「時雨、明日暇ですか?私とデートしましょうよ」
「………………は?俺と?」
唐突にそんなことを言った名前に、時雨はまさかそれが自分に向けられた言葉だと思わなかった。
「時雨の他に誰がいるってんですか」
「伏黒がいるだろ」
「……時雨、あのですね、私にも選ぶ権利くらいはあるんですよ?」
「んだとクソガキ」
さっきまで背後から技をかけられていた事をもう忘れたのか、数分経たぬうちに舐めた口を聞いて再び甚爾にヘッドロックをかけられた名前が助手席で呻き声を上げる。
「ぎゅぎゅぎゅぎゅ」
「俺がテメェの首くらい軽ーく折れること、長生きしたきゃ忘れんなよ」
「んぎぎぎぎ、ばーぎゃ」
「おい今バカつったろ、わかんだよそういうのは」
「がががががががが」
「おい伏黒、やめてやれ、大人げねぇな」
「こういうガキは早めにわからせねぇと延々と大人を舐め続けんだよ」
運転の片手間にタバコに火をつけて時雨は呆れたように息を吐いた。紫煙が開けた窓から流れ去っていくのを流し目で見送る。
「オマエだってどうせ大人を舐めて生きてきたろうが」
「俺はいいんだよ」
甚爾の理不尽な棚上げ。名前も名前で甚爾への反骨精神満載のままギブアップをしないから、助手席のダッシュボードが延々と蹴り付けられる。このままでは時雨の仕事用のワゴンがこいつらに破壊される日も遠くない。
「いいから暴れんな。次やったらもうオマエら乗せねえからな」
名前の代わりに甚爾の腕を軽く叩いてやめさせる。仲が良いんだかわからないが、殺し合わないってことはまあ悪くは無いんだろう。
駅に着いたワゴンはゆっくりと減速し、ロータリーに停車する。
「約束ですよ。明日ここで待ち合わせましょうね。デートみたいにエスコートしてください、ね、時雨」
「おーおー、わかったわかった」
降り際に念押しするように明日の待ち合わせ時間を伝える名前にうなづいてやれば、彼女は嬉しそうに微笑んだ。そうしてその軽やかな気分のまま、跳ねるように助手席が降りた名前が大きくこちらへ手を振って、駅の方へ向かい人混みの中へ消えていく。
「懐かれてんなぁ」
「……なんなんだろうな」
「職質されんなよ」
「やめろよ、洒落になんねぇ」
甚爾が意地の悪い笑みを残して車を降りる。名前と時雨の年齢差は精々一回りと少し程度なのだ。兄弟と偽るには年は離れすぎていて、親子と嘯くには年齢が近すぎる。実際の関係としては犯罪を斡旋する側と実行する側だ。本当に洒落にならない。
しかし、それにしても、
「……なんなんだろうな、本当に」
2人が去った車内でひとりごちる。別の仕事がある、と嘘をついて断ってしまえばよかったのだろうか。
けれどそうすることができなかった以上、自分の未来などもう定まり切ったようなものだ。時雨は自嘲じみた溜息を吐いて、短くなったタバコの火を押し潰して消した。
「時雨ー」
翌日、待ち合わせの5分前に着くように向かっていたのだが、着いてみれば名前の方が先に来ていた。それまで吸っていたタバコを唇から離して落とし、靴裏で火を消して名前のもとへ歩みを進める。
「おう、早ぇな」
「5分前は別に早くないでしょう」
馬鹿言え、伏黒なら絶対来てねぇよ、と言えば名前はけらけら笑って「でしょうねぇ」と喉を鳴らした。
「今日はどこ行くんですか?」
背の高い時雨を見上げて名前が問いかける。歩くたびに彼女の淡い色合いのワンピースの裾がゆらゆらと揺れた。
休日までスーツを着る趣味はないが、彼女の隣をスーツ姿で歩かなくてよかったと、無地のシャツにデニム、その上にカジュアルなジャケットを羽織った時雨は思った。これでいつものようなかっちりとしたスーツなど着てみろ、確実に職質される。
「行きたいところがあるならどこにでも連れてくが」
どうする、と問えば名前はこちらを見上げて、少しばかり照れたような顔をして口をまごつかせた。それから少しの間をおいて口を開く。
「えっと、動物園とか、行ってみたいです」
笑われたりしないだろうかと照れの中に恥が混ざったような顔でこちらを見る名前に、時雨は全く気がついていないふりをして「おー、いいぞ。行くか」とごく軽く返した。時雨のそのなんてことないような返事に隣を歩く少女は安堵を滲ませた表情で「はい」と笑う。それを盗み見て、時雨は自分が彼女にとって正しく行動出来たことを認識する。
人に歴史ありというのなら時雨だってそれなりの人生を歩んできた。社会を守る側である刑事だった人間が、社会を混乱させる側である呪詛師界隈の仲介人になる程度には風変わりな道程。
けれども根っこのところで彼には常識と倫理観があった。この界隈にいてもイカれ切れず、狂い切れない自分に気がついている。多分死ぬまでこのままだ、と他でもない本人自身がわかっていた。
わかっているからこそ、動物園にさえも行ったことのない子供が何十人もの人間を殺さなければ生きてさえいられない現実に吐き気がする。
呪術師ってのはクソだ。時雨はずっとそう思っている。
まだ子供である名前のことだから動物園の動物を見たら興奮して声をあげたり駆け回ったりするかと思っていたのだが、予想外なことに彼女は入園してからずっと時雨のそばを離れない。むしろ若干腰が引けている。
「どうした。ほら、あっちとか象いるぞ」
「えっ……でか……こわ……」
柵の向こうでのんびりと歩く象を指差してやるが、名前は時雨の服の裾を掴んでピッタリとくっついたまま割と本気で怖がっている。ちょっとよくわからない。
「何ビビってんだよ」
「だって鼻長いし4本足だしどこ見てるかわかんないし、思ってたよりずっと変な形してるんですもん……」
「変って、普段から変な形の呪霊とかわんさか見てんだろ」
「呪霊は呪霊だから変な形をしてるのは当たり前じゃないですか。でも動物って呪霊じゃないのに変な形してるから怖いです」
遠足に来ているのか、小学低学年も思わしき子供の群れが象の柵の前で楽しそうに手を振ったり歓声を上げたりしている。それを見た名前が「子供は恐れを知らない……」と呟くのに小さく笑いながら言葉を返す。
「オマエも子供だろうが」
「……象じゃないところに行きましょう」
わかりやすくムスッとした顔をする名前に思わず笑った。笑ったためにこちらを見上げる不満そうな顔もやはりただの子供だった。
象がダメならキリンもダメだろう。大きかったり、奇抜な色合いだったり、あとはカバみたいに形が身近でない生き物もおそらくダメだ。そうなると小動物か鳥あたりかと考え、彼女が怖がりそうな生き物を避けて連れ出す。その結果、結局名前が一番関心を持って眺めていたのは屋内展示のハダカデバネズミだった。
「……なんかそいつら気持ち悪くねぇか」
「変だけど、好きです」
「……そうか」
体毛が極端に少なく、その上やけに柔く弛んだ肌を持つ割とデカいネズミが透明なチューブ状の展示の中で縦横無尽に走り回る姿は時雨にはなんとも言えず不気味に見えたが、名前にとってはそうでもなかったらしい。そばまで近寄ってもう長いこと興味深そうに見つめている。
デカいミミズみてぇだな、と口に出したら文句を言われそうなことを考えながら、ネズミを眺める名前の背中を見ていた。別にタバコを吸うだのなんだの理由をつけて離れることは出来た。けれど、なんとなくそんな気にもなれなくて時雨は少し離れたベンチに座って静かに、臆病で小さな子供がめいっぱい満足するのを待つ。
やがて時雨のところへ戻ってきた子供はどこか満足げな顔をして時雨の隣に座った。ふーっと吐いた息には謎の達成感じみた音が混じっている。
「よかったか」
「うん。はい、とても」
そりゃなにより。そうこうしているうちに世界はすっかり昼下がりになっていて、時雨と名前は動物園へを出て少し歩いた先にあった小さな洋食屋へ入った。
店員は初めこそ関係性のわからない2人組をやや警戒していたようだったが、メニューを広げた名前がああだこうだと時雨に懐いた様子でにこにこ話しかけるのを見ているうちにその警戒も薄れたようだった。
どうせ金を出すのは時雨だ。その時雨が好きに注文していいと言ったせいか、育ち盛りの名前はオムライスだのハンバーグだの4、5人前程度を本当に好きに注文した。「本当にそんな食えんのか」と問えば、「育ち盛りなので」と口角を上げて返される。
2人は運ばれてきた料理を食べ、たわいのない話で談笑をする。その最中、時雨は本当は長く気になっていたのだけれどなんとなくタイミングを掴めなくて聞けずにいた問いかけを、まるで今思い出したみたいな声音で口にした。
「そういや、名前」
「はーい?」
「今、
脈略もない抽象的な質問だったが、名前はすぐにその意味を理解して「ああ」とうなづき、答える。
「昨日の4人を足して、55人になりましたー」
そんなふうに彼女がなんでもないみたいに言うから、時雨もなんでもないみたいに「そうか」と返す他なかった。事実、時雨はただ彼女が
「……大丈夫か」
時雨はそんな気の利かない問いかけをしてしまった己に自己嫌悪する。大丈夫かと問うて、大丈夫じゃないと返されたって何もできやしないくせに。
けれど、名前はいつも通りヘラヘラ笑って「なんですかぁ急に。大丈夫に決まってるじゃないですか」と軽く答えた。
時雨はそれが嘘だと知っている。そんなわけが無い。大丈夫なわけが無いのだ。
時雨の目の前で呑気に笑う名前は呪われている。
比喩でもなければ冗談でもなく、彼女は生まれた瞬間から呪われていた。まだ子供と呼べるこの小柄な体は「二十歳の誕生日までに術師を99人殺さなければ死ぬ」という呪いに今もなお侵されている。
それは呪術師であった彼女の父親が自身にかけられた呪いをまだ母胎の中にいた子供に移したもの。
名前は犠牲だった。父を生かすための人柱。生まれる前から死ぬことを望まれた子供。死ぬ為に産み出された生命。
既に相伝術式を継いだ後継がいるからという理由で、次に産まれる子供を犠牲にするなんて、それなりに血を繋いだ呪術師の家系ならば至極当然の思考なのだ。
呪術師ってのはクソだ。
時雨はそう思っている。
だから、死にたくなくて、生きたくて、そのために一族郎党父親さえも皆殺しにして呪詛師になったこの子供を、99人を殺す道を選んだ名前を見て、少し安堵したことを覚えている。人は生きるために生きていい、と彼はそう思っているから。
「時雨」
名を呼ばれて、深い思考の海に陥りかけていた意識が現実に帰る。それを気取られないように目の前の少女に視線だけで、どうした?と問い掛ける。そうすれば名前は「デザートも頼んでいいですか?」と甘えるように微笑んだ。
少し遅い昼食を終えて、それからは名前の気の向くままに周辺を歩いた。気になるところを見つけては時雨の腕を取って引っ張り、そうでなければただ楽しそうに辺りを眺めながら彼の先を歩いた。時雨は少し後ろを歩いたまま、紫煙を燻らせて着いていく。
ただそれだけの穏やかと呼べるような日。
昨日人を殺したとは思えないほど、そして明日罪もない子供を殺すとはまるで思えないほどに穏やかで平穏な時間だった。
時折、幾つか持っているツテや盤星教の連中と連絡を取り、星漿体とその護衛が沖縄から動いていないことを確認する。昨日の想定通り、彼らは沖縄にいるうちか、或いは飛行機で移動中に懸賞金の取り下げ時間を迎えるつもりだろう。
名前にもそのことを伝えると彼女はのんびりと「死ぬ直前まで楽しい思い出作りたいですもんねえ」と何処か外れた感想を返した。
少しずつ暮れ始めた日に気がついて名前が「最後に東京タワーに登りたいです」とねだった。
「あれでしょう!恋人同士は0時になった瞬間に東京タワーにフーって息をかけて電気を消すんですよね!」
「どこで知ったんだよそんな知識」
「なんかで見ました!」
「やりましょうよ、フーって!」と時雨の腕を取る名前に「そんな時間まで未成年連れ回せるか」と彼より低いところにあるその頭を掻き回す。
「ったく、明日が仕事本番だってこと忘れんなよ」
「忘れるわけないです。楽しみにしてるんですから」
2人が東京タワーの特別展望台に登った時にはもうすっかり日は暮れていた。夜闇を掻き消すほどの人工的な光が地上を満たす。それをガラス越しに見た名前は「わあ……!」と歓声を上げた。本当ならその歓声はもっと早く、動物園あたりで聞けると思っていたのだが。
展望台のガラスギリギリに顔を近づけて世界を眺める名前に倣って、時雨もガラスに近づいて外を眺める。高いところにはしゃぐような歳ではないにしても、それは悪くない景色だった。
普段からこんなものなのか、今日たまたまそうだっただけなのかわからないが、展望台は案外人が少ない。2人並んで同じ場所に立ち続けてガラス越しの世界を見つめていても、誰にも何も言われないのはよかった。
「時雨」
服の裾を引かれて、隣を見る。こちらを見上げる顔の表情は穏やかに微笑んでいたのに、どうしてかそこにある感情は時雨にはよくわからなかった。
「あのね、時雨。私、本当は呪いで死んだってよかったんですよ」
唐突に、ごく穏やかにそんなことを言うから、時雨は内心ひどく驚いて、けれど刑事時代から作り慣れてしまったポーカーフェイスはまるでなんでもない顔を作って名前を見つめた。
「なんだよ。急にどうした」
「話したくて、私の呪いのこと。知ってるのは時雨だけですから」
少女が縋るように時雨の服の裾を掴んで、言葉を紡ぐ。時雨はそれを黙って聞いた。きっとこの子供はただ話を聞いてほしいだけなのだから。
「自分の呪いのことは子供の頃からずっと家族から聞かされていました。私は父の代わりに死ぬ為に生まれたんだって。それが私の生きる理由なんだって。別にそれで良かった。私の生に価値がなくても、死に価値があるならそれで十分だって思えてました」
だから、と言葉は続く。
「母様が私を
名前の母が死んだのは彼女が6歳の時。
襲って来た呪詛師から名前を庇って死んだ。
幼子の視界から呪詛師を遮るように正面から抱きしめ、彼女は呪詛師が飛ばす呪具から我が子を守って、そのまま呪いに侵されて死亡した。母の肉体の温度が消えて、抱きしめられていた腕から力が抜けていくのを静かに感じながら、少女は己の母は間違った選択をしたのだと思った。
名前という人間は生まれた時からある呪いにかけられていた。呪いの名は『時限薤露』。
それは「二十歳までに術師を99人殺さないと死ぬ」という呪い。
元は彼女にではなく、次代の当主になる名前の父が18歳の頃にとある呪霊に掛けられたものだった。呪霊そのものは祓ったものの、むしろ祓ったことにより残された呪いは解呪不可能なものとなって彼を蝕んだ。しかし死を恐れた父と、後継を失うことを恐れた家の者達はその呪いを別の人間に移すことにした。
そうしてそれは、当時まだ母の胎の中にいた胎児に移される。何も知らずに子宮の中で眠り続けていた子供は祝福されることもなくやがて呪いと共に生まれ落ちた。
初めから死んでもいいと願われて生まれた人間だった。ただ呪いによって死ぬためだけに生まれてきた。己の価値は「死ぬこと」だけ。だから何よりも優先的に死ぬべき人間だ。彼女は生まれた時からそれを知っていた。だから、自分を庇って死んだ母は間違っている。
どうせ名前は二十歳になれば呪いと共に死ぬのに。
無駄死にだったと誰もが言った。
救われた子供もそう思った。……けれど、本当に?
「放っておいてもそのうち勝手に死ぬ子供を庇って死んだ人を見て、急にわからなくなったんです」
「なにが、わからなくなったんだ?」
「自分が死ぬ価値が。……違う。私の為に死んだ人の価値が私の死で失われる意味がわからなくなったんです」
ぽつりぽつりと言葉が生まれては落下していく。
その落下していく言葉を丁寧に拾っては、時雨は名前の頭に手を置いた。
名前は思う。
全ての命に価値はある。だから全ての死にもまた価値はある。その根底は揺らがない。だから母のあの死にさえも絶対に価値はあったのだ。その価値とは一体なにかを私は考える。考える。考えて一つの結論に至る。価値とはきっと私が生きていることだ。母は私を守るために死んだ。だから母の死に見合うだけの価値が私の生にはある。そうでなくては
私の生には価値がある。それは母がその死をもって証明した。だから私は生きなくてはならない。私は生きるべき人間だ。何を犠牲にしても。
呪いを解く方法はふたつ。
ひとつは呪いにかかった人間が死ぬこと。
もうひとつは呪いにかかった人間が術師を99人殺すこと。
だから選んだ。後者を。
失わせない。私のために死んだ者の価値を、私が生きることで証明しなくてはならない。
……本当に?
本当に命に価値はあるの?死に価値はあるの?私に価値はあるの?母の死に価値はあるの?私が殺した人々の命に価値はあるの?命の価値とはなに?価値がなければ生きていてはいけないの?
命の価値が生きる権利ならば、それは私の父親の思想と変わらないんじゃないの?
「……難しいこと考えてんな、オマエは」
ガシガシと名前の髪の毛を乱すように撫でる。抵抗のない名前はされるがまま頭をぐらぐらと揺らして口を開く。
「……それはだめなことでしょうか?」
「ダメじゃねぇよ。ガキなんだからクソほど考えて結論出しゃいい。けど、俺は生きる意味とか死ぬ価値とか考えて生きてねぇからよ」
何故、どうして、と問いかけるようにこちらを見るその表情が少し幼いことに少し笑って、時雨は言葉を続ける。
「生きてる人間にはただ「生きてる」って事実が、死んだ奴には「死んだ」って事実があるだけだ。生き死にの価値や意味なんか考えたって人それぞれの主観でしかねーだろ。だから無駄だ。考えても人と同じ答えなんか出ねぇからな。だから全員平等に価値が無いし、意味も無い。俺はそういうことにしてる」
「……それでいいのかな」
「いいと思って生きてる、俺はな。俺は俺の命に価値があるとは思ってねぇし、価値がない奴だって生きてていいと思ってる」
とまで言って、時雨は「あー、いや、違ぇな」と頭を掻いて言葉を探す。それからそれらしい言葉を見つけられたのか、そうだな、と一言置いて再度口を開いた。
「価値とか意味とか関係なく生まれたから生きてる。生きることができる限り生きる。それだけだよ、俺は」
……嗚呼、と名前は内心で深く嘆息する。
「それで、いいのか」
きっと私はずっと、そんな答えが欲しかったのかもしれない。
価値を求めたのは後ろめたかったから。
意味も欲したのは肯定したかったから。
他人の命を犠牲にしなければ生きられないこの命を肯定したくて、だから母を理由にした。母のせいにした。
浅ましいこの感情。それでも隣に立つこの大人はきっと私のそんな感情さえも否定しないのだろう。
そんな彼の価値観の世界ならば、私は生きていていいのだろうか。沢山の人を犠牲にしなければ生きられない無様な命だけれど、それでも生きる手段のある私は生きていてもいいのだろうか。
「いいだろ、別に」
「……そっか」
いいのか。生きたいから生きてて、いいのか。
そう思えた瞬間に安堵する。
固執していた過去の自分の価値観を容易く捨ててしまえる自分に幻滅しながら、それでも彼の言葉で軽やかになる心を否定できなかった。
「そっか、そっか。そっかー?」
「……今度はなんだよ」
「時雨にとっては全員平等に価値が無いし、意味も無いんですよね」
「まあ、そう言ったな」
「じゃあ、時雨にとっては私も他人もおんなじ価値しかないんですか?甚爾も私も同じ扱いなんですかぁ?」
急にふざけるように頰を膨らませた子供。笑いながらどこかこちらを責めるような口調がいやに子供っぽくて笑ってしまいそうになる。
「あー、まあ、そうなるな」
「じゃあなんで私には優しくするんですか。話聞いてくれて、一緒にデートしてくれるんですか」
「そりゃあ、お前がまだ子供だからだよ」
「じゃあ大人になったら優しくしてくれないんですか?デートもしてくれなくなるんですか?」
「なんだ、急に質問攻めにしやがって」
「時雨が言ったんですからね。みんな平等に価値が無いって」
戯けたふりをしながらも何処か拗ねるような声を出すから、やはり子供だなと時雨は思って安堵する。
……安堵する。この子供へ「生きていてほしい」と願った人間がいたことに。そしてその思いのまま行動に移すことのできた人間がいたことに。それから、それがもういないことを思って、微かな寂寞。
時雨はそれにはなれない。この子供に生きていてほしいと思うことはできても、その願いを叶えるために己の命を投げ出すことはできない。
それでも時雨は、今隣に立つこの子供が生きて笑っていることに無性に安堵してならないのだ。
その理由についてはまだ目を逸らしてしまうけれど。
「私、時雨が好きですよ。優しいから」
「バーカ。オマエみたいなガキ、可哀想だから付き合ってやってるだけだ」
そう突き離すみたいに言ってみるけれど、名前は機嫌良く「いいですもーん」と時雨にわざとぶつかってはじゃれつく。
「だって、私のこと子供扱いして憐れんで優しくしてくれる人なんてこの世界に時雨しかいないから」
そう言って、綺麗に笑う。
きっと、時雨を優しいなんていう人間もまたこの世界に名前しかいない。正しく在れない自分を否定も肯定もできないまま無様に生きてきた男の過去など知っても知らなくても、彼女は笑って当たり前のように今この瞬間の孔時雨という人間を肯定するのだろう。
まともに生きられない人間2人が互いを肯定しあったって、何にもなりはしないだろうに。
けれど、そんな名前をつけることも出来ない関係が、どちらかが死ぬ最期の瞬間まで続いていくような気がした。
こんなものに意味は無い、価値も無い。
無いけれど、それでも忘れずにいようと2人は思った。
今日のこの、誰かに肯定される微かな安堵と喜びを。
・・・
星漿体暗殺 3日目。
作戦は前々から決まっていた。
星漿体およびその護衛が高専内結界に入ったことを確認後、呪力の一切ない甚爾が彼らを尾行。高専内の結界は未登録の呪力が発生することでアラートが鳴る。つまり、甚爾が能動的に戦闘を始めなければアラートは鳴らない。
甚爾が結界内で星漿体およびその護衛を殺害。名前はアラートの発動によって増援に来た術師を甚爾の元へ向かわせないようすべて殺害する。
そして甚爾が星漿体を回収後、合流して帰還という流れ。
それらはすべて想定通りに終わった。
「あれ、甚爾、耳のとこ切れてますよ?」
こっちの耳、と左耳を指さす名前に甚爾は確認もせずに「あー、こんくらいすぐ治る」と返す。天与呪縛のフィジカルギフテッドは大体の傷なら痕もなく治すことをこれまでの経験で知っていた。
「これでお仕事終わりですよね。じゃあ今晩3人でご飯行きましょうよ!報酬のお金で!」
「ハッ、なんで仕事終わってまでテメェらと飯行かなきゃなんねーんだ」
合流した名前と、時雨との待ち合わせ地点に向かいながら、人を殺してきたとは思えないような呑気さで2人は話をする。誰かと戦うのも、誰かを殺すのもごく当然の事象になった人間などこんなものだ。
「よお、終わったか」
「ああ、首尾良くな」
「時雨ー、今日ご飯行きましょー」
ワゴンに乗り込んだ甚爾と名前を見て、時雨はすぐに車を出した。これから盤星教本部へ向かい、星漿体である天内理子の遺体を引き渡しに行く、のだが。
「あ、私途中の駅で降ろしてください」
「なんだよ、テメェは来ねぇのか」
「もう術師殺せないんですよね?じゃあ興味ないです」
「オマエもほんっと自由だな」
わかったわかった、と時雨が助手席に座る名前の頭を軽く撫でる。
「時雨も今晩一緒にご飯行きましょうね。前に接待で使ってるって言ってた銀座のお寿司さんに行きたいです」
「……一緒にって、まさかこの3人で飯食いに行くつもりか?」
「そうですよ?」
子供はすげぇな、と時雨は素直に思った。まぐろーサーモンほたてーと歌う名前に気が抜ける。この3人で仲良く寿司を食う……。まるで想像がつかなかった。
駅に名前を降ろして、今度こそ盤星教本部へ向かう。車を発進させる直前、時雨が窓の外を見やれば、名前は相変わらずのヘラヘラとした笑顔のままこちらへ手を振っていた。その暢気な姿に少し、笑った。
「おいニヤついてんぞ、条例違反。昨日楽しかったか」
「うるせぇな、何もしてねぇよ」
「……は?正気か?マジで何もしてねぇのか?」
「ガキ相手に手ぇ出してたまるかよ」
時雨が運転しながらなんでもないようにそう返せば、何故かムカついた顔をした甚爾に強めに運転席を蹴られる。……訳がわかんねぇな。
昼間はよく晴れていたのに、日が沈んだ途端この時期にしては冷たすぎる雨がこの街に降り注いだ。空を見上げてもそれが夜だから暗いのか、雲に覆われているから暗いのか判別がつかない。
名前はラフな格好のまま、人々が行き交う駅前で2人が来るのを待っていた。一方的に交わした約束だから彼らは来ないかもしれない。それでもよかった。来ないなら今度会った時にそれを理由に詰ればいい。来たのなら、それはまあ、嬉しいけれど。
名前はこれまでのことを思い出す。人をたくさん殺めたこの3日間を楽しいと言うのはおかしいかもしれないけれどそれでも過ごした時間はとても楽しかった。時間が、というよりもあの2人といるのが居心地良かっただけかもしれない。彼らと彼女は少しだけ似ていたから。
彼女も彼らもひとりひとり異なる地獄を自身の中に内包している。その地獄の中でしか己は生きられないのだと皆認識していた。認識した上でなんでもない顔でそこにいた。
人は他人の地獄を歩くことなんてできない。当たり前のことだ。自分の地獄は自分の足で歩く他ないから。
それでも、何処かで彼らもまた似て非なる地獄を歩いているのだと思えば、少しだけ笑って灼かれることが出来る気がしたのだ。
時間が経つにつれて強くなっていく雨脚に、傘を差して歩く人が増えていく。たくさんの人々が行き交う雑踏の中、不意に誰かがこちらへ近づいてくることに気がついて、名前は目線を動かさないままその人物へ意識を向ける。やがてそれが見知った気配だと気がついて、ゆっくりと視線を向けた。
「よう、名前」
「時雨」
昼間に別れた時と変わらない黒いスーツのまま、ビニール傘を差した時雨がこちらに軽く手をあげて近づいてきた。名前もまた手を振りかえして微笑む。それから、彼1人でいることに気がついて、口を開こうとした時、
「伏黒なら来ねえよ」
先手を打たれる。問いかける前に答えを返されたから、開きかけた唇は違う音を発そうと形を変える。
「ドタキャン?」
「似たようなもんだな」
気安い物言いで、けれど時雨は笑っていなかった。だからなんとなくこれからされる話が決して楽しいものではないらしいことを察する。名前の隣に来て、屋根の下、タバコに火をつけて彼は言った。
「死んだよ」
誰がと問う必要も、本当かと確かめる必要もなかった。情報を商売にしているような男がそんな嘘をつくとは思えなかったし、もしつくとしてもこんな馬鹿げた嘘をつくはずもない。だから、それは真実なのだろう。
「そうですか」
だから、受け入れた。数多の人々が群衆という塊となって蠢くこの世界にもうあの男という個人は存在しないのだと、その事実が名前の脳に当然のように上書きされる。
時雨は隣に立つ名前を見て、それから紙切れを一枚彼女に押し付けた。
「なんですかこれ」
「アイツの分の報酬」
「えっ、いや、いらないんですけど……」
「貰っとけ。オマエ以外に受け取り手がいねぇんだ」
「時雨が貰えばいいじゃないですか」
「こちとら信用商売なんだよ。どんな理由であれ他人の報酬に手ェ付けたなんて知られりゃやってけねぇ」
時雨は名前のアウターのポケットに無理やり小切手を捻じ込んだ。困惑が混じった表情でこちらを見つめる少女に「要らなきゃ適当に捨てりゃいい」とだけ伝えて。
「……それにして、案外あっさりしてんな」
「当たり前でしょう。一昨日まで私の世界にいなかった人間ですよ」
そもそも人を殺すことに躊躇いのない人間が、たかが顔見知りが1人死んだ程度でどうこう言うはずもない。
その言葉通り、然程気にした様子のない名前に、時雨は内心で、ガキだろうがなんだろうが女ってのは逞しいもんだな、と思う。名前はアイツに懐いていた、と少なくとも時雨にはそう見えていたから。
「時雨は悲しいですか?あの人との付き合いは長かったんでしょう」
そう時雨へ問いかける声はこちらに質問する程でありながらも「どうせなんとも思ってないのだろう」と確信したようなものでもだった。しかし、それも事実だ。
「……まあ、悲しいとかそういうのはねぇな」
だが、と時雨が言葉を続けて、名前は隣に立つ時雨を見ないまま黙ってこちらに耳を傾ける。通りすがる人々はこちらを気にする様子もなく、足早に去っていくばかりだ。誰かを待っているわけでもないのに、2人はその場に立ち尽くしたまま話をする。
「アイツが死ぬとは思わなかった」
我ながら馬鹿げたことを言っているとわかっている。それでも、それは本心だった。
「誰だろうがいつか必ず死ぬってのを疑ったことはねぇ。けど、毎日そんなこと考えながら生きやしねぇだろ」
いつか、という日が今日だとは思わなかった。
結局のところ、それだけの話だ。
「……ふふ、確かに、びっくりはしましたね」
「だろ?あの野郎、驚かせやがって」
喉を鳴らして、2人笑う。そんなもんだ。
時雨が傘を開けば、傘を持たない名前は当然のようにその中へ入った。時雨もまたそれに何かを言うこともなく、歩調を合わせて歩いてやる。
「どうする、飯」
「時雨おすすめの韓国料理屋を紹介してください。辛いものの気分です」
「なんだよ、昼間あんだけ言っといて寿司じゃねーのか」
そう笑うように言ってやれば、名前が「だって、」と子供の言い訳みたいに口を開いた。その、彼女の溢した声に少しだけ濡れた音が混じることに気がついて、時雨は内心の感情に揺らぎを抱えつつも歩調を変えずに歩いていく。
「だって、お寿司は3人で食べたかったんですよ」
時雨も名前も少しだけ後ろ髪が引かれるような感覚があって、何もないはずの背後を振り返りそうになった。けれど、一度耐えるように目を瞑って、開いて、前を向き続ける。
振り返ってはいけないとわかっていた。
だから、叶わなかった約束を振り返りはしない。塩の柱になるから。
雨は深夜になっても止まなかった。
・
・
・
2018年5月某日13時
呪術高等専門学校東京校1年、伏黒恵は渋谷にいた。
なんてことはない。
どうせあの人のことだから5分前後、「ごめんごめーん」で許される程度の遅刻してくるに決まってる。それなりに長くなってしまった彼との付き合いでわかっているけれど、相手が遅刻するからと言ってそれは恵が時間通りに行かない理由にはならない。
だから彼は5分前には待ち合わせ場所について、どうせ遅れてくる恩師を携帯を弄りながら待っていた。
「あのー、すみません」
声をかけられたのはその時だった。悪意も敵意もない一般人からの声かけに警戒するほど恵は繊細では無い。彼は顔を上げて、その人を見た。
黒のノースリーブハイネックにカーキ色のアウター、ダメージジーンズを履いた見知らぬ女性が明確に伏黒恵という個人に声をかけてきていた。恵よりは年上だが、まだ若い。20代半ば程度だろうか、それこそ五条と同じくらいに見えた。
目が合うと、その人は染めて少し傷んだような金髪を揺らして微笑んだ。
「えーっと、あの、伏黒恵さんですよね」
見ず知らずの他人に名を呼ばれたその瞬間、恵は目の前の丸腰の女性への警戒を最大に高めた。
恵は見ず知らずの人間に名を知られているような著名人ではない。ただし、呪術界隈となると話は別だ。五条悟の生徒、禪院の血筋。呪詛師に悪意をもって狙われる理由は残念ながら外的要因のためにあった。
僅かに腰を落とし、半歩足を引いて、両手を空ける。もし目の前の人が悪意をもって襲ってきても対処できるように。……対処、できるだろうか。この渋谷駅前という人混みの中で、一般人を守りながら戦うことができるだろうか。
その強い警戒は彼女にも伝わってたらしい。「あー、いやー、違うんです……」と半笑いでホールドアップされる。
「……アンタ、誰ですか」
「名乗るほどのものでも無いんですけども」
「それは善行をした人間のセリフです」
「ま、まだ悪いこともしてませんよぉ」
……その緩い物言いに気が抜ける。丸腰、武器もない。勿論術師ならば恵のように手元に武器がなくとも戦える者がいるのはわかっている。だが、それにしてもヘラヘラ笑うこの人からは戦意が感じられなかった。
「名前と目的と俺の名前を知ってる理由を答えてください。さもなくばこちらに敵意があるとして捕縛します」
「名前です。貴方に渡すものがあって来ました。貴方の名前を知ってるのは私が貴方のお父様の元仕事仲間だからでーす」
……素直か。
名前と名乗ったその人は今考えた嘘とは思えない流暢さでそう答えた。それにしても、父親、か。
「……言っときますけど俺はもう父親と何年も会っていません。顔も覚えていないし、血の繋がってるだけの赤の他人だ」
だから彼女が何者か知らないが、父親を理由に俺と接触しても無意味だ。この身はどこにも繋がっていないのだから。
けれど彼女は何処か穏やかな表情で「……ああ、そっか、君は知らないよねぇ」と小さく呟いた。それは恵の言葉への返答というよりかは、自身の中で何かに気がついたような、納得したようなこんな声音だった。
「あー、まあ、私も別に君の父親に用はないんですよ」
君個人に用があるので。そう言って彼女はなんともなしに取り出した紙を恵に渡した。それをすぐに受け取るほど恵は彼女を信用していなかったし、名前もそれをわかっていた。
だから恵の服の首元に無理やりそれを捻じ込んだ。
「なっ、にすんだ、アンタ!」
「煮るも焼くも捨てるも拾うも君の好きにしてください」
慌てて身を引くけれど、その紙には何の害も呪力もなくて、恵は仕方なく諦めたようにその紙を手に取った。見慣れない長方形の紙を広げて、それを見る。
それは初めて見るものだったが、それがなんなのか、恵はすぐに理解した。
その紙にはわかりやすく「小切手」と堂々と書かれていたからだ。そこに書かれた金額を見て目を見開く。少なくとも恵にとってはとんでもなく高額と呼べる値だったから。こんなの受け取れるわけがない、と言いかけて、その前に名前が言葉を紡ぐ。
「それ、私にとって呪いみたいなものなんですよ」
呪い、というワードに思わず顔を上げて目の前の女性を見やる。
「もっと早くに手放すべきだとわかっていたんだけど、なかなかそうもいかなくてですね。まあ、主に君の身元引受人が理由なんですけど」
とにかく、と彼女は雲間から差し込む光のように笑った。それは或いは、長い旅路の果てにようやく至るべき場所へ辿り着いたような晴れやかさで。
「それは君が受け取るべきものだと私は思いました。だから君に渡します。君は道でつまづいたくらいのことだと思って受け取って欲しい。……要らないなら捨てたっていいからさ」
その表情に、きっと自分が突き返してもこの人は絶対に受け取らないとわかってしまったから。恵は黙って小さくうなづいた。それだけで安堵したように微笑むから、きっとこの選択は正しかったのだろう。
そうして彼女はじゃあ!と手を振って、去り際にやっぱり笑った。笑って、嫋やかに傷を残していく。
「君のその『恵』って名前、」
その穏やかな表情に、伏黒恵という人間を通して何かその先の遠い向こう側にいる誰かを見るような瞳に、微かに怯む。
「すごく素敵だ」
とそれだけ残して、彼女は絶え間なく行き交う人の群れの中に紛れて消えてしまった。ほんの5分にも満たない瞬きのような逢瀬で、恵にささやかな傷をつけて去っていった人。
もうあの金髪はどこにも見えないのに、恵は五条が来るまでずっと、雑踏を見つめて立ち尽くしていた。
人に、縁に、愛に、人生に恵まれますようにと祈ってつけられた名前を少しだけ羨んだ。
せめて名前だけでも愛されていたのだと、望まれていたのだと私も思いたかった。それが子の勝手な思い違いだとしても構わない。そんな、他人のものを欲しがる子供のような浅ましい駄々。
それにしても、あんな優しい名をあの男がつけたとは思えないから、きっとつけたのは彼の母親の方だろう。とても優しくていい人だったに違いない。私の母様のように。
「しかし、似てたな」
思い返して、笑う。笑って、それを誰かに伝えたくなって、名前は掛け慣れた番号に電話をかけた。
「もっしもーし、時雨ー?今日暇ですか?ご飯行きましょうよ、時雨の奢りで。わははー、切らないで」
たくさんの人、人、人。あらゆる異物さえも当然のように受け入れる街で、名前を気にかける人なんているはずもない。
それはまるで自由みたいだ。
「そうだ、話は変わるんですけど、」
長い付き合いになる彼にずっと聞いてみたいことがあったのだ。タイミングを逃してずっと聞けていなかったけど、丁度いい。名前は笑って口を開いた。
「もし時雨が誰かと結婚して子供が産まれたとして、その子供が私だったらなんて名前をつけてくれますか?……って、なんで急に咽せてるんですか?」
オマエのせいだろうが、と電話越しに咳き込みながら返してくる男の声に笑って、名前は人波と共にスクランブル交差点を渡っていく。
よく晴れた穏やかな春の日のことだった。