気がつくと私は見知らぬ住宅の廊下に伏して倒れていた。未だに鈍い痛みを訴える頭を無理やり上げる。硬い床の感触。何処からか吹き込んだ隙間風が頬を撫でる。一度ぐっと目を瞑る。暗転。それから目を開け、冷たい壁に手をつきつつ起き上がる。
私はスーツを身に纏っていた。つまりここは夢の中だ。そしてここは見知らぬ場所であるから、誰かの夢の中ということだ、とそこまで思考が至って、自嘲する。……誰か、なんて白々しい。
これは弔くんの夢の中だ。
できることなら、無断で入りたくはなかったのに。
(「弔と共にいるのは多重の意味で大変だろうけど、」)
不意に忘れかけていた先生の言葉が脳髄を揺らす。このこと、だったのたろうか。苦々しく思いながら、頭を振って鈍い痛みを振り払う。
目の前には廊下と居間を分断する扉があった。中にはうっすらと灯りがあるが、物音はしない。けれども、人の気配はあった。
扉を開かない選択もあった。ここから立ち去ることも当然できた。ドアノブを前に、私は躊躇っていた。
けれども不意に弔くんのことを思い返す。
突如暴れ出し、瞳孔を開いて苦しそうに叫び声を上げる。私がどんなに声をかけても反応がなかった夜のこと。
それは夜驚症の症状によく似ていた。
夜驚症とは睡眠中に突如起床して、暴れ出したり叫び声を上げたりする症状のことだ。翌朝、本人はそのことを一切覚えていない。
本来は10歳未満の子供に起きる症状であり、成長につれて症状は治まっていくもの。だが大人でも稀に症状を起こす場合がある。その際の原因のひとつに心的外傷があるといわれている。
あの夜驚症がPTSDの類であるのなら。そしてもしもあれが昔からのものであるなら、彼はずっと自分自身すら気がつかない無意識のうちに自傷と発狂を繰り返し苦しんでいたことになる。
……今までずっと?たった1人で?
手はいつのまにかドアノブを握っていた。
助けたいと思ったわけじゃない。そんなことが私にできるだなんて思ってもいない。けれど考えるよりも先に体は動いていた。
扉を押し開ける。部屋の中に踏み込んで、
鮮烈で濃厚な血の匂いに、口元を押さえた。
「…………っ、ぉぇ」
部屋の中に充満していた血の匂いが逃げ場を求めるように開いた扉の方へ流れ込んでくるような感覚。崩れ落ちそうになる膝を支えて、目の前の風景と向き合う。そのために扉を開いたのだから。
真っ先に目に付いたのは赤だった。
明らかに生存の許容値を超えた量の血液。
その血溜まりの前に小さな少年がいた。灰色がかった青白い髪。震える肩と、そこから繋がる細い腕には誰のものかわからない血が垂れ流れている。彼が誰なのか、わからないはずがなくて。
「……あ、?」
視界が歪んでいた。目元がひどく熱くて、そこでようやく自分が涙を流していることに気がついた。
私は彼の記憶が自分に流れ込むことを拒絶していた。それを望んでいなかった。だから記憶は入ってこない、けれど、記憶に付随した感情だけが流れ込む。彼の感情だけが。
心臓が酷く痛む。理由はわからないけれど、辛かった。原因はわからないけれど、苦しかった。何故かわからないけれど、悲しかった。
ただただ辛くて苦しくて悲しくて怖くて寂しくて、誰でもいいから誰かに助けて欲しかった。だれか、たすけて。助けて、助けて、助けて。たすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけて。
助けて、欲しかったのか。あの子は。
「……×××くん」
流れた涙を腕で拭い、歩き出す。これは私の感情じゃない。置き去りにされてしまったあの子のものだ。
ずっとこうしていたのだろうか。私はあの子に救われ続けていたのに。あの子は取り残されたまま、1人、ここに。
「×××くん」
私は彼の元へ歩みを進め、その小さな背中の前で立ち止まる。その場に膝をついて、彼へ手を伸ばす。
「×××くん」
後ろから抱きしめる。
「…………、とむらくん」
強く、抱きしめた。腕の中の小さな体は震えていた。
「弔くん」
「…………ぇ、あ」
救われていたんだ、ずっと。君と、君がくれた記憶に生かされていた。
これから先なにがあったとしても、この記憶さえあれば何も恐れることなんて無いと思えるような幸福を、君が、君だけがくれたんだ。
「ありがとう」
それはずっと言わなくちゃいけないことだった。
「ずっと君のおかげだったんだ」
折れてしまいそうなその体に縋るようにして、薄い肩に顔をうずめた。
「ごめんね、きっと私は君を助けられない。……君を救うことなんてできない」
ここで何があったのか、君が何に傷つけられて、苦しめられたのか。それを知ることはできない。その苦しみから君を助け出すことも。
それらはすべて終わってしまったことだった。過去のことは誰にもどうすることもできない。それは私にも、君にも。
それでもどうか、そばにいさせて欲しい。
どこまでも被害者だった"転弧くん"と、今私の隣にいてくれる"弔くん"に。どうか君へ恩を返させて欲しい。
子供になった私に彼がそうしてくれたように、守るように抱きしめる。
「弔くん、」
君のために生きること、これから先の未来を君と共に生きることを許して欲しい。
(「これからもずっと、一緒に遊んでいようね」)
在りし日に交わした約束はずっと残っているから。
「弔くん、どうか君のそばにいさせて」
囁くような誓いに、言葉が返ってくる。
「………………、名前、ちゃん?」
私の腕の中、振り返った彼は見開いた大きな瞳に私を映した。赤く染まった部屋で、彼の赤が一番綺麗だった。
過去のことなど何一つ知らないけれど、その目に映す未来を、共に見たいと思ったんだ。