なぜ人は結婚するのか、ということについて、並行する思考の一つを使って宗谷はふと考えるに至った。
将棋盤から目を上げて、庭先に視線を向けるとそこには名前がいる。
脱稿した、当分はゆっくりできる、と目の下にクマを拵えながら笑ったのが昨日のことだ。
結婚の理由。
経済的基盤を保つため。
人生における孤独を埋めるため。
社会的な立場を得るため。
経済的基盤は、宗谷には既にある。棋士として戦うことが彼のとっての人生であり、それはそのまま収入になり、また同時に社会的地位の確保になる。
無論そんなことを考えながら将棋を指したことなど一度としてないのだが。
人生における孤独について考えてみる。
自分は結婚していない。していないが、だからといって孤独を感じたことはあまり無い。
将棋盤の前に座れば、その向かい側に誰かが必ず来てくれる。
言葉を交わすよりよほど深い繋がり。
そこにいて孤独を感じる暇などない。
そして宗谷の帰る場所はここにある。
祖母がいて、名前がいる。
ここは穏やかに守られ続けている。
平穏に心が守られ、存在を肯定される。
結論として、自分に結婚は必要ないようだ。
白いシーツを風に任せるようにして広げる名前から目を離し、再び将棋盤に目を向け、研究を続ける。
……だが並列思考は戻らない。
まだ何かに引っかかっている。
結論はどこか危うい。
再び顔を上げて名前を見やると、彼女は上着をハンガーに掛けている。こちらからは名前の背中しか見えない。
当然のことではあるのだが、結婚をし、結婚をしている間は他の人と結婚をすることはできない。
無論法外の方法はあるのだろうが、一般的に既婚者は離婚するまで再婚できない。
結婚とは書類上の拘束だ。
結婚している間は、誰かに取られることは無い。
少なくとも書類上は。
宗谷の思考は回る。
自分は結婚せずとも問題は無い。
だが、名前はどうだろう。
もしも名前が自分ではない誰かと結婚したら、きっと名前はここを出ていく。
自分と食事をとることは滅多に無くなるし、うたた寝する自分に毛布を掛けることは無くなるだろう。駅まで車を出してくれることも、眠る前に部屋の電気を消してくれることもなくなる。
当然だ。名前が他の人と結婚したら共に暮らせなくなるのだから。
……それは良くない。
それは自分の孤独が深まることだ。将棋盤の向こうにいる誰かにも、祖母にも、名前の代わりは務まらない。
この生活から名前という存在をぽっかりと失ってしまったら、その替えはどこにも無い。
大変なことに気がついてしまった。
全ての思考がその事実に向かい合う。
宗谷は多くのことを望みはしないが、だからといって全て全てを手放せるような人間であるわけでもない。
「名前」
呼んでみる。
「んー、どうしたー?」
バスタオルを物干し竿に掛けた後、ゆっくりと名前がこちらを振り返る。いつもの光景。
「明後日、東京に行くんだけど」
「うん、試合だっけね。駅まで送ってこーか?」
「できれば応援に来て欲しい」
そういうと名前は「応援ー?東京までー?」とおどけたようにからからと笑った。
今更そんなものがなくても戦えるでしょう、とそんな意味合いが籠っているのがわかった。
「んー、ん、まあ、どうせ仕事も落ち着いたし、別に全然いいけどさ」
どしたのさ、急に。
そう尋ねる声になんと答えたらいいものかわからなくて、口を僅かに開いたり閉じたりして、それから結局、なんとなく、とだけ答える。
名前が誰かと結婚したら、もう応援にも来てくれないのだろうか。
「ま、たまにはそんなのもいいさ。どうせなら試合終わった後にでも、ゆっくりご飯食べに行こうや」
穏やかに間延びした声音で、名前は縁側に座ってググッと真上に伸びをした。洗濯物干しはもう終わったらしい。
遠く鳥の囀りが聞こえる、暖かな午前。
「いい天気だね」
「そーね、洗濯物もすぐ乾きそうだわ」
「鳥の声も聞こえる」
「お、ホントだ。もう春かぁ。年取ると時間経つのが早いわ」
「……名前はさ、」
「うん?」
……なんと言うべきか、わからなくなった。
なんでも無い、と終わらせるのは簡単だ。きっと名前も深くは追求しない。
けれど、それでよかったのはこれまでだ。
名前の本を読んで、名前の苦悩を間近で見て、自分が本当は何もわかっていなかったことに気がついた。
ただ黙って、そばにいるだけなら誰にだってできる。
ただそれだけのことが救いになることだってわかっている。
けれど、けれど今は、少なくとも今は、名前に何か言わなきゃと思うこの気持ちを大切にしなければならないように思えるのだ。
言葉を紡ごうとして、うまく形作れない宗谷を名前は静かに待ち続けた。
喧騒は遠く、ただ吹き抜ける風が洗濯物とレースのカーテンをふわりと揺らした。
宗谷の気持ちがどうしてか、痛いほどに理解できたから名前は静かに待ち続ける。
例え何年経とうとも、待ち続けられるような気がした。
不意に、強い風が吹き抜ける。
春を告げたのかもしれない。
名前の肩より伸びた髪が悪戯に巻き上げられて反射的に目を瞑る。
「明後日より先も、名前といたい」
風が連れて来た言葉が、優しく心に触れた。
目を開くと、そこには宗谷がいた。
いつもの光景だった。
「できることなら、ずっと」
彼の薄い唇がそう紡いでみせる。
窓から差し込む太陽の光が、部屋の畳と、将棋盤と、宗谷を照らして、キラキラと瞬いた。
名前は爪先に引っかかっていただけのサンダルをストンと地面に落としてしまうと、膝を擦るようにして縁側から部屋の中へ、宗谷の近くへ寄った。
慣れ親しんだ古い家の独特の香りに胸が満たされて、たまらなくなる。
それから、宗谷の横へ辿り着く。畳の上に置かれた彼の手をそっと握ってみる。
その指先は冷たくて、掌は温かくて、それだけが、それだけで嬉しかった。
「……うん」
うなづく。薄いガラス越しの優しい眼差しと向かい合う。
「私も、おんなじこと考えてたよ」
ふれていた手を、強く握られる。
サラサラと乾いた掌は私のものより僅かに大きく、思っていたよりずっと力強い。
そうして今更になって彼の男性らしい部分を認識した途端、恥ずかしくなる。
慣れないことをしてしまった。
赤面してしまいそうになるからもう離してほしいけれど、それはそれで勿体無いような気もして、どうしたらいいのかわからなくなって顔を隠すように俯く。
「名前?」
わざと俯いているんだから、覗き込まないでほしい。
そんな私の心を知ってか知らずか宗谷は「顔赤いよ」と笑った。
「……ばーか、お互いさまだっての」
涼しいはずの部屋なのに、どうしてか宗谷の頬もお揃いに赤く染まっていた。
(2017.3.20)