思い出を持つ人

「箸の持ち方が汚い人間は育ちが悪い」
そんな言説を耳にするたびに苗字はどきりとする。例えるのならば心臓の中に突然氷の塊を放り込まれたような、そんな感覚になるのだ。

なにせ、苗字はその「箸の持ち方の汚い」方の人間だったから。

支えるようにではなく、握り込むように箸を持つ彼女の持ち方。
それまでは大して気にならなかった自分の悪癖が妙に気になり出したのは、周囲にいる人たちが皆、綺麗に箸を持つことに気がついてから。
一度気になってしまうと、それをいつ周囲の人たちに指摘されるかが恐ろしくなって、誰かと食事をするたびに可能な限り箸を使わない、洋食を選ぶようになってしまった。
自分が今食べたいものを選ぶことよりも、箸を使うか使わないかが自分の判断基準となる。それが微かなストレスとなっていた。それでもそうし続けたのは、周囲から「育ちが悪い」なんて思われたくなかったから。
それが根本的な解決にはならないことくらい、彼女自身が一番わかっていたのだけれど。


真夜中にこっそりと寮を抜け出しては、誰もいない食堂に入りこむ。台所付近の電気だけつけて、お皿を二つと箸を一膳、それからまだ茹でられる前の小豆をお皿の片方だけに流し入れる。それを持って、数時間後には人が集まるだろう食堂のテーブルに腰をかけて、ひたすら形ばかりを真似した正しい持ち方で片皿の小豆をもう片方の皿へ箸で摘んで移動させる。

身についてしまった癖を直すにはとにかくそれを上書きするように体に覚えさせるしか無い。
だから毎晩こっそりと食堂に忍び込んでは正しい箸の持ち方を練習する。慣れない持ち方に箸の先がぶるぶると揺れて、お皿の中で滑る小さな豆を摘む。掴めた、と思ったけれど、それはすぐにこつんと音を立てて落ちてしまった。
箸なんてものを掴めればどんな持ち方だっていいじゃないか、と頭の中で甘やかすように囁く自分を追い出して、もう一度箸で摘む。このままでは良くないから、私が私を許せないから、と。
普通の人が普通に出来ることさえできない自分にどうしようもない劣等感を抱きながら、繰り返す。けれど上手くいかない。諦めたくなる。これが正しい持ち方のはずなのにまるで利き手とは逆の手で持っているみたいにままならない自分の右手。摘んだはずの小豆が箸の間から滑り落ちた。

「苗字?なにしてるの?」
「ひぎゃっ!」
唐突に声をかけられて肩が震えた。瞬間、力の入らない右手から箸が一本だけ抜け落ち、テーブルの上に落ちてカランと乾いた音を立てる。慌てて声のした方、食堂の入り口へ目を向けるとそこには今日二人で任務だったはずの灰原と七海が立っていた。

「夜食?」
箸を持って、皿を前にしていた苗字に灰原はそう問いかけながら食堂の中へ入ってくる。続いて当然のように七海も。
彼女は若干パニック気味になりながら皿を隠そうとして、豆を移し替えていた方の、まだ三粒程度しか入っていない皿をひっくり返してしまった。
「わっ、ああ!」
「どうしたんですか、そんなに慌てて」
二人とも気のいい質だ。それ故に零れ落ちてしまった豆を拾おうと苗字の座っていたテーブルの方まで歩みの速度を上げてやってきてしまう。……ああ、だめだ、もう誤魔化せない。苗字は頭を抱えたくなった。
床に転がった小豆をわざわざしゃがんで拾ってくれた灰原が、手に取ったものを持ち上げて小首を傾げた。そして、灰原が拾ったものへ目を向けた七海が今度は苗字の方へ視線を向ける。

「……苗字、いくら空腹でもせめて茹でた方がいい」
「いや、七海、違うの!ちがっ、その、別に生の小豆を食べてたわけじゃなくて、その、」
否定しながらも何をしていたのか言えずに口籠もる苗字に、テーブルの上にある二つの皿と転がった箸を見た灰原が察したように「ああ」と、吐息を吐くように言ってうなづいた。

「箸の練習?」
大正解ど真ん中を言われて、苗字はぎこちなくうなづいた。
「あの、私、箸の持ち方が良くなくて、直したいなって思ってて、だから、その、」
「夜にこっそり練習を」
「……してました、ハイ」
それだけのことを同期の二人に言うのが、苗字にはどうしようもなく恥ずかしくて仕方がないことだった。自覚してしまった以上、これは己の欠点であり、人に晒したくない恥なのだ。なにせ二人はこんな練習などするまでもなく綺麗に箸を持つことを苗字は知っていたから。
居た堪れない気持ちになって、無意識に膝の上に両手を置いて自分の手を隠してしまう。任務帰りで疲れてるだろうし、できればこのまま寮へ戻ってほしい。内心そう願いながら俯いていると、指で摘んでいた小豆を皿に戻した灰原が「手伝おっか?」なんてこちらに尋ねてきた。

「……へっ?」
「一人で練習するの寂しくない?それにこういうのを教えるの、上手いんだよ、七海は!」
「私か」
「僕と七海が先生役ね!」
「……わかりました。スパルタでいきます」
目を丸くする苗字に灰原と七海は当然のようにそう言って笑った。

「あっ、いや、でも二人とも任務終わりで疲れてるよね。私に付き合う必要なんてないよ」
「全然!むしろお腹減っててさ、何か食べたいねって七海と話してたところ」
同意を求めるように灰原は七海へ目を向けて、その視線を向けられた七海は黙ってうなづいた。
本当のことを言えば、灰原も七海も夜間までかかる任務で疲れ切っていたし、なんならここに来るまで「疲れたー!もう部屋に戻ったらすぐ寝る!すぐベッド行く!」「シャワーくらいは浴びろ」なんて会話をしていたのだけれど、それを言う必要はどこにも無かった。だから、七海は黙って灰原の優しさに同調したし、灰原のその言葉を本当にするためにキッチンの方へ行って冷蔵庫の中にあるあまり物を適当に選んでレンジに突っ込んだ。

灰原は苗字の向かい側の椅子に座ると、「箸、持ってみて」と微笑んだ。その穏やかな声音に、苗字は逃げてしまいたくなるような羞恥と申し訳なさを抱えながら、震える右手で箸を持つ。

「あっ、箸の間に挟むのは薬指じゃなくて、中指がいいよ」
「……こう?」
「そうそう、いい感じ。全然変じゃないよ」
「うん、でも、ちょっと持ちづらい」
「慣れないでしょうけど、慣れてください」
温まったタッパーを持って戻ってきた七海が灰原の隣に座る。タッパーの蓋を開いた瞬間にふわりと上がった湯気に灰原の腹がぎゅうと鳴って空腹を訴えた。それに3人、少しだけ笑う。
後々の洗い物が面倒で取り皿無しで好きにタッパーの中のおかずに箸を伸ばす二人を見て、苗字は「やっぱり二人とも箸の持ち方が綺麗だよね」と少し羨む気持ちの混じった声で言った。彼女の形だけは綺麗なのに、どうにも動きのぎこちない箸は小豆を摘んではポトリと落としてしまう。

「生の小豆は誰でも摘みづらいですよ」
「そうなの?初心者には難易度高すぎた?」
「そうかも。苗字もおかずで練習したら?この唐揚げとか」
灰原がそう言ってまだ湯気の立つタッパーを苗字の方へ寄せた。彼の言葉に素直にうなづいた苗字は、灰原が教えてくれたように箸を持ち直してタッパーへ箸を伸ばす。
少し震える箸先を大きく開いて、唐揚げを挟んだ。それをゆっくりと持ち上げる。そこにはまだぎこちなさがある。けれど、唐揚げは小豆のように落ちはしなかった。恐る恐るそれを自分の口元へ寄せて齧り付く。

「おー!」
「いけましたね」
「つかめたぁ……!」
もきゅもきゅと唐揚げを咀嚼しながら口元を綻ばせる苗字に、釣られるようにテーブルの向こう側の二人も笑った。箸を正しく持って、物を食べる。ただそれだけ。ただそれだけのことに、今にも泣き出しそうな顔をする友人に灰原も七海も「ああ、一人にさせずに済んでよかった」と胸の奥が温かくなる心地があった。

「少しずつ慣れていこうね!」
「ありがとう、二人とも……」
「私たちは何もしてません。貴女の努力の結果です」
「そうそう!さすが七海良いこと言うね!」
「愛してるよ、七海ぃ……」
「やめてください」
それからは3人でタッパーの中身を摘んだ。
上手く掴める時もできない時もあって、けれど不思議とできなくても苦しくなかった。これから少しずつ慣れていけばいいのだと二人がそう言ってくれたことが、苗字にとっての自分との小さな戦いの支えとなっていたから。

「……少し意外でした。苗字はそういうことを気にするんですね」
唐突にぽつりとそうこぼした七海に、苗字は小さくうなづいた。
「うん。ほら、よく言うでしょ「箸の持ち方が悪いと育ちが悪い」って。なんか、私がどうこう言われるのは別にいいんだけど、家族とか周りのことまで悪く思われるのはちょっと、やだなって思ってさ」

自分の箸の持ち方は良くない、と苗字は理解している。けれども自分の育ちが悪い、とは思ったことがなかった。
確かに幼少期から親は家を不在にしがちだった。けれどそれは両親がどちらも医療従事者で、人のために働いていたからだ。それに二人ともたまの休みには、疲れているだろうに娘である自分とたくさん遊んでたくさん話をしてくれた。あの日々を愛されていなかった、なんて思わないし、何も知らない他人に思われたくなかった。

灰原はもにゅもにゅと食べていた卵焼きを嚥下してから「偏見だ」と言った。七海も力強くうなづいて「偏見です」と繰り返す。七海の眉間にはやけに深い皺がある。
「………私も経験があります」
「七海も?」
「こんな外見だから「英語ペラペラだろう」みたいな」
「あー」
「あー」
「街中で道を聞こうとして「すみません」って声かけたら「英語喋れません」って言われて逃げられたりだとか」
「うわー偏見だー」
「へんけーん」
「でも僕もあるよ。よく周りから悩み無さそーとか言われるし」
「あー」
「あー」
苗字と七海は内心無さそうだと思っていたが、口にしなかった。見えるものだけが全てではないともう気がついたから。見えるものだけを見ていた他人の言葉に引っかかりを覚えてしまう気持ちを知っていたから。

「……なんか、ちょっと安心しちゃった。みんな何かしらあるんだね」
「ありますよ」
「あるある」
それから灰原はふにゃりと笑って続けた。

「僕の性格とか七海の外見とはなかなか簡単に変えられないけどさ、苗字のそれは頑張れば直せるよね。だからそういう、自分の、よくない、じゃなくて、好きじゃないところ、あー、えーっと、」
「コンプレックス」
「そう!コンプレックスをちゃんと直そうとして努力するところは苗字の良いところだと思うよ」
「……あ、」
「あ?」
「あ、甘やかさないでー!」
「諦めてください、苗字。灰原は褒めて伸ばすタイプですから」
「七海!七海はもっと私に厳しくして!」
「小豆を10個皿に移せるまで寝るな」
「急にすごいスパルタ!?」
二人のやりとりに吹き出すように灰原が笑って、つられて七海も苗字も笑い出した。



そんな真夜中の思い出がある。
もう10年近く前のことだ。



そんなことを七海が思い出したのは、彼が一度は離れた呪術師に復帰して数ヶ月経った頃だった。

「だからさ、ブロッコリーの収穫時期を遅らせて白くなった頃に収穫したのがカリフラワーなわけ」
「えっ、そうなんですか!?」
「そうそう、ほら、大豆も枝豆の収穫時期をズラして獲ったやつじゃん?それと同じってわけよ」
「マジですか、今初めて知りました!」
「常識だよ〜こんなの」

飲み会で同期の苗字が一つ上の五条に微妙に事実の混じった嘘を吹き込まれているのを聞きながら、七海は呆れた気持ちのままハイボールを煽った。
素面の五条に反して、苗字はもうずいぶん飲まされているようだ。楽しさだけが理由ではない頬の赤みは彼女を普段以上に幼く見せる。

「飲み過ぎですよ、苗字」
「んあ、七海だ」
「お、保護者来ちゃった」
揶揄う五条を無視して七海は頼んでおいた烏龍茶を彼女に差し出す。彼女は素直に受け取ってそのままグラスに口をつけた。あまり飲ませるな、と苦言を呈す前に五条はさっさと他のテーブルへ移って、静かに飲んでいた伊地知に絡みに行く。それを追った視線を、それからすぐにグラスを一気に飲み干した苗字へ戻した。

「大丈夫ですか?」
「ぜーんぜん!」
苗字は笑って、大皿にある唐揚げを自分の箸で掴んで自身の口元へ運んだ。

正しい持ち方で箸を握って、取り落とすこともなく物を掴む。
そのなんてことのない仕草に不意に七海は目を奪われた。

今の彼女の箸の持ち方を見て、育ちが悪いなどと思う人はいない。唐揚げを美味しそうに頬張る彼女を見て、七海はふといつかの真夜中のことを思い出した。あれから、もう10年近く経つ。

この10年でいろんなことがあった。
七海は一度呪術の世界から離れて、戻った。
苗字は七海が離れた後もこの世界に居続けて、今では領域展開もできるようになったそうだ。
灰原はいない。もういなくなってしまった。あの笑顔も、優しい声も今はもう遠い過去のものだ。

それでも彼女が箸を持つ度、そこには灰原との思い出がある。
灰原が生きていた証が、彼女の綺麗な箸の持ち方にはあり続ける。

それが今の七海にはたまらなく尊く、そして得難いものに思えて仕方なかった。

「七海?」
隣に座る七海を見上げて、彼女は彼の名前を呼ぶ。
その声に、なんでもないと応えるように首を振って、七海は彼女を真似るように、いつか彼女が褒めてくれた綺麗な箸の持ち方で大皿の唐揚げを取った。