かつてヴィランによって裂かれ未だに背中に残る大きな傷と、忌々しいステインによって腹を蹴りつけられてできた内出血の跡。
……あれ、なんでだ?
温くなってきた湯船の中、彼女を抱きしめながら死柄木はふと疑問に思う。
なんで俺の名前ちゃんがこんなにも傷つけられているのだろう。
狭い浴槽の中、死柄木に背を向ける形で脚の上に乗った名前のその背中を分断するかのように刻まれた傷を指でなぞる。柔らかい肌。そこに残るグロテスクな模様。右肩の始まりから、左腰の終わりまで、すうっと。途端、驚いたように肩を震わせて、それからこちらを振り返る名前と目を合わせる。
「痛い?」
「もう痛くないよ」
彼女は笑った。
「……痛いよ」
「弔くん?」
「あ、ああ、痛い、痛いよね、背中もお腹も、なんで、あ、殺せばよかった、あいつなんで生きて、いやだ、痛いね、いたい」
「弔くん」
体勢を変えて、名前は死柄木に向かい合う。
「私は大丈夫だよ」
細い体つき、不健康な肌、この空間は暖かいのに凍えるように震える彼の体。その首に手を回して抱きしめる。頬を寄せて骨ばった肩を撫でる。母が子にするように、優しく何度も撫でてやる。
「弔くんこそ痛かったよねえ。あいつ、許せないねえ」
湯に触れるたびにひりつくような痛みが走る。右肩の傷は深く、流れ出た血は止まったばかり。
「……本当にどうしてくれようかな」
「お晩です」
目の前に現れた女を見て、ステインは僅かに瞼を痙攣させた。
気がつくと見知らぬ場所にいた。やけに暗い空間。ステインと、彼の前に立つ女がいる場所にだけスポットライトが当てられたように明るい。ライトの外側へ目を向けるが、その先には何も見えない。深い闇だけがその眼に映る。
……此処は何処だ?
この女は誰だ?
自分はどうなった?
「私事ながらここ最近不審者とお友達になりましてね、本来ならば早急にヒがつく国家公務員へテレフォンショッキングすべきところ諸事情でそれも叶わず仕方なしに仲良くお喋りに励んでしまったんですよ」
目の前の女は、まるでステインなど居ないかのように1人でどこか楽しそうに語り出した。
女を前に、ステインは向き合うように椅子に座っている。手足は動く。顔も目も動かせる。体の自由は効くのだ。しかしその場から立ち上がることだけがどうしてだかできない。目の前の女の個性なのだろうか。そうだとしたら、少し自分のものと似ている。
「不審者曰く、人は自らの願いを元に人生の生き方を選択するのだ、と。なんだか素敵な言葉ですよね。逆に言えば願いを持たない人間は自らの人生すら選べないというわけですよ。身に覚えがあります故にドキドキしました。まあそれも私が私の運命と正面衝突する前の話なので、今はラブ1000%でロマンティックが止まらない状態ですからご安心を。なんて、私ばかりが喋るのもつまらないですから、ここで街頭インタビュー。赤黒血染さん、貴方の願いはなんですか?」
「……此処は何処だ」
「ははは、気が短いんですね。長距離より短距離派?ゴルフより相撲派か?そう結論を急くなよ」
途端に砕けた物言いで女は笑う。
ステインの向かい側に置かれた椅子に女も座り、パンツスーツを履いた脚を組んだ。
真正面から女を見る。……見知らぬ顔だ。だが、ステインはこれまでに何人も殺してきた。知らぬところで恨みを買われていてもおかしくない。保須市でインゲニウムの身内にそうされたように。
「会話のキャッチボールって大切だと思わないですか?まあ、そうそうに人との対話を諦め、武力行使に出た貴方に言うのもなんですが」
「英雄回帰」。演説で、言葉で伝えようとして、それが叶わなかったことをこの女は知っているのか。眉を寄せるステインに、まるで「お前のことなどすべてわかっている」とばかりに口元を歪める女。
その瞬間、唐突に妙な理解が頭を走る。この女に見覚えは無い。一切無いが、式を飛ばして正答を得るように何故か急に全てに合点がいった。そうして頭に流れ込んだ情報をそのまま口にする。
「……ハァ……連合の……あの時の子供か……」
20代と思わしき女と、バーで出会った少女。確かによく見ればあの子供の面影はあった。しかしそれは答えを得たからわかったようなものだ。理解できなければ至らない思考。
「わあ大正解。偉いですね。ご褒美に名前ちゃんスタンプをあげましょう」
女は椅子から腰を上げると、数歩足を進めてステインの目の前に立ち、
「ぐっ……!」
座ったままのステインの腹にハイヒールの爪先を叩き込んだ。
正確に打たれた鳩尾に一瞬吐き気が体を、脳髄を支配する。しかし固定された体は壁を背にしているかのように揺るがない。逃す気などないということなのだろう。ステインは静かに与えられた痛みに耐える。これからこの女に一方的に痛めつけられようとも耐えられるという自負は己の中にあった。
だがそれ以上の攻撃が来ることは無かった。
「一発は一発です」
これでチャラにしましょう。そう言って女は再び腰を落ち着ける。組んだ脚の上に手を置いて、何事も無かったように笑うだけだった。
「貴方は保須にてヒーロー相手に戦闘を行い、その結果捕縛されました。酷い大怪我だったようですね。その場で意識を失ったそうじゃないですか」
そう、だったのだろうか。保須でヒーロー志望の少年たちと戦闘を行って以降のことはあまり記憶に無い。
「貴方はすぐに病院に運び込まれました。今頃は、さしずめ集中治療室の中ってところじゃないですか?」
「ハァ……では此処はお前が個性で作り出した空間で、俺は精神だけこの場に連れ込まれたということか?」
「…………は、話が早いな」
女はそれまでの余裕ぶった笑みを止め、やや引いたような顔でステインを見た。「異常者かと思ったら会話できるんじゃねーかよ」「理知的な狂人って一番相手にしたくないタイプだ……帰りたい……」などと呻き出す。
「何が目的だ……」
「しかも最短距離を爆走するタイプ……会話はできても相互理解ができない人間だよ……」
「ハァ……」
「溜息をつかないでください」
無茶ばかり言う。
「はああああああぁぁ……」
人に溜息をつくなと言っておきながら自分はたいそう大きな溜息をつく。女は自分の髪をぐしゃぐしゃと掻きまわすと、吐き出すように言った。
「本当はね、報復でもしてやろうかと思ったんです。だって貴方は弔くんを傷つけましたから。でもそれは私がすることじゃないなって考えを改めました。男の子同士のケンカに他人が介入するのもどうかって話だし」
ステインはやや呆れた目で見つめる。
初見、現実であの少女を見たときは酷く理知的で冷静な人間だと思っていたのだが、一皮むけばただの変人ではないか。死柄木とステインの血生臭いやり取りをケンカという一言で片付けてしまうくらいには。
「ここは貴方の心象世界をベースにした心理空間です。まあ今は私が完全に掌握していますからこんな感じになっちゃってますけど」
「ハァ……他人の心理に土足で入り込む個性という訳か……」
「嫌な言い方するなぁ、貴方」
女は開き直ったように手を広げて「はい。そういう訳で、貴方の心に土足でお邪魔しております」と鼻を鳴らす。
「普通の人ってね、隠し事がいっぱいあって、踏み込まれたくないラインってものがあるもんなんですよ。そういうところに私は入れない。拒絶されてしまうから。けど貴方は違った。そんなもの殆ど無い。バカみたいに正直で一途。真っ直ぐなまま歪んでる。けれどそんな自身の在り方に誇りすら抱いている。……そうでなければ、ヒーロー殺しなんてこと、しないでしょうけどね」
「……ヒーローを殺すことは手段でしか無い。……ハァ……偽物を粛清することのみが目的だ……」
「ヒーローは見返りを求めてはならない。純粋な善意で人を救う者のみがヒーロー足り得る、でしたか。……理想が高いのでは?」
「理想?違うな……それこそが在るべき姿だ……変えなくてはならない……腐敗したこのヒーロー社会を壊さなければ……」
そう言った彼はもう女のことなど見てはいなかった。その眼の裏に映すのはただ1人、あの太陽の如き存在だけ。
もはや思想の善悪など論点にはならなかった。彼は揺らがない。揺らぐ筈がない。
「本物の英雄だけが、存在するべきだ……!」
その在り方の起源にあるのは強烈なまでの光。名前は静かに目を伏せる。その眼を焼くほどの光を見てしまったのか、この男は。イカロスの如く、それを目指して飛び立ち、しかして失墜した。天は遠く、もうそこへは至れない。暗く冷たい地を這いながら、それでも美しいものを忘れられない。
その愚かさを、一途さを、笑えなかった。
出会い方が違っていたのなら、もう少し理解しあえたのではないかと勘違いしたくなるほどに。
「……類似点ばかり目につくな」
そんなにも私は普遍的すぎるのだろうか、バーナム効果みたいな感じで。元々特別なオンリーワンを目指したい私としては実に遺憾である。まあ弔くんにとってのオンリーワンを永久指名出来ればそれでいいのだけど。などと考えながら名前は掌を高速で返す。
ステインは彼女の愚痴のような呟きに胡乱げに目を細めた。
「……俺とお前が同類だと?」
「馬鹿言わないで下さいよ、貴方も私も哺乳類。流れる血は赤いし、口から卵は産み出さない。同類なんて街で石を投げれば当たって殴り返してくるくらい居ますよ」
仰々しく両手を広げてそう言えばより不信感の強い目で見つめられる。言葉で伝えるのが下手という点は確かに2人は同類かもしれなかった。片方は口にする理想の高さゆえに、もう片方は吐き出す言葉の胡散臭さゆえに。
「……人は願いを元に生き方を選ぶ。結局どんな理想を求めるのか、なんでしょうね」
その理想に貴賎はないとしても、選んだ理想の為に狂う人間もいる。それがステインという男だった。
「ハァ……お前の理想とやらは死柄木に関したものなのか」
「困ったことにそうなんです。聞いてくれます?私はあの子と一緒に生きていたいだけなのに、あの子と生きる為には世界を相手取って戦わなきゃいけないんですよ。どうしましょう?」
「……既に結論の出た問いを他人に聞くな」
「わはは、それでもお喋りしたいっていうのが女の子なんですよ」
虚な空間に女の笑い声だけが響く。やり取りをすればするほどステインから名前への評価がただ下がりしていく。呆れた目からゴミを見る目つきに変わってきたことに気がついた名前はやはり楽しそうに笑った。
「ハァ……結局のところ、バーでお前が死柄木を救おうとしたあの行為が全てだ。どのような障害を前にしてもお前はそういうふうにしか在れない」
「私も最初、貴方はヒーローになればよかったんじゃないかと思ってました。けど違いますね。貴方は貴方である限り、貴方にしかなれない」
「所詮人間の本質は変わらない」
「ええ、同意します」
ステインが憧れたオールマイトは変わらない。名前が好きになった死柄木は変わらない。だから2人も変わらない。
それはなんて、空しく尊いことなのだろうか。
「仲良くなれそうですね、私たち」
「気のせいだ。他を当たれ」
「ありゃりゃ、フラれてしまいました」
2人はどこまでも平行線だ。変わらないから交わることもない。
「ハァ……問答は終わりだ……帰れ」
「えー、夜は長いんですからもうちょっとお話しましょうよ。恋バナとかエゲツない下ネタとか」
「帰れ」
睨まれた。
「お前のことは本物だと認めた。……ハァ……だが嫌いだ。性に合わん」
「私は貴方のこと嫌いじゃないですよ。許せないだけで」
つまりはどうあっても彼らは寄り添い合うことなどできないのだった。
名前は両腕をぐっと上へ上げて伸びをした。個性を使うと肉体は眠っていても精神は起きている時と同じくらい活発に動く。どれだけ休んでも休まらないからあまり使いたくはないというのが本音だ。
しかし今夜は悪くなかった。口元に笑みが浮かぶ。例えるのなら自分の尻尾を追う猫の動画を延々と見続けてしまった夜のような、そんな気分だ。悪い気分ではない。たまには夜更かしするのも良いものだ。
「お時間取らせてしまってすみませんでしたね、ヒーロー殺し」
でも良かったらまたお喋りしてくれますか?
そう問いかけた名前にステインは「断る」と即答した。断ったところで主導権はあちらにあるとわかってはいたが。
そんな彼からの無下な答えなどわかっていたのだろう、彼女は微笑んでステインへ手を振った。途端にこの空間はガラスが割れるかのように崩れ出す。ステインは忌々しげに女を睨みつけたまま、足元が崩れ落ちたような浮遊感に目を閉じた。