01 夢想

アラームの音で目が覚めた。ワンルームに継続的に鳴り響く音に眉を寄せながら枕元をまさぐる。ごそごそと手を動かすと充電器に繋げておいた携帯に指先がカツンと当たる。
手に取って、アラームを消す。暖かい布団から出るのは酷く億劫だが、起きなければならない。平日の社会人とはそういうものだ。
布団から這い出して裸足のままキッチンに立つ。トースターに食パンを突っ込んで、コーヒーを淹れるためのお湯を沸かしながらしばしぼんやりと空中を眺める。

−−−懐かしい、夢を見た。

昔から似たような夢を定期的に見る。その夢は子供の時から今に至るまで、なんでもない夜に私の眠りの中にやってくる。

それは夕暮れの公園。
からすが遠くで鳴いて、もう家へ帰る時間だよと教えてくれる黄昏時。子供たちは迎えにきた親に連れられて散り散りに去っていくけれど私は、私たちはそこでずっと遊んでいた。
誰もいない公園。私たちだけの公園。ブランコが空くのを待つ必要なんてない。滑り台に逆から駆け上がっても誰も何も言わない。だって私たちしかいないから。一緒に遊ぶその男の子は笑って、先を走る私を追いかけてくる。
永遠みたいに楽しい時間。迎えがくるまで、夢が覚めるまで、ずっと遊んでいようね−−−。

前にこの夢を見たのは学生の頃だったから、もう数年ぶりだ。
ひどく、優しく温かく、幸福な夢。
時折見るこの夢は数年おきであったり、数ヶ月おきであったりと見る頻度はまちまちではあったけれど、子供の頃から断続的にこの夢を見続けている。
夢の中、子供の姿の私は夕暮れの公園で男の子と遊んでいる。無邪気な子供のまま、過去も未来も関係なくて、今この瞬間だけが全てだった。あの子と一緒に遊ぶことだけがただただ楽しくてそれだけでよかった。そんな、夢。

思考に深く落ちていきそうになったその時、ぷしゅーと音を立ててやかんが沸騰を教えてくれた。
私は火を止めて、インスタントコーヒーを淹れた。チン、と軽快な音と共に焼きあがったパンをトースターから取り出してベタベタと適当にジャムをつけた。めんどくさくて、立ったままキッチンで簡易に朝食を済ませてしまう。熱いコーヒーを喉に流し込めばさっきよりは目が冴えて、夢のことは思考の優先順位に後回しにされる。始まってしまった1日。当然のように続いていく現実。……さて、家を出る前に洗濯を回さないと。

スーツに着替えて、忘れ物がないか確認している頃にはもうスッキリと目が冴えていて、仕事かあ、怠いなと思いつつ家を出る準備は万全になっていた。左腕に巻いた腕時計を確認すると、そろそろ家を出ないと間に合わない時間だ。パンプスを履いて、爪先で地面をこんこんと叩く。鍵をかけて、しっかり閉まっているか確認して仕事へ向かった。私にとってのいつも通りの毎日。当たり前の日々。当然のルーチン。不満はなく、不安もなく。代わり映えのない日々を、それでも私は愛している。



ホワイトとは言えないがブラックとも言い難い絶妙な匙加減の職場は慣れてしまえば悪くない居心地だ。辞めた同期より残っている同期の方が断然多いし。なんて考えながらパチパチとパソコンのキーボードを叩く。
自分は割とどんな環境ででも適応してそれなりにやっていけると言う人間であるという自負が20数年間のうちに私の中に培われていて、生活のためにそこそこやりがいのある仕事をそこそこのやる気で続けている。
などと考えているうちに1日はあっという間に過ぎていく。気がつけば外は夜。残業代が出るくらいの時間になっていた。キリのいいところで終わらせようと欲張ったためか、いつしかフロアは私とあと数人くらいしか残ってない。これが金曜の夜なら誰かに声をかけたりかけられたりするだろうが、今日はまだ週の中日。おつかれさまでーす、と軽く声をかけて退勤した。



最寄りの駅から自宅までは歩いて15分程度。大した距離ではない。住宅街の中を歩いていく。夜の8時過ぎ。日はすっかり落ちて、ひと気も無い静かな夜。見上げた夜空には月が浮かんでいるけれど、街灯の明かりのほうが明るくて夜道を照らす役割を失っている。もはやただ目で楽しむだけの存在。閑静な住宅街に、かつんかつんと私が歩く音だけが響く。
かつんかつん。
かつんかつん。
かつんかつん。
かつんかつん、かたん。
かつんかつん、かたん、かたん。

……誰かに尾けられている、と気がつくのにそう時間はいらなかった。
襲いかかってきた恐怖に止まりそうになる足を必死に動かしながら考える。どこか、途中でコンビニにでも入ろうか。それより警察に駆け込んだほうがいいのか。この辺りに警察署なんてあっただろうか。いや、もしかしたらあの足音はただの通行人のもので、尾けられてるなんて私の勘違いかもしれない。けれど確かに後ろから付かず離れず、私じゃない誰かの足音がして。
身体中にじっとりと冷汗をかく。後ろにいる誰かに睨め付けられたみたいに背中がぞわぞわと震えた。こんな経験したこともないから、どうしたらいいのかわからなくてただ足早に家を目指してしまう。けれど家に行ったら住所がバレてしまう。でも安全な場所なんて家くらいしか……。

「お嬢さん」
後ろから男に声を掛けられて、心臓が跳ねる。反射的に背筋がピンと伸びて、硬直した体のまま、振り返ってしまう。

声も出なかった。

ほんの数メートル先、ぽつんぽつんと道を照らす街灯の下に"それ"はいた。

"それ"を目に映した途端、私は目を見開いた。考えるより先に足が動きだす。脇目も振らずにただただ前へ走り出した。悲鳴を上げることもできなかった。ただ怖い。怖い、怖い、と頭がそれだけに占領される。
恐怖がドッと泥のように体にへばりついて、身体中の感覚が鈍くなって行くのがわかる。何かをつかんでいないと不安で握りしめた鞄だけが確かだ。ガタガタと手先が震えて、身体が硬直し、自分がまともに走れているのかさえわからなくなる。

いや、いや、いや!
頭の中はもう真っ白で、ただ逃げろはやく逃げろと頭の中で凄まじい轟音でサイレンだけが鳴り響く。

その日初めて私は明確に命の危機を感じた。

あの瞬間、振り返った私の目に映ったのは、右手が大きな刃物と化した血濡れの男だった。