エスケープ・フロム・ベイスメント

開かれた扉の向こうから暖かくて優しい光が差し込んだ。
目のくらむような眩しさに思わず目を瞑る。
逆光の中でその人は私にそっと笑いかけてくれた。

「遅くなってごめん。怖かったよね。だけど、もう大丈夫だよ」
さあ、おうちへ帰ろう。

そう言って、私に手を差し伸べてくれた人がいた。

私はそれを、決して忘れない。







「連続転落死?自殺ではなく?」
「そ、先月26日に最初の犠牲者が出てから一週間で、もう4人も同じビルから転落死してるんだよ」

高専内にある会議室に七海と五条はいた。
七海が腰掛けるソファの反対側、ローテーブルの向こう側のソファには五条が座っている。ゆったりとその体をソファに沈み込ませるかのようにリラックスした様子の彼は、ちっとも表情を変えない七海を見て口元だけで笑った。

「最初の犠牲者は屋山賢一、19歳。まー、特殊な職業の人だね」
「特殊、とは?」
曖昧な言い回しに七海が繰り返すように問いかけると、五条は右手の人差し指を鉤状にするように柔く折って、その指先で自身の頰を引っ掻く真似をした。
そんなジェスチャーに七海は「ああ」と納得したように呟いてうなづく。頬に傷がある。つまるところ、ヤクザ者という意味だ。

「2人目の犠牲者もおんなじ職業」
「……それはつまるところ、そのビルが単純にヤクザの持ち物だったというだけでは?」
ヤクザ者による見せしめのための処刑場のようなものだっただけならば、呪いは関係なく、呪術師の出番もない。だが、ここに話が来ているという事はそういうことではないのだろう。
七海の推察通り、それを否定するように五条は立てた人差し指を左右に振った。

「ところが、3人目以降の犠牲者がヤクザとは全く関係のない一般人だった」
指を3本立てた五条は「営業に来ていた40代の会社員」、それから4本目を立てて「巡回中の20代の交番員」と、順番に犠牲者を上げていく。
それから五条は手を下ろすと、膝の上で両手の指を絡ませながら話を続ける。

「もちろん、彼らに繋がりはない。4人目が出た翌日、つまり昨日だね、補助監督が調査に向かったんだけど、そしたらその補助監督までビルから飛び降りそうになっちゃってね」
「……飛び降りはしなかったんですね」
「うん。その補助監督ってのが最近入ったばかりの新人でさ、研修ってことで別の先輩補助監督とバディ組んで一緒に調査をしていたんだ。で、別々に分かれて調査していたんだけど時間になっても新人が戻ってこない。不思議に思った先輩が探しに行ったらその新人の様子がおかしくなってて、慌ててそいつを回収して帰ってきたから事が明らかになった」
「それで、その新人補助監督はどうなっていたんですか?」
七海の問いかけに、五条はホラーの結末を告げるように声を潜めた。

「譫言みたいに「飛ばなきゃ……飛ばなきゃ……」って呟きながら、例のビルに行こうとするんだって!キャー!」
「……暗示にかけられていた、と」
「さっすが七海ィ!話が早いね!」
「私にその任務へ行けという事ですか」
「そゆこと〜!いや〜今回はさぁ、警察からの依頼なわけ。あちらさんとは仲良くやってかないといけないから失敗できないんだけどさ、僕明日から海外出張なんだよね〜」
「ハァー」
「つーわけで、七海!キミに決めたァ!」
「……チッ」

つまるところ、七海は五条から体よく仕事を押し付けられた、ということになる。







その話を聞いた翌日、七海は現場に向かうためにそのビル最寄りの駅に降り立っていた。

本来であれば呪術師の任務は補助監督とともに車で向かうのがセオリーだ。しかし、今回の場合すでに補助監督が暗示にかけられたという前例が存在している。
暗示がかけられるトリガーがわからない以上、下手に足手纏いになる可能性のある補助監督は現場に連れて行かないほうがいい、という方向になったのだ。
駅前に立つ七海はこの付近から離れた場所で待機している補助監督へ連絡を入れた。

「現場近くの駅に到着しました。定期連絡は1時間ごとに行いますので、1時間半以上私と連絡が取れなくなった場合は規定通り一級以上の術師に応援を要請してください。これより任務を開始します」

七海は通話を切ると、街の様子を見渡した。呪いの影響がそのビルだけなのか、或いは街にまで出ているのかを確認するためだ。
ターミナル駅にとまでは呼べずとも、近くにはオフィス街や住宅街もあって利用者も多い駅だ。人が多ければ自然、呪いも多くなる。

駅のそばにある交番の掲示板へ目を向ければ、所狭しとポスターが貼られている。
違法薬物への注意喚起、交通事故発生件数表、行方不明者の捜索願い、暴力団関係店への警告、指定手配犯の写真。元よりあまり治安がいい町でもないのかもしれない。

その駅前のロータリーで中年の男女が声を張り上げながら道ゆく人々へビラを配っていることに気がつく。
「先月20日から中学生の女の子が行方不明になっています」
「些細なことでも構いません。心当たりのある方はご連絡ください」
七海はそっと人の流れに歩調を合わせて、ビラを配る男性のそばに寄る。「どうか、ご協力お願いします」と隈の目立つ顔で差し出されたビラを七海は受け取り、歩きながらそれに目を通した。

そのビラにはどこにでもいそうな女子中学生が笑っている写真と、彼女の名前なのだろう「苗字 名前」という文字、それから彼女が最後に失踪した場所とその時の服装等が詳細に記載されていた。
ビラを配る男女はおそらくこの少女の両親なのだろう。張り上げられ続ける声を背中で受けとめながら七海は思う。
少女が呪いに巻き込まれて行方不明になった可能性は、正直高い、と。

そんな思考に至った瞬間、七海の胸の内に言いようのない感情が生まれるが、彼はそれを努めて表情には出さなかった。
七海は正義の味方でもなければヒーローでもない。全てを救えるわけではないのだ。そんなこと、彼自身が一番よくわかっている。

少女が失踪した場所はこの駅付近。雑居ビルで発生している呪いの影響が街全体に広がっている可能性を考えてから、すぐにそれを否定する。この中学生が失踪していたのは、雑居ビルでの連続転落死が起こるより前のことだったからだ。
七海は受け取ったビラを丁寧に畳んでスーツの胸ポケットへ入れる。それから、静かに現場である雑居ビルへ向かうために歩みを進めた。








駅から徒歩15分程度のところにあるその雑居ビルは5階建て。その全てのテナントが空きになっていた。誰かが階段を上がっても気がつく人はいない。
そもそもこのビル自体、大通りからさらに一本奥に入った先にある常よりひと気の少ない立地だ。誰かがそのビルの屋上に上がっていても、気が付かれない可能性は十分にある。

七海はそのビルの各階を軽く調査した後、ビルの非常階段を兼ねている外階段を上がり、屋上にやって来た。周囲にはこのビルより高いビルが数多くあるため、屋上ではあるものの、他のビルの影がかかっていて薄暗い。

落下防止の柵は1.2メートル程度の高さ。この高さであれば大人が誤って落下する事はまずありえない。犠牲者たちは能動的にここから飛び降りるために柵を乗り越えたのだろう。軽い暗示程度でそれをさせることは難しい。かなり強力な暗示がかけられたと仮定して問題ないだろう。
それから七海は柵に背を向けて、屋上全体を見渡した。屋上はその隅に錆びた室外機やパラボラアンテナがある程度で、その他にはほとんど何も無いと言っていい景色だった。放っておいても問題ない程度の低級呪霊はいるが、被害者達と関係のありそうな残穢は無い。

七海は軽く自身の腕を上げて手首に巻きつく時計を見た。そろそろ駅で電話をしてから1時間経つ。少し早いが、補助監督に定期連絡を入れることにした。

「お疲れ様です、七海です。現在、該当ビル屋上で調査を行っていますが、残穢や証拠品となるものは一切見つかっていません。おそらく暗示をかけたと思われる呪霊あるいは呪詛師はこのビルそのものには出入りしていないのでしょう。ビルの外、ただし暗示の効力からしてそう遠くない場所で暗示をかけたと考えられます。よってこれより、ビル周辺の調査を開始します」









ビル周辺の調査をするにあたって、七海は事前調査報告書の記載を思い起こした。
例の、暗示にかけられた新人補助監督の報告書だ。
その補助監督は先輩の手で高専まで連れ戻される頃には正気を取り戻していた。暗示を掛けられた場所から、或いは呪霊または呪詛師から離れたことで暗示の効果が薄くなったためだろう。
とはいえ、暗示をかけられていた前後の記憶は朧気だと語っている。暗示や催眠の術式は人の記憶と密接に関わる。覚えていないのは仕方のないことだろう。

ただ朧気ながら覚えていることがあった、と記録が残っている。

「誰かと会話をした記憶があること」
「階段を降りた記憶があること」

ひとつ目の記録から、もしもこの暗示をかけたのが呪霊である場合、その呪霊は人と意思疎通を図れる程度には成長している、二級レベル以上の呪霊だと言うことがわかる。

そしてもうひとつの記録。
暗示を掛けられた補助監督は雑居ビルの階段を上がる前に先輩補助監督に止められている。だから記録にある階段とは、ビルの外階段のことではない。
ビル周辺の何処かの階段。朧気とはいえ記憶があるという事は階段を降りたのは暗示にかけられている最中のことではないだろう。
つまり、補助監督は何処か地下へ続く階段を降りて、その先で暗示にかけられた、と考える方が道理だ。

そう考えた七海は地下に続く階段を捜索の目印とした。



雑居ビルの周囲には二箇所、地下へ続く階段があった。
ひとつは雑居ビルの向かい側、西方向へ三つ目のビル。
しかしその地下階段は降りる前のステップ部分にフェンスがあり、鎖で厳重に封鎖されている。封鎖されてからそれなりに時間が経っているように見えるし、開けられた様子はない。ここではないだろう。

七海はもうひとつの、雑居ビル東側の5件隣にある地下階段の前に立った。
階段は道路からそのまま下れるように作りになっている。地下の先は、元はスナックか何かだったのだろう、階段途中には薄れた文字でそれらしい店名が書かれている。地上から階段の終わりを覗き込んでみるが、その奥に曇りガラスの扉があることだけしか視認できない。

怪しいが、だからこそ入るほかない。虎穴に入らずんば、というやつだ。
七海は足音を立てないように慎重に階段を降りた。一段下るたびに少しずつ陽の光が遠ざかっていく。

七海はいわゆる術師の勘のようなものを頼りにはしないが、なんとなくここだろうという確信のようなものは感じていた。

階段を降り切れば、扉を開けるためのステップ空間がある。扉はやはりその全面が曇りガラスで中の様子は見えない。だが、確かに人の気配がする。
視線を落として扉の鍵付近へ目を向ける。鍵はかかっていない、というよりかは元より壊れているらしい。まともに管理されているところではないのだろう。
中に入ればいつ戦闘になってもおかしくないと判断した七海は慣れた手つきでスーツの前を止めていたボタンを外し、ボディハーネスの背中側に固定させていた鉈を抜き取って右手に持つ。

そうして、ゆっくりと曇りガラスの扉を引き開いた。

扉の先の店の中は荒れに荒れていた。
大量の酒瓶が床に落ちて、割れ、散乱している。積み上げられたテーブルは扉から入って右手の壁際に寄せられて、彼処に転がった椅子は大抵脚が折れていた。
店自体はそう広くはない。せいぜい一般的な会議室程度の広さで、元はスナックらしく、入ってすぐ左側には長いバーカウンターがある。そのカウンターの向こう側の埃を被った棚にはブラウン管テレビが置かれており、ここがまともに使用されていたのが相当前であることがわかる。
店の奥には元は従業員用の控室か何かだったのだろう扉がある。その引き扉付近の床には比較的ガラスのかけらが少ない。扉を開くたびに、床にあるガラスが扉下部に引っかかって外側へ押し出されるからだろう。奥の部屋が何らかの目的で現在も使用されている可能性があった。

そんな荒れ切った店内で、七海が真っ先に認識したのは一人の人間。
割れた酒瓶が散乱しきった店の中、バーカウンターに突っ伏する形で一人の少女がそこにいた。
ブレザーの女学生用制服、小柄な背丈、バーチェアの足置きに届かず脱げ落ちたローファー。カウンターやローファーのそばに落ちているいくつかの菓子パンの袋と空のペットボトル。
いるべきではない場所にいる、未成年。

彼女は件の暗示術式を持つ呪詛師、あるいは巻き込まれた被害者だろう。
七海はそう判断した。

しかしあまりにも反応のない少女の様子に、七海は一瞬最悪の可能性を考えたが、カウンターに額をつけるように突っ伏しているその背中が微かに動いていることから、それは杞憂に終わる。起き上がらないのは眠っているのか、単純に七海が入って来たことに気がついていないからだろう。

七海はあえて足音を立て、散乱するガラスを踏んで彼女に数歩近づいた。
その音でようやくこの場に自分以外の誰かがいることに気がついたのだろう、少女はゆっくりと重たそうに体を起こして、音の鳴る方、七海へ視線を向けた。

瞬間、目が合い、互いを認識し合う。
痩せた頬、眠たげな瞳、合わない焦点、起き上がったのにぐらりぐらりと不安定に揺れる頭部、まだ丸みのある幼い顔つき。肩に引っかかっていたセミロングの黒髪が背中へ流れる。唐突に感じる微かな既視感。

「…………だれ?」
まるでずっと喋っていなかったかのような掠れた声で、少女は七海へ問いかけた。不思議そうに傾げた首はそのままぽきりと折れてしまいそうにさえ見えた。

「初めまして。私は七海建人。呪術師です」
「じゅ、じゅ、つし?」
知らない単語を呟くような声音。だが会話は通じそうだ。七海はすぐに間合いに入れる距離を保ちながら、問いかけを続けた。
「貴女の名前を教えてください」
「わ、わた、し、……わたしは、」
彼女はそこまで呟いて、それきり口を開いたまま何も言わなかった。まるで自分の名前を思い出せないかのような素振りから彼女が呪詛師である可能性が低まった。むしろ彼女は何者かによって暗示をかけられた保護すべき被害者の可能性さえある。

「どうして自分がここにいるのか、わかりますか?」
おそらく理解していないだろう。先程名前を答えられなかったように、返答が無いことを前提に問いかける。
少女は相変わらずゆらゆらと体を揺らしながら、口を開く、閉じる、開く、閉じる。それを何度か繰り返して、ようやく音を吐き出す。
「わた、し、わたし、ここ、わたし、ここに、きたひと、を」
ぐらり、ぐらり、揺れながら、断片的に吐き出された言葉。それを問い返す前に、ぴたりと唐突に少女の体が止まる。そのまま、見つめられる。焦点のあっていなかったはずの瞳が、その時確かに七海の目を見つめていた。

「わたし、ここにきた人を、みんな殺さないといけないの」

唐突に吐き出された殺意にサングラス越しに目を見開いて七海は少女を見た。
少女は重たげに腕を上げると、人差し指で真っ直ぐに七海を指差した。

「ーーー『あなた、』」
向けられた指と吐かれた言葉に呪力が乗っていることに気がつく。
瞬間、考えるより先に七海は行動した。
耳から脳にかけてを守っていた呪力を強化させる。

「『きえて』」

たったそれだけの言葉。それが鼓膜を揺らした瞬間、脳味噌の内側を他人に撫でられるような感覚が七海を襲った。ぐらりと揺らぐ、一瞬の目眩にたたらを踏む。そのごく一瞬の間に、七海はほんの数コンマだけ、あの雑居ビルの屋上へ向かわなくてはという思考に支配された。クリアに戻った頭でその思考をすぐに振り払う。

……七海はこの場に来た時からずっと脳を呪力で守っていた。今回の任務では対峙するのが暗示系の術式だと事前にわかっていたから。
けれど、とっさの判断でその呪力を意識的に強化させていなかったら、きっと七海もこれまでの被害者同様に暗示を掛けられていた。それほどに強い暗示。
それに気がついて、ぶわりと冷や汗が背中に吹き出す。

この少女が呪詛師なのか。
指を指し、相手に命じる。それを条件に発動する術式。
警戒を強める七海の様子に気が付いていないのか、少女はこてんと不思議そうに小首を傾げる。どうして暗示が効いていないのか、まるでわかっていない顔だった。
故に彼女はもう一度七海を指差して、告げる。

「『あなた、きえて』」
二度目は目眩さえもなかった。しっかりと呪力で頭の内側を守っていれば問題ないことを認識して、七海は少女に伝える。

「それは私には効きません」
「『きえて』」
「それ以上は無意味です。なにより貴女に呪いが返る」
「『きえて』」
「やめなさい」
「…………『あなた、死』、」
少女がより強い言葉を吐こうとしたその瞬間、七海は躊躇いなく少女の間合いに入り、薄く開かれたその小さな口の中に指を三本突っ込んだ。勢いよく差し入れられた七海の指に、少女が嗚咽を漏らし、その体が背後に倒れ込みかけるのを咄嗟にもう片方の腕で支える。口で静止しても無意味だと判断した七海は他でもない少女の為に物理的に言葉を吐けないようにした。

「死んで」なんて強い言葉を吐いても七海にはもう効果はない。けれど、呪った先に届かなかった呪いは呪った者に返る。
きっと、放っておけば返ってきた呪いによって彼女自身が死んでいた。
人を呪う反動、それさえ知らない子供の様子に七海の眉間に自然と皺が寄る。

少女は抵抗するように手足をばたつかせては、七海の指に噛み付く。鋭い犬歯が皮膚を破り、骨に達する痛みに微かに目を伏せるが、指は抜かない。
背中を支えていた手で彼女をもう一度しっかりと椅子へ座らせて、七海は落ち着かせるようにその背中を撫でた。至近距離で少女の顔を見て、七海は確信する。

「苗字名前さん」
少女の名前を呼んだ。

駅前のロータリーで捜索されていたあの少女。痩せた頬や不健康そうな顔色であるものの、同一人物であることに間違いない。
思い出す。必死に声を上げる彼女の両親。縋るように渡された情報量の多いビラ。
もう一度、しっかりと伝えるように七海は口を開いた。

「貴女の名前は苗字名前さんです」
「……、あ」
「貴女のご両親が必死になって貴女を探していました」
強く噛み付いていた歯から力が抜けていく。それを認識してからゆっくりと七海は彼女の口内へ差し入れていた指を引き抜いた。
少女の見開かれた目には確かに七海が映っている。

少女は、苗字名前は暗示の術式を持つ術師だ。
雑居ビルの屋上から転落死した4人を暗示によって殺害したのは恐らく苗字で間違いないだろう。けれど、

「貴女は別の誰かに暗示を掛けられて、ここに来た人を殺すように命令されていた。……そうですね?」
そう、確かめるように問いかけた瞬間、焦点のあっていなかった瞳に光が戻る。
震える唇から、ようやく彼女自身の言葉が生まれていく。

「……あ、ああ、あ、あああ、わ、私、人、人を殺し、て、あ、ああ、あ、ああああああああッ!!!!」
響き渡る絶叫。
苗字に掛けられていた暗示が解ける。解けて、しまう。
その瞬間、まだ幼い彼女は自分が自分の力でもって何をしたかを明確に認識した。自分が、他人に暗示を掛けて、あの雑居ビルから落として殺したのだ、と。何人も、何人も。

知らぬ間に行っていた己の罪を自覚した少女は悲鳴を上げて、錯乱したように自身の顔に爪を立てる。そのまま引き裂くように顔を掻き毟ろうとするその手を、七海は細い手首を掴んで止めさせた。

「苗字さん」
「あ、あああ、ああ」
「落ち着いてください。これは貴女の責任ではありません」
「殺し、わ、私、人を殺して、ど、どうして、どうしよう」
「貴女はそう命じられていました。暗示を掛けられていたんです。貴女の意思を踏み躙って貴女に暗示を掛けていた首謀者がいる。私はその人物を見つけたい」
「………あ、ああ」
「苗字さん。私に力を貸してくれませんか」
ぼろぼろと目の淵から溢れ落ちる涙。混乱している未成年を利用せざるを得ない自分に怒りを感じながら、七海は彼女を落ち着かせるために言葉を紡ぐ。

「私は貴女の味方です。苗字さん、貴女を助けに来たんです」
ハッ、ハッ、と浅い息を繰り返す少女はそれでも少しだけ混乱から距離を置けたらしい。何度か言葉を紡ごうとして、痙攣する喉に遮られる。「ゆっくりでいいですよ」と声をかけ、七海は彼女の背中を撫で摩る。それから彼女を安心させるために、サングラスを外し、床に片膝をついて視線を合わせた。

「少し落ち着きましたか?」
「……は、い。あ、あの、あなた、は?」
「七海建人、といいます」
「七海、さん」
「ええ。私も貴女と同じように少し不思議な力を持っています」
「七海、さんも、人に命令できる、ん、ですか?」
「それとは少し違いますが、……貴女は普段から街や学校で変な化け物のようなものが見えているんじゃないですか?」
「は、はい、見えて、ます」
「あれらは私にも見えているんです」
そう告げると彼女は驚いたように七海を見た。

「私はその化け物を退治したり、私たちの持つこの不思議な力を悪用して他人を傷つける人を捕まえる仕事をしています」
「私も、つ、捕まりますか?私、この力で人を殺してしまっていて、」
声を震わせる少女に、七海はゆっくりと首を横に振って見せた。
「いいえ、貴女は被害者です。貴女は悪い人にその力を無理やり悪用されただけ。貴女が守られることはあっても、捕まえられることは無い」
出来るだけ穏やかに聞こえるように七海は彼女へ声をかける。苗字は困惑したまま目を瞑って、深く深呼吸を繰り返す。それは何かに耐えるようにも見えたし、自分を必死に落ち着かせているようにも見えた。口の中に溜まっていた唾液を嚥下すると、苗字は目を開いて真っ直ぐに七海を見る。
まだ、混乱した状態から抜け出せ切ってはいないのだろう。戸惑いと、不安、恐怖の混じった瞳でそれでも確かに七海を見た。

「な、七海さん」
「はい」
「……私は、ど、どうしたらいいですか?」
それは先程七海が彼女へ問いかけた「力を貸してくれませんか」という言葉に対する返答に他ならなかった。




苗字にかけられた暗示が解けた後、七海は彼女をバーチェアに座らせたまま、まず奥の部屋を確認することにする。入った時からこの部屋がやけに怪しく見えていた。

開け放った扉の先の狭い空間には埃の被っていない段ボールの山がある。その中のひとつを開けて、七海は離れたところにいる苗字に聞こえないように舌を打った。

箱の中で小分けに袋詰めされたカラフルなラムネ菓子。もちろん、それが本当にラムネである訳が無い。
MDMA。別名「エクスタシー」とも呼ばれる錠剤型の違法薬物だ。

七海の眉間に皺が寄る。
つまるところ、この事件の首謀者は暗示の術式を持った麻薬の密売人というわけだ。
大量の薬物の保管場所として、このひと気の無い地下室を選び、この場所の門番として苗字を利用していた。

ふと七海は思い出す。
出会った時の苗字の眠たげで気怠そうな様子。あれが暗示の術式によるものならばまだいい。
……最悪の可能性として、共犯者として苗字もこれを飲まされている可能性がある。まだ未発達な中学生の子供が。
その可能性が少しでもある以上、出来るだけ早めに彼女を医療機関へ連れていく必要があった。
七海はダンボールを戻すと、何事無かったかのように店の方へ戻り、扉を閉める。

不安げにこちらを見つめてくる苗字へ「こちらには何もありませんでした」と表情を変えずに嘘をついて、七海は彼女のそばへ戻る。それから協力する意思を見せてくれた彼女へ視線を合わせて問いかける。

「無理せず、覚えている限りのことで構いません。貴女に掛けれた暗示の内容と、掛けた人物のことを教えてくれませんか」
「は、はい。えっと、私に掛けられた暗示はふたつです。『ここに来た人を』……こ、『殺さなければならない』というのと、『この場所から出られない』というのです」
「貴女を逃さないようにそうしたんですね」
「た、多分、そうです。あと、それから、私に暗示を掛けた人なんですが、ごめんなさい、顔が思い出せない、です。多分、男の人だったと思うんですけど」
「ええ、大丈夫。十分な情報です」
「あと、あの、その人は毎日ここにきて、ご飯を持って来てくれます」
カウンターに置かれていた菓子パンの袋を手に取って、苗字はそう言った。
「……なるほど。定期的に来るのならその瞬間を狙ってもいいのですが、恐らく貴女に暗示を掛けた男はもうここに向かって来ているでしょう」
「……えっ?」
「貴女に掛けた暗示が解けたことは、掛けた男に伝わっています。今頃異常事態が起こったと思って慌てているでしょう」
そう告げると苗字は怯えたように身を引いて肩を震わせた。その恐怖を否定するように七海は彼女は伝える。
それから補助監督へ連絡を入れるために携帯をポケットから取り出した。
「不安がる必要はありません。私に暗示は効きませんから。ですので、」

と、その続きを七海が言おうとした瞬間、それより先に彼は反射的に立ち上がり、入り口扉へ体を向けて鉈を構えた。
カツーンカツーンとわざとらしく音を立てて階段を降りてくる足音。

……もう来ている。
想定より来るのが早かったな、と七海は眉間に深く皺を寄せながら、小さく苗字へ「下がってください」と声をかける。彼女がほとんど這うようにして奥の扉の前に向かい、背中を扉に押しつけるのを確認してから、七海は再度入り口へ目を向ける。
本当ならば補助監督の方へ連絡を入れて、苗字だけを先に高専の方で保護させたかったのだが、こうなっては仕方ない。

曇りガラスの扉の向こうの人影。
その人物が扉を開いた、その瞬間を狙って鉈を横に振りかぶる。殺すつもりはまだない。鉈の側面の部分でその人物の顎を撃ち抜き、戦闘不能にすることを狙って、振り抜いた。

「おおっとぉ」
「……チッ」

キィィンと金属同士がぶつかりあう耳障りな音。
七海の鉈は相手には当たらなかった。ゆったりと余裕のある態度で入ってきた男がその手に持つ1.2メートル程度の長い鉄パイプで七海の鉈を受け止めてガードしたからだ。暗示の術式の割に、不意打ちを避けられる程度には戦闘慣れしているらしい。いや、そういう術式だからこそ、か。

相手の獲物の方がリーチがあることに気がついた七海は距離を取り、この店の中に入ってきた男を見据える。

180センチそこらの背丈。最後に染めてから随分立っているのか、根本だけ黒に戻っている金髪。体格はあまり筋肉質には見えないが、ゆったりとした黒のスウェットの下に隠されているだけかもしれない。最初の一撃を防いで以降、構える様子のない男の一挙一動を見逃すまいと七海は男を睨みつける。
男もまた七海を見据えて、唇を舐めてから笑った。

「おいおいおいおい、なんでたかが一週間かそこらでこんなにここに人が来るんだよ」
……助けとか呼んでねぇよな?
ヘラヘラと笑ったまま、男は七海からその背後で蹲る苗字へ目線を向けた。男と目が合ってしまったらしい苗字が怯えてさらに身を引こうとしたのか、床に散乱するガラスが靴と擦れ合うガチャガチャという音が七海の耳に届く。
男は目の前にいる七海を無視して、笑った顔のまま苗字へ話しかける。表面上は穏やかな声を演じながら。

「……俺さぁ、お嬢ちゃんに言ったよねぇ。ここに来たやつは全員ブッ殺せって、よぉ!アア!?言われたこともできねぇのかよクソガキが!」

言葉の途中で唐突に声を荒げた男はそばに転がっていた椅子を勢いよく足裏で蹴り飛ばした。それは壁際に積まれていたテーブルとぶつかり、バランスを崩したテーブルが転がり落ちて大きな音を立てる。落雷のようなその大音に苗字は悲鳴を上げ、蹲ったまま拒絶するように耳を塞いだ。

「……フー」
耳障りな騒音、怒声。七海は苛立たしげに額に青筋を立てて息を吐いた。
「……未成年に対する恫喝および監禁。子供を威圧するその態度と言動」
淡々と呟くような七海の声に男は訝しげに視線を向ける。

七海は嫌いだ。
子供がまともに守られない世界も、弱者が搾取される世界も、それを当然のように利用する大人たちも、みんな、嫌いだ。大嫌いだ。

「……反吐が出る」
「ア?PTAかよ」

瞬間、距離を詰めて横に一閃、躊躇いなく顔面を狙って振られた鉄パイプを七海は体を後ろに下げることで回避する。まずはその武器を離させるため、足元から振り上げた鉈で鉄パイプを打とうとするがそれは避けられた。七海の態勢を崩そうと突き出された男の足を硬い太腿で受け止めて、再度右腕で鉈を振るう。が、それも七海を壁にするように太腿を蹴った反動で距離を取られる。その距離を即座に詰めて男の胴に蹴りを入れようとした瞬間、男は身を躱して七海の左側を通り抜け、七海の背後にいる苗字の元へ向かおうとする、のを、とっさの左ラリアットで止める。
ようやくまともに男に入った攻撃も、大したダメージにはならなかったらしい。
男は跳ねるように入り口扉のほうへ下がって体勢を立て直し、七海を睨んで舌打ちをする。

「お前、邪魔だな」
「邪魔をしてますから」
「うぜぇなあ……『寝てろ』!」
暗示。いや、この男の場合は呪言だろうか。
呪力をもって紡がれた呪いの言葉。だが、それは、

「私には効きませんよ」
「……なんだよ、お前、術師か」
自分の術式が七海には通じないことに気がついた男が、苛立たしげに血の混じった唾を吐く。それからダラリと肩を落として男は「あーあ」と、嫌そうな声で呻いた。
「なんで術師なんかが来ちゃうのかなあ〜」
「ご自分の胸に手を当てて考えてみては?」
「うるせぇな。最ッ悪じゃねぇか。まともな術師には効かねぇんだよ、俺の術式。大したことねぇからさあ」
そのまま投降しそうな雰囲気を醸し出しながら、男はふらふらと体を揺らした。それから深く息をついて、男は俯くと、影のかかった顔でニヤリと嗤った。

「まともな術師には、だけどな?」

その瞬間、男の意図に気がついた七海は素早く鉈を振るう。けれど、それよりも男の言葉が吐き出される方が速い。

「『その男を殺せ』!」
男は呪言を吐いた。
目の前にいる七海にではなく、その背後へいる苗字へ。

七海ならば、呪言や暗示に対して脳を呪力で守ることで回避できる。だが、苗字はそうではない。
ただ術式を持っているだけの何も知らない子供に、男の呪言を回避する術はない。
だから、

「あ、ああ、あ、あああ、『七海さん』」
「……クソ」
彼女は呪言にかかって、術式を使ってしまう。
苗字が暗示の術式を使っても七海には効かない。けれど、効かなかった暗示の反動は苗字本人に戻ってしまう。彼女が七海へ『死ね』と言葉を吐けば、その呪いが彼女に返り、高確率で苗字自身が死んでしまう。

だから彼女を守るためには、男へ背を向けることを覚悟で苗字の口を物理的に塞ぐしか無い。優先すべきは自分ではなく、被害者である子供。
咄嗟に七海が彼女の元へ駆け寄ることを判断した、その瞬間。

「……ァア゛ア゛ア゛あッ!」
ボキリと骨の折れる音。
苦痛に塗れた少女の悲鳴。

七海と対峙していた男が驚いたように、呆然と奥にいる苗字を見た。
「……は?なに、してんの?お前」
男にとって、少女のその行動はまるで理解できないものだったから。

「……もう、っ、効か、ない。あなたの暗示は、ぐっ、私にはもう効かないから……!」

苗字の術式は呪言ではない。
彼女の術式はあくまでも「指を指した相手に暗示をかける」術式。
吐き出す言葉はトリガーでは無い。
本当のトリガーは指を指す・・・・こと。

だから、苗字は咄嗟の判断で自分自身の人差し指を折った・・・

もう、誰かを理不尽に呪わないために。
助けに来てくれた人をもう二度と・・・・・自分の力で殺さないために。

痛い、痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い、痛い、けど。泣き噦り、経験したことのない激痛に呻き苦しみながら、彼女は張り裂けそうな声で叫んだ。

「七海さん!死なないで!」



(……嗚呼)
彼女の覚悟を理解して、七海は己の胸の奥が震えるのを感じた。七海はそれを知っている。

聳え立つ目の前の恐怖に、震え、怯え、嘆きながらも必死になって立ち向かう人の強さを。

七海はそれを知っている。
七海はそれを信じている。
七海はそういうものを、ずっと守りたかった。

だから、
「ありがとう」
小さく、呟く。きっとこれはあの子には届いていないだろう。構わない。後で、全てが終わってからもう一度伝えればいい。

苗字の行動に驚いて動きを止めた男の得物を7:3の位置で叩き切る。術式の開示をするまでもない。跳ね飛んだ鉄パイプを空中でさらに分断する。
七海に気がついた男が何かを言おうと口を開いたが、七海はそれを聞かなかった。

男が何かを言うより先に、握りしめた七海の左拳が男の顎を的確に撃ち抜く。

終わりは一瞬のことだった。
吹き飛んだ男の体がバーカウンターの奥の壁に叩きつけられて、そのまま落ちる。

七海はバーカウンターの中へ入ると、男の意識が確実に落ちたことを確認して、男の四肢を脱いだスーツのジャケットで縛り、解いたネクタイを猿轡にして転がした。
それから立ち上がり、奥に座り込んだままの苗字の元へゆっくりと歩みを進める。
それから、彼女の前で膝をついて手を差し伸べた。

「苗字さん、もう大丈夫です」

おうちへ帰りましょう。

七海がそう笑いかけた時、苗字は彼の顔を見つめて声を上げて泣いた。









二人は地下から上がり、連絡した補助監督がここに来るまで待っていた。
七海にとっては約1時間半ぶりの、苗字にとっては約10日振りの陽の光だった。

「無茶をしましたね」
段差に腰掛ける苗字の折れ曲がった人差し指に簡易的な処置をして、七海はそう声をかけた。
言われた彼女はバツの悪そうな顔で「ごめんなさい」と目を伏せる。それを七海は首を振って否定した。

「いいえ、私の方こそ貴女に無理をさせるような状況にさせてしまって申し訳ありません」
「ちがっ、違います。七海さんは助けてくれたから……。遅くなってしまったけど、あの、助けてくれて本当にありがとうございます」
七海は小さく口元を緩めて、もう一度首を振った。

「私の方こそ、ありがとうございます」
貴女の覚悟に助けられた。
そう言って七海は感謝を伝えた。それが本心からだということは苗字には伝わっていたけれど、彼女はその言葉を上手く受け止めることが出来なかった。


「ところで、」
と、七海は切り出した。
顔を上げた苗字はそっと七海を見上げて小首を傾げる。

「苗字さんはこんなことが起こるより前にご自身のその暗示の力を使ったことはありますか?」
「……小学生の時までは時々使っちゃったりしてました。けど、最近は、……あっ」
思い出したように苗字は声を上げた。それから、内心怒られるかもしれないと思いながら、声を小さくして七海に告げた。
「……あの、少し前、先月の初めくらいなんですけど、友達と帰ってたら、変な人に絡まれて」
「変な人?」
「変、というか、怖い人でした。腕に刺青とかあって、急に覚えのないことで怒鳴ったりしてきて、それが怖くて、使っちゃったりはしました」
「……なるほど」
それをあの呪詛師に見られていて、目をつけられたのかもしれない。七海はそんなことを思った。

術式を他人に使ったことを理由に怒られると思ったのだろう。苗字は恐る恐るといった具合に七海の横顔を見つめた。その視線に気がついて、七海は口を開く。
「……そうですね。私たちのこの力は無闇に使うものではない」
「はい……ごめんなさい」
「ですが、貴女が自分の身と友人の身を守るために使ったのも事実です。危険から身を守ろうとする行いには何の咎もない」
「……えっと、」
「つまり、物は使いようということです。使わずに済むならそれが一番ですが、それが叶わないのであれば、できるだけ正しいことに使ってください」
「……正しい、こと」
呟いた苗字は俯いて、自分の足元を見つめる。

びゅうと音を立てて吹き込んだビル風が二人の衣服と髪を揺らした。
それきり、二人の間に沈黙が落ちる。
苗字は何かを言いたげに口を開いて、けれど何も言わずにまた俯く。そんな様子に七海は声をかけようか思案して、けれどそれより先に苗字は覚悟を決めて七海の名前を呼んだ。

「……あの、七海さん」
「はい」
「私、地下にいた時に一回だけ、あの男の人からの暗示が解けかけたことがあったんです」
ぽつりと零された言葉が懺悔に似ていることに気がついて、七海は黙ってうなづいて耳を傾けた。

「でも、ここから出れないって暗示だけは残ってて、だから、ドアのところから助けを呼んだんです。何回も「助けて」って」
そうしたら、と鼻を啜りながら彼女は続けた。

「お巡りさんが来てくれたの。あのドアを開けて、私のこと見つけて「もう大丈夫だよ」って、「おうちへ帰ろう」って、そう言ってくれたの」
小さく紡がれる言葉に濡れた音が混じっていく。途絶えていた涙がもう一度、少女の瞳から零れ落ちていった。

「あのお兄さん、助けに来てくれたんだよ。私のこと、助けに来てくれたのに、「帰ろう」って言ってくれて、嬉しかったのに、私、『戻っちゃった』の。暗示が戻っちゃって、私、助けに来てくれたお兄さんを、」

指差して、殺しちゃった。


ああ、と七海は息をついて、記憶の中にある任務詳細書の内容を思い出す。

巡回中だった20代の交番員。
4人目の犠牲者のこと。
助けを求める子供に、手を差し伸べた人。

「七海さんは私の責任じゃないって言ってくれたけど、私、いやだよ。どうしたらいいのかわかんない。許されないことをしちゃったの。謝りたいけど、でも、もうお兄さんは死んじゃってて、謝っても、もう、取り戻せないから、帰れないよ。この力を、正しくない使い方をした私のことなんて誰も許してくれない。こんな私じゃ、お母さんにもお父さんにも会えない」
折った指の痛みより、人を殺めてしまった事実の方が苦しい。肩を震わせて、取り返しのつかない現実に恐怖する。
やり直せるのなら、時間が巻き戻るのなら。
そんな叶わないことばかりを願ってしまう。

ああ、それを知っている。
その悔やみを、その苦しみを、その痛みを知っている。

「苗字さん」
七海は震える彼女へ声をかけた。けれど彼女は頑なに七海を見なかった。座り込んで、足元に落ちる涙の跡を見つめ続ける。

わかっている。言葉は慰めにならない。例えそれが慰めになったとしても、起こってしまった事実は変えようもない。死んだ人は蘇らない。
だから、つらい。
だから、苦しいんだ。それでも、

「……人の死とはそういうものなんです」
それでも、七海は沈黙を選ばなかった。

「どれだけ謝罪と後悔を繰り返しても、死者は何も言ってくれません。許すとも、憎むとも言ってくれない」
それはどうしようもなく、変えることのできない事実。

「だから、私たちは許されることも、憎まれることもなく生きるしかないんです。たとえそれがどんなに苦しくとも、たとえそれがどんなに悲しくとも、なかったことには出来ない。だから、忘れないで、抱えて生きていくしかないんです」

こんなことに意味なんて無いとしても。
自罰の果てに得られるものなんて無いとしても。

「せめて、許されるように生きましょう」
それだけが生き残った者の責任だ。



暗い地下から抜け出し、逆光の向こう側へ辿り着く。
差し出された掌を掴めなかった子供は、その柔らかな心に傷を抱いて、助けてくれた人を助けられなかった己を責め続ける。

理不尽に抱えざるを得なくなった罪と後悔に声を上げて泣き噦る子供に、七海はただ寄り添い続けた。


やがて微かに鼓膜を揺らす車のエンジン音。
やってきた補助監督の車が目の前で止まったのを見て、七海は立ち上がった。

それから、まだ座ったままの苗字へ手を差し伸べる。

「さあ、おうちへ帰りましょう」

貴女が帰ってくることを待っている人がいる。

差し出した七海の掌を、苗字は少し躊躇ってから、それでも今度こそしっかりと掴んだ。