千切れる逆光

七海建人は知っている。







ゲラゲラと喧しい笑い声が廊下にまで響いていた。

それが鼓膜を揺らした瞬間、七海は不愉快げに眉間に皺を寄せる。聞き慣れた笑い声がひとつ上の先輩らのものだとわかってしまったからだ。できることならば聞かなかったことにして早く寮に戻りたかった、のだが。

「先輩たちだ!」
共に隣を歩いていた同輩の灰原がその笑い声を聞いて、嬉しそうに微笑んだ。人懐っこい彼は邪気なく「楽しそうだね、顔出そうよ!」と七海の腕を取って、笑い声の元である自販機のある休憩室にさっさと歩いて行ってしまう。
「絶対に面倒ごとに巻き込まれる……」
「きっと楽しいよ!」
あの先輩たちを見て、尊敬できます!と思えてしまうような灰原なら何処にいたって楽しかろう。七海はこの後やってくるであろう厄介ごとを想像して、溜息をついた。しかし、同級生をあのクソみたいな先輩たちのところへひとり放置して帰ることもできない。仕方なく七海も灰原と共に休憩室へ顔を出した。


「あっはっはっはっは!バカじゃん!ばーか!」
「ふっ、ふふふ、やめなよ、悟。そんなに笑ったら名前に悪いだろう。ぶふっ!」
「………………」
休憩室では五条と夏油が、苗字を囲んで、かごめかごめのようにその周りとくるくる回ってはゲラゲラと笑っていた。
何も知らない人間がこの光景を見たら、でかい男二人がひとりの少女を虐めているように見えただろうが、高専の人間ならば囲まれている女性が彼らに虐められるような性質の人間ではないとすぐに理解できる。
彼女が言われるがまま黙り込んでいるのは爆発の直前の静寂、嵐の前の静けさに他ならない。

そんな意味のわからない光景を見た瞬間、七海は無理してでも灰原を寮に連れて行くんだった、と速攻で後悔した。
此処にいては絶対にその嵐に巻き込まれるとわかってしまったからだ。

「あっはっはっはっはっは!なあなあ名前!今どんな気持ち?どんな気持ち?」
「気にする必要なんてないよ、名前。誰にだってミスはあるさ。例えそれがどんなに初歩的で愚かしいミスでも」
「…………っ、るせぇなあ!なんなんだよ!お前らは!傷心の私を寄ってたかって虐めて楽しいかあ!?ああ!?」
「楽しいでーーす!!」
「クソがァ!」
「先輩たち、どうしたんですか?」
ひょっこりと休憩室に入った灰原が、彼らに声をかける。
行くのか、そこで声をかけてしまうのか、灰原。
七海は同輩の彼を背中を預けられる程度には信頼しているし、友人としても好ましく思ってあるが、そういうところだけは本当に理解できなかった。何故自ら嵐の中へ飛び込んでしまうのか。

「おー!七海と灰原じゃん!聞けよ、こいつさあ、昨日の一級昇格の任務でさあ、くそ雑魚アホみたいな凡ミスして落ちてんの!」
「言うな馬鹿!お前の尾骶骨を執拗に殴るぞ!」
「まあまあ、落ち着いて、名前。緊張のあまり帷を下ろすのを忘れて不合格になったくらいで落ち込むなよ。人は誰だって過ちを犯す生き物だろう」
「うるせぇな!お前の前髪が一番の過ちだよ!!」
「荒れてるね」
「荒れてますね」

フシャー!と猫のようにキレ散らかす苗字と、怒れる彼女へさらに油を注ぐのが楽しくて仕方ないのか煽り倒す五条。
さり気なくその輪から離れた夏油に近寄った灰原が「苗字さん、大丈夫なんですか?」と問いかける。

「大丈夫大丈夫、見ての通り元気だろ?」
「あれを元気と言っていいのなら、ハリケーンも元気の塊と呼べますけど」
「そうかなあ、僕にはむしろショックを隠して無理やり元気に振る舞ってるように見えるけどなあ」
五条に飛び蹴りをかまそうとする苗字を見つめて、そう呟いた灰原。
七海と夏油は灰原の言葉を聞いて顔を見合わせた。少なくとも二人の目には苗字がショックを受けているようには見えなかったからだ。あれだろうか、もしかして心の綺麗な人間にしか彼女の涙は見えないのだろうか。

「おい、灰原も雑魚先輩になんか言ってやれよ!」
無下限を展開しているせいでどんなに殴っても当たらない五条をそれでも執拗に殴り続けていた苗字が、灰原に話が振られた瞬間に固まった。
流石に後輩にまで一級に受からなかったことを揶揄われたらやっていけないのだろう。彼女は素早く耳を塞いでしゃがみ込んだ。

「苗字さん」
「ワー!ワー!聞こえない聞こえない!」
しゃがみ込む苗字のそばまで寄った灰原が、軽く折った膝に手をついて屈む。それによって自分に影がかかったのが分かったのだろう、苗字はそっと耳を塞いでいた手を離して灰原を見上げた。

「大丈夫ですよ、苗字さん!今回失敗してしまったとしても、それで多くの人が先輩には一級になれるだけの力があるって認めてくれた事実は無くなりませんから!」
それに僕は苗字さんのことすごく尊敬してますよ!
灰原が輝く笑顔でそう言った瞬間、しゃがんでいた苗字はスクっと立ち上がり、そのまま灰原を抱きしめた。

「灰原……ありがとう、お前のそういう優しさにいつも助けられるよ」
「それならよかったです!」
「ふふ、ほんと声でかいなお前。耳キーンってしたわ」
「すみません!」
「いやだから声デカ……まあ、いいや、それで?式はいつにする?」
「式?」
コントみたいなやりとりをする二人を七海は死んだ目で見ていた。なんだこれ。

「おい、傑。あれってセクハラだよな?」
「いや、先輩から後輩へのパワハラでもあるな」
「黙ってろクズ共」
苗字は抱きしめたまま灰原の背中を軽く叩くと、腕を離し、彼の横に並んで灰原の腰を見せつけるように抱いた。

「見ろ!クソミソカス共!これが愛!これが優しさ!お前らに足りていないものだよ!」
「その手を離せ、灰原が汚れる」
「式ってなに?お前の葬式?」
「挙式だオラ!必ず最後に愛は勝つんだよ!」
「もう帰っていいですか?」
再び乱闘を始めた上級生。巻き込まれないうちに七海は灰原を回収して休憩室から出た。ガッシャーン!と窓ガラスの割れた音に彼らの担任が走ってくるのも時間の問題だろう。灰原の腕を取って早歩きで廊下を進んでいく七海。

「苗字さん、元気になってよかったね!」
「いや、あの人は最初から元気だったでしょう」
ふと、七海は軽やかに隣を歩く友人の顔を見た。

「……灰原、顔赤いですよ」
「えッ!?そんッ、なことない、と、思うけど」
若干裏返る声に、察しの悪くない七海は、ああそういうことか、と合点がいってしまった。
それから友人の趣味の悪さに溜息。

「……まあ、君がいいなら別にいいんですけどね」
呟いた声は休憩室の方から聞こえてきた夜蛾の怒鳴り声に掻き消されてしまった。





「名前、お前さあ、灰原にだけ贔屓してね?」
「確かに。妙に可愛がってるね」
「……いや、事実可愛いだろ、灰原は。素直だし、人懐っこいし」
夜蛾から拳骨の後、廊下に正座させられた三人。立ち上がりこの場から逃げようものなら呪力を追って夜蛾の呪骸が地獄の果てまで追いかけてくると知っているから、三人は大人しくそこに座っていた。

「ハア?俺の方が可愛いだろうが」
「五条が可愛かったら夏油でさえも可愛いわ」
「そこで私を引き合いに出すのやめてくれないか?」
「嘘嘘、夏油も可愛いよ。夏油傑を割って2にしたくらい可愛いって」
「それただの傑じゃねーか」
「人を勝手に二分の一にしないでくれ」

人の色恋沙汰に疎い五条はともかく、夏油は灰原の話題を振られた時の苗字の耳が微かに赤かったことに気がついていた。
そのことを揶揄ってもよかったけれど、それをしなかったのは、夏油がうっかり(案外ふたりはお似合いかもしれないな)と思ってしまったからだった。





「苗字さん!」
明るい声に呼ばれて、苗字名前は高専の廊下で振り返った。振り返った先、声の主は当然のことながらひとつ下の後輩、灰原だ。高専に出入りする人間で彼の他にあんなに元気で快活な声を出せる人間はいない。

「灰原じゃん。なに、今日休み?」
「はい!苗字さんもですか?」
「まぁね」
土曜。授業がなくても人手が足りなきゃ任務に駆り出されるのが呪術高等というものだ。しかし、季節は秋。この頃には呪霊の発生も落ち着き、土日のどちらかは大概休みが取れるようになる。
そんなとある日に二人の休みが重なった。

「苗字さん、私服可愛いですね」
「え!?はあ!あ!?」
「えっ、すみません。そういうの嫌でした……?」
「あっ、いやいや違う違う。人の服褒めるような感性のある男が周りにいなすぎてびっくりして変な声出ただけ。いや、ありがとう。灰原の私服も初めて見たな、似合うと思うよ。男の服わかんないから適当に言ってるけど」
「適当でも嬉しいです!」
「いい子だなーお前は本当に。どんな人生歩めば灰原という人間ができるんだ?」
ひと気のない廊下。土曜日、誰も通らないのに、つい廊下の端に寄って雑談を交わす。窓の外では落葉樹が少しずつ葉を落としていく。そう時を待たずに冬が来るだろう。

「私服ってことはどこかに出掛けるんですか?」
「ああ、いや暇だし外で昼食うかなって思ってさ。灰原は?」
「僕も似たような感じです!どっかで食べて、ついでに買い物でもしようかなって」
「ふーん、じゃあ一緒に行く?」
奢るし、と言った時、苗字は心の中で(別に下心とか無いし、あわよくばとかそういうのは一切考えてないから)と、言い訳をした。そう言い訳している時点で下心があるも同然なのだが、それを知らない灰原は快活に笑って「はい!是非!」と答えた。

「何食べたい?」
「ええっ!そんな悪いですよ!苗字さんが選んでください!僕は米系がいいです!」
「素直か?素直な気持ちの権化か?」
米系ねぇ、と苗字はつぶやきながら、灰原と共に高専を出た。高専近くには選べるほど飲食店がないのだ。軽く遊びに出る程度なら最寄駅から数駅先の繁華街に向かった方がいい。

「苗字さんの好きな食べ物はなんですか?」
「うーん、改めて言われるとあんまり考えたことなかったな。好きな食べ物かぁ〜なんだろうなぁ?」
「前に食堂でカツ丼食べてる時はすごく美味しそうでしたけど」
「えっ、あれ見られてたの?」
「はい!美味しそうに食べてるなーって見てました」
「美味しそうっつーか、いくらなんでも食堂で丼かき込む女ってどうよ……」
「? 素敵だと思います!」
「灰原、お前、ジゴロの才能あるよ……」
「ジゴロってなんですか?」
「夏油に聞いてみ」
カツ丼、なんて言葉に出されてしまえばなんとなくそれが食べたくなる。ましてや素敵、だなんて言われてしまえば彼の前で食べる抵抗感もない。灰原も米がいいと言っていたことだし、何処かカツ屋でも探すかと苗字は繁華街近くの駅に降り立った。



「灰原、何頼む?」
「ロースカツ定食です!苗字さんは何にしますか?」
「……か、カツ丼」
「美味しいですもんね!」
「……うん」
灰原はさっと店員を呼んで、苗字も分も合わせて注文を頼む。そんな彼を見ながら、苗字は自分のことをなんでも肯定してくれる灰原にちょっと駄目になりそうだなと思った。
ここに七海がいたのなら、駄目になりそうも何も苗字さんはもう十分に駄目ですよと言っただろう。しかし、ここに七海はおらず、目の前に灰原はニコニコとしている。その笑顔に苗字は思わず天井を見上げた。

「苗字さん?」
「いやごめん気にしないで。綺麗なものを見ると己の醜さが顕になるな、と思ってね」
具体的に言うと、灰原を手籠にしてぇなと思った自分が醜い。
「……先輩は結構卑下しますよね、自分のことを。良くないですよ、そういうの!」
「えっ、そう?自分より五条とかを扱き下ろしてる記憶の方が強いけど」
「それは仲良しだからこそのコミュニケーションですよ」
「いや別に仲良くはないけどね」
「知らないかもしれないですけど、苗字さんは苗字さんが思ってるよりずっとすごくてカッコいい人ですからね!」
「眩しっ。太陽か?夏の日差しだって灰原には負けるわ」
そうこう話しているうちに二人が注文したメニューが届いた。「美味しそうですね!」と苗字の私服を褒めた時のように料理のビジュアルを褒める灰原に、「そーね、衣とか肉とかね」と苗字は適当に相槌を打った。

いただきます、ときちんと手を合わせてから箸をつける目の前の後輩を見て、苗字も真似るように手を合わせて呟くように「いただきます」と言った。きっと彼女一人だったら何も言わずに食べていただろう。
苗字は一口目を頬張りながら、これからはちゃんといただきますって言おうと思った。これはそっちの方が、灰原からの好感度が上がりそうだから、という下心からだ。

「灰原はさ、」
「ふぁい」
食べている途中に話しかけられて、灰原は咀嚼より返事を優先した。返事をしてから、再度もぐもぐと頬を膨らませて咀嚼を繰り返す。それが終わるのを待って、苗字は再度言葉を紡ぐために口を開いた。
「美味しそうに食べるよねえ」
「はい!美味しいので!」
「そっか、そりゃいい。奢り甲斐があるよ」
呪術師なんてものをやっていると、見ているだけで死にたくなるようなものを嫌でも見なくてはならなくなる。けれど、これは逆だ。苗字は口元の筋肉を和らげた。それが穏やかな笑みを形作る。
灰原は見ていると生きていようと思わせてくれる。生命エネルギーの塊。生きる原動力。
例えるならそれは、

「波紋エネルギー、みたいな」
「苗字さんもジョジョ好きなんですか!」
「なんだかんだで一部が至高よね」
「僕が三部が好きです!」
「いいねぇ。七海は四部が好きそう」
「大正解です!」
たわいもないことで笑い合っていた。
いつかきっと思い出せなくなるようなこんな日々の積み重ねが未来の自分達を生かしていくのだと思えた。

昼食を終えてからは、街へ出た。
入った雑貨屋で灰原にちっとも似合わないサングラスを掛けさせたり、割高なクレープのキッチンカーを見てオリジナルクレープを作るなら中身に何を入れるかを話し合ったり、絶対に似合うからと押し切った灰原が苗字に髪留めを買って贈ったりした。

なんでもないからこそ、価値のあるささやかな休日。
ふたりはそんな休日を満喫した。





その夜。

「七海ー!七海!どんどんどん!七海!あーけーてー!七海ー!どんどんどん!なーなーみー!」
「全力で居留守を使いたい気持ちでいっぱいですが、同輩のよしみで開けます。開けますから人の部屋の扉を連打しないでください。君の腕力だと最悪扉が割れます」
「ありがとー!七海!」
「それで、何の用ですか」
「今日、苗字さんとご飯食べに行ったんだ」
「そうですか」
「その後一緒に買い物とかもして」
「そうですか」
「……すごく楽しかった」
「そうですか」
「うん」
「デートをしたんですね」
「エッ、あっ!うん!」
「……よかったですね」
「うん!!」


七海建人は、同輩がひとつ上の先輩に恋していることを知っている。





思えば少しずつ歯車がズレているような予感はあったのだ。それは五条たちが2年の春のことだったかもしれないし、3年の夏だったかもしれない。どちらにせよ、気がついた時にはもう分岐点は通り過ぎていた。
ただ、それだけのことだった。

「最近五条と夏油見なくね?」
「なんか忙しいっぽいよ」
家入の返事に苗字はふーんと興味があるのだが何のだかわからない声を出した。

三年の夏。
昨年頻発した災害のためか、呪霊の発生が例年よりずっと多かった。ただでさえ人手不足の呪術界隈。それまでならば二人以上で行っていた任務を一人で受け持つことが増えていた。
とはいえ、まだ一級の苗字はマシな方だ。
五条と夏油はふたりとも特級というだけあって要請される任務のほぼすべてが個人任務。家入は元より戦闘に特化した術師ではないこともあって危険な任務に出ることはないが、任務が増えれば当然怪我人も増える。彼女は彼女で多忙らしかった。

必然的に三年生が顔を合わせる機会が減っていた。


「苗字さん!」
快活な声に呼ばれて、苗字は廊下を振り返った。その先には見慣れた二人組。それを見て彼女の頬は無意識に緩んだ。
「おー、なんかお前らを見ると癒されるな」
「なんですか、それ」
「疲れてるんですか?」
「ばーか、疲れてるわけないだろ。こちとら一級術師様だぞ」
苗字は灰原と七海にそばに寄ってけらけらと笑った。

「なに、これから二人で任務?」
「はい、少し遠いところなんですけど」
「お土産買ってきますね!」
「いいじゃん。さっさと終わらせて遊んできな。土産はその後でいいよ」
「そうもいかないですよ!今年は忙しいんですから!」
気合バッチリに笑う灰原と、いつも通りフラットな七海。苗字にとって可愛い後輩たちだった。
閉められた窓越しにも蝉の鳴き声が響き渡る真夏。
何もしなくても浮かんでくる額の汗を苗字は手首で拭った。灰原から貰った髪留めを一度外して、髪をまとめ直して再び付ける。

「あっついですね!」
「あっついよなあ」
「本当、最悪です」
暑さに弱い七海が心底嫌そうに窓の外を見た。

「落ち着いたらさあ、みんなで海行こうよ」
ふと苗字が呟くようにそう言った。
「せっかくの夏なのに私ら全然遊んでないじゃん。家入もバカ共も連れて海行こ」
「いいですね!みんなでバーベキューとかしましょう!」
「落ち着いた時にはもう秋ですよ」
「いいじゃん、秋の海でバーベキュー。風情があるんだか無いんだからわかんなくて」
へらりと笑ってから、苗字は息を吐いた。後輩の手前、疲れていないと言ったものの、連日の任務に彼女もまた疲労していた。

「それじゃあ、行ってきます!」
「はいよ、気をつけてね」
「はい!」
笑って手を振った灰原と、軽く会釈をした七海。二人の背中を見送ってから、苗字も次の任務に向かうために歩き出した。


苗字と別れた灰原は補助監督の待つ車へ向かいながら、彼にしては珍しく声を潜めて七海に顔を寄せた。
「あのさ、七海」
「なんですか」
「相談があるんだけど」
「聞くだけ聞きます」
「……指輪って、重いかな」
「客観的に、正直に言います」
「うん」
「クッッッソ重いです」
「あー!やっぱり?」
「でも、本気なのは伝わると思います」
「……そっか!そうだよね!ありがとう!七海!」



海に行こうと約束をした。
ただ、結果として彼らは海には行かなかった。

灰原がその任務で命を落とし、それからすぐに夏油が高専を離反したからだ。




七海建人は知っている。

果たされなかった約束のこと。
買えなかったお土産のこと。
渡されなかった指輪のこと。
届かなかった想いのこと。
取り零してしまった未来のこと。

それらさえまるで無かったかのように流れていく世界のことを、七海建人は知っている。







「やあ、久しぶり、名前」
そう笑って苗字が座る公園のベンチの隣に腰を下ろしたのは、派遣先の村の住人を皆殺しにして逃走し呪詛師となった夏油だった。

「元気にしてたかい……って聞くまでもないか」
夏油の目に映る苗字は明らかに憔悴していた。ほとんど食事も取れていないのか、夏バテでは誤魔化しの効かないほどに痩せている。

「灰原が死んでから碌に食べてないんだろ。そのままじゃ死ぬよ」
「……はっ、それもいいかもな」
かつての明るさを失って、こちらを見もせずにつまらなそうにそう返すかつての級友に夏油は思うところがあった。
彼は高専と袂を分かった。その選択に悔いはない。選んだ以上、その道を歩んでいくだけだ。
それでも三年間を共に過ごした仲間への情は捨て去れない。
夏油は、もしかしたら自分ならば絶望する彼女の瞳にもう一度光を与えられるかもしれないと思ったのだ。


「名前、君はどうして灰原が死ななければならなかったと思う?」
そう問いかけた時、ようやく苗字は隣に座る夏油をその瞳に写した。
一度として誰にも口にしなかったけれど後輩である灰原のことを、一個人として好いていた彼女の傷を抉っているという自覚は当然あった。それでも問わなければならない。その返答次第では、苗字もまた夏油と同じ道を歩む仲間になれると思ったから。

「……二級程度だと思われていた呪霊が一級レベルの土地神だったから」
「どうしてそうなった?」
「今年は呪霊の発生がいつもより格段に多かった。忙しかったのは術師だけじゃ無い。事前調査の補助監督の手も回ってなかった。だから、調査に不備が出た」

誰もみな疲労していた。
誰もみな限界を迎えていた。
負担に負担をかけて、軋んだ歯車に押し潰されて灰原は死んだのだ。

「だから灰原が死んだのは仕方なかったって言うのか?」
「夏油」
平坦だった苗字の声音に憎悪が混じる。夏油を睨みつけるその目さえもうその焦点は合っていないのに、それでも睨みつけた。もう、喋るな、と。

「挑発したいなら五条を相手にしろよ。生憎だがその話題に戯言を返せるような精神状態じゃない」
殺気の籠った声音に、夏油は軽く両手を上げると「悪かった。喧嘩を売るつもりはなかったんだ」と謝罪をする。やりすぎたという自覚はあったのだろう、その顔には眉を下げながらも真剣な表情になっていた。

「ただ君にも知って、選択して欲しいだけだ」
「なにを」
「この世界の歪みを」
苗字は何も答えなかった。その無言を了承だと受け取って、夏油は口を開く。

「知ってるかい?術師からは呪霊は生まれないんだよ」
常日頃から呪力をコントロールしている術師は、そうでない非術師に比べて漏出する呪力が非常に少ない。故に、生まれ出る呪霊はそのほとんどが比率として非術師の呪力によるものなのだ。
「……だから?」
「術師は永劫、非術師の猿共の尻拭いをして、何にも省みられることなく死ななくてはならないんだ」
それは、おかしいと思わないか。

問いかけられた瞬間、苗字の脳裏にはあの日から焼き付いて離れない灰原の遺骸が鮮明にフラッシュバックした。
彼は、術師には珍しい善人だった。優しく、気遣いのできる温かい人だった。笑った顔、大きな声、少しオーバーな仕草。大好きだったそれらさえ、亡骸となった彼の姿の記憶に掻き消されていく。一緒に食事をした思い出、出かけた思い出、話をした思い出。優しいそれらを上書きするように、灰原の無表情の死体だけが残る。

どうして、あの優しい人が死ななければならなかったのだろう、と夜が来るたびに思った。
仕方のないことだったと受け入れようとして、日常に戻ろうとするたびに彼を思い出した。
離れない。もう笑わないあの亡骸が頭から離れない。

非術師は何も知らずに化け物を生み出して、何も知らずに術師に守られる、罪のない罪人たち。
あの亡骸は、あの末路は非術師が生んだ呪霊によって作られた。
「……ああ、そうか」
苗字は感情の無い伽藍堂な声で吐き捨てるように言った。

「非術師は術師の死体に群がる蛆だってことか」

苗字の頭の中で、彼のぼろぼろの亡骸に薄汚い蛆がたかる。彼の壊れた体を這いずり、貪り、崩していく蛆の群れ。
触るな、何も知らないくせに彼を汚すな。お前たちが勝手に生み出したもので、罪のない彼を殺すな。
もしも夏油の言う通りであるならば、狂っている。この世界は狂ってる。彼の犠牲の上に成り立つ世界など、今すぐにでも死んでしまえ。そう願ってしまう。望んでしまう。

思考は巡る。
非術師さえいなければ、あの優しい人は死ななかったのか。あんなに惨たらしく死ぬこともなかったのか。そばで変わらず笑っていてくれたのか。
ああ、もしも、そうだとしたら……。

「名前、私は非術師を皆殺しにする。そうしてもう誰も呪霊などのせいで死なない世界を作る」

夏油は苗字へ手を差し出した。
「共に来ないか。私と一緒に戦ってくれないか、名前」
その言葉に、苗字は深く深く息を吐いた。それからグッと瞼を閉じる。

あの子の遺体を思い出す。ガラクタのように死んでしまった優しい人。あの子の柔らかい頬は微笑むためのもので、あんなに大きな傷を作るためのものではなかったのに。
蛆にたかられるあの子の死体。
蛆にたかられるあの子の遺体。
蛆にたかられるあの子の亡骸。
蛆にたかられるあの子の、笑顔。

「……夏油、私はお前の思想を尊重する。私はお前が描く未来を美しいと、堪らなく貴いと思う。そんな世界ならばどれだけよかっただろうな」

目を開く。目を開いた先には世界があった。
どこまでも澄み渡る青空。罪を抱く無辜の人々。彼のいない雑踏。人の営み、喧騒、絶えることのない命の流れ。
そのすべて、憎悪するには十分な理由だった。
だから、だからこそ。


「夏油。私はその手を取れない」
夏油の提示した道を、苗字は拒絶する。


「だって、きっと灰原ならそれを選ばない」
この世界がどんなに狂っていても、この世界がどんなに術師たちを嫌っていても、この世界に救う価値なんてなくても、きっと灰原は守ろうとする。
それが自分にできる精一杯のことだから、と。
それでもこの世界は美しいのだと信じて欲しい、と。

「死人に口なし。わかってる。わかってるよ、夏油」
「……名前」

「それでも私は、あの子が好きでいてくれた私のままでいたい」

夏油の見せてくれた道を選んだら、きっと記憶の中の灰原はもう私に笑いかけてくれない。そう成り果てた私を好きでいてはくれない。寂しそうに諦めたような顔をして、もう二度と振り返ってくれないだろう。

それではもう、私は私を許せなくなる。
そんな私では、灰原がくれた髪留めもつけられない。
あれだけが私に残った唯一ですべてなのに。
もう私に未来は無いとしても、まだ過去が残っている。両腕で抱きかかえていたい大切な過去があった。


ぼんやりと世界を見つめる苗字に夏油はもう何も言わなかった。もうどれだけ言葉を尽くしても彼女はこの手を取らないとわかったから。
ただそれでもひとりの友人として、ようやく苗字が泣くことができたことに微かに安堵するだけ。
苗字の瞳からこぼれる涙を夏油は指先で拭った。本来ならば、これは自分の役目ではなかったはずだと心の何処かで思いながら。

「ありがとう、名前」
誰にも理解されないと思っていた理想を肯定してくれたこと。人懐っこく優しいあの少年のことをきっと死ぬまで忘れないだろうこと。抱えたその傷をずっと守り続けてくれるだろうこと。

なんの意味もないかもしれないけれど、そんな些細なことに少しだけ救われた気がしたんだ。

「じゃあね、ちゃんと食べなよ」
まるでごく普通にそんなことを言うから、苗字は溜息をついた。
もう二度と会わないくせに、また明日みたいな顔をするなよ。

「……お前もな、夏油」
つぶやいた苗字の言葉に、ベンチから立ち上がった夏油は振り返らずに手を上げてひらひらと振った。

それだけ。
それだけの断絶。

苗字は雑踏に紛れていくかつての友人の背中を見つめた。
その雑踏の中に、見慣れた顔がいないだろうかと探してしまう自分を嗤いながら。







「苗字さん」
七海が彼女に会ったのは偶然ではなかった。彼は彼女を探して校舎のあちらこちらを回り、その果てにようやく彼女のいる休憩室に辿り着いたのだから。
扉を開けた瞬間、長い髪を見慣れた髪飾りでまとめた苗字が顔を上げた。

「七海じゃん」
静かなその部屋の窓際で見せるその笑顔は、七海にはあの夏の日から悲痛なものにしか見えなかった。あれは頬をそういうふうに動かしているだけで、笑っているわけではないのだと。

「ああ、そっか、七海は今日卒業か」
「おめでとう」という言葉は本来ならば七海にだけに向けられるものではなかったはずだった。
七海はそんなことを考えて、いつまでもあの日に囚われ続けている彼女の心に、言葉を交わす自分も引きずられてしまっているのだと思った。

「苗字さん、私は術師を辞めます」
「そっか」
「……貴女も一緒に辞めてしまいませんか」
七海は部屋の入り口から、窓際にいる彼女へ手を差し出した。

灰原が死んでからこの人は変わってしまった。今まで通りみたいな顔を取り繕ってその実、心が無感動になっていた。きっとこの人はもういつ死んでもいいと思っているのだ。空っぽになった心を埋めるみたいに任務任務任務任務任務任務任務。疲労に疲労を重ねて、苦痛に苦痛を重ねて、早く死にたいと思いながら、死に急ぐ。
それが、七海は悲しかった。あんなに笑っていたのに。あんなに幸せそうだったのに。

「術師じゃなくても生きていけます。それに何より今の貴女に必要なのは休養です。一度いろんなものから離れて、ゆっくりしましょう」
きっと灰原もそれを望んでいる、とは言えなかった。
あの日から七海は苗字の前で灰原の名を出すことが出来なかった。
それでもこれは本心だった。死にそうになりながら死にたがる彼女をこれ以上見ていたくなかった。七海は一つ上のこの不器用な先輩をそれでも好ましく思っていたから。

「七海」
「……はい」
「悪い。無理なんだ。絶対に術師になる契約で6歳の時から経済的支援を受けてるから」
「……クソですね」
その契約が成立していて、彼女がそれを理由に七海の手を取らないのならば、もう彼にできることはなかった。
伸ばされない手を掴んで何もかもから逃げ出せるほど七海は強くなかったし、強くなれないから今日限りでこの世界から逃げ出すのだ。心の重りは逃げ出しても有り続けるだろう。それでも、もう耐えられなくなっていた。

人の死に、壊れていく精神に、薄汚れていく幸せだった思い出に、耐えられなかった。
きっと、窓際の彼女もそうなのだろう。


「……テレビをさあ、見るだろ?」
不意に苗字はそんなことを言った。七海が何かを返す前に彼女は独り言のように言葉を続ける。
「テレビの中で芸人とかがさ、面白いことを言うんだ。そういうのを見て、笑ったりする」
する、けど。

「その度に灰原を思い出すんだ」
苗字は七海の方を見た。正確には七海の隣、誰もいない空白の隣を見て微かに微笑む。

「おかしいってわかってる。これじゃダメなんだって。こんなのきっと望んでないことくらいわかる。でも無理なんだよ。忘れられない。きっと全部捨ててここを離れたって、それらしい幸せを手に入れたって、同じだ。生きてて、ふとした瞬間に必ず思い出すんだ。思い出すともう、笑えなくなる。自分が生きてることが許せなくなる。……死にたくなるんだよ」
ごめん、と彼女は言った。それが誰に向けられたものなのか、七海は考えなかった。

「七海」
苗字は七海をその瞳に映して、柔らかく微笑んだ。
「お前はもう戻ってくるなよ」
「……戻りませんよ、こんなクソみたいなところ」
そう返せば窓を背に逆光になった彼女が安堵したように微笑むから、そのまま彼女が生きるための重荷を失ってしまいそうで思わず七海は口を開いた。

「苗字さん」
「うん」
「私は術師を辞めて一般企業にでも就職します」
「七海なら何処ででも大丈夫だよ」
「……時間はかかるかもしれませんが、落ち着いたら苗字さんに連絡します。そうしたら食事にでも行きましょう。いい店を探しておきます」
「お前の選ぶ店なら美味しいだろうな」
浅く口元を緩める苗字。七海は眉間に皺を寄せたまま、もう一度口を開いた。

「そうしたら、もういいですよ。私と食事に行った後なら死んでもいいです。電車に突っ込んでも、ビルの屋上から飛び降りても好きにしてください」
こちらを見つめる瞳から、決して逸らさない。

「でも、それまでは絶対に死なないでください」

無条件にどうか死なないでくれと言う事はもう七海には出来なかった。
死にたがりながら死んでも、生きたいと願いながら死んでも、結末は同じだとわかっている。わかっていてももう区別がつかなくなっていた。息をするだけで苦しい人に生きろと言う残酷さを理解しているのに。
この悪あがきのような延命に救われるのは彼女ではなく七海自身だけだとしても、それが何にもならないとしても、このまま立ち去る事はできなかった。
それさえ、去りゆくものの自己満足であったとしても。

「うん、いいよ」
容易く千切れそうなほどに細い約束を交わした。

「だから七海、お前も絶対に戻ってくるなよ」
苗字は、もう二度と連絡してくるつもりのない七海へ笑って手を振った。







七海は振り返らなかった。
馴染み深い校舎を出て、真っ直ぐ校門へ向かっていく。

七海は知っている。
約束なんて叶わないことの方が多いことを。

思い出す。
果たされなかった約束のこと。
買えなかったお土産のこと。
渡されなかった指輪のこと。

他でもない、七海が見たかった未来のこと。

秋めいた海と潮騒を遮るような喧騒。季節外れのバカみたいなバーベキュー。焦げていく野菜を押し付け合う彼ら。
夕暮れ、彼と彼女を二人きりにする為に、面倒な先輩たちを引き付ける役目を負って、嫌な顔をしながらも満更ではない気持ちを抱える自分。
やがて笑い合いながらこちらに来る二人を、先輩たちにもみくちゃにされながら待つ。

そんなやってこなかった未来を夢想するたびに瞼の裏が熱くなって、辛くなってそのユメを閉じる。
術師ならば自分の感情などに振り回されてはいけない。
ああ、だけど、今の七海はもう術師なんかじゃないから、もうこの高専の門を出てしまったから。
もうただの七海建人でしかないから。

「……っ、う、くっ、ぁああ、ああああ!」
ようやく、はじめて、彼は得られなかった未来を想って泣いた。子供のように声を上げて泣きじゃくった。

どうしてそうならなかったのだろう。
どうしてささやかなユメさえ許されなかったのだろう。
何をすればよかったのだろう。
何がいけなかったのだろう。
何が間違っていたのだろう。
答えは何処にもないけれど。


もう悲しみたくない。もう二度と苦しみたくない。そう願ってしまったから、誰かのためのユメは絶対に見ないと七海は決めた。自分のためだけに自分のためのユメを見ると。


冬は終わって、けれど桜にはまだ早い春の日。
吹き抜ける追い風に乗って、遠く、若い少年少女たちの笑い声が聞こえた。振り返りかけて、それをやめる。振り返らずにただ真っ直ぐに歩き出す。

あの古い校舎の何処かにはまだあの頃の名残があるのかもしれない。
笑い声、内緒話、微笑ましい悪事、廊下を駆け抜ける足音、自販機から落下する缶の音、開いた窓から吹き抜ける風。

その名残さえ、いつか消え去っていくのだろうけれど。

引き攣る喉、熱を持つ瞼。溢れる涙を今日限りの制服の袖で拭って、七海は携帯の連絡先から苗字を消した。








七海が術師に復帰するにあたって、真っ先に思い出したのは苗字との約束のことだった。
もう戻らないつもりで交わした約束が此処に来て、微かな躊躇いとなる。どう言い訳をするか考えて、食事に誘いさえしなければいいだろうか、なんて約束の抜け道を探してしまった。

「五条さん」
『なにー?』
「苗字さんは今どうしてらっしゃいますか」
高専の頃から変わらない軽い声に、電話口でそれを尋ねたのは必然だったのだと思う。
問われた五条はああ、と吐息のような声をひとつ零して告げた。


『あいつなら去年死んだよ』


本当のことを言うとその可能性を考えなかったわけではない。だから、ああやっぱりそうか、と思った。
電話の向こう側の五条の声は、人の死を告げたとは思えないほど穏やかだった。だから七海はやはり彼も知っていたのだな、とぼんやり思う。
当然か。後輩であった自分が知っていたのだから、同級生である五条や家入が知らないはずもない。

彼女が本当はもうずっと死にたがっていたことを。
彼女がもう誰の手も取れなくなっていたことを。

電話を切ってから、七海は立ち止まる自分のそばを通り抜けていく雑踏の中で小さく呟いた。

「嘘つき」









高専の敷地内には遺骨の受け取り手のいない者のための共同墓地がある。苗字はそこに埋葬されていた。
まだ比較的新しいその墓石には素っ気なく彼女の苗字が彫られている。

花束は買わなかった。灰原より先に彼女に花を渡すなんてできない、なんて馬鹿みたいなことを思ってしまったから。だから七海は結局何も持たずにそこへきた。
冷たい墓石の前にしゃがみ込んで、静かに手を合わせる。

「戻ってきてしまいました」
手を合わせてから、少し笑った。

「でも、先に約束を破ったのは貴女の方ですからね」
元より約束を果たすつもりのなかった自分がこんなことを言う権利なんて無いかもしれないが、それでも恨み事のひとつやふたつ、許されるだろう。
なにせ彼と彼女の恋愛に一番巻き込まれたのは他の誰でもなくこの七海なのだから。

「貴女の最期の任務記録を読ませてもらいました。特級に変異しかけていた呪霊を変異前に祓う任務だった、と」
多分、彼女の実力ならばそう難しいものではなかったのだろうと思う。ただそこにイレギュラーが入った。

「偶然その場にいた民間人五人を救出する為に無理をしたそうですね」
きっと彼らを犠牲にしたのなら、彼女は呪霊を祓うことも出来たのだろうし、ひとりで撤退することも出来たのだろう。
それでも、彼女はそれをしなかった。
その理由を想像する事はできる。けれどそれは所詮想像に過ぎない。
ただ結果として彼女は民間人を助け、呪霊と相討ちになる形で死んだ。その後、別の術師と補助監督が現場に確認に行った際に残っていたのは彼女の千切れた左脚だけだったらしい。それ以外は何も残っていなかった、と。

「この報告書を見たときに思ったんです」
こんな言葉が何にもならないと分かっていても、七海は口にする。

「きっと灰原も同じことをしただろうな、と」
彼女が何を思ってそうしたのかを七海は知らない。
最後に何を思ったのか、嬉しかったのか、悲しかったのか、何かを思う暇さえ無かったのか、知るはずもない。これから先七海がそれを知る事はない。それでいい。そういうものだ。
それでもこの胸の内に湧き上がる安堵を否定できなかった。


だって、ようやく彼女は終わることができたのだ。
死ぬことと生きることの意味の境界が薄れて、わからなくなってしまった人。たくさん傷ついて壊れてしまった人。壊れながらも、誰かを救った人。

その人の生と死の意味を、もしも七海が定義してもいいのならば、彼女の命には価値があったのだと、彼は絶対に断言してみせる。
それはいなくなってしまった彼の命の価値にもなるから。
それこそがきっと、彼女が死にたがりながらも生き続けた理由だから。

「私はもう少し、この世界で生きてみます」
彼にはまだ死ぬことと生きることの意味がわかっていたから。
返事はなかった。当然だ。あっても困る。
それだけを言い捨てて七海は立ち上がる。したいこと、すべきこと。生きている彼にはそれらがまだたくさんあった。


七海は死後の世界を信じない。そんなものは存在しない。死ねば終わりだ。そうであって欲しい。死んでなお己の意識が連続し続けるなんて、それ以上に惨いことはない。

けれども、もし、本当にもしも、誰もが夢想するような天国なんてものがあるのならば、ひとつだけ見てみたいユメがある。

晴れ渡る空と、何処までも続いていく水平線。
潮騒だけが鼓膜を揺らす静かな海辺で、彼が彼女に指輪を渡すユメ。

もう人も呪いも誰も彼も、ふたりを邪魔しないから。
悲しみも苦しみもすべて蹴り飛ばして、どうかかつての日々のように、いつか望んだ未来のように、穏やかに笑い合っていて欲しい。

そんなユメを見てみたいと思う。





七海建人は知っている。

灰原が苗字のことを好きだったこと。
苗字が灰原のことを好きだったこと。
行くはずだった秋の海で灰原が指輪を渡すつもりだったこと。
彼が指輪を渡すために、七海も協力してやるつもりだったこと。
何かがほんの少しでも違っていたのなら、ふたりはきっとあの秋の海で笑い合っていたはずだったこと。


辿り着くことのできなかった未来があったことを、七海建人は知っている。

七海建人は大人になった今でも覚えている。