わたしはゆうれい

オールマイトがその個性に掛かったのは、なんの悪意もない偶然の出来事だった。
学校の階段、そこで転び駆けた女子生徒を助けた時に、彼女の持つ個性に掛かってしまったのだ。

「ごっ、ごめんなさい!オールマイト!」
「HAHAHA!気にすることはないよ!プロヒーローにとってこんなハプニングは日常茶飯事だからね!」

触れた相手に「幻覚」を見せる。そういう個性なのだと、慌てた様子の女子生徒は説明してくれた。
「いるはずのないものとか、あり得ないものとかが見えちゃうんです。幽霊とかじゃないんですけど……」

その瞬間からオールマイトにはいるはずのない少女の姿が見えるようになってしまった。

ぶかぶかのワイシャツ。細い手足。空虚な瞳。乾いた無表情。
いつか助けた、あの少女が裸足のまま廊下にぽつりと立っていた。こちらに寄ってくるわけでも話しかけるわけでもなく、ただ少し離れたところからじっとオールマイトを見ている。ただ、それだけ。

その少女はオールマイトが少し近寄るだけで消えてしまう。かと思えばすぐ隣に移動していたりする。瞬きのうちに消えたり現れたりする彼女は、なるほど、幻覚らしい。
せめて名前でも呼んでやりたかったが、
「……私は君の名前を聞くこともできないままだったね」
何もできないまま、あの子は病室から忽然といなくなってしまった。会いにいくと決めた日はやってこないまま。
「……どうしたものかな」
一瞬前まで廊下の端にいた少女は、ガヤガヤと生徒たちがやってくるホームルーム前の喧騒の中で、いつしか消えてしまっていた。


次に彼女が見えたのは授業中のことだった。
慣れない教師という仕事にワタワタしながらも、教壇に立ち、ふと教室の後方へ目を向けた時。
「…………!」
少女がいた。相変わらずの寒々しい格好のまま、所在なさげに立ち尽くしている。その姿に目を離せなくなって……。
「……オールマイト?どうかしましたか?」
最前列の生徒に声を掛けられてハッとする。なんてことだろうか、幻覚に気を取られて彼らにとって大切な授業に集中できないでいたなんて。
「あっ、ご、ごめんね!カンペどこまで読んだかわかんなくなっちゃって」
慌ててそう誤魔化すと教室はドッと笑い声に満ちた。
「しっかりしてくださいよ、No. 1ヒーロー!」
そんなからかうような声音に救われる。

再び目を向けた時、彼女はもう教室にはいなかった。授業中の時間だから誰もいないはずの廊下、そこを駆けていく小さな影を見たような気はしたのだけれど。


「大丈夫ですか、オールマイトさん」
それに気がついたのは相澤だった。オールマイトがわかりやすい人間であることを差し引いても、その観察眼には流石というほかない。
隠すようなことでもないと判断してオールマイトは相澤に自分がかかった個性の話をした。

「幻覚個性、ですか」
「うん、けど今のところ害はないよ」
「……何が見えているんですか?」
「前に助けたことのある女の子がちょっとね。ああ、今は相澤くんの隣に見えるよ」
背丈のある相澤の隣にちょこんと立つ少女は相変わらず感情のない目でじっとオールマイトを見つめていた。相澤はオールマイトが見つめる先を同じように見つめてみたが、
「俺には見えませんね」
「やっぱり?」
やはりこれはオールマイトにしか見えないものらしい。

個性の効果が切れるのは長くても5時間程度。早ければ昼頃には消えていると聞いた。今日は特に訓練型の授業も無い。なにか問題が発生するようなことはないだろう。
「まあ、何かあったらいつでも相談してください」
そう言ってくれる相澤に感謝の言葉を述べてから、オールマイトは昼休憩に入ることにした。


オールマイトは今や1日にそう長くマッスルフォームを維持できない体になってしまっていた。それ故に学校で休憩する時はいつも生徒の立ち入らない仮眠室を借りている。
今日の昼休憩もいつものようにトゥルーフォームで仮眠室にいた。いつもと違うことがあるとしたら、それは
「一緒にお昼食べ……ないよね……」
あの子がいるということだろうか。

ソファに腰を落ち着けた、その隣に彼女はちょこんと座っている。触ろうとしたら逃げるだろうことはもうわかっていたから、もう手を差しのばすこともしない。きっと幻覚だから、形がないから触れられることを嫌がるのだろう。それはわかっているけれど、それでも逃げるように消えられるのは少し悲しい。これは幻覚であって本当の彼女ではないのだと頭では理解はしていても。

「すまない」
オールマイトはぽつりと呟いた。わかっている。彼女は幻覚だと。それでも言わずにはいられなかった。

「もっと早く、君に会いに行けばよかった」
3月の上旬。桜の開花を待たずして、あの子は病室からいなくなった。証拠もなく、原因もわからない。一度様子を見た看護婦が、その後夕食を運んできたたった30分程度の間に彼女は消えてしまっていた。病院の廊下の防犯カメラにはなにも写っていない。病室にはプライバシーのために防犯カメラは設置されていなかった。警察も捜索を続けてはいるが、事件か事故かもわからないこの出来事に何もできずにいた。
そんなふうにして身元もわからない、言葉も話せない彼女は何も残さずいなくなってしまった。

まるで、
初めから、
そんな子供、
いなかったみたいに。

オールマイトは首を横に振る。
違う。彼女は確かにいた。私はこの腕の中に抱きしめたんだ。酷い傷を負って震えていたあの子を確かにこの手に抱いたんだ。忘れるわけがない。忘れられるわけがない。あの子は怯えていた。言葉も涙もなく、けれど全てに怯えていた。あの子を助けたかった。命だけではなく、その心をも救ってやりたかった。

オールマイトは隣に腰掛ける少女を見た。その背中には生々しい傷がある。ワイシャツは大きく破け、背中は血に濡れ、それでも彼女は何でもないような表情をしている。

そんな顔、させたくなかった。
感情のままに泣いてもいいのだと言ってやればよかった。私は君の味方なのだと伝えればよかった。もっと早く、もっと早く会いに行けばよかった。
そんなもう遅い、価値もない、後悔ばかりが胸に溢れる。

君は今どこにいるのだろう。
一人きり、この世界に怯えていないだろうか。怪我をしていないだろうか。不当に傷つけられていないだろうか。……命を失っていないだろうか。溢れ出る問いかけに答える者はいない。

「私がもっとしっかり君の手を握っていたのなら、」
昏い瞳がオールマイトを見る。その黒い瞳孔に彼の後悔を映し出すように。

「こんなふうに君を失うこともなかったのかな」




再会は遠く、彼はまだ知らない。
握ってやりたかったその小さな手が、自分のものではない掌を強く握っていることを。