15 夜驚

名前がいてくれればそれでいいと、死柄木は思っている。彼女という存在があれば、それで、それだけでいい。そこに「否定」が入り込む隙間はない。
死柄木は子供の頃に遊んだ少女が変わらない姿であっても、彼女の肉体と精神にズレが生じていたとしても、そこに疑問を抱くことは無い。認識を拒絶しているわけでは無い。
むしろ逆だ。
そこにあるのは絶対的なまでの受容だ。名前という存在であるならば、そこにどんな異物が混じっていようとすべてを受け入れられるという盲目的な精神。
悲しむべきか、喜ぶべきか、それが揺らぐことはない。


彼女を前にすると少し、あの頃の自分に戻る気がする。公園で遊んでいた時、自分の手を引くのはいつも彼女だった。あの背中をよく覚えている。追いかけてばかりの自分にはあの子の背中が大きく見えた。
「……名前ちゃん」
「×××くん!こっちだよ!」
駆けていくあの子を追いかけようと、足を踏み出した。幸せを知らないこの身で、あの時確かに幸せを感じていた。無意識に上がる口角。疲れなんて感じなかった。ただただ楽しくて、笑っていた。

幸せなユメを見て、いた。

いちめんのしあわせ
いちめんのしあわせ
いちめんのしあわせ
いちめんのしあわせ
いちめんのしあわせ
いちめんのしあわせ
いちめんのしあわせ
おとうさんのて
いちめんのしあわせ、?、??縺サ繧薙縺??縺サ繧薙→縺?↓?溘◆縺上&繧薙?繧ゅ?繧偵℃縺帙>縺ォ縺励※縺昴l縺ァ繧ゅ↑縺翫⊂縺上?縺シ縺上?縺セ縺セ縺ァ縺励°縺ゅl縺ェ縺??縺ォ縺帙°縺??縺九o繧峨★縺ォ縺セ繧上j縺、縺・縺代※縺シ縺上↑繧薙※縺ッ縺倥a縺九i縺昴s縺悶>縺励↑縺九▲縺溘∩縺溘>縺?縺?繧後°縺シ縺上r縺ソ縺、縺代※縺溘☆縺代※縺ゥ縺?°縺溘☆縺代※縺薙%縺九i縺、繧後□縺励※縺ゥ縺薙↓繧?縺九∴縺ー縺?>縺ョ縺九♀縺励∴縺ヲ縺??、??????、?

景色は塗り替わる。

ごめんなさい。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

床を汚す血溜まりの中にぽつん、と肉体から切り離された掌があった。ここには血と血と血と血と手があって、それが世界を塗りつぶす。視界は赤くて紅くて緋くて朱くて赫い。どうして。鉄の匂いがそこらじゅうからしていたのに、やがてその匂いにすら慣れてしまって麻痺する感覚。たくさんの血を自分も浴びていた。震える腕を伝ってそれが流れていく。肌を焼くような血潮の熱が段々と冷めていく。熱い、寒い、怖い。覚えている。忘れられない。忘れられるはずもない。当然だった。それが、自分の原初なのだから。

すべてを忘れてしまえるほどに狂えたらよかった。けれど、そうなれなかったから"死柄木弔"はここに存在している。何処までも一方的に被害者だった小さな男の子を置き去りにして。





私の日々は平穏に過ぎていた。
朝起きて弔くんとイチャイチャして、バーに行って黒霧さんや先生とピーチクパーチクお喋りして、個性取り扱いの練習をして、弔くんから散歩という名のデートに誘われ、家に帰って弔くんとイチャイチャして、弔くんに世話を焼かれてその日一番の疲労を溜めて、泥のように眠る。
平穏だった。もうすぐ社会的に大きな犯罪を起こしてやろうとしている組織だとは思えないほどに。
だから油断していたのだ。
いつだってそうだ。予想外の出来事はいつも私の"外側"からやってくるのだから。それは事故のように、或いは災害のように。


異音に、目を覚ました。
何度か瞬きをする。目を開いても世界は暗い。まだ夜更けなのだろう。カーテンの隙間から朝日が差し込む気配は無い。ふと眠る直前のことを思い出した。いつも通り、弔くんの中指に包帯を巻いて、押し潰される形で抱きつかれていつしか眠ってきた。圧迫によって意識を失っていたと言っても過言ではないあたりが物悲しい。閑話休題。温かい布団の中で身じろぎしながら異音の元を辿ろうと耳を澄ませて、それがごく近い隣からのものだと気がついた。
がりがりがりがり、と爪でなにかを引っ掻くような音。
「……弔、くん?」
返事はない。けれどそれは確かに隣に眠る彼から聞こえた。体を起き上がらせて段々と慣れてきた目で彼を見て。
息を飲む。日常からかけ離れた異様な光景に、一瞬、頭が機能を失った。

彼は眠っていた。眠っている状態のまま、伸びた爪で彼は彼自身の首を引っ掻き続けていた。無意識で行なっているせいかまるで加減の効かないその行為はもはや自傷行為と呼んでもいいほどに彼自身を傷つけ、その首に線状の傷を増やし続ける。がりがりがりがりがりがりがりがりがり、と。
やがて、その爪に真っ赤な血が付いていることに気がついて、
「っ、弔くん!」
自傷行為をやめさせようと飛びつくようにしてその両手首を掴んだ。互いの体格差は大きい。まともに向き合ったら止めることなど出来ないとわかっていたから、ほとんど彼の体の上に乗っかる形で覆いかぶさりその手首を布団の上に押し付ける。起きてくれれば、それでいい。けれど彼は起きないまま、押さえつけられてなお首を引っ掻こうと抵抗する。彼の細い体はこわばったように硬直していた。微かに聞こえた呻き声を落ち着かせるように語りかける。
「弔くん、だめだよ。痛いよね、だからこんなことやめよう?ね?」
体重をかけてぐっと押さえつけながら彼の耳元で囁く。大丈夫だよ、いい子だからやめようね、と何度も何度も根気よく言い聞かせるように囁き続けた。
「う、うう゛あ……」
微かな呻き声はまだどこか苦しそうに聞こえた。
「大丈夫だよ、弔くん」
そんな言葉を繰り返すうちに抵抗しようと身体中に力の入っていた弔くんの肉体がゆっくりと弛緩した。ようやく落ち着いたのだと思って、少し気が緩む。よかった、と手首から手を離しかけた、そのとき。

,,,,,,,,,,,!!!!

空気を切り裂くような絶叫が真正面から私に叩きつけられた。

それが目の前の彼から発せられたものだと一瞬理解できなかった。弔くんは悲鳴と呼ぶよりむしろなんらかの破壊音に近いような声を上げながら先程までよりずっと強い力で身を捩って苦しみ悶える。
「っ、弔く、」
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
一瞬前まで彼の腕を掴んでいた私の手を、それまでの抵抗など児戯に思えるような力で鬱陶しそうに振り払い、弔くんは爪を立てて自分の喉や顔を掻き毟る。
「いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいぃぃ!」
暴れる体に軋みを上げるベッド。赤く染まった爪の先。白いシーツの上に飛び散った血の色。鼓膜を突き破るような悲鳴。
目の前の異変、異常、異物、異相、異様。

眼前の惨事に呆然としかけて、けれどすぐに自分が今何をすべきかに思考が至る。助けなくてはならない。どうしたらいいのかなんて何もわからないけれど。苦しみに悶える彼を、助けなくては。

血走った目のまま絶叫をあげ、箍の外れた力のまま自傷行為に走る彼におそらくまともな意識はないようだった。
「夜驚症」。不意にそんな言葉が思い浮かぶ。原因はわからないが発狂状態になってしまった彼を止めようととにかく手を伸ばして近付こうとするが、ベッドの上で悶え苦しみ暴れる弔くんの脚に容赦なく頭を蹴っ飛ばされて一瞬飛んだ視界に星が飛ぶ。
「っ、がっ!」
吹っ飛ばされてシーツの上に仰向けに倒れこむ。すぐに起き上がろうとしたが蹴っ飛ばされたことでぐわんぐわんと揺れた脳味噌が再起動するのに時間がかかってしまう。視界は歪み、平衡感覚が失われ、起き上がることすらままならなくなる。黒目がぐるりと回って裏側に回ってしまったかのように目の前が見えなくなり、すぐそばにいるはずの弔くんの姿さえ見失う。くそ!これだから子供の肉体は!内心で吐き捨てる。

弔くんの乾いた唇からは肌をびりつかせるような絶叫が吐き出され続ける。頭を掻きむしりながらベッドが軋むほどに身悶える音は聞こえている。聞こえているのに、そこへ行けない。あの子の熱がこんなにも遠い。

揺れるシーツの上に倒れたまま、動けない体で彼の声の方へ、音の方へと手を伸ばす。伸ばすのに。
「っ、とむら、く……」
助けなくてはならないのに。
彼を助けたいのに。
秒毎に重くなっていく頭が視界を暗くしていく。体が自分の支配下から離れ、完全にシャットダウンする、感覚。
「…………っ、あ」

私は意識を失った。