「サンドイッチにトマトやレタスを挟む時はパンにマーガリンを塗ること。 さもないとパンが水分を吸ってべっちょべちょになります」
そう言ったのは名前だったな、と、福富はサンドイッチ用のパンにマーガリンを塗りながら思い出した。
あまり上手ではない絵まで描いて図解したのをよく覚えている。
その顔は試験の時ですら見せないほど真剣なもので、思わずこちらの背筋が伸びるほど。
食べることが好きな人はこだわりが多いことがよくある。
新開と名前がその例だった。
普段おおらかな分、食事面では妥協しないのだろう。
自分にとってのロードと同じだと思えば理解は早い。
福富が料理に対して関心が薄いこともあり、いつしかキッチンは名前のマイルーム同然になった。
別に福富が入っても怒ったり不機嫌になったりはしないのだが、彼の手によって美味しい食材が無残になるよりは、多少口やかましくても彼女が調理したほうが美味しいと福富は思っている。
つまり彼はまったく料理をしない。
しかし、名前はそんな福富に対して料理のコツやレシピをつらつらと語った。
食材の切り方はこうだ、出汁を入れるタイミングはああだ、などと饒舌に語っていたはずだが、ほとんど覚えていない。
話半分で聞いていたことを今更になって少し後悔する。
だから福富はチャーハンを作るとき、卵を先に入れるのか、ご飯を先に炒めるのかでしばしば悩んだりしてしまうのだ。
サンドイッチに入れるキュウリを斜め切りにする。
福富はわりとキュウリが好きだ。あのシャキシャキ感がいい。
ちなみに名前はサンドイッチの中のキュウリを嫌悪していた。
ピクルスはいいが、キュウリはダメらしい。よくわからない。
それでも福富の分のサンドイッチにはキュウリを入れてくれた。
そういう優しさが福富は好きだった。
ちょっとへたくそなスクランブルエッグをキュウリと一緒にサンドする。
前より料理が上手になった福富を名前はきっと褒めてくれるだろう。
包丁で指を切ることはもう無くなった。
色とりどりの野菜が真っ黒になることはもう無くなった。
少しずつ上達する腕を、けれども、彼は喜ぶことが難しかった。
出来ることならずっと、料理なんか下手くそのままでよかった。
名前が綺麗に掃除したキッチンを使う機会なんて一生無くてよかった。
料理の出来ない福富の代わりに、名前がずっと作ってくれていればよかったのだ。
彼女がいなくなったワンルームで福富は毎日食事を作る。
幸せなだったこの小さな部屋はある日を境に、時折彼の心を深く傷つけた。
悲しみの淵の沈むたびに、遠くへ引っ越してしまおうと考えながら、同じ部屋でカレンダーをもう3度も変えた。
だってずっと先だと思っていたのだ。
たくさん笑ってたくさん泣いて、飽きるほど彼女の料理を食べたら、その時ならきっと静かに受け入れられた。
言えなかった言葉と渡せなかった指輪が机の奥に隠れて、取り出すのにはたくさんの勇気が要る。
彼女の声も笑顔も寝相も変な癖だってちゃんと覚えているのに、幾つかの季節を巡るうちにこの部屋から彼女の残り香が消えていくような気がした。
そんなふうにして、いつか名前の作った料理の味もわすれてしまうのだろうか。
その前にもう一度だけ彼女の料理が食べれたらいいのに。
叶わない淡い願いを抱えながら、今日もまた美味しい匂いが部屋を満たしていく。
(2014.9.21)