その日、街が殺された。
私や彼やスクールの友人たちや近所の人たちやそういうごく普通の人たちがごく普通に暮らしていたハートランドは、よくわからないなにか恐ろしい侵略者たちによってあっという間に瓦礫の山となっていった。
崩れ落ちた建物や壊れた道路が目に入る。そのとき初めて私は私が暮らしていた綺麗な街並がコンクリートとか鉄筋とかそんな灰色のもので出来ていたことを知った。すべてが壊れてから、ようやくそんなことを知った。
何か起こっているのか何一つわからないまま、私と彼は美しいという形容詞を過去形にするしかなくなった街を走っていた。もう道なんてものはあってないようなもので、記憶にあるものとはもう随分変わってしまった。朝登校するときに通った商店街。友達とデュエルした公園。座学をサボって抜け出した土手。この街の中心にあったハートの塔。そんなものはみんなレゴブロックみたいに壊れてしまって、そんなものはじめから無かったみたいだ。
二人固く手を繋いで、恐ろしいものから必死になって逃げている。立ち止まればその瞬間に後ろから追ってくるその恐ろしい何かに飲み込まれてしまいそうで、上がっていく息と限界を訴える脚に鞭を打って必死に走った。
手を繋いで共に走る彼は何も言わない。何も言えない。私もそうだ。言葉が見つからない。ただつないだ手だけは離せなかった。さっきまでは遠くからは誰かの悲鳴や怒号が聞こえていた。けれども今はその声すらもう聞こえなくなって、世界中から自分と、手を繋いだ先にいるもうひとりしかいなくなってしまったような感覚に陥った。手を離してしまえばもう、本当に独りぼっちになってしまいそうなんだ。
「カ、イト」
荒れた呼吸の隙間を縫って、彼の名前を呼んだ。それ以外に何を言えばいいのかわからなかった。私を引っ張るようにして少し前を走るカイトは返事こそしなかったものの、私の言葉が届いた途端、それまでより強く私の手を握った。どんなときだってどんな相手にだってまっすぐに立ち向かう強さを持っている彼の、その手はすこし震えていた。
どこまで行けばいいのかなんて見当もつかなかった。進んでいる道が正しいのかどうかさえわからなかった。わからないことだらけでも、つないだ手だけは確かだった。
この世界で君と生きていくのだと思った。
この世界で君と死んでいくのだと思った。
それでもどうか、どうかこの手だけは。
「あっ」
瞬間。転がった瓦礫に足をとられる。スローモーションで崩れる体。先を進む彼が振りむいて、その目を大きく開いた。
繋がっていた手と手がちぎれるように離れる。
もう、元には戻れないのだと確信してしまった。
死んだ君といつまでも生きようと、
「!!」
そのとき、目を覚ました。
飛び起きるようにして上半身を起き上がらせる。
胸元までかかっていた毛布を拳が白くなるまで握りしめた。
破裂しそうなほどに鳴り続ける心臓の音。体中を流れる汗。過呼吸みたいに荒い息を必死に整えた。
広々としたベッドの上で足を抱えてうずくまる。ひどい、夢を見た。
心を落ち着かせようと、顔を右に向ければ、すやすやと眠るハルトとそのさらに隣にカイトが眠っている。
そうだ、彼らはちゃんとここにいる。
夢……か。
そうだ、全ては夢だ。ただの夢。
ハートランドは誰にも侵されていないし、私とカイトはスクールなんかに通っていない。通っていないのだから、二人して授業を抜け出してたことなんて一度もない。私たちが今いるのはハートの塔の中で、だからハートの塔は倒壊してなんかいない。私たちが守りたいハルトはちゃんと二人の間にいる。
そうだ、これが正しい私たちの世界だ。
わかっているのに、さっきまでの夢がチラついて、二人を起こさないようにそっとベッドから抜け出して、広々としたガラス窓から街を見下ろした。
夜なのにやけに明るい街は普段通りで、それを見てほっと胸を撫で下ろした。落ち着くと腰が抜けて、私はその場にへたり込むように座り込んだ。
「名前」
小さな声で私を呼んだのは、夢の中では私の名前を呼ばなかった彼だった。
振り返るとカイトは私のいる窓際にそっと近づいてきていた。私の隣に並ぶとカイトは「眠れないのか」とハルトを気遣って小さな声で私に囁いた。
「目が、冴えちゃってさ」
私も小声でそう返すとカイトは黙って私の右隣に腰を下ろした。そうして二人、愛しい街を見下ろした。
私が何も言わないままでいると、カイトは黙って彼の左手で私の右手を握った。
それは奇しくも、夢の中と同じだった。
けれども、夢の中とは違って、彼の手は震えてなんかいなかった。むしろ、震えているのは私のほうだった。
「名前」
こっちを見ろ、と言外に彼は伝えていた。
そのとおりに隣にに座る彼のほうへ向く。存外近いところに彼の顔が見えて、少しひるむが当の本人はまるで気にしていないようだった。
やがてカイトの色素の薄い唇がゆるりと開いて、低い声が私の鼓膜を震わせる。
「名前、お前は阿呆なくせにやけに臆病だ」
「えぇ……なにその急な罵倒……」
「聞け。いいか、お前は阿呆だ。デュエルもパワー型だし、伏せカードをまるで警戒しない。それに俺と揉めるとすぐに家出をしようとする。そのたびに凌牙たちの家に逃げ込むのはやめろ。迎えに行く俺の気持ちにもなれ。あとたまに公園で小中学生と本気の鬼ごっこするのは控えろ。いくつだお前は」
「カイト」
「それからできもしないのによく知りもしない料理をレシピも見ずに作ろうとするのはやめろ。失敗するたびに俺に泣きつくな。それからオービタルと口喧嘩して負けるのもやめろ。それぐらいで泣くな。あとオービタルの悪口を製作者の俺に言うな」
「あの、カイトさん」
「それだけ阿呆なくせに、こういうときに俺に泣きつかないのは何故だ」
「…………」
それまでの緩んでいた空気が、カイトのその言葉でピンと糸を張った。まっすぐにカイトは私の目を見て、私に語りかけた。
ぶっきらぼうで愛想のない声音。その奥にある優しさを私は知っているはずなのに。
「お前はわかりやすいのにわかりづらいんだ。何があったかは知らん。だが、それはお前が言葉にしなければ俺にはわからないままだ」
「……うん」
「無理に言えとは言わん。だが、お前がこんなときに何もできない無力な男でいさせてくれるな」
「……あのさ、カイト」
「なんだ」
「ほ、惚れそう……」
「ふざけるなよ名前貴様まさかいままで惚れてなかったとでもいうつもりか」
「ううん、言い直すね。惚れ直した」
「……ふん」
そっぽを向くカイトの頬を赤らんでいたのは気のせいだろうか。どうか勘違いさせてほしい。
カイトにこんなことを言わせてしまったことを申し訳ないと思いつつ、そう言ってくれたことが嬉しくてたまらなかった。
私は静かに、もう美しいとは思えなくなった月を見上げる。恐ればかりを抱く私は自らの影を怪しんで吼える犬と変わらない。犬は青白い幽霊のような不吉の月を恐れている。委ねてしまえば恐怖は消えるだろうか。
だとしても私は、死んだ君と生きようとは思わない。
君は生きていて、私も生きていて、そのほうが私にとっては幸せだからだ。
繋がれた体温以上に尊いものなどない気がしたから。
もう震える必要のない手で、彼の手を握り返す。朝になれば離れてしまうとしても、今だけ、もう少しだけ、このままでいて欲しい。暗い悪夢が私の後を追って来ないように。
(20160713)
谷川俊太郎 『きみ』
萩原朔太郎 『月に吼える』