05 願望

あの子とは一度だけ花一匁をした。
誰も彼もが家路についてここにはたった2人だけ。人が減って広くなったように感じる夕暮れの公園。
2人きりだったから1人と1人にわかれて、たった1回で終わってしまう花一匁。

勝って嬉しい花一匁、負けて悔しい花一匁。
あの子が欲しい、あの子じゃわからん。
その子が欲しい、その子じゃわからん。
相談しましょ、そうしましょ。

相談なんて言葉ばかりで、誰に相談することもなくお互いがお互いを選んだ。じゃんけん一回であっさりと終わってしまう遊びに彼女はすぐ飽きてしまったけれど、俺はそれがすごく楽しかった。

勝ったらあの子をモノにできる。
負けたらあの子のモノになれる。
勝っても負けてもあの子の隣に立てる。
それだけのことがひどく嬉しかったんだ。


「先生、この子が欲しい」
静かなバーのカウンターに座って、彼は低俗な雑誌のページを親指と人差し指で摘むように捲った。
下世話なゴシップの誌面には本来法律で守られるべき幼い少女の写真が載せられていた。連続殺人事件における唯一の生存者。隠し撮りなのだろう、少しブレていて画質も荒い。
けれど、すぐにわかった。
あの子だ。自然と口元に笑みが浮かぶ。また会えたね、俺に会いに来てくれたんだろ。大丈夫、会いに行くよ。
そうしたらまた一緒に遊べるね。

「おや、どうしてその子が欲しいんだい、弔」
「子供の時に一緒に遊んだんだ」
画面の向こうで先生が少し笑った。カウンターの内側で黒霧は胡乱げな目をした。
「そうか、お友達なんだね」
「……友達」
死柄木は呟いてから、こくんとうなづいた。彼はずっと気がつかなかったけれど、2人の関係は友達と呼ぶのに相応しいものだった。

「そうか、なるほど。弔のお友達はオールマイトに奪われて、こんなところに捕まっているんだね。それじゃあはやく助けてあげないといけないな」
それを意図して先生が死柄木へ伝えた言葉は望み通り容易く彼の感情を波立たせる。先生は笑みを深めた。

死柄木の心の中で沸々と憎悪が沸き立った。
ああ、やっぱりいつだってオールマイト、お前が邪魔をするのか。許せない、と心臓が酷く熱を持つ。
あの子は俺の友達なのに。名前は俺のもので、俺は名前のものなのに。
平和の象徴なんて下らないもののくせに。俺たちの邪魔をするな。

「それじゃあその子を迎えに行こうか、弔」
先生はそう告げる。
「大丈夫、君ならできるよ」



「……よかったのですか、先生」
静かなバーに黒霧の声が響く。珍しく上機嫌になった死柄木が立ち去った後、黒霧は思わずそう尋ねた。画面の向こう側の先生へと。
「何か不安でもあるのかな、黒霧」
「……先ほどの死柄木弔の発言は、その、要領を得ないものでした。彼の言葉が事実だとしたら、少女は彼の友人などではない筈ですが」
死柄木の望むままにあの少女を連れ出しても、果たして良いものか、と黒霧は疑問に思っている。
死柄木が子供の頃に共に遊んだ少女が本当に存在するとして、その少女はもう大人になっている。人は成長する生き物だ。彼の記憶の中の少女があの頃の幼い姿のままであるはずがない。だからゴシップ誌に写るこの少女はよく似ているだけのただの他人だ。
誘拐した少女が自分の望む人物でないと知った時、死柄木はきっと怒り狂うだろう。その結果、少女かどうなるかなど想像するまでもない。

そんな黒霧の不安を先生は容易く一蹴した。
「ああ、そのことか。そんなことはどうだっていいんだ」
「……良いのですか」
いいかい、と嗜めるようにモニターの向こうの彼は口を開いた。
「大切なのは少女そのものじゃない。オールマイトから何かを奪ったという明確な事実だけだよ。敵連合の本格的な活動開始の前になにか成功体験をしておくというのは大事なことだろう?弔にとってもきっと良い経験になるはずだ」
だから、その子が生きようが死のうが、それは大したことではないんだ。

そう言って笑うから、今度こそ黒霧は何も言えなくなった。




西側の窓からは病院前の広場が見える。夕日に染まり、オレンジ色になった世界を締め切られたガラス窓越しに名前はベッドの上から眺めていた。まるで夢の中みたいな世界。誰も訪ねては来ない病室は静かで退屈で寂しくて穏やかで、この世界には自分しかいないような感覚すらした。
自己すら曖昧になりそうな境界の時間。
窓の外を見下ろすことにすら飽いて、名前は病室のベッドをぐるりと囲むカーテンを閉めて、うつ伏せに倒れ込んだ。

近頃はどんなに寝ても眠いのだ。眠るたびにあの夢を見る。それはすごく楽しい。楽しいけれど、眠っても疲労が取れなくなってきていた。
寝ているあいだも起きている時と変わらないみたいに休まらない。まるで眠るとあの公園の世界で目が覚めて、あちらで眠るとこちらの世界で目が覚めるような、そんな感覚。体ではなく、頭が休まらないのだろう。それを眠るたびに繰り返している。
眠っているのに、眠れない日々。少しずつ、自分の中で何かが摩耗していくような気がした。
ならば、ずっと眠っていたい。
あの公園で、あの子と遊んでいたい。ロクに働かなくなった頭でそんなことを思った。

風が吹き込んだ。静かな病室に入り込んだ風がカーテンを大きく揺らす。バサバサとカーテンが波打つ音。

そこで、違和感を感じた。
この病室の窓は締め切られていたはずだ。窓を開けた覚えはない。看護師か誰かが開けるはずもない。それにここの窓は防犯のために精々5センチほどしか開けないようになっているから、強い風が吹き込むこともない。

不審に思って、体を起き上がらせる。目線を上げて、そうして、カーテンの向こう側に誰かがいることに気がついた。

靄のかかった人の輪郭がカーテンに影を落とす。
黄昏時。この言葉の語源を思い出した。
誰そ彼?
あなたは、誰?

カーテンの隙間から誰かが青白い指を差し入れる。カラカラと音を立てて開かれる天幕。それは舞台の始まりのように。

「名前」
その名を呼ばれて、私は久しぶりに私が名前であることを思い出した。

「迎えにきたよ」
乾いた声。開かれたカーテン。
灰色がかった薄い色素の髪が夕日に染まってとても綺麗だった。それはいつかの公園で見たあの子のような。

その瞬間、私は黒い霧に包まれた。







「もしもし、塚内くん?ああ、ひとつお願いしたいことがあってね」
「ほら、前に保護した女の子がいただろう。……そう、谷座市の、そうその子」
「いやあ、その子に今週末にでも会いに行こうかと思ってるんだけど……」
「本当かい!ありがとう、助かるよ」
「ああ、なんだかあの子のことがすごく心配でね」
「なにか、力になれたらと思うんだ」





締め切られた伽藍堂の病室で、カーテンが一度だけ揺れて、止まった。