07 再会

−−−夢を、見ていたようだ。

目尻から涙が溢れた。まるで沸騰した血潮がそのまま目から流れ出たような雫の熱さに目を覚ます。頬を伝う感触と濡れた目元を拳の甲で強く拭って、それから瞼を開いた。

「………………?」
そうして目に飛び込んできた見慣れない天井に、一拍おいてから困惑する。
ここ1ヶ月ほどで慣れきってしまった病室の天井ではなかった。まして私の住んでいたワンルームアパートの天井では当然ない。
暗い天井。この部屋自体、照明が絞られていて薄暗いようだ。と、そこまで思考が至って、そもそもここは何処なのだろう、とようやくそんなことを考えた。あまりにも遅い。
我ながら危機感がまるで足りないな……と、体を起き上がらせて、私はようやく自分がソファの上で眠っていたことに気がついた。家に置かれるようなソファというよりかは、飲食店にある壁際のテーブル席のようなソファ。

壁に手をついて起き上がり、周囲を見回して、
「あ、起きた」

人がいた。


この世界に迷い込んでからというもの、もはや何があってもおかしくはないとわかっていた。所謂「ありえないなんてことはありえない」というやつだ。
だから真っ黒い霧のような人間がいても、身体中に掌を付けている人間がいても、まあそういう人もいるんだろうな、と思えた。

見回したこの部屋は何処かのバーらしい。私が寝ていたソファ席がこのバーの最も奥で、入り口近くにはカウンターがある。そのカウンターの中に黒い霧みたいな人がいて、カウンターの傍に置かれた椅子に掌の人は座っていた。

掌の人はふらりと立ち上がると、そのまま私の方へ歩みを進める。
「こっちに連れてきたらさァ、寝ちゃってたからびっくりしたんだよ。相変わらず豪胆だね」
その人は顔にもマスクみたいに掌が付いていて、指の隙間から目が見えるだろうかと思ったけれど長い前髪で隠れてしまっていて私からは見えなかった。声だけでは感情がよくわからない。顔を見てみたかった。

どこか気怠げな足取りのままやってくるその人は、冷静に考えてみれば非常に不審な人ではあったのだが、その時の私の頭の中に逃げるという選択肢はどうしてか、ほんの少しも無かった。警戒心も無く、ただただぼんやりとした心のまま、近づいてくる彼を見つめていた。少なくとも、彼には私への敵意は無かった。悪意も、殺意も。本来であればそれは別に彼を受け入れる理由にはならないはずだったのだけれど。

見知らぬ世界に放り出されて1ヶ月ほど。私は目まぐるしく変化していく現実に、少し、疲れていたのだろう。

だから判断力などはとうに失われていたし、何より考えることを完全に放棄していた。だから、私は彼がこちらへ来ることを拒絶するどころか、むしろ素直に座って待っていたのだった。親が迎えに来るのを待つ子供みたいに。

ぽす、と小さな音を立てて彼が私の隣に座った。距離にして3センチ程度。ほとんど密着していると言っても過言ではないくらいの距離感でその人は私を見下ろした。

「ひさしぶり」
とその人は笑った。掌を模したマスクの隙間から弓なりに歪んだ口元が見えた。
けれど、この人物と知り合いであるという記憶は、当然無い。このよくわからない世界に来てから私は長く病院という閉鎖的な空間にいて、そこにやって来る人たちの顔ぶれはいつも変わらなかった。そしてその顔ぶれの中にこんな人はいなかった。……はずだと思う、たぶん。
彼があんまりにも当然のように笑いかけて来るから少し、戸惑う。彼は本当は知り合いで、私が忘れているだけなんじゃないか、と。

そんなことを考えて、ただ目の前の彼をぼんやりと眺めていたからだろう。あまりにも反応のない私に彼も首を傾げた。少しの沈黙。
それから合点がいったように、「ああ!」と声をあげた。

「"これ"があったら、わからないか」
そう言うと彼はどこか不自然な手つきのまま指先でつまむように、自らの顔に張り付いていた掌を剥がした。

「ね、名前。俺のこと、思い出した?」
「−−−−−、ぁ」

青白い不健康そうな顔色。伸びた長い前髪。私を見つめる赤い瞳。口元と右目に残る傷跡。不自然に刻まれた皺に、乾いた肌。

見覚えのない顔だった。
知らない人の、はずだった。
けれどそこに残る面影が私の脳髄を激しく揺り動かした。

「……あ、……ああ、ああ」
口からは白痴のような譫言しか出てこなくて、体の自由が効かない深海の底で必死に海面を目指すように頭の中で腕を振り回して、その先へ、開けた視界の向こう側へ行こうとして、思考が、記憶が、現実がぐちゃぐちゃになる。
「名前ちゃん」
靄がかかった記憶の向こう側、僅かに開いた隙間から光が差し込む。
夕暮れ、誰もいない公園、焼けるような西日。土の匂い、夜に向かってゆっくりと冷えていく空気、何処かのおうちから夕食の香り。風に揺れるブランコの音、駆けていく足音が2つ、山へ向かう烏の鳴き声。私たちの笑い声。

名前を呼びたかった。
なのに思い出せなくて。
わかっているんだって。×××と×××。その名前がどうしてか重なり合っていて、呼ぶべき名前がブレていて、ひとつの入れ物に貼られたラベルがふたつ。どちらが正しいのかわからなくて、呼びたかったのに。目を見開いて、口を開けて、だけど何も言葉にできなくて、それがただただ苦しいと思えた。

「……っ、ああ」
ごめんなさい。
思い出せないこと。悲しくて、だけどあの子がいて、それだけのことに、泣いていた。気がついたら私は泣いていて悲しいけれど、嬉しかった。辛かったけれど安心した。
私は手を伸ばして彼の顔を両手で包み込むみたいにしてその頬を撫でる。乾いた肌。口元の黒子に親指でふれる。
それだけのことで、彼は笑った。昔と変わらない下手くそな笑顔。

「ああ、名前ちゃんだ」
安心した声音でそう言って、彼は私の肩にしなだれかかるように頭を乗せて、力を抜いた。途端にこちらへぐっとかかる体重を支えるように私は彼の頭を抱きしめた。

腕の中にあの子がいた。
あの子の存在が、此処にあった。
それは夢ではなく、空想でもない。目が醒めるような現実。生存の指針。

ボサボサの髪を梳きながら、私は笑っていた。それはなんだか随分と久しぶりのことに思えた。