02 死地

「この狭いせまーい日本。そんなに急いで何処へ行く?」
目に映ったあの男はふつうの人間じゃなかった。あんなのテレビの中の作り物みたいじゃないか。

"それ"は顔も体も普通の成人男性だったのに、その右腕だけは違った。
右腕だけがカマキリみたいに大きな鎌になっていた。
鎌を持っていたんじゃない。右腕が生えているはずの位置に大きな鎌が生えていた。まるでホラー映画の化け物。その鎌は街灯に照らされてきらりきらりと光っていた。濡れていた、赤い液体で。それがなんなのかわからないほど愚かではいられなかった。唐突に目の前に投げ出されたたくさんの情報を理解してしまった私が出した結論は死だった。
その瞬間ただ、明確に死を感じたのだ。

私は走って走って走って走り続けて、パンプスが脱げるのも気にせず前だけを見て逃げ続けた。けれど男の声は私のすぐ後ろを追ってくる。こんなにも走り続けているのに、じわじわと少しずつその声は近づいてくる。
遊ばれている。ふとそう思った。捕まえようと思えばすぐに捕まえられるのに、逃げる私を見たくてわざと逃しているんだ。戯れに獲物をいたぶる獣と変わらない。私は殺される。心臓が痛い。怖い。ガリガリガリと男の右腕にある刃物が道路を削りながら近づいて来る音。近く、近くなっていく。

「ーーーーっ、!」
不意に背中がカッと熱くなった。右の肩甲骨のあたりから左の脇腹のあたりまで。一線されたかのように熱を持って、それから、すぐに。
「っあ、ああああ゛っ!!」
痛み!痛みが襲いかかってきた!
これまでの人生でだってこんなに明確で上質で常軌を異した激痛を感じたことはない。斬られたんだろう、って考えなくてもわかる。あの男の右腕は変形して大きな刃物になっててまるでカマキリみたいで獲物である私はその鎌でざっくりと背中を袈裟斬りにされた。斬られたはずみで前のめりになって、そのまま顔面から地面に崩れ落ちる。手をつく暇もなく、倒れた衝撃で全身に痛みを感じるけどそんな痛みより背中が熱くて、熱くて。ああ本当なんだな、痛いって熱いんだ。知りたくなかったよそんなこと。
うつ伏せに倒れた私は背中を男に向けているのが怖くて必死に体を反転させる。けれどそれすら怖い。殺される。訳もわからないまま、理由も動機も原因もなにもかもわからないのに。ただ理不尽に殺される。背中はひどく熱いのに体の表面はひどく冷たくて、流れ出た血液が私の腰まで濡らした。
私は地面に尻餅をついた体勢のまま、男を見上げる。街灯の明かりが逆光となって、その男の表情はよく見えないのに、振り上げられた右の刃物だけはよく見えてしまった。

「悪い子だねぇ、ニュースを見ていないのかい」
ガタガタと耳元でなにかの音が聞こえる。違う、私の歯が恐怖に震えている音だ。声も出なくて、ただやがてやって来るであろう痛みと死に、体を硬くする以外にどうしたらいいのかわからなかった。
「夜は連続殺人犯が出るって、もう6人目を殺したって、世間が騒いでいただろう?」
知らない、そんなニュースなんか知らない。聞いたこともない。けれど首を振ることも逃げることもできないまま、ただ男を見上げていた。
「さっき7人目を殺したよ。でも熱が冷めなくてね」
体はまともなのに腕だけがやはり異形の姿で、チグハグなバランスに目眩がしそうだった。失われきった現実感に頭がどうにかなりそうだ。理不尽な世界。理不尽な殺意。理不尽な現実。
「私はね、か弱くて小さい女の子を殺すのが好きなんだ」
煩い、煩い。煩い!くそったれが、このイカれ野郎!畜生、くたばれこの化け物が!
心の中でなんども罵倒する。だったらなんで、どうして私みたいな大人を狙ったんだ。
「−−おめでとう、君で8人目だ」
男の右腕が振り下ろされる。処刑台の上のギロチンのように。私はそれをただ、見ていることしかできなくて−−−。


凄まじい轟音が聞こえた。
瞬きをした、たったその一瞬。
その一瞬のうちに巻き起こった旋風。
気がつくと私を襲っていた男はまるでダンプカーに追突されたみたいに吹き飛ばされて、側の塀にめり込んでいた。
「…………えっ?」

男の代わりに私の目の前に立ったのは、
「怖かっただろう、少女よ。だがもう大丈夫!……なぜって?」
金色の髪と、スーパーマンみたいな服装。それから、

「なぜなら、私が来た!」
月よりも街灯よりも明るい、太陽なような笑顔だった。