返却希望日

※単行本14巻の内容を含みます。


■不在者の秘め事


「……ここっスね」
補助監督から渡された書類に書かれている住所と、目の前の部屋の住所が一致することをもう一度確認して猪野は隣に立つ女性にそう声をかけた。猪野の視界の端で彼女もまた表札に書かれた「七海」という苗字を確認してうなづく。

猪野が七海の自宅を訪れるのは初めてのことだった。
大体このあたりに住んでいる、という話は彼との雑談の中で聞いたことはあったけれど実際にそこに来たことはこれまで一度としてない。自宅というのはプライベートの塊であり、個人の砦だ。
元より呪術師という職業は任務とプライベートの境目が曖昧になる。夜間であっても連絡が来ればすぐに駆けつけなければならないし、休日であろうと携帯はマナーモードに出来ない。
だからこそ、自分の時間というものはより貴重になっていく。
いくら猪野が七海と懇意の仲であったとしても、あくまでも二人は業務上の先輩後輩だ。守るべき一線はある。だから猪野は七海の家に行くことはなかったし、七海もまた猪野の家を訪ねることはなかった。
それが今日になって、初めて破られる。そこに微かな躊躇いと申し訳なさはあれど、これもまた猪野にとっては仕事の一つだった。


一昨年の秋に殉職した、元一級術師七海建人の遺品整理。


その仕事が猪野に与えられたことに、猪野が七海と交流のある間柄であったことは否定できない。
周囲からそう思われる関係であったことを嬉しく思う気持ちが無いわけではないが、出来ることならこんな日は来ないほうがよかった。
そう思っても栓無きことだと、わかっているけれど。

猪野は微かに震える手を押さえながら、管理人から渡された合鍵で七海の自宅扉の鍵を開けた。カチャンと冷たい音が聞こえて錠が落ちる。それからゆっくりとドアノブを引いて、扉を開けた。


「苗字さん」
隣に立つ女性──苗字名前に猪野は声をかけて、中に入るように促した。すると彼女は踏み出そうと上げた足をすぐに戻して、「あっ、いえ、どうぞ、先に猪野さんが」と言った。

「いや、俺は外で待ってるんで」
「えっ」
苗字は扉の反対側、燦々と日光が降り注ぐ真夏の街の方を見て「でも、外、暑いですよ」と少し驚いたようにいう。それに対して猪野は首を振って「流石に女性と密室で二人きりってのは申し訳ないんで」と答えた。
すると彼女はやっと猪野の発言の意図に気が付いたらしく、あー、と吐息を吐き出すような声を伸ばしてバツの悪そうな顔をした。

「……すみません……ほんと、そういう配慮に頭が回らなくて……」
「いやいや!気にしないでくださいって!普通そうっスよ」
もちろん、彼女に対して何か不道徳なことする、なんて意思は当然一切ない。
けれど、誠意というのは何をしないかではなく、何かをすることでしか見せることはできない。だから、猪野はそれをしっかりと口にすることにした。
そうして再び、どうぞと扉を大きく開けた猪野だったが、苗字はそこから動かなかった。それどころか変わらず困った顔をしたまま、口を開いた。

「あの、猪野さんの配慮はわかってはいるんですけど、出来たら一緒に入ってくれませんか?」
彼女は申し訳なさそうに眉を下げながらも、真っ直ぐに猪野を見つめてそう言った。
「気持ち的に、その、困らせるとはわかってるんですけど、一人で入るには少し、抵抗というか、申し訳なさというか……」
「あー、その気持ちはわかるんですけど……」
そう言う彼女の気持ちはわからなくないが、だからと言って「ハイ、わかりました」と共に中に入るのも心理的に難しい。そんな猪野の思考を汲み取ってか、彼女はジャケットから取り出した携帯を操作すると、すぐにその画面を猪野へ見せた。
携帯のスクリーンは発信画面になっていて、そこには110と打たれている。あとは発信ボタンさえ押してしまえば、警察に繋がるようになっていた。

「猪野さんを疑ってるわけじゃないんですけど、携帯、こうしておくので……」
「いや、俺も男なんで疑った方がいいっすよ……」
「や、でも七海くんの後輩さんだし……」
それは猪野を疑わない理由にはならないはずなのに、その言葉から見える苗字から七海への信頼に少しだけ心が緩んだ。それに真夏の外気にさらされたマンションの廊下で問答をし続けるのも間が抜けている。いつもの目出し帽を被っていないために晒されている額に浮かぶ汗は誤魔化せない。
猪野は仕方なく彼女の言葉に折れることにした。肩を落とした猪野は苗字に「位置情報もオンにしといてくださいよ」とだけ告げて、開いていた扉の中に先に入った。




猪野が苗字名前という女性を知ったのは、一夜にして全てがめちゃくちゃになった一昨年の秋から一年以上経った後だった。

あのハロウィンの日に重傷を負った猪野が意識を取り戻した時にはいろんなことが変化していて、その中の一つに敬愛する先輩である七海建人が生死不明の状態になっているということがあった。
いろんなことが、とにかく一つ一つ列挙するには莫大な時間がかかるほどいろんなことがあった。人の死なんていちいち数えていられないほどたくさんのことがあって、けれど猪野はその人に起こったことを数えずにはいられなかった。


七海建人と思わられる遺体が渋谷駅地下で発見されたのはハロウィンから随分時間が経ってからであること。

それが司法解剖の結果、確かに七海建人本人のものだと鑑定されたのはさらに長い時間が経ってからだったこと。


家入に呼ばれて高専地下の解剖室で物言わぬ七海と再開した時、猪野はただ目の前の現実がよくわからなかった。

発見された七海の遺体は腰から下しか残っていなかった。猪野はそれを前に、七海の露出した背骨の数をぼんやりと数えたことを覚えている。

彼の遺体も、遺留品として見せられた彼の鉈も、スーツのスラックスも確かに見慣れたものであったはずなのにそれが生きていた七海とはちっとも結びつかなかったのだ。

せめて顔が残っていたのなら、どんなにぐちゃぐちゃになっていたとしても顔がわかったのならば、もっと違うことを思えたのかもしれない。ただ現実としてはそうならなくて、猪野は七海のものらしい下半身の遺体と無表情の家入の顔の間で何度かうろうろと視線を彷徨わせてしまった。

わかっている、術師が死んだ時に死体が残らないなんてよくある話だ。それが例え指の一本だけでも帰ってくるのならそれだけで運が良いことなのだと、知っている。家入サンの鑑定に間違いがあるわけもない。だからこれは、わかっている。わかっている。わかっている。わかってる。わかってるよ。これは七海サンだ。これは七海サンで、七海サンはもういなくて、だから、わかってる。わかってる。わかってるんだよ。わかってるから、静かにしてくれ。

誰も何も言わない冷たい部屋で、自分の心臓の音だけがうるさかった。


喪失に浸る間も無く、猪野は変化した世界で再び任務に当たった。後ろを振り返ることなく、前を向いて走らなければならない。
だって、猪野は呪術師なのだから。
立ち止まる余裕はなかった。常に追われているような気分だった。崩れ落ちていく足元を振り切るように走らなければ、やっていけなかった。立ち止まったら、きっと、もう二度と走り出せないと思った。

長く続いたそれらにようやくある種の区切りがついた頃、気がつけば季節は一巡りを超え、新しい夏になっていた。
そんな真夏のとある日に、猪野は補助監督の一人からある物を渡される。


それは七海が生前、高専に預けていた遺書だった。


死が身近である職業故に、遺書を残す術師は多い。当然、猪野も残していたけれど、他人の遺書を読むのは初めての経験だ。
読んでから、あの人は自分の死後のことをこうも明確に考えていたのか、とそんなことを思った。
変な話だが、七海らしさの滲むその遺書は妙に参考になってしまって、それを読んだ夜、猪野は自分の遺書を七海のものを参考に書き直した。書き直してから自分の行いがアホっぽく思えて一人で笑って、それから泣いた。


とかく、猪野は七海の遺書を読んで、それからそれを渡してくれた補助監督に言われた。
「もしも辛くなければ、猪野さんにここを任せても良いですか」と。
その人が指差した文章を目で辿る。そこには七海の七海らしい筆跡でこう書かれていた。


『私が所有する書籍は当人が希望する限り、苗字名前へ譲渡する』と。


知らない名前だった。少なくとも高専に在籍する人間の中にその名を知っているものはいなかった。
七海に恋人はいない、はずだ。
少なくともそのような話を聞いたことはなかったし、遺書にそのような記載も無かった。だとすれば、苗字名前という人物は七海の、呪術師ではない友人が何かなのだろうか。

補助監督が調べてまとめてくれた資料にあった苗字名前の電話番号に連絡をすると、初見の電話番号からの着信にもかかわらず、彼女はすぐに電話に出てくれた。
猪野は不要な警戒を与えないように慎重に自らのことを伝えてから、彼女へ本題を切り出した。

「七海建人サンが、亡くなられました」

そう告げた時、電話越しの彼女は確かに驚いていた。驚いてはいたが、それは七海の死に対してだけではなく、それが自分に伝えられたことに対して驚いているようだった。
彼女は電話の向こう側で一時黙り込むとそれから息を吐くように「そう、ですか」と呟いた。それから確認するように「あの、その連絡は私宛で間違いないんでしょうか?」と猪野に問いかけた。

「ええっと、苗字名前サンでお間違いないです、よね?」
「はい、それは間違いありませんし、私は確かに七海くんのことも知っています。ただ私と彼の関係は中学生の時の同級生だったというくらいで、卒業後は一度も会っていません。現在の交流はといえば、年に一度年賀状を送り合う程度で……」
突然の連絡に困惑しているのは彼女だったし、電話をかけた猪野でもあった。七海が遺書に書き残すくらいだから、何らかの深い交流や理由があると思っていたのだが、どうにもわからない。

「すみません、こちらも七海サンの遺書に貴女の名前があった為に連絡をしたもので、詳細なことは把握していないんです」
「……遺書」
彼女は呟くようにそう言った。考えていれば、高齢者ならまだしも普通の三十路前の人間は遺書なんてものを書かない。余程自分が死ぬ可能性を考える立場の人間でなければ。
七海はそれを考える人間で、おそらく呪術などとは縁遠い苗字名前はそれを考えたことがなかったのだろう。それが普通なのだ。最早その普通に戻れない猪野は彼女の困惑を漠然と想像しながら言葉を続けた。

「七海サンは遺書の中で、苗字名前サンに自分の蔵書を譲りたいと書かれていました。もしもご迷惑でなければ、故人の意思を尊重したいと思っているのですが、如何でしょうか」

少し、沈黙が降りた。
困るのも無理はないだろう、と猪野も流石に思う。もしも自分が中学以降一度も会っていない人間から自分のコレクションを譲渡すると言われても、戸惑ってしまうだろう。
彼女は今その立場にいる。断られても仕方ないだろうなと思いながら、猪野は彼女が口を開くのをじっと待った。

「えっと、仕事がありまして、」
と彼女が言った時、猪野はああ、断られるな、と思った。残念ではあるが、そうなればそうなったで仕方がない。
けれど、猪野の想像を裏切って彼女は言葉を続けた。

「休みが取れるのは土日くらいなのですが、それでも構わないでしょうか」
まだ何処か困惑の滲む声で、それでも彼女がそう言ったから、猪野は少し驚いて、すぐに感謝の言葉を述べた。





猪野が苗字名前と顔を合わせたのは、電話をしてから一週間後の土曜日だった。

七海の自宅マンションの最寄駅近くにある何処かノスタルジックな喫茶店で待ち合わせをする。

いくら仕事の一環とはいえ、いつも任務で来ているような仕事着を着るわけにはいかない。猪野は家のクローゼットに眠っていたスーツを取り出して、着慣れないそれに袖を通した。何も無いだろうと思うけれど、目出し帽は鞄の一番すぐ取り出せる場所に入れておく。
一応鏡でスーツを纏った自身を見て、あまりにも着られている自分の姿に少し笑う。七海サンのようにはいかないな、なんてことを思いながら。

待ち合わせ場所に着いてすぐ苗字とは合流できた。彼女は社会人らしいオフィスカジュアルに身を包んで、猪野の前に現れた。
「すみません、お待たせしました」
時間通りどころか5分前に来た苗字はそう言って頭を下げる。ナチュラルメイクの彼女は本当にどこにでもいそうな会社員然としていて、猪野は七海の友人らしいな、なんてことを思ってしまった。別に彼女は七海と深い交流にある人ではないというのに。

二人はまず喫茶店で軽く話をした。
改めてお互いの自己紹介をし、名刺の交換までする。まるで普通の会社員になったような気持ちになりながら、猪野はすぐに本題に入った。
流石に七海の遺書の原本を持ち出すことはできなかったため、許可を取って撮影した写真を苗字に見せ、確かにこれが七海のものであり、苗字名前の名前がそこに記載されていることを見せた。
長いこと交流が無かったと言っていた彼女だったが、七海の筆跡を見て確かに「七海くんの字だ」と呟いた。

「七海くんの書く「す」って少し独特ですよね。「す」の丸のところが、」
「ちょっと三角形ぽくて」
「そうそう。丸みがあんまり無いの」
ほら、「あけましておめでとうございます」の「す」、いつも独特だなって思ってて、と彼女は小さく笑った。つられて猪野も笑う。少しだけ、緊張が解けた気がした。
コーヒー一杯分だけ、そんな話をして、二人はすぐに店を出た。

「一応段ボールは持ってきてるんですけど、七海サンの蔵書量がわかんなくて、もしかしたら足りないかもしんないです」
「そうしたら宅配便の人に持ってきてもらいましょう」
「そうですね」
そう話しながら、二人はもう帰る人のいない七海の自宅へやってきた。




玄関前での小さな問答を経て七海の自宅の中へ入ると、まず他人の家の匂いに怯む。
当然のことながら人の出入りのなかった七海の自宅の中の空気は籠っていて、猪野はまず窓を開けないとな、と思った。
けれど先に、苗字を七海の蔵書のある場所へ連れて行くことにした。間取りはわからないながらも、二人は片っ端から七海の家の扉を開けていく。

そうして、玄関を入って廊下の右手にある、カーテンの閉められたその部屋が七海の書斎だとわかった。

「うわ、図書館みてぇ」
思わず猪野がそんなことを言ってしまうほど、暗いその部屋の四方はすべて本棚で埋まっていた。置かれた本棚は全て埋まり切っていて、新しいものを買ってももう何処にも入れられない気がする。
部屋に唯一ある西側の窓のそばにも低い本棚があって、窓を開けるためにはその本棚に覆い被さるようにして手を伸ばす必要があった。
猪野は入るとすぐに遮光カーテンを開いて、鍵を外して窓を開ける。途端に吹き込んだ熱風が薄いレースカーテンを揺らした。夏の匂いと数多の蝉の鳴き声が空気の籠ったこの部屋へ飛び込んでくる。

猪野が窓を開けている間、苗字は七海の本棚を見回っていたらしい。先程猪野が言った「図書館みたい」という発言に同意するように「ほんとだ、ちゃんとジャンル分けされてる」と、猪野では気がつけない観点から感想を呟いた。

「そうなんスか?」
「うん、このあたりはミステリで、こっちは海外文学。このへんはノンフィクションかな。あっ、七海くんも『五色の虹』読んだんだ」
ハードカバーの本の背を指でなぞって、苗字は小さく笑みを作った。その姿に、活字を読む文化の薄い猪野は少し居心地が悪くなる。

もしもここに七海がいてくれたのなら、彼女の言葉にもっと何か適切な言葉を返せたのだろう。おすすめの本だとか、関連書籍だとか、それこそ二人が読んだというその本の感想だって言い合えたのかもしれない。
けれどそんなことはできないし、そんな日はもう来ない。
だから猪野は彼女の言葉に返答はせず「他の部屋の窓も開けてきます」とだけ言って、七海の書斎から逃げるように出た。


苗字から離れ、一人になった途端、人の家を踏み歩くことに酷い罪悪感が生まれ始めた。

手始めにリビングにやってきた猪野はあたりを見回して、その散らかされたところの見えない空間に七海建人という人間性を見る。台の上のテレビ。端に置かれたワインセラー。革製のソファとその前のローテーブル。いくつかある棚にはテレビのリモコンや数種類の新聞などが置かれているけれど、土産物のような置物や写真立てなどはない。そういうものを置く質では無かったらしい。
ふと目に入ったリビングのテーブルの上には乾いたグラスが一つ置きっ放しになっていた。見ないふりをして、カーテンと窓を開く。通りがかったキッチンのシンクには洗い物が残されていて、やはり目を逸らした。

書斎やリビングとは別の部屋におそらく七海が持ち帰った仕事などをしていたのだろう、仕事部屋があった。
作業机にはノートパソコンがあり、机の側の棚にはきちんとファイリングされた書類が置かれている。

猪野は七海の遺品整理の仕事を任されたが、それは別に家具家電の処分をするという話ではない。七海が所有している呪術関係の書類やデータ等の回収が彼の仕事だ。
猪野は持ってきていた鞄を開くと、その中に七海のノートパソコンや棚の書類を片っ端から詰め込む。
机のスツールも開けて、そこにある書類の内容を軽く確認して判別する。大抵は鞄の中に収まった。
全てのスツールを開いて、確認して、開いて、確認して、それを終えて、猪野は一人、崩れるように部屋の真ん中に座り込んだ。

こんなところ、来たくなかった。

そんな思いが波のように押し寄せてくる。
膝を抱えて部屋を見渡す。
スツールの上には彼が愛用していたであろう香水の瓶が置かれていて、その側にはケースに入った七海の腕時計がいくつか丁寧に並んでいる。ずっと彼のおさがりが欲しいと思っていたけれど、とてもじゃないがあのケースの中の腕時計には触れられなかった。
開かれたクローゼットが目に入って、その中にクリーニングから返ってきたのだろう、ビニールにかけられたままの七海のスーツがあるのが見える。

けれど、もういないのだ。どんなに綺麗になったって、あのスーツに袖を通す人はもういない。あのスーツがこの世界で一番似合う人はもう何処にもいないのだ。
猪野は部屋の真ん中で深く息を吐いた。

助けて欲しい。
ひどく痛む胸のうちで、何に対してかわからないけれど、そう思った。心臓とは別の、もっと胸の真ん中の奥のところが軋むように痛い。それでも涙は溢れない。涙が溢れない自分にどうしようもなく失望する。縋るように、なにか、かつて七海が自分に言ってくれた言葉を思い出そうとして、うまく思い出せない。それくらい、頭の中がぐしゃぐしゃだった。

もう一度、深く息を吐く。
それから、黙って立ち上がった。

ここにいると、生きていた彼のことを認識させられ過ぎてしまう。
少し離れようと、鞄をこの部屋に置いたまま、猪野はまだ確認していない別の部屋を見に行くことにした。



各部屋を粗方確認し終えて、猪野は最後に彼の寝室の前に立った。寝室は一番プライベートな場所だろう。思わず二の足を踏んでしまう自分を叱咤して、中に入る。
他の部屋でそうしたように、まずは何も考えずにカーテンと窓を開けた。カーテンを開いた途端に差し込んだ光が白いベッドを照らす。秋用の薄い布団は今の季節には暑苦しく感じられた。そう思考が至って、ああ、それも当然か、と猪野は息を吐く。

七海が死んだのは一昨年の秋だ。
あの頃はまだ肌寒くて、だからこの布団で良かったんだ。
あの日から何も変わっていないであろう七海の家の時はある一点からずっと止まっていて、ある種、この場所も七海の死体なのだ。

思い出す。
目を逸らしてしまったリビングのグラス。
シンクの中の洗い物。

だって、七海は帰ってくるつもりだったんだ。仕事を終えて帰ってきたら、この秋用の布団の中で眠って、置きっぱなしにしていたグラスを片付けて、洗い物をするつもりだったんだろう。死に近い仕事をしていても、自分が今日死ぬなんて考えない。自分が死ぬ可能性を理解していても、死ぬつもりで家を出たことなんて一度もない。

その景色に、猪野はいつかやってくる自分の死を思った。

猪野は寝室の窓に背中をくっつけたまま、ぼんやりと部屋を見る。時間が止まったこの家は七海が死んでしまった証拠。開け放った窓からは深緑の香りが湿度の高い熱風とともに吹き込んで、レースカーテンをふわりと膨らませる。熱い、と思った。外は眩しいくらいに鮮明な色で季節を伝えるのに、この部屋はずっと淡色の秋で、寂しい。


ふと、猪野はベッドサイドのテーブルに一冊の本があることに気がついた。これも七海の物だろう。であるならば、彼女に渡さなくては。近づいて、手に取る。

七海が寝室にまで持ち込むくらいだ。気に入っていたのだろうその本は少し角が丸くなる程度には草臥れていた。表紙の端は五ミリほど破け、何故かごく小さな穴が空いている。その文庫本の表紙をぼんやりと眺める。そこには赤や橙の水玉が踊っていた。タイトルを読むけれど、知らない本。作者である外国人の名は何処かで耳にした記憶があるけれど、それ以上の情報は猪野の頭の中にはない。

手慰めにパラパラとページをめくって、その本の最終ページに一枚の葉書が挟まっていることに気がついた。
開いた瞬間、ひらりと落ちた葉書が床に辿り着く前にキャッチする。

見ようと思った訳ではない。

意図せず目に入ってしまったそれは、2014年の年賀はがき。

見えてしまった差出人名と、宛先。
それは七海から、苗字への年賀状だった。
一度は投函したものが、住所不定で帰ってきたものらしい。宛先である苗字の名前にかかるように「あて所に尋ねありません」というスタンプが押されている。
届かなかった手紙が、ここにぽつんとあった。

寝室は一番プライベートな場所。
思い出して急に猪野は自分がひどくやましい事をしてしまったような気持ちになった。

届かなかった昔の葉書をどうして捨てなかったのか。
どうしてこの本に挟んでいたのか。
どうしてそれらを寝室に置いていたのか。
そもそもどうして七海が苗字に自分の本を譲渡しようとしたのか。

猪野は知らない。わからない。きっと永久に答えはない。けれど、それでもきっと、その葉書が存在するということさえ、本当ならば猪野が知っていいことではなかったはずだ。知らぬ間に人の心の柔いところに踏み込んでしまった。呪術師ではない、ただの七海建人の心に。

咄嗟に心の中で七海に謝罪をするけれど、その謝罪の言葉の受取手はいない。届かなかったこの手紙のように。

猪野は葉書を元のページに挟んで戻す。それからその本を持ったまま、苗字のいる書斎へ向かって歩みを進めた。
見なかったフリをすることはできる。けれど、見なかったことにはできないから。


「……苗字サン」

その人は書斎の中、西側の窓から差し込む光を逆光に一冊の本を手にそこに立っていた。それはまるで一枚の絵画のようで、書斎に入ろうとした猪野の足が無意識に止まる。けれど彼女は絵画ではないから、当然のように動いて、名前を呼んだ猪野の方を見る。

「猪野さん」
彼女は猪野の名を呼んだ。
それだけで心臓が止まるような心地がした。

「七海くんって、どんな仕事をしていたの?」

穏やかな声に問いかけられて、ただそれだけのことなのに猪野は一般人用に用意されている方便をどうしてか口にすることができず、口籠る。けれど、彼女はそれさえわかっていたかのように開いていた本をパタンと閉じて、その表紙をこちらへ見せるように傾けた。視力のいい猪野には逆光の中でもその本のタイトルが読める。

『新たなる傷つきし者』
固まる猪野に彼女はゆっくりと口を開いた。

「この本は、心的外傷、つまりは心という曖昧で定義の難しいものがどのようなメカニズムで傷つくのかを思考した学術書です」
穏やかな、酷く穏やかな声。彼女は問う。

「こういう本を読まずにはいられないような職業?」

そこに類似した本が何冊かあるのだろうか、彼女は本棚に並ぶ本の背をそっと撫でる。
他人の本棚にある物だけで、わかるんだろうか。わかるんだろうな。……わかってしまったんだろうな。
猪野は黙って、うなづいた。そうすれば彼女は「そうだよね。遺書を用意するような仕事だもんね」と微笑んだ。
それ以上何も聞かない彼女は持っていたその本を段ボール箱の中へそっと入れた。猪野が別の部屋に行っていた間に彼女は七海の本をもう段ボール箱三つ分、詰め込んでいた。けれど、それでもまだ本棚に残る本の方がずっと多い。

「……あの、苗字サン」
猪野は今度こそ彼女へ七海の寝室にあった本を差し出した。そうしてそれが寝室にあった事を伝えようとした、その時、苗字はその本を見つめて驚いたように呟く。

「『フラニーとゾーイー』……」
古びた本の表紙を見ただけでわかったらしい。彼女は目を丸くして、一歩、猪野の方へ足を進めた。
「表紙。表紙の左端が破れてない?」
「あ、はい。俺が見つけたときにはもう、」
「私のだ」
「……えっ?」
その本から目を離さずに猪野の目の前にやってきた彼女は、猪野の手からそれをするりと取ると、目を見開いて「ああ」と息を吐いた。

「中学生の時に、私が七海くんに貸した本だ」
その本を手に取った苗字はようやく猪野の目を見た。
「表紙が破れてるでしょう。これ、昔実家にいた猫に噛まれて破けちゃったの」
「えっと、じゃあ、これは、」
「うん、私の。七海くん、ずっと持っててくれたんだ」
彼女は先程猪野がそうしたようにパラパラとページを捲り、そうしてすぐに最後のページに挟まっていた葉書に気がつく。七海から苗字への、届かなかった手紙。
彼女はそれを手に取って、また驚く。
「2014年……」
呟いた彼女はすぐに「ああ」と合点がいった声を上げた。

「年が明ける前に引っ越したんだよ。それまで住んでいたアパートが取り壊しになっちゃって。住所が変わったって連絡してなかったから、この年だけ届かなかったんだね」
私の方から新しい住所で年賀状を送ったから、翌年からはまた届いたんだけど。
苗字は可愛らしいものを見つけたように目を細めて、6年の時を経て、ようやく届いた年賀状を裏返した。

「毎年、お互いに読んだ本を教えあってたの。ほら、2013年、七海くんは『星を継ぐもの』を読んだって」
彼女は何の躊躇いもなくそれを猪野へ見せた。
2014年の干支である午がプリントされた葉書。今となってはもうどこか懐かしささえ感じるような筆跡。


「あけましておめでとうございます
 今年もよろしくお願い申し上げます

 昨年は「星を継ぐもの」を読みました
 SFは少し敬遠していたところがあったのですが、読んでみると非常に面白かった
 SFの金字塔ですからもう読んでいるかもしれませんが、未読だったら是非
 それでは苗字さんもどうか体に気をつけて
 2014年 七海建人」


独特な「す」の丸。
右上がりな一角目。
崩した「読」の字。
角ばった小さな「つ」。
見慣れた、七海建人の筆跡がそこにあった。

彼が生きていた証が、そこにあった。


「葉書を、栞代わりにしてたのかな」
七海が書いた文を見つめて、彼女はポツリとこぼした。

「七海くん、物持ちがいいんだね」

それはきっと違う、と猪野はすぐに思った。
これまで見てきた七海の部屋には必要な物しか置かれていなかった。不要なものをできる限り排して、あるべき物だけを残している飾り気のない部屋。
物持ちがいい訳じゃない。彼がこれを残していたのはきっと、それが彼にとって必要なものだったからだ。

七海はそれを捨てられなかったんじゃない。
明確な意思を持って、捨てなかったんだ。

想像することだけは出来る。

2014年を機に途切れてしまうかと思われた小さな交流。
それが途切れなかったことを知った七海の心象。
途切れかけた証を残し続けた彼の意図。
その葉書を、ずっと昔に彼女から借りた本に挟んでいた心理。

それらをこんなにも大切にしながら、決して彼女当人には会わなかった理由。
それなのに、遺書に彼女の名前を残した訳。

あのさ、七海サン。
七海サンは、ほんとうはさ、……。
思いかけて、それ以上のことを頭の中でさえ口にするのをやめる。それはきっと部外者の猪野が立ち入っていい場所ではないはずだから。


苗字は葉書を元の通りに仕舞うと、栞紐が挟まっていたページをそっと開いた。それを見て、猪野は口を開く。

「苗字サンは、知らない方がよかったって思わない?」
猪野が問いかけると、苗字は小首を傾げて彼を見つめた。

「何を?」
「七海サンが死んじゃったってこと。知らなかったらさ、死んじゃったって事実は変わんないけど、会えないだけでどこかで生きてるかもって思えるじゃないですか。でも俺が苗字サンに連絡しちゃったから、苗字サンはもう知っちゃって、知っちゃったからもう戻れない。生きてるかもって期待すんのも、もうできないじゃないですか」
苗字は真っ直ぐに猪野を見つめて、それから困ったように、けれど全然困っていない顔で笑う。

「大丈夫だよ、私が知ったのは猪野くんのおかげじゃなくて、七海くんのせいなんだから。七海くんがそう遺書に書いたんでしょう?猪野くんはそれを叶えようとしてくれただけ。それにさ、悲しいことばっかりじゃないよ」
彼女は微笑んだ。

「もう2年も年賀状が届かなくて不安だった。でも理由がわかったから、良かった。今年は来るかもって期待しては落とされなくていいんだ」
「……それは寂しいことじゃないですか?」
「ううん、知らない方がずっと寂しいよ」
苗字は七海が栞を挟んでいたページに目を落として、ふと目に入った文章を目で追う。
バディーからゾーイーへの手紙の終わり際。追伸の前の最後の文章。


『いずれにせよ、こんなことを言っても何の役にも立たないかもしれないが、どれほど遠く離れていようと、おまえは僕の愛情と支援をあてにしてくれていい』


「七海くんが私に伝えたいと思ってくれたことの方がよっぽど嬉しいよ」

まだ幼い子供の頃、未来はどこまでも広がり、明るいのだと無条件に信じていた10代前半の時。
七海がいつか苗字に言ってくれた些細な言葉が、大人になった苗字を今も支え続けているだなんて、きっと彼は知らなかっただろう。

七海が苗字に伝えなかった事。
苗字が七海に伝えなかった事。
そういうものがあるように、七海が苗字に伝え続けた事があり、苗字が七海に伝え続けた事がある。

生きていた事。
昨年読んだ本の事。
今はもう死んでしまった事。

それらを伝えるべき相手だと思われていた事。
苗字にとってはもうそれだけで十分だ。


「猪野くん、私、七海くんの本を全部受け取ろうと思うの」
「えっ、これ全部っスか」
「うん、箱に詰めるの手伝ってもらっていいかな」
「了解っス!」
「ありがとう、助かります」


結局猪野が用意した段ボール箱だけでは足りず、一度宅配業者を呼び、また本を詰め、全てを詰め切ってからまた宅配を呼んで、今度こそ彼女へ家宛に大量の本を発送した。最終的に10箱を超えたそれらが本当に苗字の家の入るのか気になって猪野が問いかけてみると、彼女は「まあ、なんとかするよ」とごく気楽に笑った。



昼前から始めた作業は夜になるまで続いて、二人が七海の自宅から出た時にはもう空には星が浮かんでいた。
駅へ歩いて向かいながら、朝であった時よりずっと親密になった二人は会話を交わす。

「今日はありがとうございました」
「いえ、こちらこそ連絡してくれてありがとうございました」
嬉しかったです、と言った彼女は少し首を捻ってから「この言い方は少し違うな」と呟いた。
「七海くんの死が、ってことじゃなくて、七海くんが私のことを覚えていてくれたことを知れて、よかった、と思うよ」
「……はい、あの、わかります。なんていうか、ずっと、」
「うん、ほどけてなかったんだなあって」
猪野より少し背の低い彼女は肯定するように笑って、眉を下げていた彼を見上げる。

「猪野くん、ありがとうね」
その柔らかな笑みと言葉に、どうしてか救われた気がした。断絶の痛みはまだ猪野の中にある。今はまだ瘡蓋にさえ成れそうにない傷もいつかは塞がり、やがて跡さえ残さず消えていくとしても。

ほどかずにいよう、自分にできる限り。

彼と彼女がそうしてきたように。
そしてこれからもそうしていくように。

失ってきたたくさんのものさえ、何ひとつ取りこぼしてなどいないのだと、今ならそう思える気がした。





猪野は七海の家から回収した書類等を一度高専に持っていかなくてはならない。駅で別れ際、もう一度猪野は苗字に向き合った。

「あ、あの!苗字サン!」
「はい、どうしましたか、猪野くん」
「あの、良かったらなんですけど、俺におすすめの本とかってあったら、教えて欲しいなって、思って……」
あんま本読むタイプじゃないんですけど……。
バツの悪そうに目を逸らす猪野に、けれど彼女は嬉しそうに「興味出たんだね」と声を上擦らせた。

「猪野くん、猪野くん……んーと、猪野くんには『逆ソクラテス』」
「ぎゃくそくらてす」
「うん。最近の本だし、短編集だし、普段あまり活字を読まない人にも読みやすいかなって思うよ」
猪野が教えられたそれを覚えようと口の中でもごもごとタイトルを繰り返すのを見て、苗字は笑った。

「いいよ、忘れちゃっても大丈夫」
「うえっ?」
「忘れちゃっても、知りたくなったらまたいつでも連絡してくれていいから」
なんてこと無いふうにそう言った。
それから「それじゃあ」と手を振って改札を通り抜けていった笑顔の彼女。


その軽やかな足取りを見送って、猪野は思わず頭を掻いた。








■いつかの二人へ


むせかえるような暑さ。夏だった。
西へ行っても東へ行っても、夏。
薄い夏服。半袖。申し訳程度の扇風機。
右肩上がりの最高気温。
額に滲む汗。降り注ぐ痛みに似た日光。

夏、どこまでいっても夏。
何が楽しくて、夏。


気怠い休み時間。
彼女に話しかける理由が欲しくて、その本を読んだことがないフリをした。

「苗字」
「わ、七海くん」
「……面白いのか?『ライ麦畑』」
「ああ、これ?うん、面白いよ。やっぱり有名な作品は有名になるだけの理由があるね!」
「……そうか」
「うん」
会話が途切れそうになって、内心慌てて新しい言葉を紡ぐ。

「何かおすすめの本とかないか?マンネリ化してる」
「ああ、わかる。自分のチョイスだと飽きが来ちゃうよね」
彼女は机に頬杖をついて、「七海くんが好きそうな本かあ……」と考え込む。
それだけのことが、ただ嬉しかった。

「『羊たちの沈黙』……」
「読んだことがある。というか、それが私が好きそうってどういう印象だ」
「ええ、いや、変な意味じゃなくてさあ、海外ミステリ好きそうだなって」
「……まあ、たしかに嫌いじゃないが」
「でも読んだことあるんだよね。んーと、じゃあ北方謙三の『逃がれの街』」
「……初めて聞く本だな。北方謙三ってことは時代小説か?」
「ううん、現代の話。北方が時代モノを書き始める前の初期の本だよ」
「どんな話なんだ?」
「んーと、恋人のためにヤクザを殺した男が軽井沢に逃亡する話?」
「……それを私が好きそうだ、と」
「うん。硬派なハードボイルド作品、意外と七海くん好きそうだなって。勝手なイメージだけどね」
「……わかった。借りてみる。図書室にあるか?」
「あるよー、私今日の放課後図書当番だからさ、場所わかんなかったら聞きにきてよ」
「ああ、ありがとう」
きっと、自分で探せるけど彼女を頼るだろうと思った。

「逆に七海くんは?」
「……私?」
「うん、七海くんから私におすすめの本はある?」
「…………『ミザリー』」
「読んだことあるし、なんなら映画も見たことあるし、それが私におすすめってどういうことなの」
「小説も作家も好きだろう」
「好きだけど!」
きっと通じるだろうと思ったジョークが通じて、安堵する。

「驚いた、七海くんもそういう冗談言うんだ」
「先に言い出したのは苗字だろう。それに、苗字は真面目でしっかりしてるけど冗談もわかるやつだから、大丈夫だと思った」
「…………」
「……どうした」
「いや、急な褒めにびっくりした」
「別に褒めてな、……褒めたな」
「褒めたよ。もー、七海くんにそういうこと言われると驚くなあ」
少し赤くなった頬の熱を冷ますように顔の前でパタパタと手を振る姿に、微かに期待した。その赤みが夏の暑さのためじゃないことを馬鹿みたいに祈る。その時、鳴り響く予鈴の音。

「やばい。次移動だ」
「ああ、そうだな」
「あ、七海くん、放課後までに私にぴったりの本考えておいてよ。宿題だから」
「わかったわかった」
笑いながら、内心また話しかける理由が作れてよかった、とそう思った。



いつか彼女から本を借りてみたい。

必ずちゃんと返すから。
きっと丁寧に扱うから。
君が好きだと言った本にふれたい。
君が捲ったページを同じように捲ってみたい。
君がその本に何を想ったのか、答えのない問いを続けてみたい。

そしていつか、私が君に貸した本を読んで、同じようなことを想ってくれないだろうか。

ほんのいっとき前の、無防備な彼女の笑顔を思い出す。


果たして、君は私が何を考えているんだろうと、一度でも考えたことはあるのだろうか。

……ないだろうな。
打てど響かず。糠に釘。
暖簾に腕押し。豆腐に鎹。



夏。馬鹿らしいほどに、夏。
どうしようもないほど、夏。
嫌になるくらい、夏。妙に眩しくて……夏。

夏だった。


仲のいい友人たちと連れ立って廊下を出る彼女の軽やかな足取りを見送って、前途多難な道行を見せる恋に、七海は思わず頭を掻いた。