漂白



まだ一度も作られたことのない国家をめざす
まだ一度も想像されたことのない武器を持つ
まだ一度も話されたことのない言語で戦略する
まだ一度も記述されたことのない歴史と出会う

たとえ約束の場所で出会うための最後の橋が焼け落ちたとしても


寺山修司『事物のフォークロア』より







貴女様、貴女様、と呼びかける声に女は深夜、布団から半身を起き上がらせる。初め、鼓膜を揺らすその声に幽鬼や妖怪の類かしらと思った。そうであるならば答えてはならぬ。認識されること、許可されることでそれらは力を得るのだと彼女は知っていたからだ。しかし、知っていて、彼女は答えることにした。
この退屈が微かなりとも埋まるのであれば、この魂、悪鬼羅刹に喰われても良いと思うほどに彼女は飢えていたのだ。

「そこにいるのは誰?」
問いかける声が返ってくるとは思っていなかったのだろうか、女の声にその呼び声はぴたりと止まる。しかし、それも一拍程度の間でしか無かった。声は返る。

「私ですとも。貴女様」
女は首を傾げた。
「知らぬ声だ。名を答えよ」
「いいえ、いいえ、貴女様。名とは唯一でないが故、判別のために必要とする俗物です。ここには貴女と私しかいない。貴女は此処にて唯一、そして私もまた唯一です。貴女が私でなく、私が貴女でないならばそのようなもの、不要でございましょう」
「……ふむ、なるほどな」
「ご理解いただけましたか」
幽鬼にしては随分と口の上手いことだ。退屈が紛れる予感に、女はこの声に答えた一時前の己の判断を自分自身で褒め称えた。

「そうだな、お前が口八丁の上手い者であるということならばよく理解できた」
「それは何よりでございます」
「答えぬのならば名など不要だ。して、お前はこの私に何の用だ」
「我が身は貴女様の退屈を埋めるために参上仕りました」

そこで女はようやくその者を目に映した。
知らぬ顔、知らぬ声、けれどもう知った者。
この場におけるただ一人の女の話し相手。白皙と呼ぶには青白い、死者によく似た顔で女はその者へ言葉をかける。

「そうか、お前が私の唯一か」

問いかけるようでいて断ずるような言葉に、その者は笑う。

これが原初だった。









「久しいな」
そう言ってバーカウンターに座る男の隣に腰をかけたのは年若い白百合のような女だった。この場に不釣り合いにも見えるのは彼女が一見成人前の少女の姿をしているからだろう。
酔うつもりもない男は氷の入ったグラスを揺らして隣に座る少女に微笑んだ。からり、からりと静かなバーに氷が酒の中で泳ぐ音だけが響く。

「おや、今の貴女はこんなところに来ていい年齢なのかな?」
「こう見えて年嵩はあってね、お前よりいくらか年下程度さ。マスター、彼と同じものを」
「ふふ、身分証明書を見せてもらってもいいかい?」
「失礼、マスター、やはりミルクを貰おうか」
やはりその身はまだ未成年だったのだろう。掌を返したように注文を変える彼女に男は喉を鳴らして笑った。そんな男に不貞腐れたように女は唇を尖らせる。

「何度転生を繰り返しても始まりは一から。酒に酔うのさえ、年輪を重ねなくてはならないとは不便なものだ」
「そうかい?何度も生まれ、その度に成長していく貴女を見るのは私の数少ない楽しみなんだけどね」
「爺臭くなったな、お前も。いや年月を思えば当然か」
洒落たグラスに並々と注がれたミルクに口をつけて、女はその姿に似合わない、歳経た者のみが覗かせる懐古の表情をした。
「前回からどれだけ経った?」
「数十か、百か。数を数えるのにも飽いてしまってね」
もう数えてなどいないさ。
冷たい体に酒を流し入れて男は口角を上げた。女もさして興味などなかったのだろう。それ以上何も言わなかった。明確な答えが出たところで、そんなもの何の意味も持ち得ない。

男は肉体を幾度も脱ぎ捨ててきた。その度に脳髄を入れ替え、自己を保持し続ける。
女は何度も死と生を繰り返してきた。その度に己の人格が新しい肉体に宿り続ける。
人格継続者と転生無限者。
手段は異なれども、二人は似たもの同士、長い年月を己のまま歩んできた者だった。そう成り果てた者はおそらくこの世界に二人しかいまい。
あらゆる情報を排してごく端的に言うのであれば、彼らは古くからの友人同士だった。


「前のお前もよかったが、今のお前も悪くないな」
「肉体の話かい?それは良かった。これはただ単に術式目当てに選んだだけなんだけどね」
長い黒髪をハーフアップにまとめた涼やかな目元の男はその声音に喜色を乗せた。
この『夏油傑』の肉体を選んだのには呪霊操術という術式を得ることと、この肉体を見せることで五条悟の精神を揺さぶること以上の意味合いはなかったのだが、彼女がそう言ってくれたのならそれだけで新たな価値を得る。

「名前は?」
女はその肉体の名前を問いかけた。けれど、男は笑みを形作ったまま、いつかのように言葉を紡ぐ。
「そんなもの不要だろう?此処には貴女と私しかいないのだから」
「他の客や店員はいるがな」
揶揄うような女の声に男は嘆息して、それから「意地悪な人だ」と呟く。呟いて、そっと声を低めて嗤う。

「ならば、皆殺してしまおうか。貴女と私だけに成るように」

恐らく、その言葉は本気なのだろう。男は嗤って何も知らぬ店内の人間たちを流し見た。酒に酔う人々は彼らの会話など知る由もなく刹那の今を謳歌している。此処に座る虫さえ殺せなさそうな無害な見目の男に命を握られているとも知らずに。
そうすれば、女は同意するように微笑んだ。
「それはいい。そうして仕舞えば、私も酒が飲み放題というわけだな」
よし、やってしまえ!と手を広げて笑う女。その明るい表情に男はそれまでの殺意がすっかり萎えるのを感じて、深く溜息を吐いた。

「……うん、やっぱりやめておこうかな」
「はあ?ああすると言ったりしないと言ったり。なんなんだ、お前は」
「未成年の体にアルコールは良くないからね。貴女には健康でいて貰わないと」
「……ああ、なんだ、お前も私の今世の体が気に入ったというわけか」
お前、案外稚児趣味なのか、ああいや、気にするな、私はそういうのを気にはしないぞ?などとすっとぼけたことを言う女に、男は呆れたような信じられないものを見るような目をした。まったく、どれだけ年月を重ねてもこの人はこういうところが変わらないのだ。

「……逆に聞くが、毎度のことながら何故そんな酒を飲みたがるんだ?」
男が問うと、女は「さて?」と小首を傾げた。
「……なんでだったかな。もうかつてのことはとんと覚えていないが、きっといつかの私がそうしたかったのだろうよ」
「……そうか」
死と生を繰り返し続ける女を見てきた男だけがその言葉に微かな哀愁を抱く。気が付かないふりもできないほどに、彼女は少しずつ磨耗していっていた。やがて彼女の人格も魂も擦り切れ、磨耗し、漂白されていくのだろう。今はまだその過程だとしても。

「早く大人になりたい」
まるで何処にでもいるただの子供のようにそんなことを言う女に、男はカウンターに置かれた白皙の手へそっと自身の手を重ねて笑みを浮かべる。
「なら、今夜どうかな?近場のホテルならすぐに予約できるんだが」
「ふふふ、とっとと捕まれ、性犯罪者」
「まあまあ、後悔はさせないさ。極楽へ連れて行ってあげよう。今の私、教祖だし」
「引き下がるな、阿呆め。何も上手くないからな?」
突き放すようにされた軽い平手にも男は楽しそうに笑う。ちらちらと電話を片手にこちらへ視線を向けてくるマスターに女は「戯言だ、気にするな」とばかりに手を振った。

並々と注がれていたミルクも酒も、気がつけばすっかりグラスの中から減っていた。まだ残っていると云うには根気のいるポジティブさが必要な程度の量。似たようなことをどちらも思っていたのだろう。二人は視線を合わせて、けれどそのことには言及しなかった。
男は誤魔化すようにグラスの中の酒を揺らして、口を開いた。

「貴女は今も退屈かい」
「……ああ、そうだな。お前といる時はそうでないにしろ、無変に繰り返される生にも飽きてきた頃だ」
女は頬杖をついて息を吐いた。
「何故自分がこれを繰り返しているのかさえ、今の私にももうわからぬ。何故こうしたのか、何故こうなったのか、その原初を失ってしまった。けれどこれは呪いのようなものだ。己の意思で終わらせることさえ叶わん」
「貴女は終わりたい、と?」
「その問いにさえ答えを持たぬ。人は死ぬ。死ねばそこで終わる。だが私はその終わりを失ってしまった。死ぬべき時に死ねなかった者は何処へ行き着くのだろうな」
死ぬたびに新しい肉体へ自意識が移る。それは彼女の意思の外側の事象だ。ただでさえ曖昧な「自分」というものが複製され、移植される。それを繰り返すうちに自己は磨耗していく。

「やがてお前のことも思い出せなくなる」

彼女は微笑んだ。
終わりの来ない最果てで繰り返される転生の終に己がただの混沌に成り果てると知って尚、女は微笑む。抵抗する術のない未来をその瞼の裏に映して。


「ではな、お前よ。私はもう往こう」
「おや、帰ってしまうのかい」
「長居するとお前がしょっ引かれるからな」
「ははは、同意の上なのに?」
「同意しとらんわ、阿呆」
グラスを空にして去ろうとする女の手を、男は名残惜しそうに取った。まだ未発達の女の体。その細い手首から連なる五指を確かめるように撫でる。
「せっかくホテルを取ったのだけどね」
「さむしろに衣かたしき今宵もや、我を待つらん宇治の橋姫」
「相変わらず手厳しいなあ」
「いじらしく待っていろ、橋姫のようにな」
男の冷たい手をするりと解くと、女は今度こそ席を立つ。それから尚同情を引こうとする男の表情を見て、女は無邪気に笑った。

「そう愛らしい顔をするな。互いの身は錆刀。いつでも会えよう」
「……貴女がそう言うのならば」
去りゆく女に男は最後に問いかける。

「貴女様、忘れ物はございませんか」
女は迷わず答える。
「無い。何も持たずに来た故な」
それだけを言って女は今度こそこの場を去った。残るのは何処か寂しげな顔をした男一人。


片方だけ空になったグラスを眺めて、ほんの少しも酔えない体の男は息を吐く。

「相も変わらず酷い人だ。どれだけ待っても橋姫に想い人は来なかっただろうに」

硬い氷が音を立てて溶けた。









「お前よ、お前。そこにいるのか」
「ええ、貴女様。この身は貴女様のお傍に」
「そうか、すまぬな。もう目も見えぬ」

もう寝所から出るどころか、布団から起き上がることさえ出来なくなった女をその者はじっと見つめていた。
肌の奥に僅かに血の色が見える。しかしそれさえ覆うような青白い皮膚が死期のように彼女に迫っていた。

「私はもうすぐに死ぬ」
「貴女様」
「死んでようやく価値を示せるというわけだ。父上もようやく私を認めてくださるだろう」
「術式のみが貴女様の価値ではありません」
「術者がそれを言うか」
「私だから貴女様にそう言うのです」
返せば女は薄く笑った。かつてのような微笑みが形作れなくなるほどにその身体はすっかり弱りきっていた。

「この身は死ねば別の肉体へ意識を移す。そういう術式だ。私は死ぬが、死ぬわけでは無い。故にそのような顔をするな」
「……見えてはいないのでしょう」
「見えずともわかる。お前のことだ」
嗚呼、私のことをそんなにもわかっていて尚貴女はそんなふうに笑うのか。
酷い御人だ。そう思いながらも彼女の手を握る。握り返すその力があまりにも弱くて、この人は本当にもう死んでしまうのだと知る。
それが惜しかった。次があれど、哀しかった。

「それではこの先の旅路の話をしましょう、貴女様」
「この先?」
「ええ、ええ。次の旅行きでは何をなさりたいですか」
それでも夢を見ることだけは許されたかった。神仏のために祈れずとも、貴女のためには祈りたかった。

「……そうだな、私は歳を重ねる前に死ぬから、大人たちの嗜む酒とやらを飲んでみたいな」
「それは宜しゅうございますな」
「この部屋から出たことも碌になかった。もっと広い世界を見てみたい」
「ええ、素晴らしいことかと」
「水溜りや池より広い海というものがあるのだろう?そこへ行ってみたい」
「必ずや叶いましょう」
女の見えていない瞳は白みがかった黒で、それでも覗き込めば己が写るのが見えた。けれど彼女にはそれさえ見えないのだろう。それがほんの少し歯痒い。じっと見つめ続けた女のその目から小さな海が流れ出た。

「ああ、お前と往きたかったなあ」


本当は次など欲しくはなかったのだろう。今、今の今世の自分で、その脚で大地を踏み締め、広大な外の世界へ至りたかったのだろう。
叶わない夢を何度繰り返したのだろう。術式が正しく作用するかなどわかりはしない。次という夢だけを見せて、彼女を残酷な末路に至らせるのかもしれない。それでも尚、私は彼女へ告げる。

「我が身は必ずや次の貴女様を見つけ出してみせましょう。そうしてその願いを必ずや叶えてみせます」

そうでありたかった。彼女が望まずとも、私はそうでありたかったのだ。

「……ええ。約束よ、私のお前」

それがどんなに虚しくとも、笑って欲しかった。









次に彼女を見つけた時、彼女はとっくにかつての多くを失っていた。
見つけるのが遅かったのだろうか。とうに彼女の原初も、約束も、あの名も無き幸福な日々も、その全て忘却の果てで砂と成り果てていた。忘却に忘却を重ね、忘れたことさえ忘れ、何を置き去りにしてきたのかさえ失っている、私の貴女様。

「ああ、お前か」
それでも私のことを覚えていた。
私のことだけは、確かに。

初めは貴女が在るだけでよかった。姿形は変われども、あの頃と変わらぬ表情で微笑んでくれるだけでよかった。けれど、それらさえ転生を繰り返すうちに磨耗していく。本体である脳髄を残して肉体だけ入れ替えていく私と異なり、彼女の術式は彼女の人格を模倣し、別の肉体へ移動させるもの。繰り返されるコピー。コピーしたものをさらにコピーしていく。繰り返していけば、当然のことながら段々とそれは劣化していくだけ。


その繰り返しの果てに何が残る?
彼女を彼女たらしめるものは一体何処へ消えていく?


繰り返される転生と付随する劣化。

その果てに、彼女が私さえわからなくなり、かつての彼女の残骸に成り果て、ただそれらしい術式の名残を転生し続けるだけの機能になっていくとしたら?

理解した時、それは恐怖へ変わっていった。
彼女のための脳髄の維持が己のための維持に変化していく。

考える。
彼女の終末とは何処だろう。

考える。
彼女の為の最善とは何だろう。

考える。
繰り返される転生のその果てに彼女の悍ましい末路があるのであれば、その次が無くなればいいのでは無いか。

考える。
次の転生体が無くなれば、彼女はようやく人として終われるのでは無いだろうか。

考える。
この世に存在する人間が全て死に絶え、三途の川が干上がり、次の誰かが生まれてこなくなれば彼女が転生することはない。彼女は今のままでいられる。これ以上、劣化し、摩耗することはない。次は無くなるけれど、彼女がかつての彼女の残滓に成り果てることもなくなる。

考える。
あの日の約束は失われてしまった。かつての日々を、約束を覚えている者は私しかいない。私しかいない、けれど。

願う。
次が無くなった世界でこそ、ようやく貴女との約束を果たそう。私は貴女を連れて、生者のいない静かな海へ行く。そこでふたり、全てを終わりにするのだ。きっと一人で逝くのは寂しいだろうから、私も共に貴女と終わろう。


たとえ、貴女の望むもので無かったとしても。
私は貴女と共に眠りたいのだ。