Betelgeuse may not be there anymore

愛別離苦をつみ重ねながら
怨憎会苦の日々が流れていく
忘れないと決めたことさえ忘れ
百年前の光を観ている
聞こえた音は鳴りやんでいるんだよ
届く報せも色褪せているんだよ
解る前に命など尽きるだろう

君と
ベテルギウスはもう無いかもしれない


『ベテルギウスはもう無いかもしれない』より







「はじめまして、七海一級術師。私は高専四年、二級術師の苗字名前です。本日はよろしくお願いします」
「はじめまして、ご存知のようですが改めて。七海建人、一級術師です。こちらこそよろしくお願いします」

高専の制服を身に纏った少女と、スーツ姿の男性が互いの目を見て向き合う。
そうして穏やかに挨拶をしあう二人を見て、彼らの合同任務に携わる補助監督はえも言われぬ安心感を覚えた。

なにせ閉鎖的な界隈ゆえか、術師には癖のある人物が多い。出会ったばかりの術師が一触即発状態になる、なんてことは稀に良くある出来事なのだ。けれど彼らの様子からしてそれは無さそうだ。ただでさえ任務とあっては気が張るのに、それ以外の要因で心労を増やすことがなさそうでほっと胸を撫で下ろした。

彼らに倣うように補助監督も挨拶をすれば、二人は穏やかに会釈をする。

「書類で確認済みとは思いますが、改めて本件についてお話しさせていただきます」
補助監督は背筋を伸ばして二人へ話しかけた。

今回、術師二名を投入するこの任務は案件としては準一級レベル。本来であればまだ二級の苗字を投入するのは危険なのだが、一級である七海が監督することで彼女の任務派遣が合意された。
場所は某県某所の廃校。市町村合併により9年前に廃校となったその小学校はいわゆる心霊スポットとしてネット上では有名なものとなっている。

「これまでに民間人八名が行方不明となっており、こちらで調査したところ校舎内に多数の三級から四級呪霊を、そして体育館に準一級呪霊一体の発生を確認しています。また、体育館の準一級呪霊は術式を持っているようですが、詳細についてはわかっていません」
補助監督がそこまで告げたところで、七海が「現場で確認するほかないですね」と言った。その言葉に同意するように補助監督はうなづく。

現在時刻は午後5時。
本来であればもっと早い時間から任務を開始する予定だったのだが、より早急な対応が必要な案件がこれより前に彼ら術師二人に要請され、時間がずれ込んでしまった。そのため、高専で顔合わせをするはずだった二人も現地集合で出会うことになったのだ。

「なにかご質問や不明点はありますか?」
問いかけた補助監督に七海と苗字は首を横に振る。
二人の方に問題がなさそうなことを確認して、補助監督は「どうかお気をつけてください」と頭を下げた。
そうして二人が閉鎖された校門から中へ入ったことを確認して、帳を下ろす。
空から墨が零れ落ちたように黒い幕の中に二人が消えたことを確認して、補助監督は息を吐く。
あとは待つしかない。
彼らが無事に任務を終えて、ここへ帰ってくることを。







校門から入り、広い校庭に立った七海と苗字は改めて向き合う。
「大前提としてお話ししておきますが、今回の任務では基本的に私たちは離れず共に行動します。ですが、場合によっては別行動を行ったり、それぞれ異なる呪霊を相手取る可能性もあります。その際に、危険を感じたり貴女一人では太刀打ちできないと判断した場合は迷わず私に応援を求めてください」
「はい、承知しました。その際はよろしくお願いします」
素直にうなづく苗字に、七海の中で「彼女は自分の立ち位置を理解している」と「自分より立場が上の人間に怯んでいる可能性がある」というふたつの思考が生まれる。生まれた思考の正誤についてはまだ判断できない。
とはいえ、しっかりとこちらの判断に従う意思を見せてくれたことは良い。あとは実際の現場でその言葉通りの対応ができれば現状、学生としては問題はない。

「話しながら、まずは校舎へ向かいましょう」
「はい」
歩き出した七海の隣から半歩ほど後ろに下がったまま、苗字は着いてくる。
元より控えめな性格なのか、或いは呪術師家系出身で男性の隣を歩かないように躾けられているのか、初対面の七海にはまだ判断がつかなかった。
「苗字さん」
「はい」
「私の真横を歩いてください。不足の事態に備えるためにも貴女には常に私の視界の中に入っていて欲しいからです」
そう告げると彼女は「はい、失礼しました」と軽く頭を下げて、七海の真横に並んだ。

校舎入り口の下駄箱の前のガラス戸は老朽化のためか、心霊スポットとして有名なためか鍵が壊れて常に開いている状態となっている。二人は躊躇いなくその中へ入っていった。

下駄箱から土足のまま中へ入りながら二人は会話を続けた。
「私の術式は相手へ強制的に弱点を作り出すというものです。対象を線分化した時、7:3の比率の点に攻撃を与えられればクリティカルヒット。格下は勿論、格上の相手にもそれなりのダメージを与えられます」
今後の連携のためにと、己の術式を開示した七海に苗字はうなづく。
つまるところ、七海は近接戦闘タイプの術師なのだろう。そう思いながら苗字は促すような彼の視線に応えるように口を開いた。

「私の術式は私の視界に存在する物体を石化させることができます。ギリシャ神話の怪物ゴルゴーンをイメージしていただければわかりやすいかと思います。確実に石化させられる射程距離は十メートル。視界に入っているものの中から対象を判別して石化させることは可能なのですが、その、まだ精度は高くなく、対象以外も石化させてしまう場合があります。その、つまり、」
一度口ごもってから、顔を上げるように言葉を続ける。

「例えば七海さんと呪霊が同時に私の視界にいる状態で私が呪霊に対して術式を使った場合、七海さんに対しても石化の効果が発生する可能性があるという意味です」
苗字の術式はまだ石化対象とそれ以外との判別の精度が低い。つまり、フレンドリーファイアの可能性があるのだ。

「……なるほど」
「……申し訳ありません」
「謝る必要はありません。術式の精度については今後の貴女の課題であるというだけのことです。貴女の術式は肉体を適切に呪力で守っていればと防御できると聞いていますが、この認識に問題はありませんか?」
「はい、ありません。呪言と同様に体を呪力で守っていれば少なくとも効果を下げることはできます」
「ならば構いません。もしもの時は私のことは気にせず術式を使ってください」
「は、はい。わかりました」

帳が張られたこともあり、薄暗くなった廊下を二人は進んでいく。校舎内に現れる呪霊は報告通り四級か三級程度。苗字の実力を確認するために現れた呪霊三体を彼女へ対処させれば、彼女が視ただけでそれらは同時に石に変わる。完全に石になってしまえば、呪霊はすぐに跡形もなく消えていった。

良い術式だな、と素直に七海は思った。
一対多に対応できて、広範囲に面攻撃が出来る術式は貴重だ。発動条件も「視る」だけという単純さ。
強いて弱点を言えば「視る」ための目を潰されると何もできなくなることか。
だが今回の任務ではそれを気にする必要もない。彼女の目は共に任務へ着く七海が守れば良いのだから。

「この程度の呪霊であれば問題ないようですね」
「はい、大丈夫です」
「一応高専生である貴女への指導も任されているのでお聞きしますが、この場合、校舎内の呪霊に対して我々はどう連携を取るのが最善だと思いますか?」
「えっと、そうですね。基本的には呪霊が近づいてくる前に遠距離から私が潰し、私の視界外や近づかれてしまった呪霊に対しては近距離戦に慣れた七海さんに対処していただく、というのが良いかと思いました」
「ええ、私もそう思います。では、校舎内の呪霊に対してはこの方法でやっていきましょう」
「はい、よろしくお願いします」

そうは言ったものの、校舎内ではほとんど七海の出番は無かった。まだ学生とはいえ仮にも二級術師の苗字は自身の弱点であるとしっかり認識している視界外への注意を疎かにしなかったし、そもそも七海が対応しなければならないほど呪霊を接近させることもなかったからだ。壁を抜けて不意を打つようにやってきた弱い呪霊を何度か七海が対応した程度でほとんどは苗字が祓ってしまった。

「……苗字さんは優秀ですね」
「えっ?そ、そうでしょうか……?」
校舎内の呪霊をある程度祓いきった頃、使い続けて少し乾燥した目へ目薬を差していた苗字は七海の言葉に驚いたような声を上げた。
「なんで疑問系なんですか。周囲への警戒、冷静な判断、自身の術式の扱い。そう戸惑わなくても貴女は二級術師としてはもう十分に優秀です」
「そ、そう言っていただけると自信になります……」
褒められたことに対して喜びよりも戸惑いや謙遜が生まれるあたり、やはり彼女は元から大人しい性格なのだな、と七海は思った。
丁寧な言葉遣いも、的確だが常識的な判断も、控えめな性質も、好印象は感じるが普通過ぎて術師としてやっていけるかこちらが少し不安になるほど。

「……苗字さん」
「はい、どうかしましたか?」
「これはただの雑談なのですが、」
「はい」
「悩み事などはありませんか?」
「……えっ?」
「些細なことでも構いません。身近な呪術師がみんな自分勝手すぎて苛立つ、担任の教師五条悟の報連相がなっていない、自分の実力が正しく認められてないように感じる、家庭での躾が厳しくて家を離れたいなど、なんでもいいのですが、ありませんか?」
「い、いえ……その、特にパッと思いつくような悩みはないです……。術師の家系ではありませんので、その、七海さんがご心配されているようなこともないかと……」
「……そうですか」

呪術師なのに善良で普通そうな人間を見ると不安になるのは七海だけなのだろうか。

苗字が非術師家系の人間ならば、きっと彼女は呪術師ではない道も選べたはずだ。
だとすれば、どうしてその道を選んだのか。
選ばざるを得ない人生だったのか。
その選択に悔いはないか。
いつか来る己の死を、仲間の死を受け止められるのか。

様々な疑問は浮かんだが、それを容易く問えるほど七海は苗字との関係性を深めていなかった。

「……すみません。変なことを聞きました。問題が無いようでしたら、本丸のいる体育館へ向かいましょう」
「はい、問題ないです。行きましょう」



校舎の一階から外の渡り廊下を通って体育館へ向かう。
元は卒業生の作成したタイル絵が敷き詰められていた渡り廊下も、長い年月と管理する者がいなくなったためか、タイルは剥がれ、砕け、元の絵がどのようなものだったのか想像することも難しい。
土足のまま、かつての記憶の絵を踏んで二人は体育館の外扉へ辿り着いた。その扉はガラス戸で、外から中を確認するがここから視認する限りではどこにも呪霊の姿は見えない。

「体育館の、奥の方にいるようですね」
意識的に呪力を追えば、より奥の方に人の悪感情の澱が存在することを感じ取れる。苗字の言葉にうなづいた七海はガラス戸を開けて中へ入った。

体育館の入り口からはさらに二つの扉があった。ひとつは体育館の放送室へ続く扉。
気配はこちらではなく、もう一つの体育館の中、本来であれば生徒たちが授業を行うであろう館内へ続くスライド式のドアの向こうにある。
ぴたりと閉じられた木製のドアからは中の様子を伺うことはできないが、準一級という事前判断に相応しい呪力がその中に満ちていることは確かだ。
隣に並び立つ苗字が微かに緊張しているらしいことを感じて七海は彼女へ声をかける。

「どのような呪霊かはまだ判断できませんが、今回は先手を取りましょう。扉を開け、本丸を確認次第苗字さんの術式で石化させてください」
苗字は緊張のためか口内に溜まっていた唾液をごくんと嚥下してから「はい、わかりました」と答えた。
二人は足音を立てないようにゆっくりと扉に近づく。それから軽く目配せをしてから、苗字が扉に手をかけ、ゆっくりと開いていく。

それによって少しずつ明らかになっていく館内の様子。スポーツ用のラインが引かれている木製の床。ミニバス用のコート二つ分がすっぽりと入るほどの広いその中に、それはいた。

最初、それを巨木だと思った。

体育館の中央に聳え立つ巨大な葉のない樹木。木の円周は10メートルほどはありそうだった。その木は高く広い天井を覆い尽くすように枝を広げ、地には根を張っている。それによって館内の左右にある窓は乱雑に塞がれ、ただでさえ暗いこの場により光が入りづらくなっている。

けれど、それを視認してすぐにこれがただの木ではないと気がつく。
何十と分かれて広がる枝や根だと思っていたそれらは皆、人の手足のような形をして、ズルズルと音を立てて天井や壁、床を這いずり回っていた。まるで目のない生き物が触手を伸ばして獲物を探すかのように。
その無数に広がる手足からは黒い液体が零れ落ち、体育館の中で雨が降っているかのようにぽたりぽたりと音を立てて落下しては、床に跳ね落ちる。濃い呪力に混じって、その液体のものなのか、血の匂いがした。
その匂いに当てられてか、七海と苗字は一瞬だけ、脳の奥を掴まれるような強い頭痛を感じた。それもほんの数秒程度のもので、後に引き摺るようなものではなかったが。

(……石化、しないと)
広い館内に張り巡らすように伸びる手足の、その全てを視界の中に入れることはできない。だが、この呪霊の核は伸びる手足ではなく、その基盤となる木の幹の方だろう。
ならばまずはそこを石化させるべきだ。

そう判断した苗字は隣に立つ七海にだけ聞こえるように小さく「本丸へ術式を発動します」と囁く。その言葉に七海がうなづこうとした、その瞬間、微かな音が二人の鼓膜を揺らした。

「……!」

七海はとっさに苗字を止めるように、彼女の前に手を突き出した。苗字も気がついて体を硬直させる。

苗字が術式を発動しようとしたその瞬間。

人の声がした。

微かで小さな、けれど確かに人の呻き声だった。
民間人、生存者、救出、優先。
そんなワードが頭に浮かんで、二人は声の主がいる場所を探すためにドア付近に立ったまま館内全体へ視線を巡らせる。

果たして、その人はいた。

呪霊の核であろう幹のすぐそば、根元を這いずる数多の手足が一人の人間を捕まえて離さない。

「……あ、ああ、あ、……た、すけ、」

それを認識した瞬間、七海と苗字の喉からひゅっと息を飲むような音が生まれた。

必死に声を上げて助けを求めて、ミシミシと体を締め付ける手足から逃れようと右腕をこちらへ伸ばす黒髪の少年。フラッシュバック。変声期を終えたその声は苦痛に塗れていて、身動ぎをするたびに呻き声を上げる。

「た、すけ、て、……ななみ……」

血に濡れた灰原・・が床に這いずったまま、七海に向かって手を伸ばして助けを求めていた。
いつかのように。あの日のように。

それを目にした瞬間、七海はサングラス越しに目を大きく見開いた。

瞬間、微かな頭痛。靄のかかったように鈍くなる思考。何かが無理やり脳の中は入り込んでくるような感覚。痛み、痛み、痛み。繰り返すフラッシュバック。重なり続けるオーバーラップ。……ア、あ?あああアあアア、あああアあ、ああ、ア?
……はいばら。灰原だ(違う)あそこにいるのは灰原だ(違う!)はやく助けなくては(彼じゃない)酷い怪我をしている(そんなはずはない)今にも殺されそうになっている(彼がここにいる筈がない)もう二度と君を失いたくない(灰原はもういない)私が助けなくては(既に死んだんだ)彼が呪霊に食われてしまう(それはもう終わったことだ)助けを求めている(幻覚だ)灰原が(違う)灰原が(やめろ)灰原が(さわるな)灰原が(やめてくれ)灰原(わかっている)もう私から(お願いだ)何も奪わないでくれ(もうとっくに失っているのに)ああ(そうだ、本当は)もう、わかっている(これは、)これは、


「……ななみ、どうしてたすけてくれないの?」

頰についた大きな傷跡、下半身から流れ出る夥しい血液。光を映さない瞳。能面のように表情を無くした顔。懐かしい声。懐かしい顔。今も思い出せる。

「どうして、たすけてくれなかったの?」
こちらへ助けを求める灰原の声に憎悪が混じる。

……嗚呼。違う。わかっている。わかっているんだ。これは全部まやかし・・・・なんだって。それでも嬉しかった。私の記憶・・の中で君がまだこんなにも鮮明であることに安心したんだ。


「七海、どうして君だけ生き残ったの?」


生き残ってしまった私は、死んでしまった君にそうやって責められたかった。他人を自慰に使うような身勝手な要求の押し付け。傷が癒えないように瘡蓋を剥がし続けるような自傷。
けれど、君は言わない。君は言えない。君はもう何処にもいないから。死んでしまった君は私を許すことも、憎むこともない。


……灰原、君のまやかしに、他でも無い私がそんなことを言わせているんだ。


「……ななみ、さん」
この空間のカラクリに気がついた七海とは異なり、どこか惚けたような声のまま苗字は呪霊を見つめながら呟くように言った。
「民間人一名の生存を確認」
「……苗字さん」
「救出を優先します」
「待ってください」
「ここからでは、私の術式では民間人まで石化させてしまうから、接近して救助をしなければ」
「苗字さん」
おぼつかない足取りで体育館の中央へ向かおうとする彼女の腕を掴んだ。
「離してください」
「苗字さん、あれは、」
「……っ、離してください!七海さん!」
その瞬間、悲鳴のような声で苗字は初めて七海へ声を荒げた。

「妹なんです!あそこで呪霊に捕まっているのは!私の妹・・・なんです!助けさせてください!今度こそ、私にあの子を救わせてください!」

……ああ、やはりそういうカラクリなのだ。

掴まれた腕を振り解こうとする苗字の腕を、七海は自分の元へ引き寄せるように引っ張る。そうして無理やり自分と向き合わせると、彼は左手を振り上げた。
そしてそれをそのまま素早く振り下ろし、苗字の右頬を打つ。

パァンと乾いた音が館内に響いた。
叩かれた勢いで顔を横に向けた苗字が驚いたように目を見開いて、ゆっくりとその顔を七海の方へ向ける。

その瞳の中に自分が映っていることを確認して、七海は彼女は言い聞かせるように口を開いた。
「落ち着いて聞いてください、苗字さん。あの呪霊に捕まっている人は、私には私の友人の男性に見えています」
「……え」
「そして彼はもう何年も前に亡くなっています」
「……あ、ああ」
「……それを踏まえて、貴女に尋ねます」
わかっている。現実に向き合うことがどれだけ辛いことなのか。一度見てしまった再会を手放すことがどれだけ苦しいことか。七海自身がよくわかっている。

それでも問わなくてはならない。
だって、私たちは呪術師なのだから。


「あそこにいるのは、本当に貴女の妹さんですか?」


苗字は動揺したように瞳を揺らがせながら、七海を見つめる。

「おねえちゃぁん……」
鼓膜を揺らす。私の妹が私を呼んでいる声がする。頭から血を流して、冷たい床に倒れ込んで、千切れそうな手を伸ばして、助けを求めてくる。

「いたい、たすけてよ、おねえちゃん……」

思い出す。かつての記憶。私の過去。あの子の思い出。想起する。想起する。想起したくない、けれど、記憶は再生される。

(「いってきます!おねえちゃん!」)
そう言って、手を振ったあの子。

(「名前、あの子がまだ帰ってこないの」)
不安げに時計を見つめる母さん。

(「いや……いや!なんで、どうして!」)
悲鳴を上げて、現実を拒絶する声。

(「犯人、まだ見つかってないってさ」)
誰かが言う。

(「酷いよね、バラバラにされてたって」)
誰かが言う。

(「まだ頭部は見つかってないそうよ」)
誰かが言う。

(「君の妹さんを殺したのは呪霊だ」)
その人は言った。

(「私が一緒にいれば、助けられたのに」)
私は思った。

(「君のせいではない」)
その人は言った。

(「私のせいだ」)
私は思った。
だって私ならあの子を助けられたはずなのに。

「……なんで?ねぇ、おねえちゃん、どうしてわたしのことをたすけてくれなかったの?なんかいも、おねえちゃんのことよんだのに。たすけてって、さけんだのに。どうしてきてくれなかったの?」

あの子が私にそう言う。
あの子が私を見つめる。
あの子が私を許さない。
私は許されたくなかった。
私は憎まれ続けたかった。
私はそれを望んでいた。

……けれど、違う。
あそこにいるのはあの子じゃない。
だって、あの子はもう何処にもいないのだから。
だから、あの子がここにいるわけがない。
あそこにいるあの子は本当のあの子じゃない。

苗字はようやくそれを理解して、本心からそれを惜しがった。

……ああ、あの子が本当にここにいてくれたらよかったのに。ここにいるのが本当のあの子だったなら、私は今度こそあの子を助けられたのに。
嫌だな、認めたくない。あれが偽物だなんて、認めたくない。認めたくないけど、それを受け入れないといけないんだ。

だって、私はもう呪術師だから。


「……七海さん」
「……大丈夫ですか?」
「はい、申し訳ありません。取り乱しました。私の妹がここにいるはずはありません。あれは恐らく呪霊の術式による幻覚です」
こちらが気がついたことに、呪霊も気が付いたのだろう。天井を、壁を、床を張っていた数多の手足がゾワゾワと動き出しては七海と苗字の元へ襲いかかるように群れを成して向かって来る。
苗字は自身の右手で心臓を押さえると、覚悟を決めた顔で呪霊に向き合った。

「最大出力で呪霊を石化させます。ですが恐らく私の力では完全に石化させることは不可能です」
「問題ありません。止めは私が刺します」
「はい、任せます」

苗字は真っ直ぐに呪霊の核があるであろう幹を睨みつける。キリキリと音を立てるように彼女の瞳に宿った術式が彼女の虹彩の色をより鮮やかなものへ変化させていく。爛と輝く両目。呪霊との距離は七メートル。射程範囲内。術式の精度やコントロールは捨てて、ただ火力だけに特化させる。イメージするのは全てを塗り潰すような際限の無い、黒。

「変われ」

瞬間、彼女の視界内の存在する全てが一瞬を切り取られたように問答無用に容赦無く石へ変化する。核である幹も、こちらへ向かってきていた手足も、天井から落下し続けていた液体も、ただの床も壁も天井も、その全てが時間軸の外に投げ出されたように凍りつき、黒い石へと変わる。

それを確認した瞬間、七海は呪霊へ向かって駆け出した。解いたネクタイを右拳に巻き付け、あらゆる感情を排して、血管が浮き出るほど強く強く拳を握り締める。
七海の術式は「対象を線分化した時、7:3の比率の点に強制的に弱点を作り出す」。
だから、点でいい。弱点としたその比率部分に真っ直ぐ、全力で拳を当てればいい。
呪霊を打ち抜こうとする七海を遮るものは何もない。その全ては苗字がもう石化させた。労働時間外による呪力の縛りはもう解けている。七海の邪魔をするものはもう何も、何一つとして存在しない。
幹のそばに残り続ける幻覚には目を向けず、七海は石化した床を強く踏んで、跳ぶ。

そうして、呪霊の本体であるその幹を線分化した7:3の位置へ、真っ直ぐに躊躇いなく拳を打ち付けた。

「……七海」
「……おねえちゃん」

そう、二人を呼ぶ懐かしい声が聞こえた気がした。
けれどそれらは巨大な呪霊が崩壊していく大きな音に掻き消されて、それきりだった。





呪霊が消滅してしまえば、体育館の中には静寂だけが戻る。館内の中央に立っていた七海は息を吐いて、入り口付近に立つ苗字へ目を向け、歩みを進める。そうして、彼女の目の前で立ち止まった。

「ありがとうございました」
「申し訳ありませんでした」
苗字の感謝の言葉と、七海の謝罪の言葉が重なる。
頭を下げあっていた二人は驚いたように顔を上げて、互いの顔を見つめた。

「……どうして、七海さんが謝るんですか」
「当然でしょう。どんな理由であれ、私は貴女に手を上げました」
「そんなの、それこそ当然です。パニックになって、七海さんへ迷惑をかけたのは私の方ですから」
「それは呪霊の術式の影響です。仮にそうだとしても、謝らせてください。……まだ、痛みますか?」
そう問えば、苗字は呪術師としてではなく、ただの子供のように笑った。
「正直に言うと、今もめちゃくちゃ痛いです。流石一級術師ですね」
「……申し訳ありません」
「いいえ。むしろ、なんだかすっきりしたような、そんな気がしています」
苗字はそっと体育館の中央へ目を向けた。
そこにはもう何もない。

「妹がいたんです、私より三つ歳下の。小学生の時は妹と一緒に毎日登下校をしていて、けどその日に限って私は風邪を引いて、妹を一人で学校に行かせました」
苗字は穏やかな声音で、彼女のかつての話を始めた。彼女が呪術師となるきっかけの話を。

「下校の時、妹は呪霊に襲われて死にました」
ああ、やはり彼女の妹はもうこの世にはいなかったのだ、と七海は黙ったまま思う。

きっとあの呪霊の術式は、自分のテリトリーに入った人間の記憶を読み取り、最も心理的に影響を与える人物を幻覚として映し出すものだったのだろう。

だから、苗字には妹に見えた。
だから、七海には灰原に見えた。

駆け寄らずにはいられないような人の姿を映して、無防備に呪霊へ寄ってきた人間を捕食する。きっと、そういうものだった。

「小学生の頃にはもう自分の術式に目覚めていました。だからあの日、私が一緒にいたら妹は助かったはずなんです。今もまだ生きていたはずなんです。……今もずっと、そう思っています」
苗字は懺悔するようにそれだけを言って、深く息を吐いた。それから、七海へ微笑みかける。

「私一人では倒せませんでした。止めを刺してくださってありがとうございます」
「いいえ、貴女がいてくれて助かりました。私の方こそありがとうございます」
「それなら良かったです。では、戻りましょうか」
「……ええ、そうですね」
それきり二人は口をつぐんで、その体育館を後にした。









任務が終わった頃にはすっかり夜になっていた。
廃校になったこのあたりの地域は民家が少ないために暗く、街の明かりも遠い。それ故に星が地上の光に掻き消されることもなく眩い光を放っている様子がよく見えた。

「苗字さんはベテルギウスという名の星をご存知ですか」
唐突に校庭の途中で足を止め、苗字へそんなことを問いかける七海の横顔を見る。それから、空を見上げる彼の視線を追うように彼女もまた夜空を見上げた。

「いえ、初めて聞きました」
無知を恥じるようにそう言えば、彼はそれを否定するように首を横に振って、それから苗字にそれを教えた。

「オリオン座の一番左上にある星です。あの星をベテルギウスと言います」
冬の純度の高い夜空にははっきりとオリオン座が浮かんでいる。苗字にはいつ見てもそれが人の姿ではなく砂時計のように見えていた。その砂時計の左上にある、微かに赤みがかった輝きを見せる星を、言われるがままに見つめる。
「あの星はもしかしたらもう無いかもしれないんです」
そう告げた七海の言葉に、苗字は微かに首を傾げる。彼女の目には確かにあの星の輝きが見えていた。

「無い、かもしれない、とはどういうことですか?」
「そのままの意味です。宇宙にある星の光が私たちの元に届くまでにはタイムラグがある。地球からベテルギウスまでの距離は640光年。1光年の光がここまで届くには一年かかります」
その言葉に、ああ、なるほど、と苗字は理解する。

「ベテルギウスの光が私たちに届くまでに640年もかかるんですね」
七海は黙って肯定するようにうなづいた。
「例え昨日ベテルギウスが消え去っていたとしても、それを私たちが知ることができるのは640年後。つまり、ベテルギウスが存在していなくなったとしても今私たちには知る術がないのです」
「だから、無いかも・・れない、なんですね」
「ええ、そうです」

七海は決して声を張ることなく穏やかに、けれど淡々と言葉を続けた。
「私たちが今見ているあの星の光は640年も前の光なんです」
640年前。それは日本の歴史で例えれば、室町時代の頃。その頃に輝いた光がようやく今を生きる彼らの元まで届いたことになる。莫大な歴史の厚さが、たった一瞬だけの刹那の光となって彼らに降り注いでいた。
「苗字さん、わかりますか」
ぼおっと空を見上げる少女に、ひとりの大人は言葉をかける。自分の吐き出す言葉がまだ子供である彼女の心を慰める何かになることを祈りながら。

「私たちは今、遠い過去の光を見ているんです」
「……はい」
「生きている限り、私たちは現在に立ち、未来を見る。どうあがいても過去には戻れないし、見ることさえ叶わない」
けれど、と彼は続ける。
「星の光だけは私たちが唯一視認することのできる過去なんです」
その言葉に辿り着いてようやく、苗字は七海が他でもない自分のためにこの言葉を紡いでいるのだと知る。

「私たちが見ているこの光は640年の時間の束。あの光の中には、私たちがかつて失ってきたものがまだそばに在った頃の時間も存在している」

その言葉に思い出す。
かつて失ってしまったもの。
思い起こす。もう二度と会えない妹の顔。
ただ、想う。愛していたあの子のこと。

失われ、二度と抱きしめることはできないけれど、あの子が生きていた時間は夜に瞬く光の中にまだ在るのだ、と。彼はそう言ってくれているのだ。

優しいその言葉に、苗字の涙腺が緩んだ。零れ落ちない程度の涙が目の淵に溜まって、瞬きのたびに視界が歪む。
沈黙だけがそこにあった。
過去を思いながら、二人何も言わずに空を見上げ続ける。
それから苗字はまだ隣で空を見上げている七海へ目線を移して「ありがとうございます」と口元を緩めた。

「……いいえ、ただの口先だけの慰めです」
「それでも、救われた気がしています」
苗字は嘆息すると、もう一度空を見上げた。
「辛い過去は忘れたほうがいいのだと思っていました。人は、人の死に縛られてはいけないのだ、と。でも、想っていていいんですよね。まだそばにあるのだと思っていても許されるんですよね」
「それが貴女を苦しめないのであれば」
「苦しみになるはずもありません」
あの子と過ごした穏やかで幸せな日々が私を苛む事はない。そう、苗字は思った。

彼女の見せるその穏やかな表情に、七海は表に出さないながらに安堵する。きっと彼女は大丈夫だろう。未熟だった自分の過去と過去の未熟だった自分を呪う事はきっと、無い。

そう思えてから、七海もまた夜空を見上げてかつての尊い日々を思い返す。

死は、それだけで悲しいものだ。
けれど、どうしたって人は死ぬ。理不尽に、横暴に人は死に至る。けれど、最期にやってくるのが死という悲しみだったとしても、それによって生きていた彼らの、彼の生が悲しいものになるはずがない。必ず万人に訪れる死程度が、人の眩いまでの生を傷つけられるわけもないのだから。

失われた日々を思う。戻れない今があるからかつての幸福な日々はより明確に輪郭を得て価値を示す。
例えもう声が聞けなくても。
例えもう二度と会えなくても。

かつて親友と共に生きていた日々がまだあの光の中にあることを想って、七海は眉間に寄せていた皺をそっと緩めた。

冬の風がひと気のない校庭に吹き荒ぶ。冷たいそれは肌を裂くように彼らの体を冷やしていく。
「……さあ、もう帰りましょう。ここに長居しては体を冷やしてしまう。貴女の頬の手当てもしなくては」
「そう、ですね。行きましょうか」

少しだけ名残惜しげに視線を夜空から地上に落とした彼女は深く目を瞑って、それからしっかりと目を開いて歩き出した。

それを見てから、彼女の半歩後ろを七海も歩き出す。

何度も指先で目元を拭う彼女の涙に気がつかないふりをする為に。