の横顔が手を伸ばせば届くほど近くにあって、たったそれだけのことで、いつかやってくる別れのときだって大丈夫な気がした。
「そんなに見つめられると穴が開いてしまうなあ」
そう言ってくすぐったそうに笑う姿がたまらなく胸を焦がしたから。
お前を守り切ったときが俺の死に場所だ、と今なら綿菓子のように柔らかで優しい言葉を吐ける気がしたのに。
「ふん、言ってろ」
己の心ほど、口は素直でないらしかった。
(2015.7.29)