小指の標本

※生存ifのアレクセイと娘夢主(not恋愛夢)


「久々の親子の対面がこうとは。父上もお人が悪い」
そう言いながら少女が独房の鉄格子の前に置かれた簡素な椅子に腰をかけて正面を見据えれば、鉄格子の向こう側、堅牢な密室の中に父と呼ばれた男がいた。
何処からか吹き込む風が2人のよく似た白銀の髪を揺らす。この場に満ちる沈黙。厳しい顔をしていた男は、しかし自身を見つめる少女を見て、すぐに表情を崩した。それから目蓋を強く瞑って、低く唸るように言葉を吐き出す。

「……私はお前のことをいつも怒らせてばかりだな」
「いいえ、怒ってなどおりませんよ。父上が長く屋敷に帰らなかった事に比べれば、一目でもお会いできることはこの世界の何物にも変えがたい喜びですので」
「…………すまない」
「なにがですか」
「なにもかもが」
「わかりません。具体的におっしゃってください」
打てば響くように言葉が返ってくる。打つよりも厳しい言葉なのは己のこれまでの行いのせいだとわかっているから男は、アレクセイは口答えをしない。なにより、随分前に逝去した妻によく似た娘の名前に口で勝てる気がしなかったのだ。故に、言葉は嘘をつけない。

「帰らなかったこと。……これからも帰れないこと」
「そんなもの、今更なことでしょう」
そっけなく返されては、何も言えなくなる。親の不在を今更と呼ぶ程度には諦められているのだと改めて認識させられる。今になって心に浮かぶ後悔を、彼女は見抜いたのだろうか。やはりそっけない声で生み出した言葉を鉄格子の向こうへぶつける。
「反省というものは次に生かすからこそ反省なのです。次に生かせないのならそれはただの悔恨です。そんなもの私のいないところで好きなだけなさってください」
「……ぐっ」
しかし正論だ。この面会とて有限でごく短い時間なのだから、有用に使わなくては意味がない。なにせこれは一度きりの面会。これから先、父子が再び合間見えることもない。

なにせ今宵は稀代の大悪党、アレクセイ・ディノイアの処刑前夜なのだから。

アレクセイ・ディノイアがなにをしでかしたなど、最早語るに及ばず。生きて捕らえられた彼はこの世界の回復を待って、明日の正午その首を落とされる。
そう告げられた時、当然の結果だと彼は受け入れた。抵抗する理由も残す言葉もなかった。

……けれど、処刑に反対する者が幾人かいたと言う。彼の悪徳を罪と断ずるのならば、彼のこれまでの帝国への献身も省みられるべきだ、と。その者たちの名を聞いて、アレクセイは、何かを思ったのかもしれないが、しかし結局何も言わなかった。

とかく、自らの行いの果てにアレクセイは多忙のために長く会っていなかった娘の顔を見た。少なくとも不健康には見えないことに安堵する。しかしそう思う資格が無いことは重々承知していたから言葉にはしない。話すべきことは他にあった。

「名前」
アレクセイは娘の名を呼ぶと、彼女の目を真っ直ぐに見て口を開いた。
「ディノイアの名は捨てなさい。この姓はもうお前の益にならん」
「理解しております」
「帝国からも離れるべきだろう。ギルドを頼れとは言えんが事が落ち着くまでは名を隠し、身分を隠して生きなさい」
「ご進言感謝いたします」
名前はゆるりと微笑んだ。けれど、ちっともうなづかない。「父上の仰る通り、名を捨て身分を隠し平穏に生きてゆきます」と、嘘でもそう言えばよいのに。
「……どうして、お前はそうも頑固なのだ」
「父に似たのでしょう。頑固な方でした故」
「まったく、親の顔が見たいものだ……」
そう返せば名前は鈴のような声で笑った。それから、悪戯っ子のような顔をして父親を見た。

「父上、ディノイアの家督は私が継ぎます」
「……評議会がうるさかろう」
「ええ、爵位を剥奪し、財産を没収すべきと議会は大忙しのようですよ」
「ならば、」
「ですが、皇帝陛下が首を縦に振らないのだと」
アレクセイは薄く口を開けたまま、不意をつかれたような顔をした。そんな彼を見て、娘は微笑んで「私も他人からの処断を待つ身です」と喉を鳴らす。

「どのような事であれ、時が罪を許すことはないのでしょう」
ならば、と彼女は続けた。
「私は守ります。あなたの生きた証を、続いてきたこの血脈を」
穏やかな声、柔らかな表情。その中にある決心。
けれどアレクセイは硬い声でそれを否定する。しなければならない。それが価値もない茨の道を裸足で征くものだと知っていたから。

「それはならない。そんなものは無意味なのだから。家だの血だの、そんなものを守ってどうする。何れにせよそれはいつか風化し、磨耗し、残るものなど何も無い。春の陽光に、冬を越えられずに死んだ花を語ってどうするというのだ」

当然のように与えられる否定に、彼女は「ならば、」と言葉を返す。
「ならば父上、あなたは何故帝国のために生きたのですか。人は死ぬ。国は滅ぶ。千年先、万年先だとしても」

……嗚呼、わかっている。自分の答えと娘の答えは同じなのだと。それでも、同じ道を歩んでほしくはなかった。それを止める力も権利もないと知って尚。ああ、けれども、アレクセイは答える。それだけが彼女に残せる数少ない誠実さだとわかっていたから。

「……それでも、いずれ死ぬと知っていても、目の前で死にゆく者を諦める理由にはならなかった。私は、私の為すべきことを為すべきなのだと思った」
だから帝国を変えたかった。正しさが報われない世界を許せなかった。弱い人間が弱いまま生きていけるようにと願っていた。自分にはそれができるだけの力があった。
その果てが今ここにいる自分だとしても。

だから彼女との問答は最早無意味だった。覚悟を決めた心は揺るがない。揺るがすことなど他人にはできない。どうであれアレクセイはもうすべてを選びきり、彼女はこれからすべてを選んでいく。
終わっていくものと始まっていくものがここにあった。

「……本当に頑固だ」
「父に似たのです」
「……ああ、まったく、親の顔が見たいものだ」
肩の力が抜けたのをアレクセイは感じた。もう、なんらかの立場ある人間として彼女に伝える言葉はない。
もしも、あるとしたら、それは――。

その時ふと、思い出したように彼女は口を開いた。
ああ、そういえばご存知ですか?父上、と。
「この世界に存在する分子は有限なのだそうですよ」
「……分子?」
唐突な話題の変容に訝しげな顔をするアレクセイを見て、彼女はひどく機嫌の良さそうな顔をした。
「そうです、有限な分子の配列が時を経て別の配列へ変わっていく。つまり今、水底で沈む貝は千年後分子の配列を変え、空を舞う木の葉になっているかもしれない。そうしてまた何千年後かに再び別の姿になっていく。けれど分子が有限である以上、その配列もまた有限です。きっといつか、もう一度貝は同じ水底の貝に至る」

そうやって、有限な分子が有限な配列を無限な時間のうちに繰り返していくのならば。

「いずれまた『今』と同じ分子配列が偶然出来上がる」

なんて回りくどい言葉だろうか。けれどもアレクセイには娘の言葉の真意が理解できた。
嗚呼、それはなんて遠回りな「また会いましょう」なのだろう。

理解したアレクセイに気がついて、彼女は微笑んだ。
「その時は帝国なんて捨てて、私と一緒に楽しく暮らしてくださいね、父上」
無理やり交わられた約束。結ばれない小指。永遠に飲まされることのない針。きっと今自分はひどい顔をしている、とアレクセイは思った。なにせ目の前の娘がたまらなく楽しそうな顔をするのだからきっとそうなのだろう。

「……ああ、ならばもう一度お前に会うまで、それまではずっと父親として『反省』をしていよう」
「ええ、是非ともそうなさって」
与えられた面会の時間は本当はとうに過ぎていた。見張りの兵士は、かつての騎士団団長の献身と不器用な親子の情を想ってそれをわざと告げなかった。2人も知っていたけれど、知らないふりをしていた。

けれどいつか終わりは来るものだから。ようやく彼女は軽やかに立ち上がる。ただそれだけのことがアレクセイにはそれがひどく眩しいものに見えたし、遠い福音のようにも思えた。

もう会えないけれど、また会う日まで。
「それでは、父上」
「ああ」
いつか来る、その日までは。

「おさらばです」
「さらばだ」

いってらっしゃい、と言うみたいに。
笑って手を振った。



(2020.10.21)

分子云々の話は鴻上 尚史「朝日のような夕日をつれて」から